日常生活>大震災東日本大震災。今も体験を通して、あるいは、メディアを通して、記憶に強烈に残っている方がほとんどでしょう。特に、直接被災された方にとっては、今も被災前の生活を取り戻すことさ...
ノーベル賞の季節。文学賞では、村上春樹さんがノミネートされるのでしょうか? 先ほどBS-TBSのニュースで、その村上作品のことが取り上げられていましたね。その中で中国人留学生で、村上作品で人生を変えた人が、村上作品によって「救われた」ということを言っておられました。
今晩は、「物語による救い」と言うテーマで考えたいと思います。
私は、非常にマイナー志向、まぁ、アマノジャクと言った方が良いかもしれません。世間で流行っていることには、たいてい懐疑的、距離を取ろうと、無意識に思う傾向が強いです。ですから(?)、あまり売れてない、大江健三郎さんの作品は、それなりに読んでるのに対して、爆発的に売れる村上春樹作品は、ほとんど読んでいないんですね。ちょっと、Xキューズ。
それでも、今日は、村上春樹さんの物語の話から、「物語による救い」を考えたいんですね。それは、私の心が、「そうしなさい」と命令しているからなんですね。私は「はい、わかりました」と従うだけです。「大江作品で書く方が楽なんですけれども…」などとは言わない…。
まぁ、今日も前置きが長くなりましたね。ゴメンナサイね。
司馬遼太郎さんが結局書けずに亡くなってしまったテーマがあります。それは、ノモンハンでしたね。村上春樹さんは、ノモンハンをテーマにした小説を書いているそうですね。『ねじまき鳥クロニクル』がそうだそうです。私は残念ながら、読んでいません。しかし、村上春樹さんが取材のためにノモンハンに出かけて行ったときの話を、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』で読んだことがあります。そのなかで、河合隼雄先生が、個人の病でも、重たくなると、それは世界の病を病んでいることになります、と言う趣旨の発言をしているところがあります(p.216)。ですから、河合隼雄先生が、社会的な様々な問題について発言する時には、個人がベースになっているといいます。個人のことを話しているけれども、それは同時に社会のことを話すことになる訳ですね。そうして、個人が普遍になる。村上作品は、別に村上春樹さんの個人の話をしているのではない。村上春樹さんも、個人の「井戸」を掘って掘っていくと、人との繋がりを持つに至るらしい(p.84)。
BS-TBSのニュースで、中国人留学生の人が、中国で、田舎から都会に出てきて、便利だけれども、孤独を感じたといいます。でも、孤独という言葉では片付けられない感じだけれども、それがハッキリとは分からなかったと言います。ところが、村上作品を読んで、それをハッキリと言葉にしてくれたことが、救いになったといいますね。それは、中国の都会に来た人だけではなく、世界中の都市生活者に共通する感じだったはずですね。みんなが心の内に何となく抱いているイメージを、村上春樹さんが言葉にしてくれたから、それが救いだと感じた、と言い換えることができるかもしれませんね。人の心を掘り下げると、さまざまなイメージがありますね。箱庭やコラージュをしていたら、ハッキリとそれが分かりますが、皆さんだって夢を見ますでしょ。そのイメージが言葉になる時、それは、私に言わせれば、第Ⅰ段階の救いですね。それでも、圧倒的な悦びであるヌミノースを感じますね。しかし、それが最も大きな喜びになるのは、その言葉が出来事になる時です。それが第Ⅱ段階の救いであり、本物の救いです。しかし、それは個人のものであると同時に、個人が「救われました、メデタイメデタシ」というものではありません。今申し上げたように、そのイメージは個人のものであると同時に、多くの人が抱いているイメージでもある訳です。ですから、そのイメージから生まれた物語を生きていることを実感することが、救いになる訳ですね。しかし、それは個人の救いであると同時に、人との繋がりも回復させてくれるものです。