あげちうのブロマガ

それは魔王の憂鬱

感覚の、何かの変化だろうか。

状況か、何かが酷くピリピリしてる感覚は有る。

「機動戦士ガンダムSEED」に、今更だ、奇妙な苛立ちを想うのは、やっぱり”それ”が、「ガンダム規約」ガンダムとは何か?それに対して全く逆走していた結果、だっただろうか。
シナリオライターが病で死んでしまった今となっては、その辺に対しての追及?も出来ないのだけど。どうしても今でさえ、そこに何かの因果は向けてしまう。

当時から、監督が明言していた部分はある、「戦争要素はファッションです」ウケ狙いに過ぎません。一部の古参かのファンは酷く否定的に成り…そこは富野監督も「何かの怒りを感じる作品」当時、そうとまで言っていたが。

今になって、何かの「主観」権利?そう言うのが明確化する時、過去のそれに対して、比較的ハッキリとした「悪い部分」それが語れる様に成った、と言う面はあるのだろうか。

それとも、あくまでも”それ”を設定した自分が、奇妙な権威性?の様なモノを自身の中で、知らず育てているから、だろうか。


2000年以降、変化した状況と、重視される”何か”に、デザイン的には合致しつつも、”それ”に対してむしろ否定感を全面的に向けた様な、その内容は、ちょうど平成の文化、それがどういう物だったか?を、非常に良く描いていた、と言うべきか。土台を全否定する様な作品のベクトルは、結局内容面での評価は著しく欠いて。今の状況は果たして、ともかくストライクガンダム、”それ”しか評価されないと言う事態を招き、ガンダム本来の「どのMSも平等に売れる様に」そう言うベクトルを完全に放棄してしまった、そこは今を持って尚、許し難い何かではある。

今考えると、これは随分”古い”作品だ。
それを何だか、新しさの様に語っていた…そこには今も尚、燻るモノはある。

平成はとにかく、創作に関しては、詐欺でさえ有った訳で。
そして平成に、”これ”を止める力は無かった、訳だけど。


今、あるのだろうか?
”それ”を目指しているのだろうか。

「魔王」

神では無い、秩序と道理を求める、そう言う人間の自由意思に対する”敵”その物は。平成には無かった、でも、必要があったのだろうか。「私に逆らう事を否定はしないが、責任も持たない」そう言う、死までも繋がる因果の入り口、そこに居る存在。

そう言うパワーにふと、意識がある。

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