医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

続脆く美しい心

2006年03月14日 13時41分34秒 | Weblog
 昨日は横道にそれました 尾崎 豊さんです

 その偏屈王な雑誌「ロッキンオン」での異変です。

 ある号を境に、つまりそれは彼のデビューを境に、若干17歳のデビュー間もない、言ってみればたかがいち新人である尾崎を「信じる」「信じない」で大論争が勃発したのです。 

 相手はこと聴くことにかけては百戦錬磨の、変に背伸びをして妙に大人ぶった評論家気取りの偏屈で偏狭な「ロックオタク」です。 

 その変人的オタクぶりは「アキバ系」にも負けない社会的アウトローです。屁理屈にかけては誰にも負けない人たちにです。

 慌てて僕はレコード屋さんに発注をかけて取り寄せてもらったのが、デビューアルバム「17歳の地図」でした。

 「ロッキンオン」のせいで、僕もことロックを聴くことにかけてだけは成熟しすぎてしまっていたはずなのに、僕と同世代の少年がこんなにも鮮やかにストレートに僕たちの思いを歌ってしまっていたことに少なからずショックを受けました。

 自分への不安、理由なき怒り、社会への反抗、アンビバレンツ、信じるもの、自分の存在意義、絶望と希望・・・

 あまりにもストレートなため聴いていて気恥ずかしいのか感動なのか、瞬時には理解できずに狼狽すらしたのを憶えています。

 つまり人には言えないもやもやを、いとも簡単に見透かされ切り取られ鮮やかに白日の下に晒されてしまいました。 

 それまでの日本のアーティストにはキヨシローか一部泉谷などくらいしか賛同できないし、聴いていても訳のわからないカタカナや美辞麗句が並ぶだけの、一体この人は何が言いたいのかさっぱりわからない歌ばかりでした

 この年代で、この透明な心を持つ彼に、中原中也が連想されることも「むべなるかな」・・・と思いませんか?

 メロディや編曲はスプリングスティーンじゃん、とか佐野元春氏や浜田省吾氏と類似しているものもありましたが、詩は強烈です

 「カネのためじゃなく」とか「~と思うんだっ!」と歌う尾崎の歌が好きだと言ってしまうことは、ひょっとしたら恥ずかしいことなのか・・・? 

 全部の詩に共感できるわけではないということと、この気恥ずかしさが、評価しづらい第二の理由です。

 日本の音楽界では異質です。完全に異端児です。

 彼の作品の中でこのデビューアルバムの「17歳の地図」がもっとも完成度が高いと感じます。

 1枚目の1曲目というのは特に力を入れることでしょう。 

 その1曲目の「街の風景」という曲では、

街では夢がひき裂かれて舞い上がって、まるでちりかくずのように道路の隅っこにたまってしまい、寒さに震えながら忘れ去られていく・・・という始まりです。 

 「汚れちまった悲しみに」を連想する所以です。

 夢のはかなさと絶望感をこんなにリアルに切り取った風景はとても17歳の感性とは思えないし、17歳でないと見えない風景でもあります。

 その後デビュー間もない彼のコンサートにも行ってみましたが、いい意味でミュージシャンとしては正当に「狂って」おりました。 

 それは演じているのではなく心から絶叫している彼の苦悶であり、それが伝わり彼への共感を強くしたのを覚えております。 

 同時に彼の刹那的な危うさともろさも感じました。 

 彼のその後の人生における途中の拘留までは予感できましたが、でもまさかこんな悲劇的な結末を迎えなければならないとは・・・。

 彼は本当に・・・・・。 

 こんなに日本中の人たちに愛されていたのにそれに応えられず、結果として裏切ってしまいました。 

 でもそれだけ純粋で傷つきやすいからこそ、ここまで人の心をとらえたのです。 どう評価したらよいのか難しいもうひとつの理由です。



 僕たちは決して尾崎の歌を、詩を、声を、駆け抜けていった天才の存在を一生涯忘れることはないでしょう。 

 涙とともに心にしまっておきたいと思います。