個人的な把握では、ほぼどんな仕事も、10年くらいの修行に耐えられれば必要な技術は身に着く。
問題は、それまで耐えられるか?と、やる気になるか?と、そもそも必要なのか?ではある。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力、翻訳して出力
コスプレイヤー的な話も、まあ要求と適性の問題は多分、深刻
向いてるか向いてないか?という点では、一応は1992年の「ログイン」というパソコン雑誌でやっていたゲームコンテストで、「虹色宝珠」というPC88VA用ゲームを創って入選、グランプリという事で50万円の賞金を得た事が、ある。パソコンも親を泣き落としつつ自身もバイトをして手に入れた物で、ゲーム制作、に関してはまあかなりどっぷり青春を浪費した経緯はありつつ、今もまた、こんな事を書いてたりする、訳だが。今は理解もある、「良い商品」を創っても、利益が出る訳じゃない。大事な事は需要に対して供給する事だ、その時、自分が創りたいモノ、それはほぼどうでもいい。良い商品とは、売れた作品の事である。
という、ある種の「当たり前」が奇妙な壁の前にあった、事は。その後の10年くらいで知る事に成る訳だが。
漫画、にしても、必要な技術はある、”それ”が無いと利益を得る以前の問題だ。ただ、絵を描く技術と、物語を創る技術、そこにはちょっと溝がある。前者を優先すると後者が不足し、逆もまた真なり、両方の「適当」を目指すと結局はどっちも微妙、な感じには成る。ここを超えられる人はかなりレアで、しかし。諦めれば、片方だけを担当し、もう一方は別の存在に担当してもらう、という形で回避も出来る。目的は何か?だ。プロとしての継続を考えると両方を目指すのは、ハイリスクではあって。
結論で言えば、どっちにしろ「オーダーを満たす」技術あっての選択、ではある。そして、漫画家の多くは「担当編集者」というサポートを物語側に設置する事で要求を満たす事には成る。その時、もちろんだが自分の描きたいモノ、というのはかなり抑制されてしまう。兎も角、担当編集者の要求を満たす方が、プロとしての利益は確実性があるのでは有るまいか。
この時、ともかく担当編集者が要求する漫画を描けない、のでは。プロとしての先は無い、訳だけども。
ここからも?「不幸」の分岐は少しある。担当編集者の能力が低い場合と、自分が要求を満たせない場合、だ。ただ、後者の方が「見れば解る」ので、ダメージか執着は低いかもしれない、「ダメだ」は直ぐ解る。担当編集者の能力が低いと、要求を満たしてても解雇、それは有りえるのが…今の最大の脅威ではあろうか。一応それでも?「要求には応じていた」のなら?その先に傷が付く、という事は無いの、かも。
ゲームで言うと、任天堂の「スーパーマリオワンダー」という、去年か出たゲームがある、が。あまり話題に成らなかった。しかしこのゲーム、今の「アートスケール」に合わせると100点?と言って良いほどにデザイン的にはハイレベル、なのだが。ただ印象としては「社内で企画され、社内で作った」感じは、する。色々なアプローチの一つだ、とは思うが。この時「なんで売れないんだ!?」に固執しちゃうと、この先に奈落が始まる事にはなる。”それ”は、クオリティの問題じゃないからだ。「独裁者」は、要らない。
この客の「それでは独裁者ではないか」のツッコミを回避する上でも、「オーダーを満たす」そこは大事な面倒、という事には成る訳だが。ここで「誰がツッコミしてるんだ?」そもそもそんな個人の声なんか聞こえないのでは、という理解は…プロとしての要求に対して不足、という事には成る。「そう言うモノだ」という、その理解があるか無いか?は、深刻な”適正”には成る訳で。
ここで、「俺は自分の好きなモノを描く!」に固執すると、利益性にはちょっと遠くなる事には。
細かい例外的事例は、ともかく脇に置いておく。という訳で、オーダーの重要性、という事には成る訳だが…”これ”を挟むとかなり独裁性を回避できる、が。もちろんか、オーダーを出す側、にも”要求”はある。担当編集者が独裁者であっては意味が無い、のだ。これも客に気づかれてしまうと直ぐに評価、利益に傷が出る。平成が始まって、創作の多くが売れなくなった原因は”ここ”である、昭和天皇の喪失と共に、創作が独裁性を問われ始めてしまった、訳だ。それまでは、昭和天皇の許諾、要求、それが最後の「問題ないオーダー」として機能した、彼に認められれば、それは前に出れたしスターダムにものし上がれた、のだった。
先ず”これ”で前に出た、のが「任天堂」では、ある。そこは独自のテクノロジーだ、”彼”のオーダーを満たす事に何の抵抗も無かった、のだと思う。「お金!」への執着がかなり上手く効いた結果、昭和の覇者となった訳だが昭和の終焉と共に、任天堂も一時没落する事には、なる。とは言えそれも短期間だった。すぐに「類型の」オーダー先を見つけて、表現的にはまあ”寄生”する事には成功し。それはそして今日の覇権に繋がっていく。
「だったら任天堂の真似をすれば?」の先に、しかし今度は「作品の重さ」という深刻は出てくる。
100人が評価してくれる作品と、100万人が必要とする創作には深刻な溝があり、その溝はその先深くなる一方、ではある。感覚で解りやすくは100人が評価する作品は100円だが、100万人がいいねしたら100万円である。もちろんか、プロとしての利益は後者にしか、無い。しかし、100万人の視線が集まる時、人によっては多く裸にされ地獄の閻魔大王そのお白洲 (おしらす)を受けるに等しい「ストレス」に晒される、事にはなって。多くは”それ”に耐えられない、結果で…「先生」その道は、断念する感じには成る、様だ。
耐えられない理由は人それぞれではあり、その場の理由も様々、だ。割と深刻なのが「過去に犯罪歴がある」等は、かなりダメになる原因にはなる。良くも悪くも「先生」で無ければ、その先に利益は続かない現実はある、その為には、少なくともその目の前にある紙の前では真摯でなければ成らない、が。
「あなたが描く必要あるの?」それは、まあちょっと深刻なツッコミである。
結果というか理解というか。この視線の結果で、大分「振るい」は発生する、訳だ。創作者の狭き門、その要求の一つではあり。現状、自分がやってる事も。結論では「要求が無い」なら続かない、話ではある。一応、好意的に解釈すれば「”そこ”に利益が発生してない事は続かない」とは言う。要求が無いのだ、スキルは有っても、「いらない」その声はまあ、基本的には耐え難い。
しかし私見では。平成は「この」壁に否定された人が、その権力を持って挑んだ、そんな時代だった、というのはまあ、ある。結果的に発生したのが平成の巨額の国債ではあり、それはしかし世界中の話だったり、する。昭和天皇はどれだけの物を背負っていたのか?だ。兎も角彼の死後、その重さに多くが耐えられなくなって、様々破綻していった。その恐慌の中で、いやそれ以前にしろ。利益への要求と無理解との狭間で「向いてない事」を強要された、そんな人は多かったのかも知れない。
向いてない事を、続ける必要は無い、のだが。
創作が売れなくなった、事態は。それへの深刻な面倒も産んだ、そんな事態でもあったのだった。
経営者にとって、借金は深刻なストレスである。