今晩は、「存在の根っこ」を考えます。
難しそうですね。このブログの方針は、井上ひさしさんから学んで「むずかしいことを やさしく」なので、なるべく優しい(易しい)言葉遣いで考えたいと思います。
これは、クリニカルサイコロジストとして、一番大事な課題です。それは同時に、今の時代を考えることでもあります。
現代は、「非神話化の時代」と言われます。これは「神も仏もない時代」「神が死んだ」時代だ、ということです。科学によって、生活が合理的になり、便利になると、神話と科学の両立が難しいので、神話が捨て去られている訳です。それに伴って、神話に基づいた生活の節目としての、いろんな礼拝、イニシエーション=儀式を、人々はしてないでしょ。特に、大人になるためのイニシエーション=儀式がない。今の日本で、元服をした人って、ほとんど0でしょ。
しかし、困ったことが、少なくとも一つ出てきます。科学は、知識をくれますし、世の中を便利にはしてくれますが、生きる意味を教えてはくれません。生きる目的を教えてくれません。生きている悦びを教えてくれませんよね。それがなくても、生きていければいいんですけれども、人間はそのようにはできていないみたい。 存在の根っこを、科学は教えません。
それで、今の科学が教えないことを、クリニカルサイコロジストは、クライアントと一緒に探すことになります。決まった神話があれば、それぞれの神話に従って、決まった存在の根っこを分かち合うことができます。キリスト教で言えば、「神様は、私どもひとりびとりを、命がけで大事にしてくださって、決して裏切ることはありませんよ」ということが、クリスチャン一人一人の存在の根っこで、生きてていいんだ、ということを意味づけてくれます。しかし、人間すべてがクリスチャンではないし、そもそも既存の宗教の「神は死んだ」のですから、十把一絡げに存在の根っこを分かち合うことができない時代なんですね。ですから、個別に、生きてていいんですよ、というイニシエーションをする必要が出てきます。それが、セラピーです。ですから、セラピーは、1つとして同じものがないんですね。すべてが個別、一期一会。
エリクソンは、一生の始めに、根源的信頼感と根源的不信感のどちらが優勢になるのかと言う危機がある、と言いますでしょ。どなたでも、根源的信頼感の方が優勢になりたい、と思うでしょ。じゃぁどうすりゃいいの?
それが、自分一人じゃぁどうしようもないことなんですね。ですから、セラピーも、クライアントとセラピストの2人で、すんですね。赤ちゃんでしたら、お母さんと一緒にやる訳ですね。セラピーが一番うまくいくときには、クライアントが、今まで気付かなかった「自分はこのように生きたいんだ」と言う最深欲求が、ハッキリとした形で出てきます。すると、「あっ、このままで生きてていいんだぁ」って感じになって、キラリと光る笑みを浮かべますね、必ずね。それを見たら、私どもクリニカルサイコロジストも感動ですよ。ですから、クライアントはもちろん、セラピストも、天にも昇るような悦び=ヌミノースを体験します。赤ちゃんだって同じです。お母さんが、献身的に、一心不乱に、世話をしてくれると、お腹も満足、お尻もスッキリ、キラリとした笑顔を浮かべて寝ています。科学は、赤ちゃんは別に悦んでる訳じゃない、と言うかもしれませんね。でもね、赤ちゃんも母親の献身のおかげで、天にも昇るほどの悦びを感じればこそ、根源的信頼感を豊かにできんですね。
存在の根っこ、それは、≪いまここ≫を分かち合う 笑みと悦び!