自分を確かにさせるのは、危機を乗り越えた時に初めてできることでしたね。「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」。
Young Man Luther 『青年ルター』p.234の第2パラグラフから。
ヴァルトブルグからのルターの何通かの手紙は、ルターのこれからの行動が心理的にどんな立ち位置にいたのかを示しています。すなわち、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝と、この両者が守ってきた世間の秩序に、公然と反抗し、この反抗を上手に表現するために、自分をそれまで抑え込んできたことに打ち勝って、ルターは心から分かったのでした。それはつまり、自分がいかにガツガツと喰らい、自分の正義感がいかに反抗的であり、ルターが他人の中に呼び覚ませた力が、いかに革命的なものであったか、ということでした。ルターはまたしても、1地方のいろんな出来事が、世界に広がる活動へと突き動かされました。ヴィッテンベルグとエルフルトは、壊滅しつつあると、ルターは聴かされていしまた。修道士たちは、解散し、結婚していました。さらに悪いことに、修道士たちも学生たちも、大衆に支持され、ルターの友達らの言いなりになって、計画も考えもなしに、おミサの流れを打つ壊し、聖像をあれもこれも破壊し、教会音楽を禁じてしまいました。
ルターと修道士たちの行動は、対照的です。ルターは自分の役割に自覚的、修道士たちは、自分が何をしているのかも分からず、既存の秩序を打つ壊していました。これは、1968の日本の運動にも言えるかもしれませんね。山本義隆さんや最首悟さんなど、一部の人は自分達の活動に自覚的でしたが、多くは時代の熱に犯されたみたいに、既存の秩序を打つ壊しにしただけでした。その後は、「しらけ」の時代と言われましたが、それは権力の思う壺の始まりでしたからね。
しかし、自覚的な山本義隆さん等の、しぶとい活動の中から、新たな光が、いま見えてきていると私は直感しますね。