エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「やっちゃえ」と思っていたら、自分がやられますよ。

2015-10-19 08:30:37 | アイデンティティの根源

 

 ルターは落ち着いてゆっくりしようとした矢先に、混乱に飲み込まれました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.234の第3最後の行途中から。

 

 

 

 

 

小作人たちがドイツのいたるところで反旗を翻したのでした。ルターは、修道士や司祭について言ってます、「奴らは、地上から一掃するために、強力に立ち上がることこそふさわしい。それが実現したら、私どもは微笑むことでしょう」と。また、「キリスト教界では、全てのものが皆にありますし、それぞれの人にある善は、他者にもある善ですし、何物も1人のものが独占するものなどありません」と。平々凡々の人は、財産でも、身体でも、魂でも、傷つけば、気に病みます…。私に10の身体があれば、貧しい人々のために死をも厭わないことでしょう」と。

 

 

 

 

 

 ルターは、最初は、小作農たちの反乱は、カトリックの支配層に対する反乱だと思ってたみたいですね。この人たちは一掃されても仕方がない、という言い方ですもんね。しかし、その鉾先が、まさかルター自身に向いてくるとは思ってもみなかったようですね。ここに、大きな分かれ道がありました。

 

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外側の改革と、その前提になる内側の改革と

2015-10-19 08:00:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
圧倒的な恵み!
  「放蕩息子」の譬えは、神様が信頼し続けてくださる、という全き福音です。 p356第3パラグラフ。   &nb...
 

 

 防衛機制も、手や足みたいに、形が似ている。

  The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p84の第3パラグラフです。

 

 

 

 

 

 結局、青年期の防衛機制、たとえば、思春期の「頭で分かること」の意味を、もう一回考えてもいいかもしれません。すなわち、「外側の世界で革命を求める」(当時のウィーンにおけるように)を含む「考え」に囚われすぎになることです。アンナ・フロイトは、これを、「その人ら自身の『例のあれ』が、新たに習慣的に求めていることを受け止めたこと」に対する、若者の防衛だと解釈します。それはすなわち、内的な、本能的な革命です。

 

 

 

 

 

 外側に革命が求められるのは、内的な革命が生じている場合です。

 そのことを思うときに、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちの横暴を乗り越えて、新たな改革を実現するためには、その前に、私どもの内なる改革が必要だ、ということになりますね。


 

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頭と気持ちは別々

2015-10-19 03:49:44 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 発達トラウマがあると、いろんな身体反応が出ちゃう。派手な身体反応もあります。しかし、私が、発達トラウマのある愛着障害の子どもに一番見つけるのは、表情が乏しい、という、あんまり目立たない身体反応です。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.207のブランク後の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 私どもはなぜ、合理的であり続けるのとができないのでしょうか? また、なぜ、助けを理解できないのでしょうか? 合理的に実行する脳は、感情がどこから来るのかを、私どもが理解するのを助けてくれます(たとえば、「私が恐怖を感じるのは、男の人に近づく時ですが、それは、父親から性的ないたずらをされたことがあるから」だとか、「息子に自分の愛情を上手く伝えられないのは、イラクで子どもを殺したことに、罪を感じてるから」だとか、みたいに)。しかしながら、合理的脳は、感情、感覚、考えがなかったことにはできません(脅かされたているという感じをなんとなく抱きながら暮らしたり、自分はひどい人間だと感じたりするみたいに、たとえ、頭では、レイプされたからって、自分に落ち度がある訳ではないと分かってたとしても)。自分が「なぜ」そのような形で感じてしまうのか? が分かったからって、「どのように」自分が感じるのかを変えられる訳じゃぁ、ありません。でもね、そりが分かれば、強い身体反応が出なくなります(たとえば、加害者を思い出すように上司に襲い掛かったり、見知らぬ人の武器に飛びついたり、はしません)。しかしながら、私どもはくたびれるほど、私どもの合理的な脳は、感情の面倒を看るのが二の次になります。

 

 

 

 

 頭で分かったからって、気持ちの動きをいかんともしがたい場合があります。ちょっとしたことでしたら、気持ちも整理しやすい。でもね、発達トラウマの関わることは、繰り返された上に、根深く無意識に食い込んだ強い感情がありますから、頭でわかったって、感情を抑えること等、全く無理ですね。

 ですから、子どもの内に必ず治療が必要です。

 

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子どもに運転させちゃダメでしょ!

2015-10-19 02:32:22 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
真の平和を実現する2条件
  自分の関係が歪んでいることに、人はなかなか気づきませんね。それは、≪本当の自分≫を生きていないことに、人はなかなか気づかないのと、似ています。 p111第...
 

 

 辺野古問題。ますます目が離せなくなっています。

 今日は「法の支配」the rule of lawを考えます。前に1度、このブログでも取り上げたことがあります(法の支配 the rule of law と恣意的支配)。法の支配が実現しないときには、恣意的支配が横行する、権力者が勝手気ままに、自分に都合よく支配するようになる、という趣旨でした。

 昨日、朝日新聞を読んでましたら、「声」欄に大事なメッセージが掲載されてたんですね。それは、弁護士の熊野勝之さん(76才)の投稿です(上掲の写真。朝日新聞 Oct. 17, 2015. 12版▲ p.14)。これは、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちが、辺野古埋め立て工事の承認を取り消去れたのに対して、行政不服審査請求しましたね。それに対して、NHKその他のニュースは、「国と県が裁判になるでしょう」、「工事は継続されることになるでしょう」などと、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちに都合のいい見通しを宣べるばかりですよね。それに対して、熊野勝之さんは、国が行政不服審査を請求することは、「法の支配」に抵触する、ないがしろにする、という訳です。

 その根拠になっているのが、ローマ法のことわざ(法偐 ほうげん)です。「何人も、自分の訴訟の裁判官になることは許されない」No one should be a judge of his own cause. です。アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちがやろうとしている行政不服審査請求は、防衛省が、工事を管轄する国土交通省に訴えるものですから、国が原告であると同時に、国が裁判官、ということになりますでしょ。ローマ法のことわざ、ローマ法以来の大原則に反することになります。

 何故でしょうか? これだけの無法ぶりは。これだけの万能感は?

 それは、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちは、年恰好はすでに初老ですが、魂は、2才か3才児と同じだ、ということですね。幼児性万能感に支配されてんですね。

 考えても見て下さい。車の運転でも、18才以上じゃなきゃできませんでしょ。国の運転も子どもがやったら危ないに決まってます。今の日本は、子どもが車を運転している以上に危険です。

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