現状の理解で言う「面白い」それは、多くが社会貢献性の事ではある。
自分の行動が誰かに、社会に有益である、という実感が有る時?そこには「喜び」がある、のだ。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
やるべき事はたくさんあるが、それでもその視線の方が真実?
その時?その「面白い」もまた、立場によって変わっては来る。一番上、みたいな感覚だと、「物事が自身の思惑通りに滞りなく進んでいる」事の方が快楽、そういうのはまあ、重い。そして?”それ”が自身の願いと同期している事が「面白い」その根本的な感覚、だ。その時、「それは無理です」と言う作品は、まあ面白くない。
単純に言えば、自分のプランによって創られた作品が期待される結果だった、という”報道”こそがまあ、最も快楽値の高い「面白い」話、という事には成る訳だが。イメージ的にはだんだん矮小に成っていく気もする、もちろんか独裁者の”それ”だ。だから、それを意識し始めると、自分で創案する、というそこに否定感は出てくる。
しかし、意識的な最上位が、自分より下の願いを叶える様な事は正しいのか?とか、自分の創案で無い企画を成功させてもただのルーチンワークではないのか?とか、まあ否定はふいに、声としてある訳だが。
ここで、「大衆は神である」自身の上位が居て、その要求である、というそこに同期させる訳だが。
神の喜びは、自身の喜びである。”それ”が最下層からくるものであろうと、神の要求であるならそこには、社会に、いや世界にとって必要、そう言う物が有る、訳だ。その時、その成功は喜びと共にある。それを妨げる事こそが悪だ。
結果か、意識は最上位で有りつつ最下層、みたいな視点になって、ともかく事態打開を探ろう、そう言う感覚になり、そこに必要な物が見えてくる、という?多分、そう言う流れはある。
もちろん立場と個体差、個性の問題は重くあると思う。自分の場合、それが面白い、に成っている、のだが。
その視点で「面白い」か?というと…今の多くの作品はそれほどは面白く、無い。前任者の要求とは、どうも随分差がある、からだ。前任者か、それは「スイカゲーム」その程度を求めた。余計な事を考えない、結果は単なる暇つぶしで良い。人々が”それ”に意識を集中して興じている、事を求めた感はある。意味とか意義とかどうでもいいのだ、末端は単に、上の要求を満たすだけの都合のいい労働者であれば。
モノなんか考えるな。
その結果、それは今は”戦争”に負けて、席を降りたのだがしかし。
「いくら?頑張っても、レトロなSTGが上達しない」事に、ちょっとストレスはある。ただ、逆に意識の中でその行為は、何かの「無理」をしようとしている、そう言う絵かもしれない、それは自覚もする。自身が今の、”この”領域の最上位である、としたら。難易度はこの程度、が要求である。昔はどれだけ無理を要求していたのか?は、少し考えるところだ。しかし、もちろんか”それ”を「面白くない」と思う、それも今の現実。
今後、或いは”この”感覚を、現場へ要求する事になるのだ?とした時。
ある程度の人々に対して「面白い」を提供できない、そう言う絵は或いは、ある?
作品を作った”後”にこそ、それは先が有るのだが。でも今、それは神の領域なのだろうか?