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あげちうのブロマガ

平等からくる不平等

ともかくこうやって、何やかや書いちゃう事に問題があるのかもしれない。

いわゆる「攘夷」と言う絵の、その対立の原理みたいなのは昔から、ではある。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

等価な二択は善意の先にあったりする?

 

「150人乗りの船」の場合、50人を見捨てて逃げた、先で感情論は沈没を期待する、が。残念と言うかそこには「牢獄の私人」島での生活と手段を伝えた存在、が拘束されていて、そして単に船長の命令に従っただけの人々も多く搭乗している。それでも?というとそう言う訳には行かない、場合、この船は様々な問題を残しつつも沈みはしない、という結果が現状の様な気は、する。

しかしもちろん、結果で島に戻らざるを得ない、と言う展開も道理にはなろうか。可能な限り犠牲者を出さない、という選択こそが正義、という視点では、島での生活は上手く行っている、そこに船が帰ってくる、という結果は両者共に生存の可能性それはまだ残されている、事には成る訳だが。なんやかんや上手くやって、船は上陸を許可され島での生活が始まる、というのは一つの帰結ではあるのだが。

この時、紆余曲折を経て人々を救済し得た存在は、その「牢獄の私人」と言えば、そう。

そして、船を実効支配していた船長らは状況を悪化させた張本人、的なイメージには成る、訳だ。

これは良い結果か?は、ちょっと深刻に謎ではある。

かつての「攘夷」は、二派に別れて戦争まで始めてしまった。薩摩を中心とする方は「天皇陛下を如何に利用して」国民を統制するか?で、水戸側の意向は「天皇陛下の意向を優先して」国民を団結させよう、ではある。「資本論」と言う思想の帰結も結局は資本主義と共産主義を産んだ、様な感じで、「平等」を優先すると「作者」その特権が邪魔になるので作者は自身を生贄にする覚悟になるが、一般論的な物はそれを否定する、事に成る。人は神に成ってはならない、のだが、その結果で?今の様な、「独裁創作は売れない」或いはその利益は作者の自由に成らない、方に正義が発生して、邪の介入が許容される。次第に「作者」抜きで、作品はその未来を内部の人々の戦争、そう言うイメージで創っていく様になり。それは結局、現実にも同じ事が起き始める訳で?

今の「150人乗りの船」は、薩摩側の「攘夷」で、歴史的には負けている、が。「平等」と言う正義を前にすると、まだ正義は少し残って居る。ただ結果的には?やっぱり彼らも「彼らの王」を掲げている結果で独裁性を問題視され、利益その物は発生しなくなって現状、ではあり。天皇陛下を牢獄に幽閉して詳しい情報は伝えずに”その意向”のみを利用せん、それはそれで、第三者的な視点では邪その物、ではある訳だが。

とは言っても、太平洋戦争はどう始まった?というと、或いは水戸側の「攘夷」が結果的に薩摩的な「攘夷」に成ってしまった、その帰結かもしれない。どっちにしろ、「独裁者」その存在を容認する所に発展はない、一応は歴史的な事例としてはそう言える、と思う。

この時、「牢獄の私人」はどうするべきではあろうか。というか、どうなるだろう。

「人間の自由意思を尊重する」それは神の意向、でもある。神は全てに対して等価な扱いを「物理」として提供する。しかし等価であるが故に?その対立には”どっちにも肩を持てない”のだった。それが「戦争」その本質、ではあり。二択を如何に統制、解決する?は、戦争を避ける上で避けられない問題になる、訳だけど。

ともかく「牢獄の私人」が船に居る限りは、島の住人も強硬論はし難い。船の側も生存性は維持される。ストレスある衝突を如何に打開するか?は、しかしこの時或いは、「牢獄の私人」にもどうにもならない?かも。

世にもまれな事件が起きた、というそれは、状況の改善には必ずしもつながらないのだった。

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