特定非営利活動法人 被災者応援 愛知ボランティアセンター 公式ブログ

2011年3月17日設立。孤児遺児応援活動、被災地ボランティア活動等、現在進行形で被災者応援活動を行っています。

フィリピン台風30号被害 キナタルカン島ボランティア活動報告(2/14~16)

2014年02月21日 18時46分02秒 | [平成25年(2013年)台風第30号]フィリピン・キナカルタン島ボランティア

11/8台風30号で全世帯の90%が全半壊したフィリピンの離島・キナタルカン島

全島民8,000人に35,000着の衣類を提供!

愛知ボラセン、環境NGOイカオアコ、サンタフェ町、BVERT(島の青年ボランティアチーム)、キナタルカン高校生ボランティアが協力共同!

代表の久田です。愛知ボランティアセンターは2月14日(金)~16日(日)に、定期航路のない、電気もない、車もない、家にトイレもない、1世帯の年収約9万円というフィリピンでも極貧の島で、台風30号で90%の家屋が全半壊したキナタルカン島の皆さんへの応援活動を行いました。

愛知で1,000人を超える方々からお預かりした5万着の応援衣類。このことがまずたいへんなことでした。そして、それらを年末年始の寒い中で、のべ約1,000人のボランティアさんで程度の悪いものを仕分けし、男女サイズ別などに分類し、同じサイズの箱776箱に梱包することもたいへんなことでした。

1箱ずつ重さを量り、配布先の3つの小学校別のラベルも貼り、40フィートのコンテナに積み込むこともたいへんなことでした。名古屋での通関作業などは初体験の私たちにはたいへんなことでした。伊勢湾海運さんにとてもお世話になりました。

 

約2週間かけてフィリピン・セブ港に到着しましたが、ここからがまたたいへん。フィリピンの政府機関DSWD(開発社会福祉省)から物資が動かないのです。キナタルカン島が属するサンタフェ町災害対策本部長のアルバートさんたちが熱心に、そして真剣に交渉し、そして愛知ボラセンのスタッフ久世と徳倉も参加し、日本から物資を送りっぱなしにするではなく、自分たちで責任をもって配布すると意志表示したことなどもあって、DSWDのスタッフも心打たれ、一気に動きました。これもたいへんなことでした。

そして、名古屋…東別院で776箱を満載した40フィートのコンテナは、セブ島中部のセブ港から陸路4時間、セブ島北部の港町へ運ばれました。そこに漁船8隻と約30人の島民の青年ボランティアさんたち(BVERT=村緊急対策ボランティアチーム)が待っていました。彼らが漁船に物資を積み込み、約1時間の海路で、島に着いたのはすでに午後7時すぎ。真っ暗な中を約300m離れたキナタルカン高校に運び終えたのは午後9時。これもたいへんなことでした。BVERTメンバーは泊まり込みで物資の警備にあたりました。

私たち日本人ボランティア(73歳~19歳までの11人)が島に着くと大歓迎会が待っていました。参加者は約1,500人。サンタフェ町長も参加。皆さんの熱い期待を強く感じました。そして、もし期待に応えられなかったらと緊張もしました。心のこもった歓迎会でした。

キナタルカン高校から他の2箇所の配布先へ約400箱の物資を運んだのは同高校生徒ボランティアの約150人。1人2~3箱を、2km近く離れた別の学校まで人海戦術で運びました。みんな楽しそうな顔をして運んでいました。彼らの姿に感動し泣きました。

配布は1回25世帯ずつ制限時間10分で、家族人数×4着を持っていっていいというルール。10人を越える大家族も珍しくなく、たくさんの服を抱えています。それをサポートしてどこに何があるかをアドバイスするのはBVERTの青年たち。司会とタイムキーパーを務めるのはキナタルカン高校の教頭先生。日本人ボランティアはバックヤードの管理。フィリピン人も日本人もみんな主体的です。作業は丁寧です。キナタルカン島の人たちはしっかりとしています。よく働きます。治安が悪いというようなネガティブなイメージはキナタルカン島ではまったく感じません。日本人ボランティアだけでは絶対に衣服の提供できませんでした。

2~3時間待っても島の皆さんはうれしそうです。衣服を選ぶときも楽しそうです。たくさんの服を抱えて帰る姿は幸せそうです。「サンキュー」、「ありがとうございました」と言って帰っていきます。

お気に入りの衣服を抱えて、帰って行く人たちを見送りながら、このプロジェクトに関わってくださった大勢の人たちのことを想い、感動していました。

本当にまちがいなく応援物資を渡せるのだろうかとずっと思っていました。キナタルカン島にいる3日間、応援物資の配布を通じて、被災者の皆さんのたくさんの笑顔を見ることができました。

私たちとキナタルカン島をつなぎ、いっしょになって活動をした環境NGOのイカオ・アコの後藤代表、フィリピン在住スタッフの倉田さん。イカオ・アコとの出会いがなければ、これだけのことは絶対にできませんでした。

多くの人たちと「信頼」で繋がることができました。このプロジェクトをやってほんとうによかったなと思いました。初の海外被災地応援活動でしたが、私たちと被災地の人たちが、互いに対等な関係として、協力共同で活動できたことは、被災者応援活動の理想的なスタイルであり、一つの典型を創りだすことができたなと実感しました。

今回がキナタルカン島応援活動のスタート。第二弾として島にある3つの小学校と1つの高校の応急仮設校舎を建てる活動を3月末に行います。とくに小学校2校が壊滅的な状況で、木陰で授業をする文字通りの青空教室で授業が行われています。愛知では11月から高校生が校舎再建募金を始めています。

こうした活動は石巻・十八成で多くのことを学んできたからこそできたことだと考えています。従って、十八成の皆さんとの協力共同でもあると私は考えています。これからも十八成の応援活動での学びを通じて、フィリピン台風被災者応援活動を展開していきます。

2月22日(土)午前9時30分~11時に、報告会を行います。会場は東海高校です。DVDも用意してあります。ぜひお越しください。

 

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2 コメント

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Unknown (大阪のぼんやりおじさん)
2014-02-27 13:13:10
 先日は私にとっては全くの見知らずの地、大変お世話になりましてありがとうございました。あっという間でしたが、感想とお願いについて書かせていただきます。実質三日間でしたが、現地で生活をし、あらためて私自身の幸せや、日本の住みやすさを実感した次第です。それでも島内では外国人という事もあり贅沢な生活をしていたと思います。

 セブ島では車窓から見る道中の脇の家、失礼ながら日本では農小屋程度の家が多々ありました。はじめは人が住んでいるのだろうかと思いましたが、人の影や、木漏れ日に照らされた洗濯物を見て、これが通常の家なんだと理解しました。途中、漁港のレストランで昼食休憩した時には、売店は魚が中心で、前夜のフードコーナーで食べた無味な焼き魚について、何故か以前に日本で夢の中で見た事を思い出し、工場排水の混ざる池で釣り上げた魚が入れ食いで幾らでも釣れるのだけれども、全てヒレが半分ヌルヌルに溶けており、形や鱗の状態が何となく似ていたような、その時の姿や感触あるいは味だったのか、夢での記憶がよみがえり、贅沢な食生活に漫然と暮らしている自分にとって、魚しかないのか、えらい所に来たなあとも思いました。港ではトイレを我慢できずに、乗り継ぎの間にフェリー乗り場のトイレに行き、初めてホテル以外のトイレを実感しました。キナタルカン島では、あちらこちらに多くの避難テントを見て、配布初日の夜にはまたもやトイレに難儀し、海岸を探していたら、たまたま、その時はまだ少し怖そうな風体に見えていたアルバートと海岸近くの暗がりで出会い、状態を察してくれ近くの民家に上がらせていただきました。

 セレモニー後の待ち時間中には、どんな授業をしているのか、こっそり教室の風景を拝見し、以外にも気体の状態方程式について授業をしていました。でも生徒たちはノートみたいのは持っていたようですが、教科書は無いようで、先生が黙々と黒板に式を書いているのですが、鉛筆があるのかどうか、生徒たちは特段書き写すようなこともなく、先生も説明とかなかったようです。

 2日目の学校では教室内に据え置きの教科書が棚にありましたが、英語と算数で、濡れた新聞紙の様にシワになって固くなっており、中には砂が挟まってザラザラとした状態の物もありました。

 正直申しまして、往路のセブ島内では何処へ行っても道端に止められた多くのバイク、そして昼間というのに周りには多くの若者が集まっている姿を見て、日本のコンビニ前にたむろする若者たちを連想しましたが、キナタルカン島で遠くから荷物を頭上に載せて運んで来てくれた高校生たちの行列や、暑い中も最後まで誠実に島民を案内してくれた青年ボランティアの姿に、日本人に引けを取らない勤勉性を感じました。おそらく彼らには十分な仕事もなく、また日本人のような厳密な時間の感覚も必要ではなく、日本ではワンタッチであって当たり前の食事や洗濯とか、これらの準備や片づけをす事が日々の労働であって、それが生活なんでしょうかね。

 私自身は今回の訪問で少なからずの文化ショックを受けました。でも彼らにとっては、それが生活であり、私たちが思っている以上に満足していて不足を感じていないのかも知れません。しかし、いろいろ意見もあろうかと思いますが、どう考えても間違いなく資金や資材等の不足は明らかだと思います。もし彼らが望むなら、彼らの生活にとって何が必要なのでしょうか。すぐに唄ったり踊ったりの陽気な彼ら、長い歴史の中で養われてきた生活や風土に私達日本人の価値観を押し付けることが良いのかどうか、長期的には彼らの自主性や自発性、島で調達可能性、実現性、子供達の次世代への継続性など、結局は彼らの自治が本来の姿であるのだろうけど。

 そんな中でも学校については何処に行ってもあったし、多くの子供たちは制服を着ていたし、子供の教育には理解があったように感じました。しかし、おそらく家では勉強部屋などあるわけでなく、ノートや鉛筆など勉強できる環境も十分でなく、また学問を学んでも日本のように入試や就職という事にはほぼ無関係であるだろうし、英語や算数を除いて殆ど島での生活では役に立つことは少ないだろうと思われます。

 私は趣味で数学の本を読みますが、日本では計算や入試の道具として、いかに人よりも早く答えを出すかとかいう事に重点が置かれていますが、本来数学とは音楽や芸術と同じで、競争のためのものではなく、自然を見つめて、感性を深め、想像して、構造や因果関係を理解し、その調和や超越性に敬嘆し、創造力としての考える力を育てる学問だと思っています。

 原状の生活環境では学問や考える力を育てることは直ぐに彼らの生活向上には結びつかないと思います。しかし、考えることは資金や資材が無くてもできる事であり、子供や孫へと引き継いでいく事は彼らの生活の結実には邪魔にはならないだろうし、不変的な記載や記録をしておくことは技術や知恵の蓄積伝承のためには必要であり、そして何時でも何処でも誰でも書かれてある事について読めて理解できることは必要かつ十分であると思います。

 学校の復興、あるいは学び考える場を整備することは非常に価値がある事であり、私も賛同する方法論だと思います。

 キナタルカン島のステージで初めて学校の復興という久田さんの想いを聞いて、昨年の春に私も紀宝町浅里の上流に位置する三重、奈良県堺近くの和歌山県熊野川町九重で旧小学校の廃校舎を取り壊さずに地域の復興拠点に蘇らせるという事業に少し関わっていたこともあり日本では可能な話、でも遠く離れた隣の地ではかなり難しい事だろうなと思いましたが、しかし現地での校舎の状況や、多くの子供たちの笑顔、そしてひたむきな高校生物資運搬ボランティアの姿を見て、少しでも出来る事があればいいなあと思っていると言うよりも、何かの縁で関わり、そしてしなければならないのかなとも思っております。

 愛知ボラセンの今後のフィリピン学校復興応援について、私が出しゃばる事ではありませんが、今後の予定や、何をするのか、どのくらいの経費が掛かるかなど、久田さんのさらなる思いをお聞かせいただければ本当に幸いで、有難い事だと存じます。

 先は長いと存じますが、久田さんも私も似たような年齢、私の両親の無くなった年齢から察して私もあと頑張っても20年ほど、よろしくお願いいたします。
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Unknown (HARUKA )
2014-02-27 13:21:30
From 2/12 to 2/18, I went to Cebu, Bantayan and Kinatarkan island for typhoon volunteer as a member of "Aichi volunteer center". In kinatarkan island, we distributed clothes which are donated in Aichi.
Actually, I also took part in the clothes classification in winter vacation.
Before I go to the Philippines, in fact, my parents objected my plan and I also have some worry and anxious about life. However, days in the Philippine was amazing and precious time.
I think the people in kinatarkan gave us the best OMOTENASHI (hospitality) which I had never experienced. So I really appreciate them. Without their helps, we couldn't achieve our distribution, especially kinatarkan high school students who carried boxes for long distance, Albert, Lou Jany and Ms. Kurata who supported our activity and other volunteer members in kinatarkan.
Every children were friendly and kind. When I got some flowers from boys, I was almost cry. Many residents from the elder to the young welcomed us with big smile. I'm glad that I have a new hometown in the Philippines.
Finally I want to thanks for the member of Aichi volunteer center. They are funny, hard working and kind. Although I am the youngest member in this group, I could make various age of friends. I want to keep on interacting with Aichi Volunteer center. Also, to continue cheering up kinatarkan, I'll definitely go back kinatarkan in one year.
Thank you very much~ I miss you guys~!! Salamat~~!!!!
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