結論で良いとは思う。
昭和の頃に”売れた”作品は、その”全て”に、「後ろには昭和天皇が居た」のだ。
売れた人々は単に、”それ”を知らなかっただけだ、色々問題になるから。
そして、昭和天皇が居なくなった後に、売れなくなって、困った。
その中に、或いは「攻殻機動隊」それもある、のだ。
この作品、実際のテーマとしては「何を持って人と言うのか」そう言う感じ、だろう。荒廃した未来世界、”体”と言う概念さえ曖昧になった状態で、殺戮と犯罪のるつぼの中で体制を護らんとする時、人間性、それは一体何を足場にするのか。
ただその辺、映画版「攻殻機動隊 Ghost in the shell」で、かなり踏み込んで描いてしまった、感じは有り。
逆説的に言えば、「攻殻機動隊」に要求されたテーマ、”それ”は押井守監督に「盗られた」様な感じには成ってしまったのかも、しれない。
実際に漫画を描いていた作者は、その辺まで理解?はしてなかった、のだろうか。
単に、描けと言われたモノを描いていただけ、で。だから。
最近、かなりパッとはしない。
「ブランドだけ残ってる」状態に、厳しさはある。
実際は、何かの歪みは”この辺”から始まったのかもしれない。
「人間とは?」
答えを要求されるが解らず、結果、そこに集まる悪夢は、八つ当たりのような形で、「元ネタを持ってきた所」へ伝播し、襲い掛かる。MMORPGの世界に頻繁に登場する「電子生命体」は、出る度に作品その物をぶち壊していく訳だが。この辺に、”この”疑問が暴れている、と言うべきだろうか。自分の中では、自作の「シークレット・オブ・マリオン」と言う小説の中で、一つの区切りの様なモノはある。「人の器」の中に”自由”を許容する時、そこに人が居る。この辺は、自分のシステム、そこにも割と色濃く影を落とす訳だが。
もちろん、「人にとって自由は大事だ」と言う理解の上での問題だ。
当然だがその後、「制約を受け入れた上で」それは、もちろんあるのだけど。
故に、”雅”市場、或いはストリードの連携、そこに基本的には「人格」それは発生しない。何故なら、かなりの「不自由」それが要求されてるから、だ。そして、”それ”を護る上で高い価値が発生する、と言う理解ではあり結果、このシステム上で利益を上げようと思えば自然、「電子生命体」とか、そう言う要素は拒絶される。何かの危機感だろうか、ともかく去年まで、その辺の要素はやたら五月蠅かった。
それでもそこに残る夢に対して、何かの問題は発生した、というべきか。
「それは無理だ」その先に、その破綻はある。