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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

存在の根っこ 3訂版

2015-10-06 19:04:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
単独之幸福 改訂版
  今日の「こころの時代 宗教・人生」で、鈴木範久先生のインタヴューが放映されました。良かったですね。インタヴゥアーをしてたディレクターの浅井靖子さんも懐かしい。...
 

  今晩は、「存在の根っこ」を考えます。

 難しそうですね。このブログの方針は、井上ひさしさんから学んで「むずかしいことを やさしく」なので、なるべく優しい(易しい)言葉遣いで考えたいと思います。

 これは、クリニカルサイコロジストとして、一番大事な課題です。それは同時に、今の時代を考えることでもあります。

 現代は、「非神話化の時代」と言われます。これは「神も仏もない時代」「神が死んだ」時代だ、ということです。科学によって、生活が合理的になり、便利になると、神話と科学の両立が難しいので、神話が捨て去られている訳です。それに伴って、神話に基づいた生活の節目としての、いろんな礼拝、イニシエーション=儀式を、人々はしてないでしょ。特に、大人になるためのイニシエーション=儀式がない。今の日本で、元服をした人って、ほとんど0でしょ。

 しかし、困ったことが、少なくとも一つ出てきます。科学は、知識をくれますし、世の中を便利にはしてくれますが、生きる意味を教えてはくれません。生きる目的を教えてくれません。生きている悦びを教えてくれませんよね。それがなくても、生きていければいいんですけれども、人間はそのようにはできていないみたい。 存在の根っこを、科学は教えません。

 それで、今の科学が教えないことを、クリニカルサイコロジストは、クライアントと一緒に探すことになります。決まった神話があれば、それぞれの神話に従って、決まった存在の根っこを分かち合うことができます。キリスト教で言えば、「神様は、私どもひとりびとりを、命がけで大事にしてくださって、決して裏切ることはありませんよ」ということが、クリスチャン一人一人の存在の根っこで、生きてていいんだ、ということを意味づけてくれます。しかし、人間すべてがクリスチャンではないし、そもそも既存の宗教の「神は死んだ」のですから、十把一絡げに存在の根っこを分かち合うことができない時代なんですね。ですから、個別に、生きてていいんですよ、というイニシエーションをする必要が出てきます。それが、セラピーです。ですから、セラピーは、1つとして同じものがないんですね。すべてが個別、一期一会。

 エリクソンは、一生の始めに、根源的信頼感と根源的不信感のどちらが優勢になるのかと言う危機がある、と言いますでしょ。どなたでも、根源的信頼感の方が優勢になりたい、と思うでしょ。じゃぁどうすりゃいいの? 

 それが、自分一人じゃぁどうしようもないことなんですね。ですから、セラピーも、クライアントとセラピストの2人で、すんですね。赤ちゃんでしたら、お母さんと一緒にやる訳ですね。セラピーが一番うまくいくときには、クライアントが、今まで気付かなかった「自分はこのように生きたいんだ」と言う最深欲求が、ハッキリとした形で出てきます。すると、「あっ、このままで生きてていいんだぁ」って感じになって、キラリと光る笑みを浮かべますね、必ずね。それを見たら、私どもクリニカルサイコロジストも感動ですよ。ですから、クライアントはもちろん、セラピストも、天にも昇るような悦び=ヌミノースを体験します。赤ちゃんだって同じです。お母さんが、献身的に、一心不乱に、世話をしてくれると、お腹も満足、お尻もスッキリ、キラリとした笑顔を浮かべて寝ています。科学は、赤ちゃんは別に悦んでる訳じゃない、と言うかもしれませんね。でもね、赤ちゃんも母親の献身のおかげで、天にも昇るほどの悦びを感じればこそ、根源的信頼感を豊かにできんですね。

 存在の根っこ、それは、≪いまここ≫を分かち合う 笑みと悦び!

 

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流れは止められない!

2015-10-06 08:38:50 | アイデンティティの根源

 

 ルターは、村八分になったおかげで、ザクセン選帝侯に助けられ、匿われて、ドイツ語訳聖書を完成させ、本物の信頼をハッキリと示すことができました。上手く出来てますね。闇の中に光在り、を地で生きたのですからね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.231の第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターの父親の家を別にしたら、このヴィッテンベルグのお城が、ルターにとって、一番運命的なお家になりました。ルターは未だ修道士でしたし、カトリックの教えに従い、お祈りをして、独身主義を守っていました。しかし、お城では、ルターには、修道院のルールもミサもありませんし、修道院仲間も居なければ、修道院長も居ませんでした。ルターの窓から見えたのは、広い世の中でした。いまや、ルターの名は、ルターのメッセージが広まるとともに、広まり、不吉な予感も強まります。世の中では、ルターが急に行動に目覚めた分だけ、ルターのリーダーシップを必要としましたが、ルターは名前を伏せ、活動しないでいることが強いられてしまいましたし、喪に服している友人たちの手になる、自分が死んだという記事を読まされる羽目になったんですね。その友達は、ルターが宗教改革と革命にともに参加した友達でした。

 

 

 

 

 

 ルターは、アクションを起こせる段になって、アクションができない状況に陥りました。こういうときの結論が決まっている訳ではありません。しかし、ルターはアクションを起こすことになります。心の中を流れる流れを、誰も止めることはできないからですね。

 

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メメント・モリ 「死を意識しなさい」

2015-10-06 07:37:08 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 自分の死を展望する時間感覚が大事です。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p.80の5行目途中から。

 

 

 

 

 

若者は、それぞれのやり方で、大人よりも死を意識しますね。ただし、大人と言っても、「この世のことで精いっぱい」ですから、宗教、芸術、政治などの大掛かりな儀式に参加したり、これら全ての儀式は死を神話化し、儀式化して、死に儀式的な意味を与えますから、死は対人関係の中に強烈に紛れてしまいます。それで、若者と老人は、再生を夢見る時期なのに、大人の方は、実際に生み出すものを世話することに忙しすぎますから、その代わりに、にぎやかで、いつの時代も変わらない、独特の現実感覚を携えることにもなります。この現実感覚たるや、若者にも老人にも、何となく違和感があるように思われるのは、この現実感覚が、死の影を全く認めないからです。

 

 

 

 

 

 この世の様々なことに忙しくなる大人の時代、いつの時代も、死を忘れるのが当たり前になるらしい。ですから、死を意識することが大事になります。死を展望しない時間感覚には、リアリティがなくなるからですね。「不意に」死に直面することにでもなれば、死を展望しない時間感覚など、何の力もないのですからね。

 

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