あげちうのブロマガ

失われていた欠片のつぶやき

「ゲーム」って何だろう?それは今、少し感じる。

ともかく現状の脅威、”それ”の中心へと集約していくかもしれない、そんな何かではあり。

「アルカディア」で動くゲームをデザインできない奴を、ゲームデザイナーとは言わない。

位の、不意にか、今は言える部分はある。良いか悪いか?はその先の話、だ。「ゲームを創りました」それはこのハードで動くモノ、の事でさえある。今だからこそ言える話、「古い」「非力」それで、”この”領域は気づくと今まで、切り捨てられていた訳だ。

このハードの存在そのものは、”悪意のそれ”だろうか、とは言え「残る」そこには不意に、深刻な重い意味、それは残って居たというのが、現在の理解。故に、奇妙な執着がある。

このハードでデザインできるゲームは、まずグラフィックに期待できない。音楽も駄目、テキストはほぼ書けない、速度も足りない、メモリもない、つまりパワーや物量に依存出来ない。「じゃあ何が出来るんですか」というには、そのどれでも、「解る」所までは足りている。自分と敵、二体は何とか動かせるし、障害物と通れる場所、そういう区別も十二分に付けられる。求めているのはゲームである、時。そこにゲーム、それは逆に、”それ”しか残らない。

これで「売れない」という事は、「ゲーム」ゲーム性?それは、商売にならない、という事では。将棋やオセロ、”そういうの”は売れるのだ、それをコンピュータゲームに要求しても、それは商売にならない?

結構、深刻な問いと現実、ではある。

何故かここで、安倍首相が射殺される間際に残した言葉?が、不意に出ては来る。

「出来ない理由を考えるよりも、どうすれば出来るかを考えるべきなんです」

彼を射殺したのは”何”だったのだろう。或いは、彼自身の失念だったろうか。今の理解?推測、なんとなく、では、統一教会とは、アルカディアでの失敗から始まっている。昭和天皇のオーダーだったのだろうか?そこで誤認か、重い屈辱?を背負い、それは天皇を敵として認識する様になった、訳だ。彼が認めないから売れないのだ。或いは、アタリショックもまた、実際は彼のゲームへの失望によって発生した?そんな横暴が許されていいのか。その後もこのゲーム機を販売したバンダイは、ゲームに関しては鬼門を続ける感じはある。深刻な疑念、これは売り物にならない?それでも多数決に押される感じで、微妙に続けては居ても。

”ゲーム”は、売り物にならない。

売っているのはあくまでも、絵や音楽やシナリオ、物語である。

利益にならないものを続ける意味は、無い。戦争は無意味だ、一か八か、そういうのは要らない。

ファミコンと、アルカディアとの大きな違いそれは、結局は「表現力」語れる物語、描けるグラフィック、聞ける音楽や効果音、ではある。そしてゲームハードの進歩とは、”それ”の拡充に他ならなかった。コンピュータゲームとは、発展しつつも、置いていかれたモノ、それが実際は有った訳だが。

 

人は「考える力」を否定した、って意味でさえあるのだろうか。

それは、単なる説明不足だった、のか、或いは。

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