エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

神様も泣きます 改訂版

2015-10-03 10:11:12 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 今回の旅で手に入れた ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』については、もうすでに何度か触れました。

 この本のプロローグ序章に、ヴァン・デ・コーク教授がトラウマに対する見方が劇的に変化した経緯の一部が、ハッキリと示されてます。Facing trauma「トラウマとしっかりと向き合って」と題された、この序章は、最初から、日本のPTSD研究者で、実際に震災支援に「来ている」学者に読ませたいと感じました。こういう人たちにも、トラウマに苦しむ子どもたちに、シッカリと向き合ってもらいたいからなんですね。

 その部分を翻訳しときましょう

「トラウマに出合おうとするには、戦闘員になったり、シリアやコンゴの難民キャンプを訪ねたりする必要はありません。トラウマは、私どもにも、友達にも、私どもの家族にも、ご近所の人にも起こりうることです。アメリカ疾病管理予防センターの調査研究によれば、アメリカ人の5人に1人は、子どもの頃に痴漢や性的ないたずらを経験していますし、4人に1人は、親からあざが出来るほど殴られたことがありますし、3組の夫婦に1組は、物理的な暴力に関わりがありますよ、と言われています。私どもアメリカ人の4人に1人が、家族にアルコール依存症の人がいる中で育っていますし、8人に1人が、母親が眼の前で殴られているのを目撃しています」

 でも、これはアメリカに限ったことではないことは、日本で子どもの臨床をしている人でしたら、誰の目にも、火を見るよりも、明らかなことでもあるからです。しかし、そのことを認めない「研究者」やら、あるいは臨床をせずにPTSDの「研究」をしている人やらが、残念ながら、日本には多すぎる。ですから、「震災直後であれば、原因がハッキリしていましたが、震災後4年も過ぎると、その原因がよく掴みきれないケースが増えています」などという、寝ぼけた、無責任発言を、マスメディアにイケシャアシャアと言ってのける「専門家」「精神科医」が出て来るんですね。私は義憤を何度も感じてます。この人たちのお名前は伏せておきますね。

 ヴァン・デ・コーク教授の序文の言葉をなぞらえて、申し上げれば

「トラウマに出合おうとするには、津波を体験したり、仮設住宅や見なし仮設を訪ねたりする必要はありません。トラウマは、私どもにも、友達にも、私どもの家族にも、ご近所の人にも起こりうることです。…日本人の◎人に1人は、子どもの頃に痴漢や性的ないたずらを経験していますし、▽に1人は、小さいころから、否定的な言葉を繰り返し言われる中で育っていますし、▲人に1人は、赤ちゃんの頃から、親が仕事や研究などで、そばにいてくれません、また、◇組の夫婦に1組は、物理的な暴力に関わりがありますよ、と言われています。私ども日本人の■人に1人が、家族に仕事依存症やアルコール依存症の人がいる中で育っていますし、☆人に1人が、母親が眼の前で殴られているのを目撃しています」

 って感じ。

 そして、最近cnn(http://jp.reuters.com/video/2015/09/27/pope-says-he-met-with-victims-of-clerica?videoId=365743694&videoChannel=-9993&channelName=Latest+Videos+JP)等で、ローマ教皇のフランシスさんが、司祭などによる、子どもに対する性的虐待について、「神様も泣きます」と述べたことが報じられました。しかし、日本では、母親が、仕事や研究で、赤ちゃんの時分から、子どもが寝る頃までホッタラカシにしたり、「〜はダメでしょ」「勉強しなさい」などと否定的な言葉と態度を子どもに対して繰り返す場合も、「神様も泣きます」ね。

 

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詩人の自由

2015-10-03 08:14:42 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、単独者が知り得る最高の良心を手に入れました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.231の7行目途中から。

 

 

 

 

 

 もしもルターが、一番有名なあの言葉「私はここに立つ」を言わなくても、伝説が機を見て生まれたでしょう。というのも、この新しい信条は、(群れることを止めて)自分の足で立つことを決心することから、自分を確かにする人の為のものですからね。でも、自分の足で立つというのは、スピリチュアルな意味だけではありませんから。政治的な意味でも、経済的に意味でも、知的な意味でもあるんですね。自分の足で立った後、その決心のゆえに、恐ろしいこと、この世で一番惨めなことが起こっても、ルターが強調したのは、ひとりびとりの良心でした。その良心があればこそ、平等だとか、人々の代理になることだとか、自己決定だとかいった一連の考え方が生まれます。この一連の考えは、この一件に続く、世の中に起こったいろんな革命や戦争で、エバッタ態度の人たちのためにあるんじゃぁなくて、全ての人が人間らしい暮らしをするために解放される自由の基になるものです。

 

 

 

 

 エリクソンって、本当に、すべての人間の味方ですね。そして詩人です。

 詩人の自由が、全ての人にとって最も大事な自由を、簡潔に、しかも、ドンピシャリと、示してくれています。

 

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価値と確かさ

2015-10-03 08:03:57 | エリクソンの発達臨床心理

 

  心はいつも光を見上げています。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p79の第2パラグラフ、14行目途中から。

 

 

 

 

 

次に、自分を確かにする感じと忠誠があると、自分のやることにを特定の価値に結びつけるような選択に、自分の人生を賭けるようになるはずです。若者は、手が届く価値を信奉して、「救い」と「天罰」の幅広い可能性を心描くことができます。他方、若者時代の、自分と人を大事にする思いも、「自分には何ができるのかなぁ」、「人と一緒に誰を心を込めて関わるできるのかなぁ」などと夢見ることによって、心新たにすることになります。しかしながら、大人時代の、自分と人を大事にする思いと、人や物を心を込めて関わることになれば、中年期の危機的要素が徐々に眼を出してきます。すなわち、逆戻りができない選択をするという条件によって、それが運命の選択だったか、自分の選択だったかに関わらず、選択肢が狭められてくるわけです。

 

 

 

 

 

 ここもうまく描いてますよね。自分を確かにすることは、価値の選択と不可分に結びついています。価値をハッキリ意識して選択するほど、自分はそれだけ確かになります。しかし、その価値があいまいだと、その分、自分の確かさも、あいまいになります。しかし、もちろんそれだけではありません。その選択した価値が、普遍的であれば、それだけ自分は確かにさせやすいけれども、それが一時的なものであれば、時代の変化によって、右往左往することになります。しかも、次第に逆戻りできない場合もあるみたい。

 どうぞご注意くださいね。

 

 

 

 

 

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