あげちうのブロマガ

現実と空想の境目にゲーム

一つの帰結はある。

「王の権威」がその独裁性を発生させる時、”過剰”はどうしても発生する。創造系にしろ破壊系にしろ、だ。「ここに向こうへ渡る橋を創ろう」と、「ここに通行止めの危険看板を立てよう」二つは相反して対立する、同じ「王の権威」その意向であってもだ。橋を架ける必要がある人とコストなどにより無いと考える人と、それは何故か、同じく「正義」を掲げて妙な対立を始める、その始まりに「王の権威」その独裁者の存在が有る訳だが。

”これ”を、その時「中和する場所」が必要には、成る。

良くも悪くも、「王の権威」が”電池”で、その「中和する場所」が「電球」とかだ。過剰なエネルギーが電気を発生させる時、周囲は明るく照らされる。そしてその結果、「王の権威」はその独裁性を弱められ、無理強いが出来なくなる、そう言う場所が何処かに必要だ、と言う時。「ソウルリバース」このゲームは、良くも悪くも今、”その”需要を満たす場所には微妙に有るのだけど。その、王の権威に寄るプラスとマイナスの意向、その衝突を解消する場所。

必要か?

というと、そこは…疑問だ。本来というか、理想、今の理屈では「王の権威」その独裁性も存在も必要が無い。しかし?日本だけではなく、昭和という時代は昭和天皇と言う「王の権威」その統治により成り立っていて、その存在を組み込んだ状態で構造が存在する。その時、直ぐに撤去!と言う訳に行かない部分が相応に出てくる…、そう言う面も無い事もなく。

良くも悪くも、平成における「モンスターハンター」そのポジションは、まだ微妙に必要性が残ってる、という事かもしれない。「モンスターハンター」は王の権威の振りをした皇帝その過剰?を抑止するモノであって、なら?”それ”はそのままでは、もう不要な訳だ。だからこそ「モンスターハンター:ワールド」として微妙な方向性の変化が有った、と言う視点はあり。

しかし?「王の権威の過剰を抑止する」それは、まだ需要が少し、残ってるのかも。

ともかく?「ソウルリバース」に対しての否定の追及?は、結局は行き先を失う。「お金が無い相手からお金を取ろうとするのは犯罪です」悪い事です、そこでお終い。”そこ”にはそう言う「テーマ」何かの真理、それは有る訳で、そこには価値が無いとも、言えない。後は、発生してる負債を埋める為に、プレイヤーがお金と労苦を投入する、そこには社会貢献性的な”意味”がある、”それ”は、或いは「王の権威」が保障し得る所、なのかもしれない。

今もなお、「面白い?」に関して否定感は有る。結局は「王の権威」その独裁性を中和する事が主眼で、つまり「王の権威に寄る無理強いが出来ない」その壁でしかない訳だ。自分がどれだけ良いアイディアを提案しても、向こうに”それ”に対して払えるお金が無い?時、その壁の前で止まってしまう。ストレスは残る、しかしそれも、やがてはその「それは犯罪です」その或いは全人類の同意と言う壁の前で、或いは消えていく。

自身を縛る、或いは弱体化させる物を許容する、それも理不尽さは有る。

そう言う意味では、仮面ライダーのベルトは、天に返った訳だが。
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