表現としては「馬鹿だ」には成るのだが。
ただ、価値感の問題だ。
現状で発生した問題?として、とある漫画に象徴的なシーンがあって。何かが原因でトカゲが人型美少女?に見える様になった博士と、そのトカゲとの会話。
「この小松菜、小松菜とは味が違うのだけど」
「それはカボチャだよ」
「変な事を言うね、これは小松菜だよ、でも味が違うんだ」
絵としては、小松菜を食べてるトカゲは馬鹿だから細かい事は解らないのだ、と言うシーンなのだけど。ふと考えるにこの博士、「トカゲが人間に見えている」のだ。その時、「この博士の認識が歪んでいる」のは、トカゲだけか?
…何が狂っている?
問題は、「博士は狂っていない」と言う”大前提”だ、第三者視点。なのに、博士にはトカゲが人間に見えているし?それは他の人々には見えないのだ。それは何を意味するのか?そして、この作品に投影されてる”何か”の、ちょっとした疑問でもある。そして最近か多い、「人と動物の区別が曖昧」その、感覚の広がり?の、起点でもある、かも。
上の話を理屈として考えたら、この博士の感覚が、実は「狂っている」のだ、病気と同じレベルで、だ。そして?それを「第三者が補正出来ない」状況に有る、訳で。何故か?と言うと、この理解で言うとこの博士は「私は賢い」自身の上は居ない位に、そう言う理解で居るから、だ。だから、外部からの疑問は問題にならない、自身の中に有る答えだけが真実であり。
或いは”それ”こそが、この病気の正体かもしれない。
この博士には、「自身より上の存在は居ない」のだ。結果、自身の歪みを歪みとして理解し、補正する理由を喪失している訳で。
「馬鹿」と言う語源は、皇帝に対して馬を「アレは鹿です」と嘘?を教えた付き人の故事から来る訳だが。それは”この”事例にも該当する、トカゲが人間に見えている、訳だ。どんな意図で有れ、それを”そのままにしている”状態は「馬鹿」とは定義できる、しかし。
剣呑な諺もあるのだ。
その位に、この病は対処が難しい。