無粋な様な話、ではある。
「初音ミク」それは、何だろう。
このキャラクター、登場時からして、自分的には疑念を感じる”何か”ではあった。今で言えば「嬬魔」として見ても、”それ”が標的としてる存在、それが見えない。それでいて”何かの意図”はもちろんある、訳だ。「嬬魔ではない」標的を抑止する為に有る物では無い?時、それは一体、何か。
結局それは今も、自分的には、あまり好ましいモノには思えていない現実はある。
このキャラクターを創った会社が、北海道を本拠地としていて、そして北海道と言う地区が、意外と電力事情に関して中央集権的だった?という、そこにも、何かの引っかかる物は、微妙にか感じた所。その後、北海道での幾つかの騒動、電力会社のトラブル?で北海道の全域が停電したり、新型コロナウイルスの隆盛もあり、この地が、何かの特異さと共にある、そう言う意識は持つようになる訳だが。
「初音ミク」それは、”それ”の肯定、それとして有るのではあるまいか。
中央集権的な、要するに「共産主義」その?密かな親善大使、というか宣伝部長、実は、そう言う。
もちろんだが、この造形に対して阿弥陀如来の”それ”を見る事は出来ない、訳だが。
或いは意図が、”それ”を意識しているとしたら、何かの騒動の根幹、かもしれない。
ここまで知名度を持ったキャラクターに対しての、その意識は正しいか否か、ではある。特に面倒を起こした訳じゃない、むしろ経済的?には貢献さえしている、様に見えるそんなキャラだ。よしんばこれが共産主義の、密かな普及を目指しているとしても、人々がそれを求めると言うならそれはそれで、一つの正義なのでは。
という、理解を、最近ではちょっと考えなおしつつある、その是非というのはある。
似た様なキャラは、他にも居るのだ。その中で初音ミクだけが別なのか?だ。ともかく阿弥陀如来は「神の姿」としてあり、それは認知もされている、同意は100%では無いにしろ安定、問題は無い。その感覚は、奇妙な警告音を今、このキャラにはどうも向けている。
”この”内部に、邪さを持つ何かの思想、書物、それがあっても、実は不思議でも無いのでは。
とは言いつつも、「離婚の危機に陥った夫婦が、絆を取り戻す話」そう言うのを、苦笑と冷笑、そして否定と共に見てる視線、そう言うのもあるし、そこには正論も有るのだ。”そこ”にある正義、主張に否定し難い正論、それが有るのもまた、現実ではある。
民主主義、それは絶対に正義か?
それも残し、ふと、それを見る。
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