あげちうのブロマガ

同じく無理を言う上の方

コンピューターゲームとは、それでも「システム」ではある。

それは、思想、それと良く合致はしていく事には成る。

ちょっと、ゲームのアイディア。

「ゴーストハウス」

固定画面かの迷路状のマップ上に、主人公が一人。画面には鍵が落ちており、それを拾って次の部屋への扉に移動する、のが目的。しかし、画面上には”映っていない”が「幽霊」が数体動いていて、それは規則性のある動き方をしている。それらが接近すると音が鳴るとかするので、接触しないように避けながら鍵を取り、出口へ。最後の部屋にある魔王の棺に鍵を掛ければゲームクリア。

画面上を動いてるのは一体だけ、である。画面は固定で、音も幽霊が近づくそれでしかない。このくらいが、「アルカディア」というゲームハードの表現し得る限界では、ある?

「作れるじゃないか」と、これは言っていいのかどうなのか。

少し前から、「アルカディアでゲームを創ろう」そんな動画があって。面白いというか、その内容を笑っているのは、昔の苦労を少しは知っている身だからだろうか、しかもアセンブラさえ使えない、という熾烈な環境ではある。聞けば聞くほど、「なんでこのゲーム機出したの?」それを思う非力というか、理不尽。アタリショックを引き起こしたというあのARARIハードでさえ、もうちょっと性能(表現力)が高かったろうに。それもしかもファミコンの4か月前に新発売という気まずさ、値段も当時の19800円(のちに9800円に改定)で、ファミコンより高額と、一般論でもほぼ売れる要素が見当たらない、そんなゲーム制作者にはまさにか奈落の様なハードではある。

もちろん当時、現場は売れるゲームが作れず、ファミコンに”全て”持っていかれた訳だが。

ファミコンは当時の任天堂、その社長の「プログラマーがゲームを創りたいと思うハードを創れ」その号令によってあの性能になった、という話はある。今考えると、少なからずアルカディアの反省というか不満、それはあったとは思う、”これ”では現場が悲しい。現場主体で、かなり金銭的には無理を押して作ったのがファミコン、当時だったら本当に、このままゲームセンターに置かれていても不思議じゃない性能、量産効果での低価格を狙うにしろ、昔からのそれだ、ハードその物では、ほぼ赤字だったとは言う。軽トラでF1のレースに参加するような、そのくらいにちょっと、性能的には無理がある差ではあり。

当時、最初に書いたアイディア?”これ”が有ったら、アルカディアは多少は何とかなったのだろうか。そこには「ゲームの面白さはハード性能で決まる訳じゃない」そんな、今でもよく言われるセリフは、ある。

今のPS5とか、その辺のハイパワーゲームも、正直呪いの産物なのかもしれない。過去の「アルカディア」その手痛い失敗を前に、ファミコンの大成功を背に、「もっとハードパワーを!」最終的にはそっちにしか行かない、そういうのはある。

だからこそ、今、アルカディアのゲームとして「面白い」ヒット、そういうのは必要、か?

”この”環境で頑張るという事は、国力の貧弱な国で特産品を創ろうとするようなモノ、ではある。

そういう号令それは、はたして。

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