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あげちうのブロマガ

重さと共にそれは軋む

意欲の様な物は、消えていく?感覚はある。

良い意味では無く。

 

「王の権威を奪おうとする人々が居る」

ただ、”それ”に大して奇妙と言うか、抵抗、そう言うのが出来ない事に、だ。放置で良いと言えば、そう。それは平成30年を費やしても期待される結果には成らなかった、数多の損害と人的犠牲さえ出して、その賠償を責められている様な、そんな有様だが。

原理は、「王の権威」そう言う物がある、という事に対して、だ。

それを一応は、「大賀さん」その設置などで否定はしている、しかし。

平成を通して損失しか出さなかった彼らは、或いはその喪失は、それで解消するか?だ。残ったのは改めて、それは「どうしようもない無能さ」でしかない。手を出した全てが失敗と言うか、「馬鹿なの?」それしか残ってない様な、そんな結果で現在へ残る。役立たずの無能、本来は、”それ”への抵抗だった筈なのだ、多分。

「才能が無い」と言う、それへの抵抗は、結局「才能が無い奴はダメだ」そこでオチに成っている。


「誰がやらせたんだ」

その、想定するKY事件の真相、マスコミの疾患、”そう言う物”は、そこに帰結する事で或いは、何かの危険性、それは薄れた…感じも有る、一応は。ただ、その先に有るのは自身の規約、の様な物ではあり、結局はそんなに状況は変わらない、そう言う失望はちょっと有る。ともかく状況の問題、ストレスそれは別の話として、社会的に殺される、様なそう言う危険は、「誰がやらせたんだ」その追及の先で消える感じはある、代わりに、”そこ”にあるのはそこに居る存在への、憤怒と疑問だ。

何でそんな奴に、そう言う事が出来る権力?の様なモノが有るのか。

人を操り惑わせ、自身の邪念を晴らす為にか、道を誤らせる。


それでいて、状況は、それの存在を否定する、”そこ”にはまだ、入っていかない。古い成功例、それに対して依存し、それを求める感じ。新しい方が常に正しい、と言うそれは無い、もちろん。しかし、権威性それは、何かの喪失の様なモノと共に実は有るのだろうか。”根拠が無くなった”権威性と共に、そこには邪が宿っていく?

漫画家も次第に、絵が描けなくなっていく、と言う話はある。

絵師から監督、”そう言うスタンス”に成っていくからだが、その時、そこに有る失望、何かの喪失、それは相応、重い感覚には成る。

絵を描いているのは、もう「自分ではない」のだ。

それは、自分が目指していた漫画家、それだったろうか。

それでいて「先生」である、そう言うそれは、何を足場にしているモノか。ヒットした作品、それはもう、随分昔のそれなのだ、何時まで?

歪んでいくのは、そしてそれは何故、そのままか。

 


使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10649716
https://publicdomainq.net/william-bradford-0017845/

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