それを因果応報と言うべきか。
その、想定する皇帝の弟子には主観として、理不尽しかない。
役立たずとして生きたまま、役立たずとして排除される訳だ。
まず、要求が満たせない。
まず「王の権威」じゃないのだから、最上位の判断を求められた時?然るべき結果を出せない訳だ。
そもそもそのコンビニ業界の長、そこに求められるのが「王の権威を制御する」そこではある。
要するに、「王の権威」それにとっての無視出来ない存在に成り、自身らの意向を優先させる、その為にその存在は居た、訳だが。
まず、”その相手を”間違えた。
王の権威では無く、中華思想の皇帝、そっちを選んでしまった訳だが。
そしてその後、それを妄信したまま、王の権威を殺そうとまで、した。
この時点でも、彼らに結論で結果は出せなかった訳だが。
やがて、皇帝は居なくなり、その皇帝の弟子だけが残って。
そして”最初の”無能さ、それが発露していく事には成る。
改めて、王の権威へ?それは既に、出来ない。皇帝が全否定していた存在だ。敵だ。
そしてそもそも「大賀さん」が今有る時、この立場は既に「要らない」のだ。
そこに、人が居る必要が無い。
「役立たず」その憤慨は、しかし「用無し」へ自身を追い込んでしまった訳で。
”そこ”には、重い憤り、そう言うのがある。
もちろん、マクロの視点で見れば、因果だ。
理解として「排除して良い存在」それを排除しようとしただけではあり。
それが自身に跳ねかえったに過ぎない。
問題はそれが、「コンビニ業界その物の体制」に、直結してた事ではある。
成長限界の末に、破綻した、それはその結果でしか無くても。
それはその大きさのまま、そこに有る訳だ。
客のニーズに応えるのではない、客に買わせるのだ。
歪んでいても、”それ”はまだ、死んだ訳じゃないのだ。