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あげちうのブロマガ

とある珊瑚に刻んだ物

感覚が、良くない気もする。

「自分の作品の是非を量る奴は居ない」

自身に”先生”は居ないからだ、自分以上の上位は存在しない、自身の決定、それが最上位である。

ちょっと待てや。


経緯の問題もある、今まで自身の「先生」的な立場は、総じて何かの破綻へ突き進んだ、様な感覚は有って。そんな彼らに自身がある種、依存する時、その相手は、そのまま”世界”を背負う事になる…その視線は、結構重くなる訳で。

意識し始めてから、要求するのは自身の信仰、「大衆は神である」その決定、結果に集中はしていくのだけど。結果的に、どんどんと他者の意見?そう言うのを無視してる感覚は重いような違う様な。この先へ進むべきか否か、しかし、進まないならその先に行く人が、自身の先生をする事に成る訳だが。

空気の存在意義を、水の必要性を、それは語る必要が無い、そう言う感じを、今までは少し抑止されていた、部分は有る訳だが。

新しい想定、ではある。

自分が前に出る時、社会的に殺される人間が一人居て。その人には大した罪は無いのだが、それは妥当だろうか?

「かむろぎ」自分が提唱した流通、そういうのがメディアに出ない?理由として、上記の話が結構深刻に有った、気はする。話は30年前の「朝日新聞KY事件」と言うか、珊瑚礁に「KY」と彫られていた、ダイバーらのモラルを問う、と言うそれが、記者の自作自演だった、と言う話まで遡る。これはメディアの信頼を大きく損なうモノとして大問題になり、罪にこそ問えなかったが記者は退社させられる事になる、話はそこで終わっているが。

微妙な混沌はある、この時の記者は、この後にフリーのカメラマンになり、相応の成功を果たしているのだ。今までの経緯を見てると、そう言うのは考えられない、償いが済んでいない?のに、作品が評価されたりはしない。しかし?と言う事はここで少し想定が出る。

実は、本人じゃないのでは?

”誰かの罪を被っただけ”で、だから。

この辺の想定から、この事件を考えると、実際には「王の権威」それが何故KYに決まったのか、それを彫り込んだ奴は誰か、そう言うのを、いわゆる不満偏向砲だ、ストライキのパワー、そう言うのを利用して炙り出そうとした?感じは、良く合致する。

”本当の加害者”は、その意図によって、或いは「KYって誰だよ」その苦笑の中でそう言う工作をしたに過ぎない。そこにカメラマンは誘い込まれ、それを撮影し、意図通りに大問題になって。

ともかく、カメラマンは最終的にはその、「本当の加害者」を庇う形で、自分が加害者になった。

のでは。


問題はこの結果、この本当の加害者は秘密の共有的に、何かの権力構造の中に組み込まれて行った、可能性がある事だ。ただ、償いが済んでない状態でのそれにはまず、利益性が欠落する。そして?その人は自身の作品が否定され、「王の権威」その台頭を感じる時、この事件を思い出す事になり、それが暴露される時の世間、その罵倒を思い出し、死への恐怖を感じる事になって。否定し難い想定だ、今でも、ネットで叩かれた結果で自殺する人は絶えない。メディアに関わっている限りは、その恐慌はリアルではあり。

結果、「私に死ねって言うんですか?!」の、反論し得ない理不尽を盾に、「王の権威」その表への公表、それは憚られる事に成って行った、世界規模でだ。「売れる」と言うそれだけでは、人の命が掛かったそれに対して抵抗し難い、正義は勝つ、は一応この時、その人物を護る方向へ働いている、訳だが。

「リアルだ」とした時、この真犯人の、社会的な立場その他は、どうなるのだろう?

過失として、殺されねばならない程の過失か?ではある。

ただ、その後にそれが情報を世間に遮断する事で発生する負利益、隠蔽の為に行う、恐喝でさえ有る要求、それは重い損失も苦痛も発生させている訳だが。


”それ”を、必要悪と言うべきだろうか。

”それ”が無くなる時、自身のリミッターは何処かに有る物か。


それでも、それは社会的に重い損失を発生させている、一つの邪ではある。

 


使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im6921369
https://publicdomainq.net/john-brett-0052828/

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