エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

物語による救い

2015-10-04 22:31:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
日常生活>大震災
東日本大震災。今も体験を通して、あるいは、メディアを通して、記憶に強烈に残っている方がほとんどでしょう。特に、直接被災された方にとっては、今も被災前の生活を取り戻すことさ...
 

 ノーベル賞の季節。文学賞では、村上春樹さんがノミネートされるのでしょうか? 先ほどBS-TBSのニュースで、その村上作品のことが取り上げられていましたね。その中で中国人留学生で、村上作品で人生を変えた人が、村上作品によって「救われた」ということを言っておられました。

 今晩は、「物語による救い」と言うテーマで考えたいと思います。

 私は、非常にマイナー志向、まぁ、アマノジャクと言った方が良いかもしれません。世間で流行っていることには、たいてい懐疑的、距離を取ろうと、無意識に思う傾向が強いです。ですから(?)、あまり売れてない、大江健三郎さんの作品は、それなりに読んでるのに対して、爆発的に売れる村上春樹作品は、ほとんど読んでいないんですね。ちょっと、Xキューズ。

 それでも、今日は、村上春樹さんの物語の話から、「物語による救い」を考えたいんですね。それは、私の心が、「そうしなさい」と命令しているからなんですね。私は「はい、わかりました」と従うだけです。「大江作品で書く方が楽なんですけれども…」などとは言わない…。

 まぁ、今日も前置きが長くなりましたね。ゴメンナサイね。

 司馬遼太郎さんが結局書けずに亡くなってしまったテーマがあります。それは、ノモンハンでしたね。村上春樹さんは、ノモンハンをテーマにした小説を書いているそうですね。『ねじまき鳥クロニクル』がそうだそうです。私は残念ながら、読んでいません。しかし、村上春樹さんが取材のためにノモンハンに出かけて行ったときの話を、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』で読んだことがあります。そのなかで、河合隼雄先生が、個人の病でも、重たくなると、それは世界の病を病んでいることになります、と言う趣旨の発言をしているところがあります(p.216)。ですから、河合隼雄先生が、社会的な様々な問題について発言する時には、個人がベースになっているといいます。個人のことを話しているけれども、それは同時に社会のことを話すことになる訳ですね。そうして、個人が普遍になる。村上作品は、別に村上春樹さんの個人の話をしているのではない。村上春樹さんも、個人の「井戸」を掘って掘っていくと、人との繋がりを持つに至るらしい(p.84)。

 BS-TBSのニュースで、中国人留学生の人が、中国で、田舎から都会に出てきて、便利だけれども、孤独を感じたといいます。でも、孤独という言葉では片付けられない感じだけれども、それがハッキリとは分からなかったと言います。ところが、村上作品を読んで、それをハッキリと言葉にしてくれたことが、救いになったといいますね。それは、中国の都会に来た人だけではなく、世界中の都市生活者に共通する感じだったはずですね。みんなが心の内に何となく抱いているイメージを、村上春樹さんが言葉にしてくれたから、それが救いだと感じた、と言い換えることができるかもしれませんね。人の心を掘り下げると、さまざまなイメージがありますね。箱庭やコラージュをしていたら、ハッキリとそれが分かりますが、皆さんだって夢を見ますでしょ。そのイメージが言葉になる時、それは、私に言わせれば、第Ⅰ段階の救いですね。それでも、圧倒的な悦びであるヌミノースを感じますね。しかし、それが最も大きな喜びになるのは、その言葉が出来事になる時です。それが第Ⅱ段階の救いであり、本物の救いです。しかし、それは個人のものであると同時に、個人が「救われました、メデタイメデタシ」というものではありません。今申し上げたように、そのイメージは個人のものであると同時に、多くの人が抱いているイメージでもある訳です。ですから、そのイメージから生まれた物語を生きていることを実感することが、救いになる訳ですね。しかし、それは個人の救いであると同時に、人との繋がりも回復させてくれるものです。 

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両極端

2015-10-04 12:18:17 | アイデンティティの根源

 

 

 惨めな生活も覚悟した人の決心は、良心から生まれたものですが、その良心から、人間らしい暮らしを根源的に基礎づける自由が生まれるのです。良心が自由をもたらすのです。これは、戦争の時代でも、平和な時代でも、いつの時代でも変わりません。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.231の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 本当は、ルターは剣を手にして反抗することはなど、現に想いもしなかったんですね。「争いごとの火に油を注ぐ様な事を望めば、ドイツ中に流血の大事件を起こすことになったでしょう。そうです。神聖ローマ帝国皇帝の安全を脅かす様なウォルムスの諍いだって、始められたでしょう。でもね、それが何になるんですか? 馬鹿がやることです。私は、その件を御言葉に任せたんですよね」。それでルターは、偉大なる反動者と呼ばれるようなことをすることになります。歴史のやり取りだけしてたら、偉大な革命家が偉大な反動者を孕んでるかもね、という原理原則を知りたかぁない、となるでしょうけれども、心のやり取りとなれば、偉大な革命家が偉大な反動者を孕んでいることは、ありうることですし、ありがちだと思われても仕方ないですね。

 

 

 

 

 

 善良そうに見える人が、いともたやすく残酷なことをする。世間では立派な学識がのあると思われ、良識を日ごろ説いている人が、考えもつかない裏切りを、手のひらを反すようにできるばかりか、悪びれる様子も、詫びる様子も全くない…。

 心理の学びですね。

 ルターも、偉大な革命家にも、偉大な反動者にもなれた人でした。

 それはなぜなのか? ご一緒に考えて生きましょうよ。

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心からの真実に

2015-10-04 07:41:38 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 聖書に、「あなたの若い日に、あなたの創り主を覚えなさい」という言葉がありますけど、その意味が自ずから分かりますね。一生を賭けても惜しくない、と感じるものを見つけてね、というお祈り(=傾聴)です。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』p79の第2パラグラフ、下から6行目途中から。

 

 

 

 

 

今や、いろんな条件、いろんな状況、いろんなお付き合いが、一期一会になります。このようにして、本物の大人として、人や物事に対して、誠実にやり取りのある関わりをするケアは、後から「あれは無しにしてね」とは言えない選択をした相手を、あるいは、実際には、運命によって選択せざるを得なかった相手を、一生涯掛けて、心からの真実さで、やり取りのある関わりをしますという意味のケアに、相手と一緒に集中することでなくてはなりません。その時代の技術でできる範囲で、その相手を大事にするためです。

 

 

 

 

 

 大人の責任とは、眼の前に相手と心からの誠実さでかかわること、これですね。エリクソンは、いまも、それを静かに私どもに教えてくれています。

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盤珪和尚のお話

2015-10-04 07:38:51 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「そんなことをやっている場合なのか?」
  先月末の朝日新聞(2014,9,25 12版▲13ページ)の論壇時評の横に、小熊英二が「そんなことをしている場合か?」と題する評論を載せています。小熊...
 

 

 私事から始めます。ゴメンナサイね。私は生まれも育ち国立市谷保です。野暮ったいの語源になっている谷保(通常、「やほ」と読ませていますが、地元では、あるいは、本来は、「やぼ」と、「ほ」を濁らせて読みます)生まれ、谷保育ち。お寺は、鎌倉建長寺の流れにある、永福寺(ようふくじ)です。建長寺派の臨済宗になります。臨済宗は、道元禅師が開いた福井県は永平寺(えいへいじ)の曹洞宗、などと同じ、禅宗です。

 先日のブログでも、東洋大学総長の武村牧夫先生の6回シリーズ「信と行」も、非常に優れた仏教の学びの機会であったことを、ご報告しましたよね(自由がなければ、人間ではない!)。ブログのタイトルにもなった、鈴木大拙の「自由がなければ、人間ではない」という言葉が、非常に印象的でしたね。

 また、こころの時代で、禅僧で、花園大学教授の安永祖堂(やすなが そどう)さんのお話を伺いまして、深い教えを戴きました。まさに「禅とは、臨床心理学(ユング心理学、あるいは、エリクソンが教えてくれているライフサイクルの心理学)の実習だなぁ」と感じましたので、その所を皆さんにシェアしたいと考えました。

 鈴木大拙が「自由」を大事にしていた話を、前のブログでも記しました。「自由」とは「自らを由って来る所とする」、あるいは、「自らに由る」ということだそうですね。安永祖堂さんも、同様に、そのように指摘します。しかし、この自由とは、もともと禅の言葉だと言います。私は知りませんでしたね。さらに、「本当の自分を拠り所として生きていく、それが、真の自由だ」とするのが、禅の教えているところだそうです。これはまさに、アイデンティティと呼ばれている「自分を確かにする」ことと全く同じだと感じますね。河合隼雄先生が、「自分が仏教徒だと分かった」と言ったことの本当の意味を初めて理解できた感じもしましたね。

 安永祖堂さんは、「神仏を頼りにする人は、弱い人と思われがちですね」と言います。そして、言葉を重ねます。「でも、どうでしょう? ... 私たちは何かを拠り所として、生きているのではないはないでしょうか?」と。そうですよね、お金だったり、会社での地位だったり、学歴だったり、あるいは、家族だったり、仕事だったり…。人によって、何を拠り所に生きるのか? は、いろいろですね。安永祖堂さんは、「仏教は、自由、本当の自分を拠り所にして生きて生きましょうよ」と呼びかけます、と仰せです。私は、家こそ臨済宗ですが、仏教徒ではありません。しかし、安永祖堂さんとご一緒に、「自由に、本当の自分を拠り所にして生きて生きましょうよ」と静かに唱えたいと感じましたね。

 最後に、安永祖堂さんがご紹介下すった、盤珪和尚(盤珪永琢[ばんけい ようたく、あるいは、ばんけい えいたく])のエヒソードを一つ。

 お江戸の昔、姫路の龍門寺(りょうもんじ)に盤珪和尚という人がおった。その寺の近くに眼が不自由な爺さんがおったとさ。その爺さんはよく言っとった。「わしゃぁ、眼が見えんから、人の言葉を耳で聴く、人の言葉は不思議なもので、言っている響きと言葉が同じじゃない場合がある。隣の家に目出度いことがあると、たいていの人は『良かったねぇ』と言うが、その言葉の響きが嫉妬に聞こえることがある。隣の家に不幸があれば、『お気の毒に』と言うが、その言葉の響きが『自分じゃなくて良かった』という安心に聞こえることがある。人間とは、言ってることと本音が裏腹なもんだが、あの盤珪和尚は、不思議なお方、『良かったねぇ』と言えば、『良かったねぇ』としか聞こえず、『お気の毒に』と言やぁ、『お気の毒に』としか聞こえない。不思議なお方」

 本当の自分に生きていると、自己一致、共感的理解、無条件の肯定的配慮が行き届く「無」を実現します。現成公案(げんじょうこうあん、日常生活そのものが公案になる、というのがおおよその意味)、日常生活の≪いまここ≫で、セラピーが可能になります。

 

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