阿賀野市ブログ応援隊

個人・サークル・行事・歴史・頑張っている人などの阿賀野市の情報と、人生の楽しみ(?)をお伝えします。

電子スチルカメラ 1986年

2020年11月10日 | 歴史

 1986年(昭和61年)12月、カシオ計算機が消費者向けの電子スチルカメラを翌年(1987年)6月から売り出すと発表。この頃はデジタルカメラでなく、電子スチルカメラと呼んでいたようです。約10万円で普及を狙う・・とあります。専用磁気ディスク(2インチ)に記録し、カメラと家庭用テレビを接続して画像を見る。別売りのプリンター(約20万円の予定)を使えば写真のように保存できる。

カメラは960グラム。焦点は1m以上の固定式。磁気ディスクは1枚千円程度で、50枚記録でき、何度でも使用できる。電子スチルカメラは、昭和56年(1981年)にソニーが「マビカ」を開発したが一般化していない。 今、考えると現在のデジタルカメラ及びスマホのカメラの性能と金額が安くなったのに驚きます。技術の進歩がすごいです。

この1986年12月は、ビートたけしが「フライデー」に暴力し逮捕、テレホンカードが人気、佐渡の版画家・髙橋信一が死去、カネボー1987年用水着ショーに「ハイレッグ」登場。

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京ヶ瀬村の絵本 「カッパがくれた ひみつのくすり」

2020年11月06日 | 歴史

 旧京ヶ瀬村が、村制100周年記念に制作した絵本。

 2002年3月に発行

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京ヶ瀬村の絵本 「おさんぎつね」

2020年10月31日 | 歴史

 2002年3月 旧京ヶ瀬村役場が、「京ヶ瀬村制100周年記念事業」として制作した絵本の1冊。

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阿賀野市 市議会議員選挙 2020.10

2020年10月29日 | 歴史

2020年10月25日 阿賀野市 市議会議員選挙 定員16人に対し、19人が立候補。

現職11人、元職1人、新人4人が当選。前回選挙より議員数を4人削減。

当日有権者数3万5430人。投票者数2万684人。投票率58.38%。無効260票。持ち帰り3票。

当選1位の得票数 2236票。最下位(16位)の得票数 744票。次点の得票数 719票。

1位は新人で40歳。当選者の内訳は、水原地区8人、安田地区5人、笹神地区2人、京ヶ瀬地区1人。

阿賀野市の歴史の資料として、投稿しました。

2020年11月20日追記 11月12日に改選後初の臨時会を開き、議長に市川英敏(61歳、市議4期)、副議長に遠藤智子(73歳、市議6期) 阿賀野市議会では、女性の副議長は初めて。会派は改選前の5から3に減った。

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京ヶ瀬村の絵本 「裸祭り」

2020年10月19日 | 歴史

 旧京ヶ瀬村役場が2002年3月、京ヶ瀬村制100周年記念事業として、京ヶ瀬村を題材とした絵本を数冊作成しました。そのうちの1冊。

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新潟県北部地震 1995.4.1

2020年10月12日 | 歴史

1995年(平成7年)4月1日土曜日 午後0時49分 震度6の地震が阿賀野市(旧笹神村)神山西地区を直撃。震源は新潟市北区(旧豊栄市)内沼沖。あの阪神大震災から75日後の地震。

上左の本は、笹神村が1995年10月1日に発行したもの。寄付金や補助金などで製作?

 この地震の正式名称は無いようですが、「笹神村 地震」で検索するとウィキペディアで「新潟県北部地震」という文字が。 気象庁から命名された名称はないが、気象庁・国土地理院では「新潟県北部地震」と呼称される例もある・・とあります。

上の本では「北蒲 直下型地震」と表記されています。

 死者ゼロ、火災ゼロ。被害総額の97%は住宅被害。

             

 

 

この地震、インターネットが普及する前で、笹神村も合併で無くなったので地震の詳しい情報をネット検索しても少ししか入手できません。役所などで過去の情報発信をするのも良いのでは?

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阿賀野市・今板温泉の今昔

2020年09月24日 | 歴史

  五頭山の山中で金・銅・鉄などの鉱物が彩掘された。鉱山局の許可を得て本格的に採掘作業が進められた。今板地区では石炭が最も多く産出され、鉱夫の入浴を当て込んで削井された今板温泉。写真は昭和15年(1940年)のもの。写真のつり橋はどの辺りにあった?

今板温泉は大正期から昭和前期にかけて最も賑わっていた。大正15年(1926年)6月4日の資料によると、当時は7軒の旅館が今板温泉として営業していた。旅館名・長谷川勘七 客室・7室。材木屋 8室。大堀旅館 11室。湯本館 18室。長谷川館 9室。新生館 12室。大滝屋 10室。 現在残っているのは湯本館の1軒だけです。

下の写真は1995年に笹神村役場商工観光課が作成した観光パンフレットの1ページです。

現在(2020年)も、湯本館が今板温泉として営業中。時々、湯本館の美人若女将がテレビの旅館紹介番組に出演されています。ラジウム温泉でもあります。

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旧笹神村 明倫小学校の木版画・写真(追記4)

2020年09月10日 | 歴史

 

取り壊した明倫小学校の正面からの木版画。(2016年投稿)

阿賀野市(旧笹神村)上一分にあった明倫小学校は、昭和57年(1982年)笹岡小学校・大室小学校・出湯小学校・明倫小学校が統合し、新校舎の笹岡小学校になりました。

この木版画は約畳1枚分の大きさで、小学生たちが数枚の版木に絵を分けて彫り製作しました。 この版画は試し刷りです。 完成品が現在どこに保管されているか知りません。 この版画はTさん宅の客間の壁にガラスケースに入れられて飾られていました。 試し刷りだったので、譲ってほしいと願ったら譲ってくれたそうです。 知り合いの建具屋さんが額を製作してくれたそうです。

今日、ネット検索したら取り壊す前の明倫小学校の写真が一枚も表示されません。 明倫小学校の卒業生の皆さんには、この版画がネット検索できる最後の1枚になるかもしれません。  写真が不鮮明なのは、12畳の部屋の上部に飾られておりガラスケースに入っているので、フラッシュ撮影ができないから。  

追記 運よく明倫小学校の写真(下記)を見つけました。撮影日は昭和48年(1973年)頃のようです。

明倫小学校は、明治25年(1892年) 女堂小学校と上一分小学校を統合し、明倫尋常小学校を創立。昭和29年(1954年)に明倫小学校の名前になる。昭和57年(1982年)には出湯、大室、笹岡小学校と統合され廃校になる。この建物は明治42年(1909年)建築である。

(下)明治42年(1909)運動会の写真。校舎に万国旗。子供たちの服装は着物である。

(下)昭和5年(1930年)3月 明倫尋常小学校の卒業式後の記念撮影。前列右から3人目が片桐義一校長

(上)子供たちの服装、女子は着物。男子も着物・・一人だけ洋服の子がいます(最後列の中央)。

(上)昭和5年(1930年)3月 明倫小学校の教務室。ダルマストーブです。左端が片桐校長(赴任1年目)。当時の教務室内の写真は、貴重だと思います。女性の先生は着物姿。ここに写っている先生たちは皆、他界されているでしょう。

(下)明倫小学校の校歌「昭和12年制定(1937年)」 作詞・片桐義一(新潟市北区、岡方第一尋常高等小学校長。元明倫小学校長) 作曲・山田正與

(下)昭和21年(1946年)3月の卒業写真。

(上)昭和21年(1946年)3月の卒業記念写真。昭和20年8月15日に終戦した翌年です。昭和5年の写真と、服装が違います。昭和16年(1941年)、明倫尋常小学校から上一分国民学校と改名された。この写真の玄関部分にローマ字の横看板あり。日本がアメリカに敗戦したことを物語っています。この年のクラスは47名。卒業生は笹神在住8人、県内10人、他は県外。教科書さえ満足なものが無い時代、せめて卒業式には良い服を着せたい・・と親が服を用意してくれたそうです。 ※昭和5年の写真で、玄関に日本の国旗が掲揚されていますが、昭和21年の写真では国旗がなく、ローマ字の横看板。日本が「敗戦」した事実を物語っています。

※  昭和48年(1973年)10月21日 創立100周年記念行事を開催した。この年は先生(男5名・女7名 計12名)、生徒(男67名・女59名 計126名) (下左)来賓。村長 折笠信雄、助役 音田慎一、教育委員長 清野義平、元校長 片桐義一

特別招待 石塚友二(1906年9月2日生~1986年2月8日 79歳で没)俳人、小説家、編集者。笹神村沢口の生まれ。66歳の時に出席。ノーベル賞を受賞した川端康成と知り合い。

  ←旧職員。当校着任順。

(下)令和2年(2020年)9月9日 撮影

(上)2020年9月9日撮影 明倫小学校取壊し跡地に建てられた阿賀野市の農民研修所。この建物も、現在は使用されていません。

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笹神村に明治時代から「大荒川発電所」

2020年08月29日 | 歴史

 

   (上)大荒川上流発電所

(上)山倉船場 国鉄羽越線開通までは、米・瓦・木炭・薪などの産物や、都市からの生活必需物資の着荷場として重要な役割をしていた。この写真は大荒川発電所の発電機器の荷揚げ風景。この山倉集落の船着き場から人力で勝屋(畑江)にある大荒川発電所まで機材を運んだ。写真は大正4年(1915年)撮影。 (下、2枚)発電機を畑江まで運んでいる写真。2枚目の拡大写真には女性も写っています。

(下)大荒川上流発電所 建築工事現場 「笹神村史 発行・笹神村」の写真を借用

新潟市 新潟電燈会社の中野平弥は明治40年(1907年)11月、資本金30万円で大荒川の水力発電による新潟水電株式会社(新潟市新島通り4)を創立した。出湯に出張所を設け、技師長・技手・書記を常駐。起工式は同年7月17日に出湯温泉の華報寺境内で行い、工事に着手。地元から多くの住民が人夫として採用される。

(上)発電所工事に従事した地元住民(山ノ神付近) 発電用の機材の運搬は山路に道なき道を開き、人間だけが頼りの力仕事だった。3月と9月の新潟大火で資材や人件費が高騰した。さらに社長の佐藤伊左衛門が死亡し、12月に現場監督だった中野平弥の長男が急性肺炎で死亡。工事は苦難を押して敢行された。

明治42年(1908年)、大荒川上流発電所が完成。会社の計画では水力発電443キロワット。電灯電力の供給区域は新潟市・新発田市・外三町六か村、電灯数5117灯、電力50馬力、電力1馬力昼間10円だった。

現在の笹神地域で初めて電灯が灯ったのは、大正元(1912年)年11月、村杉と出湯が最初であった。

大荒川発電所で発電された電気は、発電所から特別高圧送電線によって新潟市の沼垂変圧配電所まで630本の電柱で繋がれ、さらに新潟まで送電された。特に阿賀野川川越の4基の鉄塔と信濃川の3基の鉄塔の工事は、雪解けの増水時と重なり、その工事は難渋を極めた。

さらにこの間、新潟水田会社は明治43年(1910年)に官営八幡製鉄所の赤谷発電所(旧内の倉発電所・出力270キロワット)を借り入れ、新発田町(市)に点灯し、さらに新潟まで送電している。 ※笹神村から新潟市や新発田市に電気を送電していたんですね。

 大荒川上流発電所(明治後期)明治42年5月運転開始。所在地 大字勝屋字大荒川山、水量 14個7(1個は約1斗5升)、水路延長897間(1630m)、落差470尺(142m)、出力443KW、電圧11,000V、水車はタービン650馬力1台、油圧式でドイツ社製 発電機540KVA1台アメリカ製。  取壊跡地は、昭和42年(1967年)の集中豪雨で流出したそうです。

明治45年(1912年)5月、大荒川下流にもう一つの大荒川下流発電所 235キロワットが完成した。

写真は無いけれど「大荒川下流発電所」は、所在地 大字勝屋字賽ノ川原、水量 16個、水路延長182m、落差 72m、出力 235KW、電圧 11,000V、運転開始 明治45年5月(上流発電所より3年後)、水車 油圧式スイス製、発電機 250KVA1台アメリカ製。

(上)正確でないけれど、赤い丸印辺りに「大荒川上流発電所」があり、緑の〇印辺りに「下流発電所」があったと思われます。緑の〇印付近は畑江地区ですが、ここは元・大字勝屋。終戦後に開墾し地名が「畑江」になりました。緑の〇印付近を「賽ノ川原」と呼んでいます。

(上)出湯温泉から五頭連峰少年自然の家に向かう「青色の太い線」が「電気山道」と呼ばれ、出湯温泉から大荒川上流発電所への工事人夫達が通った道(約1㎞)です。 (下)2016年7月に撮影した温泉組合が設置した「電気山道」の案内看板

 ← 案内板(温泉組合の駐車場入り口に設置)

(下左)電気山道の案内板 (下中央)電気山道への入り口案内柱 (下右) 電気山道。作業員は、ここを歩いて仕事に行きました。

  

 

県都新潟の電灯を点す初期の目的は達せられたが、発電量が限られていたため、昭和6年に廃止された。かつては電気山として親しまれていたが、昭和42年(1967年)の集中豪雨で魚止の滝一帯が流され、跡地は見る影もなくなった。

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昭和17年の軍事郵便絵葉書

2020年08月28日 | 歴史

昭和17年(1942年)11月 「家の光」という本の付録の絵葉書。 葉書の裏は「軍事郵便」とあり、「大詔を戴いてここに一年・銃後の感謝を前線へ」とあります。 この時代、こんな家庭生活状況でなかったと思いますが、こういうものを戦地に送っていたのですね。絵は「多田北烏 ただほくう」。 家の蔵から出てきました。 戦中の時代の参考に投稿しました。 絵を描いた多田さんは戦前からキリンビールのポスターを描いていた人。女性が描かれているビールのポスターを、一度は見たことがあるでしょう。多田さんの、こういう絵は貴重? 「多田北鳥」で検索することができます。

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笹神村立 神山東小学校 閉校写真1978と歴史

2020年08月27日 | 歴史

昭和53年(1978年)3月、笹神村立 神山東小学校が、神山西小学校と統合の為に閉校

  

 昭和47年4月 学校無人化になる

 ←神山東小学校の校章  

(上)昭和6年(1931年) 神山村高関小作調停成立 大正時代の終りから阿賀野市内で小作争議が起き始めた。神山東小学校(当時は神山尋常第2小学校)のある上高関集落では大正12年から小作争議があり、小作が勝利した。その後も南部郷の通水土地改良費を小作料に転嫁したことで小作争議が激化。調停・破棄が繰り返れ ようやく成立。成立を記念して小学校の前で記念撮影。写真には神山村長・波多野敏太郎(上高関集落の住民)と笹岡村長・荒木義雄氏の顔もある。お坊さんも写っている。 この時代、調停成立の記念撮影の場に小学校が使われました。   (下)昭和8年(1933年)11月、2階建ての教室を増築した時の、竣工式の写真。

(上、3枚)昭和8年(1933年)11月、2階建ての教室を増築、竣工式の写真。子供たちの服は着物。大人達も団子拾いに夢中です。

(上)昭和20年代半ば頃? 神山東小学校の校庭で。子供達の学年は不明。左端のメガネの男性は片桐運先生。現在は神奈川県在住で96歳。御健在です。写真の真後ろは「加藤床屋」。この建物は10年ほど前に取壊し、現在は空地です。右側の家は茅葺屋根。子供たちの服装は「終戦後」を感じます。

(上)昭和33年(1958年)夏に撮影。神山東小学校の学区の内、滝沢集落の一部が新発田市(旧豊浦町)に分村編入した。そのため、豊浦町本田小学校へ転校する生徒もでた。この写真は、転校する子とお別れ会での記念撮影。小学1年生と担任。子供たちは、皆 裸足です。写真の後ろは、神山東小学校の校舎。 昭和31年(1956年)10月、神山村と笹岡村が合併し、笹神村になりました。

↓ 神山東小学校(昭和30年代後半)校舎前のグラウンドには、まだプールがありません。

 

(上)昭和30年代後半の神山東小学校の教室・給食風景 教室の真ん中にダルマストーブがあります。冬の時期の写真のようです。ストーブの周りにバケツ有り。掃除のときに暖かくなるよう水をいれています。給食はアルミの盆や食器です。脱脂粉乳でした。チーズは食べれない子がいたそうです。

 

 (上)習字の時間。写真奥上にゴミ箱あり。「5年」とあるので、5年生のようです。

(下)神山東小学校 創立100周年記念 昭和47年(1972年)8月15日開催

 最高は昭和33年(1958年度)の255名(生徒数)

昭和47年度(1972年)は82名の生徒数(昭和33年は255人)。昭和48年度は65名の予定※上のグラフ、(予定)の文字欄が間違っている。

創立100周年記念行事で、一般寄付 一世帯(300円×185軒)55,500円、篤志寄付 学区内 18,500円。学区外 40,000円。

経費 記念誌38,000円、祝賀会21,000円、記念写真2,000円。 記念品(湯呑)など

 昭和47年度の全校生徒。皆、裸足です。

(下)創立100周年記念誌から  投稿・明治32年卒、上高関 片桐義一「笹神村明倫小学校の元・校長」

(下)創立100周年記念誌から 昭和41年卒、長起 佐藤育子「昭和39年(1964年)小学5年の時、新潟地震に遭った」

(下)昭和52年(1977年)8月14日 神山東小学校の裏グラウンドで盆踊り大会

(上)神山東小学校の校舎裏グラウンドで地元・上高関集落の青年会が盆踊りを主催。この時代、小学校のグラウンドは地元の公園のような存在で、放課後に子供たちは遊び、盆踊り会場にも無料で貸していました。現在のような「関係者以外、校舎立ち入り禁止」のような管理社会では考えられないことですが。盆踊りには神山東小学校の学区の集落の大人や子供達が踊りに来て、卒業した子供達(中学・高校生)や都会から帰省した大人たちの簡易な同級会の場にもなっていました。 ※小学校には校舎の前と後にグラウンドがありました。

(上)神山東小学校の屋内体育館、 ステージの壁に飾られていた校歌の額

  

「上左」平成8年(1996年)11月 記念碑建立       「上右」神山東小学校の校旗

記念碑は神山東小学校跡地に小学校の学区の人たちが寄付し建立。現在は、みのり保育園の園地として使用。

 

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神山駅の今昔(改訂版5)

2020年08月25日 | 歴史

(上)昭和61年「1986年」ごろに撮影。改築前の神山駅です。笹神村史に載っています。左端が改札口。その右隣が待合室。その隣が駅員の仕事部屋。瓦屋根です。当時は通学の高校生が大勢通っていました。待合室には、冬季間 石炭のダルマストーブが設置されていました。

(上)この写真は昭和40年前後に撮影。この頃、旧笹神村神山地区にあった神山西小学校と神山東小学校の6年生は合同で会津若松市へ修学旅行に行っていたようです。この時代、自家用車を持っている家は少なく、汽車に乗る機会も少なかった子供たちにとって、新津駅で汽車を乗り換え、磐越西線の各駅停車で行くのは大冒険というか、小学校時代の大イベントだったようです。生徒たちの中にはすでに他界した子も。乗ったのは、蒸気機関車だったそうです。D51?

(上)この写真は、昭和49年「1974年」ころに神山駅で撮影。この年(?)まで、蒸気機関車が走っていました。

(上と下)平成2年(1990年)4月1日 「うるおい新潟 SLの旅」として久しぶりに蒸気機関車D51が羽越線を走りました。お祝いとして神山駅に五頭温泉郷の関係者や芸者たちが来て、駅にD51が止まった時に踊りやジュース(酒?)を振舞いました。

 

上の写真、左端のメガネの男性は当時の五十嵐笹神村長。笹神村が元気なころの写真です。

 

(上)平成7年「1995年」の笹神村(現・阿賀野市)神山駅。 改築前の神山駅(一番上の建物です)

駅舎の屋根がトタン葺です。 いつ 瓦葺から葺き替えたか不明です。

駅には上りと下りの二つのホームがあり、列車交換の待ち合わせもありました。 この写真は駅の跨線橋から撮影したと思われます。 現在、跨線橋は撤去され、ホームは一つだけです。「上の写真の誌名記録なし」

(上)改築前の神山駅で、ホームが二つあった時代の木版画。木版画にあるホームは線路の向こう側で、現在は取壊されて現存していません。 「木版画・片桐正英」

神山駅は昭和19年から、信号場として工事されてきて、昭和30年に神山駅になりました。

昭和47年からは無人駅に。そのため、地元の神山農協や神山駅を守る会の人たちで切符販売や駅管理をしてきました。 平成8年(1996年)2月に駅舎が建替えられ、下の写真のような駅舎になり、無人駅になりました。

 

  

(上)神山駅が改築され現在の駅舎に。駅舎側のホームでの木版画。 「木版画・片桐正英」

(上)2013年6月26日 神山駅西側から撮影。左端に駅。屋根の形がユニークです。

(上)2014年4月19日 神山駅と自転車小屋の中間にあった桜の木。綺麗な桜が咲いていました。2020年8月25日、神山駅の撮影に行くと、上の桜木は切り倒されていました。木の高さが高くなりすぎ、危険と判断されたのでしょう。いい花が咲いたのにと、残念です。

(上)2015年1月 冬の神山駅

  2016年4月18日 神山駅

 同日、夜の神山駅

(上)令和2年(2020年)8月25日撮影 神山駅

(上)神山駅の時刻表 ワンマンの電車が多いです。

上の1枚目の版画(紫陽花・女性・雨に傘)の舞台、この草藪に駅の2番ホームがありました。「今は昔」という言葉を思い出します。

  駅舎の案内板。1枚目の写真とは、変わりました。

時代は遡り、「神山駅」 誕生記念の写真です。戦前、神山駅は「信号所」でした。昭和19年(1944年)9月、輸送力増強「戦時中の為」に神山駅が設置されました。昭和30年(1955年)1月20日に「神山駅」に昇格しました。

(下)写真には「祝 神山駅達成会」とあります。行先に「てんのうしんでん」とあります。「月岡駅」のことです。

  「天王新田(てんのうしんでん)駅」は、昭和25年(1950年)9月1日に「月岡駅」に改称しました。

(下)左上角の赤矢印先の写真、拡大写真が(上)の写真です。

(下)2025年3月30日 午前9時18分 神山駅で撮影。村上市の「町屋の人形さま巡り」の行事の一つで蒸気機関車が運行されました。

 画面の左端は「神山駅」

 通過した列車の後ろ姿

 

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15万円を切るカメラ一体型 1986

2020年07月30日 | 歴史

 

重さ1㎏、価格で15万円を初めて割ったカメラ一体型VTRを昭和61年(1986年)10月下旬から日本ビクターが売り出すと発表。同社が中心に進めているVHSーC型で、テレビで再生する時にはVHS型VTRを使う録画専用タイプ。同年6月にソニーが売り出した8ミリ型VTRカメラは1㎏、16万8千円。テンポの速い技術開発競争が繰り広げられている。

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天皇陛下御在位60年記念貨幣 引換抽選券 1986

2020年07月02日 | 歴史

 昭和61年(1986年)秋、昭和天皇の御在位60年を記念して金貨と銀貨が発行された。この硬貨は、誰でもが買えるわけでなく、引換抽選券を貰い、抽選に当たった人だけが硬貨と現金が交換できました。当時、私は金貨や銀貨を買ったことが無く、一度金貨と言うものを手にしてみたいと思い、阿賀野市内のいくつかの金融機関を巡り抽選券を集めました。運よく、金貨と銀貨各1枚を入手できました。上の写真は、ハズレ券。33年前の話ですが、抽選券には「水原郵便局」「神山農協」の名前が。現在は「阿賀野郵便局」「ささかみ農協」。33年で施設の名前が変わっています。

この金貨、プラスチックの透明ケースに入って渡されました。ケースを破って金貨を手で触ってみたかったのですが、ケースを破くと本物かニセモノか判別が難しい・・との事。店で10万円金貨を使用するにも、店の人も金貨を見たことがなく、本物か判断できない。私も10万円以上の買いたいものが無く、1万円の買い物をして9万円のおつりを貰うと、ニセモノ?と怪しまれる。結局2年ほど机の中に入れ、そのまま銀行の通帳に預金しました。一生懸命に抽選券を貰い歩いた努力は、なんだったんでしょう。

7月3日追記 メルカリで上の2枚を売ると300円で売れるようです。知らなかったです。

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結婚式の費用 1986年

2020年06月26日 | 歴史

   昭和61年(1986年)秋の結婚式の費用。

三和銀行の調査によると、結婚式にかかる費用は平均734万円。10年前(1976年)に比べ、ほぼ2倍。資金の調達は夫婦の預金が380万円。親からの援助308万円。

最もかかる費用は、挙式披露宴が211万円。家具・電気製品など世帯道具180万円。新婚旅行102万円。

ちなみに今年2020年3月号の「Komache こまち」の記事では、挙式披露宴は200~300万円がボリュームゾーン。今も昔も結婚式の費用負担が大変です。

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