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●《8月ジャーナリズム》と《沖縄にとって戦争は遠い昔話ではない。沖縄は、今も一年中、戦争の延長線上を生きている》(大矢英代さん)

2020年09月14日 00時00分57秒 | Weblog


『論座』の記事【「6・23」で終わらぬ沖縄戦 絶えぬマラリア死、実態追う/大矢英代】(https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2020082500003.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter)。

 《「8月ジャーナリズム」と呼ばれるものが存在することなど、私は知らなかったのだ。…そして、被害を受けた土地というだけでなく、戦争のために使われ続ける沖縄の姿がある。これまで沖縄からベトナムイラクアフガン戦場へと米軍が出撃したように。沖縄にとって戦争は遠い昔話ではない沖縄は、今も一年中、戦争の延長線上を生きている》。

   『●斎藤貴男さんの不安…《財界人や自民党の政治家たちが、いつか近場で、
       またああいう戦争を始めてほしい…と願っているのではないか、と》
    《休戦までの3年余で死者300万人を出した戦闘そのものについても、
     すでに憲法9条が施行されていた当時の日本は、占領者としての
     米軍の出撃基地となり、数千人が戦場に出動して、輸送や上陸作戦に
     備えた掃海作業などに従事した》

 『報道特集』(2020年8月29日)にて金平茂紀さんの言葉、「…あとは、沖縄ですよね。歴代の政権の中で沖縄に対して最も冷淡な政権だった」。アベ様や最低の官房長官、その取り巻き連中による沖縄イジメ沖縄差別な7年8カ月。

 さて、『論座』に掲載されていた、映画『沖縄スパイ戦史』(2018年、三上智恵さんとの共同監督)の監督で、「沖縄『戦争マラリア』 強制疎開死3600人の真相に迫る」(あけび書房)の著者・大矢英代さんによる長文の論考。

   『●2019年度文化庁映画賞《文化記録映画部門の優秀賞》を受賞
               …三上智恵・大矢英代監督『沖縄スパイ戦史』
   『●《「遊撃戦遂行の為特に住民の懐柔利用は重要なる一手段にして
     我が手足の如く之を活用する」…住民同士を監視させ…批判している…》
   『●《「慰霊の日」を迎えた。…鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊の悲劇が
     伝わる一方、護郷隊の過酷な運命は長年ほとんど知られていなかった》
   『●「戦争マラリア」…いま再び自衛隊配備で先島諸島住民を分断し、
                 「戦争や軍隊の本質」の記憶を蘇らせる…
   『●《戦争体験の継承はどうして必要》? 大矢英代さん《二度と同じ手段で
      国家に殺されないように、生活を奪われないように、知恵をつけること》

 「戦争や軍隊の本質」の記憶。沖縄での番犬様の居座りや、嬉々として沖縄を差し出すアベ様や最低の官房長官ら。一方、島嶼部では自衛隊が〝防波堤〟や〝標的〟に。《軍隊は人を守らない大田昌秀さん)》、《軍隊は住民を守らない》《基地を置くから戦争が起こる島袋文子さん)》、《軍隊は同じことをするし、住民も協力するし、軍隊は住民をまた殺すことになる三上智恵さん)》…。
 《戦争体験の継承はどうして必要》なのか? 大矢英代さんは、《二度と同じ手段で国家に殺されないように、生活を奪われないように、知恵をつけること》。《「負の歴史こそが、本物の、騙されない強い未来を引き寄せてくれる力につながるということを、この人たちが私に信じさせてくれた」と著者三上智恵は書いている》。

 この長い論考の結びの言葉《軍隊はなぜ住民を守らなかったのか果たして住民の命を守れる軍隊など存在するのか。何が山下のような軍人を作り出したのか。住民はどのように戦争に巻き込まれ、命令に従ったのか。今こそ、戦争マラリアの歴史から学び、現代社会との共通点をあぶり出さねばならない。それが戦後75年の戦争報道の使命だ。理由はひとつ。二度と同じ手段で騙されないよう知恵をつけるためだ。それこそが本当の意味で、戦争を語り継ぐということだと思う》。

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https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2020082500003.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

「6・23」で終わらぬ沖縄戦
絶えぬマラリア死、実態追う

大矢英代 ジャーナリスト、ドキュメンタリー監督
2020年08月28日
沖縄スパイ戦史|沖縄戦|8月ジャーナリズム


■今も戦争の延長線上に

 「大矢さん、あなたの番組企画案は沖縄戦についてですよね? なんで今回の会議に持ってきたんですか?」

 2015年11月、テレビ朝日で開かれたドキュメンタリー番組会議でのこと。プロデューサーは、意味が分からないという表情で私に問いかけた。当時、沖縄の系列局で報道記者をしていた私は、かねて構想を温めていた番組の全国放送枠を求め、渾身の企画書を抱えて会議に望んでいた。記者4年目の私にとって、初めてとなる番組企画。主人公は沖縄戦に従軍した96歳の元日本兵だ。番組内容を説明した直後、プロデューサーから開口一番に問われたのが冒頭の質問だった。私は質問の趣旨が分からず困惑した。企画案のねらいが不明瞭だったのかもしれない。改めて、体験者の高齢化が叫ばれる今、どうしても証言を伝え残したいと強調した。

 「いや、それは分かるんですけど……」とプロデューサーは言った。

 「今回の会議では冬季の番組ラインナップを決めるんですよ。戦争の番組なら夏ですよね?」

 企画案はあえなくボツになった。内容に懸念があるならまだしも、季節がずれているという理由で不採用になるとは想像もしていなかった。「8月ジャーナリズム」と呼ばれるものが存在することなど、私は知らなかったのだ。

 それは、沖縄メディアと本土メディアの間に横たわる戦争への意識の違いを露骨に表していた。沖縄メディアにとって、戦争は避けることのできない永久のテーマだからだ。

 例えば、米軍基地問題の取材のためには、原点である沖縄戦の歴史を学ばねばならない。沖縄の子どもの貧困率は29.9%(沖縄県・2016年)で、全国平均の約2倍といわれているが、深刻な貧困や社会格差の取材をすれば、県民の生活を破壊し尽くした沖縄戦と米軍統治からの社会保障の遅れの問題に行き着く。戦後70年以上が経って戦争トラウマ(PTSD)を発症し、苦しんでいる戦争体験者たちの取材では、彼らにとって「終戦」など決して訪れないのだということを知った。

 今年4月には那覇空港の滑走路近くで不発弾3発が見つかった。沖縄が日本に復帰した1972年から2018年までに処理された不発弾は、3万8003件(沖縄県・平成30年版消防防災年報)に上り、1年間で平均約800件もの不発弾処理が行われていることになる。そして、被害を受けた土地というだけでなく、戦争のために使われ続ける沖縄の姿がある。これまで沖縄からベトナムイラクアフガン戦場へと米軍が出撃したように。

 沖縄にとって戦争は遠い昔話ではない沖縄は、今も一年中、戦争の延長線上を生きている

 その上で指摘したい。沖縄にも本土の「8月ジャーナリズム」なるものが確かに存在するということだ。6月23日の慰霊の日である。毎年6月が近づくと慰霊の日に向けた特集が組まれ、6月23日には県内メディアは総力をあげて取材にあたる。早朝、糸満市摩文仁の平和祈念公園の朝日から始まり、戦争体験者や遺族たちによる平和行進の取材、式典の中継と、報道は沖縄戦一色になる。

 私は5年間、毎年慰霊の日の取材に全力を投じながらも、心のどこかで一抹の疑問を抱いていた。それは私が記者になる以前の学生時代、「6月23日では終わらなかった沖縄戦」を取材してきたからだろう。「もうひとつの沖縄戦」とも呼ばれる八重山諸島の「戦争マラリア」である。


■地上戦なき島々で、なぜ

 その朝、私は手に取った新聞に聞きなれない言葉を見つけた。「戦争マラリア」。初めて聞く言葉だった。

 今から11年前の09年8月。終戦記念日の翌朝、私は石垣島の地元新聞社・八重山毎日新聞社の編集部にいた。将来のジャーナリストを目指して早稲田大学ジャーナリズム大学院で学んでいた私は、夏休みの間、新聞記者のインターンシップをしていた。

 千葉県で生まれ育った私にとって、終戦記念日は広島・長崎など戦争の犠牲者を追悼する日であり、当然、地元メディアも同様のニュースを伝えるものだと思っていた。ところが、実際に伝えていたのは、戦争マラリア犠牲者の慰霊祭だった。

 戦争マラリアは、沖縄戦最中の八重山諸島(波照間島、石垣島、黒島などの離島からなる日本最南端の地域)で起きた。当時、八重山諸島に駐留していた日本軍は、「米軍上陸」を口実に、軍命により一般住民たちを山間部のジャングル地帯へ強制的に移住させた。熱病・マラリアの有病地として、昔から住民たちに恐れられてきた場所だった。粗末な丸太小屋をたてて2~5カ月間の移住生活を続けた住民たちだったが、医療も食糧も乏しい中で、次々とマラリア蚊の犠牲になり、3600人以上が死亡した。

 戦争マラリアを初めて知った当時の私は衝撃を受けた。米軍の上陸も地上戦もなかった島々で、大勢の一般住民が犠牲になったこと。なによりも、相手国の軍隊ではなく、自国軍によって犠牲がもたらされたこと。そして、これほど重大な歴史を22歳になるまで知らなかった自分自身の無知を恥じた。体験者から直接、真実を聞きたいと思った。彼らの肉声を伝え残せるのは、今が最後の機会だ。私は証言をドキュメンタリー映像として記録することに決め、ビデオカメラを抱えて石垣島で取材をはじめた。無論、家族が犠牲になったつらい体験を、突然やってきた若僧に気軽に話してくれる体験者などいなかった。口を開いてくれた体験者たちも「本当は言いたくないんだけど……」と苦しみながら、ときに涙しながら、強制移住の記憶を語ってくれた。取材は体験者たちの傷口を開くことなのだと知ったとき、本土と八重山を短期間で行き来する「パラシュート取材」を続けてきた自分を反省した。本腰を入れて取材をしようと決意し、大学院に休学届を出した。向かったのは日本最南端の島・波照間。戦争マラリアで人口の3分の1(552人)が死亡し、最も大きな被害を受けた島だ

 ここで私は8カ月間を過ごした。自宅に受け入れてくれたのは、サトウキビ農家の浦仲浩さん、孝子さん夫妻だった。孝子さんは13歳で戦争マラリアを体験し、家族11人のうち9人を失った。唯一、共に生き残った妹(当時9歳)と2人で力を合わせて戦後を生きてきた。体験者と共同生活をしながら、一緒にサトウキビ畑で働き、少しずつ心を開いてくれる姿をカメラに記録した。

 「戦争体験者」「証言者」と呼んでいた人たちを、やがて「おじい、おばあ」と呼ぶようになり、さらに島の言葉「ベスマムニ」で「ブヤー(おじい)」「パー(おばあ)」と呼ぶようになった頃、「ウランゲーヌアマンタマ(浦仲家の女の子)」と、私は島の人たちから呼ばれるようになった。


■「慰霊の日」報道に疑問

 11年6月、波照間にきて半年が過ぎた頃、慰霊の日がやってきた。私は朝からビデオカメラを回した。孝子おばあは、いつも通り朝6時過ぎに起きて、庭の草むしりをしていた。昼には好物の氷ぜんざいを頬張る。いつもと何も変わらない淡々とした日常があった。

 孝子おばあは、慰霊祭に一度しか参列したことがないという。考えてみれば、当然のことである。戦時中の6月23日、住民たちはまだ強制移住先のジャングルの中にいた。猛威をふるうマラリアで次々と絶命し、終戦後の9月になっても死者は後を絶たなかった。沖縄本島で牛島満司令官らが自決しても、それは住民たちにはなんら関係のないことだった。

 戦争マラリアの取材で私が見つめたのは、6月23日で終止符が打たれた沖縄戦とは全く異なる戦争の実態だった。沖縄戦=沖縄本島での地上戦という一般的なイメージからこぼれ落ちてきた戦争マラリアの歴史は、「もうひとつの」「第二の」などと呼ばれることで、沖縄戦と区別されてきた。単なる戦病死と勘違いされることも多かった。多くの体験者たちが「自分たちはつらかったけど、それでも沖縄本島の人たちよりは、まだよかったんだ。つらいなんて言っちゃいけない」と心に鍵をかけ、苦しみを語れずに戦後を生きてきた。そんな体験者たちに出会うたびに、学生時代の私は、慰霊の日を戦争・平和報道のピークとする沖縄の報道のあり方に疑問を抱いた。地上戦がなかった島々で、自国軍によって甚大な被害を受けた一般住民の存在こそ、沖縄戦の最暗部の歴史だからだ

 17年、私はフリーランスに転身し、翌年7月、ドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」(三上智恵氏との共同監督)を公開した。テーマは沖縄戦の「裏の戦争」だ。地上戦の背後で活動していた日本軍のスパイ・陸軍中野学校卒業生たちによる作戦の実態を描いた。陸軍中野学校とは、ゲリラ戦や情報戦を専門とする特殊教育をおこなっていた極秘機関である。

 彼らによって訓練され、銃を持って米軍と戦わせられた少年兵・護郷隊。「米軍のスパイではないか」と疑心暗鬼になり、互いを監視し、傷つけあった住民たち。そして日本軍に故郷を追われてマラリアで絶命した八重山の人々日本軍がどのように住民たちを作戦に利用し、時に武器を持って戦わせ、そして住民たちが軍にとって「不都合な存在」となった時、一体何が起きたのか。戦後これまで語られてこなかった沖縄戦の最も深い闇を「スパイ」というキーワードで描いた。

 なぜ今、私は沖縄戦を取材するのか。それは他でもない、現代社会を読み解くための鍵が埋もれているからである。私にとって、それはある男の姿を追うことで明確になっていった。波照間の強制移住を指揮した山下虎雄である。


■優しい顔で死を強いた

 「とっても優しい人だったよ。子どもたちはみんな『先生! 先生!』と呼んで親しんでいた。おもちゃの飛行機も作ってくれたよ。教えるのも上手だったさ」

 「非常にユーモアのある人でね、フラダンスとかいって、僕らが見たこともないような面白い踊りをして笑わせてくれたよ」

 波照間島の体験者の多くは、幼い頃に山下虎雄と過ごした楽しい日々を今もはっきりと覚えている。

     (映画「沖縄スパイ戦史」から ©2018「沖縄スパイ戦史」製作委員会)

 山下が青年学校指導員として島にやってきたのは、沖縄戦が始まる約3カ月前だった。教員になりたての若者で、身長180センチほどのがっしりとした体格。色白の顔。住民たちは、遠路遥々やってきた「ヤマトゥーピトゥー(大和人=日本人)」の青年を盛大な歓迎会を開いてもてなし、手厚く世話をした。

 山下先生の来島から2カ月後、沖縄本島で地上戦が始まった頃、山下先生が豹変する。住民たちに「西表島へ移住せよ」と迫ったのだ。波照間と海を隔てた対岸約20キロにある西表島は、全土がマラリアの有病地だった。移住を拒む住民たちに対し、山下先生は軍刀を振りかざし、「これは天皇陛下の命令だ。聞かない奴はぶった切る」と脅した。故郷を追い出された住民たちはマラリアに斃れ、仮埋葬地となった砂浜は足の踏み場もないほど遺体であふれ返った。

 青年学校指導員・山下虎雄の正体は、陸軍中野学校の卒業生だった。

 「殺してやりたいくらい憎い。あの人のせいで、みんな死んでしまったのに……」

 波照間の戦争体験者たちは、戦後75年となる今も、山下への怒りを抱えていた。家族を失った当事者ならば当然のことだろう。

 戦争マラリア取材を始めた頃の私は23歳。波照間に潜伏していた頃の山下と皮肉にも同じ年頃だった。果たして、彼は狂気の軍人だったのだろうか。彼を強制移住に駆り立てたのは、何だったのか。


■なぜ残虐行為ができるのか

 私たちは幼少期から「人を傷つけてはいけない」と倫理観を教わり育つ。にもかかわらず、なぜ軍人になると残虐行為ができるようになるのか。軍隊は人間をどう変えるのか

 疑問を抱えて、米国ドレクセル大学のエリック・ジルマー教授を取材した。軍隊における人間心理を研究するジルマー教授は、「人間を殺人や破壊行為ができる『マシーン』に作り替えるためのキーワード」として三つの指摘をした。

 ①命令の存在。「たとえどんなに残虐な行為だとしても、命令があればできてしまう」とジルマー教授は言う。

 ②残虐行為を集団で行うこと。初年兵訓練では「私=I」という主語が禁止されているという。個を奪い、命令にだけ従うロボットに変えることで、一人前の兵士が出来上がる。

 ③行為を細分化すること。例えば殺人という目的を果たすために、兵士Aは弾を用意し、兵士Bは弾を銃に詰め、兵士Cは引き金を引く。残虐行為を細分化することで個々人の倫理は薄れる。

 山下の行為は、これらにぴたりと当てはまる。

 まず命令の存在について、強制移住は山下の単独行動ではなく、日本軍の作戦計画に基づくものだった。

 沖縄戦開戦の4カ月前、1944年11月、陸軍省と海軍省は、全国の沿岸警備の方針を定めた「沿岸警備計画設定上ノ基準」を沖縄をはじめ全国の軍司令官らに通達した。その中で八重山地域は「主要警備ノ島嶼」と位置づけられ、「在住民の総力を結集して直接戦力化し、軍と一体となり国土防衛にあたるべき組織態勢を確立強化する」とされた。これに基づき、軍事作戦の円滑化のための官民の協力体制づくりと、非常事態における住民の移住を含めた住民対策が計画された。最前線に住民がいては戦闘の邪魔である。ましてや住民が敵の捕虜となれば日本軍の配置や軍施設の情報などが敵に漏洩してしまう。そう懸念した日本軍は、基地建設や食糧生産、戦闘に住民を利用すると同時に、情報漏洩を恐れて住民を監視下におくという矛盾に陥っていく

 45年1月1日付で作成された日本軍の作戦計画書「南西諸島守備大綱」では、住民の移住についてこう取り決められた。

 「直接的戦闘に参加できない老人や子どもなどは、事前に近くの島、もしくは島内の適切な場所に移住させること。これは日本軍の作戦を容易に遂行するため、また混乱を防止し、被害を少なくするためである」

 住民の移住先は「日本軍が配備されている島に限る」とされた。波照間から最も近い島は、マラリア有病地の西表島だった。


■山下が担った秘密作戦

 ジルマー教授が指摘した集団と細分化についても、山下の行動に当てはまる。実は、沖縄戦に送り込まれた陸軍中野学校卒業生は、山下だけではない。総勢42人にも上っていた。彼らの任務は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開。沖縄の正規軍である第32軍が壊滅したあと、山間部にこもり、「皇土防衛のために、一日でも長く沖縄で米軍を足止めせよ」という大本営の「沖縄捨て石作戦」を遂行することだった。

 45年6月23日は、牛島司令官らの自決日であり、沖縄戦の組織的終結日とされている。しかし、正規軍壊滅後の作戦遂行を任務とする中野学校卒業生たちにとって、この日は本来の任務開始日に過ぎず、最後の一兵に至るまで戦い抜くという終わりなき沖縄戦の幕開けだった。そのために地元の少年たちでゲリラ部隊「護郷隊」を組織し、米軍との戦闘や、米軍戦車に爆弾を背負って体当たりする自爆作戦を取らせるなど、子どもたちを酷い作戦へと巻き込んでいった。

 その中で「離島残置諜者」と呼ばれていた山下の任務は、「民間人の立場で情報を収集し、万が一、米軍が上陸してきた場合、それまで訓練していた住民を戦闘員と仕立て上げ、遊撃戦を行うことだった。第32軍は、そのために県知事島田叡と交渉し、彼らに正式な国民学校指導員と青年学校指導員の辞令書を出させ、偽名を使い、各島々へ潜伏させたのである」(『陸軍中野学校と沖縄戦』川満彰著、吉川弘文館、2018年)

 山下が優しい先生を演じて、住民の信頼を得たのは、作戦遂行のために住民を懐柔する必要があったからである。

 山下は、波照間の子どもたちで「挺身隊」を組織し、手榴弾の使い方を指導した。しかし、それは「米軍との戦闘のためだけではなかった」と、元挺身隊員の銘苅進さん(取材当時87歳)は語った。

 「自決。手榴弾で死ねなかった時のために、『喉元刺しなさい』と山下から短刀を持たされていた。住民が米軍に捕まったらスパイになるからですよ。山下は結局、日本軍のことを米軍に聞き取りされると思ったんじゃないか」

 取材を進めるごとに見えてきたのは、徹底的に軍の作戦と命令に従い、与えられた任務を着実に遂行したエリート軍人の姿だった。

 しかし、疑問は残る。人間は本当にロボットになりきれるのだろうか。一抹の罪悪感も疑問も抱かなかったのだろうか。


■嘘で固められた正義

 私は2018年秋から取材拠点を米国に移した。プロジェクトのひとつとして元米兵たちの取材を続けている。

 「突然『イラクへ行け』と命令が下った。なぜイラクに攻め込むのか、分からなかった」

 そう語ったのは、元海兵隊員のカイル・ロジャースさん(36)だ。04年、沖縄のキャンプ・ハンセンからイラク・ファルージャに出撃した。

 「世界地図で米軍の配置図を見ると、中東には米軍基地がほとんどない。米軍が行かなければ、どこかの国が基地を造ってしまう。ならば世界一優秀な僕らが行くべきだ。そんな理由づけを自分なりに考えて、納得しようとした」

     (イラク・ファルージャで、米軍の発砲で14人が死亡した事件に
      抗議する市民を監視する米兵=2003年4月)

 出撃前、沖縄ではマシンガンやハンヴィー(軍用車両)などの準備に追われた。「生きては帰れない」「どうせ死ぬんだから」と浴びるように酒を飲んだ。イラクでは、米軍司令部から受信した情報や命令をチームに伝えるラジオ・オペレーターとしての任務についた。

 「ハンヴィーで街中を巡回中、僕らを狙って砲撃が始まったら、敵が逃げ込んだ民家に乗り込んで殺した。怪しい人物は拘束して尋問部隊に引き渡す。でも大抵は容赦なく殺した。僕らはまるで『リトル・ブルドッグ』だった。暴れまくって、たくさんの犯罪をやった。たばこがなくなったら、近くの商店を襲撃した。米軍ヘリは、民間地上空を低空飛行しながらヘビーメタルを大音量で流していた。なんのためって? ただ、イラク人を怖がらせるためさ」

 退役後、PTSDを発症し、退役軍人病院に1年間入院した。今も銃撃事件のニュースが流れるたびに、「次は自分がやってしまうのではないか」という恐怖に苛まれるという。

 カイルさんをはじめ、これまで30人ほどの元兵士たちを取材した。気がついたのは、全ての米兵たちが米国の正義を信じて戦場に向かった訳ではなかったということだ。むしろ多くの兵士たちが、対テロ戦争に疑問を持っていたにもかかわらず、様々な理由づけを考えて、なんとか自分を納得させようとしていた。そして自分が信じた正義が嘘で塗り固められたものだったと気がついたとき、彼らは心を病み、PTSDを発症していく。ジルマー教授が指摘した「命令」「集団」「細分化」がそろってもなお、兵士たちには捨て去ることのできない人間性が残されているように私には思えた。


■民衆の弱さを問う

 「戦争になると、国家は『国』というものを大事にして『民』を犠牲にする。でも『国』は『民』があって初めて成り立つものでしょう? 戦争になるとね、そんなことも国民は忘れてしまうんですよ

 12歳で強制移住を経験した石垣島の潮平正道さんは、私に何度もこう語り、民衆の弱さを問い掛けた。

 「八重山の人たちも、『お国のため』『天皇のため』と言って、マラリアで死ぬと分かっていながら軍の命令に従ったんだから」

 また、波照間島の強制移住について、当時の島のリーダーであり元村議会議員の仲本信幸さんは、戦後のインタビュー取材でこう回想した。

 「慶良間に米軍が上陸し、島人がスパイになったから、沖縄本島が上陸された。だから、波照間でも同様のことが起こりかねないから、日本全体のため、八重山全体のために、波照間島民は犠牲になっても構わないと(山下が言っていた)。(私は)それなら仕方がないということで……」

 強制移住を「仕方がない」と言った仲本さん。国家のために命を捨てることが正しいとする価値観と、軍命に逆らうことなどできない環境の中で、住民は死を覚悟で軍命に従った。それは75年前の昔話なのだろうか。日本軍からの「命令」であれ、現在の国会が次々と生み出す「法律」であれ、行政や警察、自衛隊から求められる「協力」であれ、権力は様々なかたちを変えて私たちを取り巻いている。もしも、それに従うことが私たちの命を危険にさらすことになるとしても、絶対的な権力を振りかざされた時、私たち―あなた、私―は、果たして、どこまで抗うことができるのか

 私たちは、いつでも次の犠牲者にも、次の「山下」にもなり得る。無意識のうちに、あるいは「正義」の名の下に率先して、残虐行為の片棒を担ぎかねない。私たちの中にある普遍的な弱さを、今、ひとりひとりが問わねばならない。


■「尊い犠牲」からの脱却

 「戦争体験者の高齢化による戦争の風化」。日本のテレビや新聞がこう叫びはじめて何年が経つだろうか。体験者がいなくなれば、証言を直接聞く機会が失われ、戦争体験の継承が不可能になるという。しかし、本当にそうだろうか

 対テロ戦争が20年目に突入した米国では、毎年、若い戦争体験者が増え続けている。もし、戦争体験者が増えることで、戦争の恐ろしさが市民に伝わり、平和な社会が実現するならば、米国はとっくに戦争のない国になっているはずである

 〝Thank you for your service.(従軍に感謝します)〟。米国では、軍関係者に感謝の言葉をかける文化がある。serviceをsacrificeに言い換えて、「犠牲を払ってくれて感謝します」という人も多い。今年5月には、毎年恒例の「米軍感謝月間」と戦没将兵記念日「メモリアルデー」が祝われた。戦争と軍隊を賛美する価値観が、文化の根底にある。「米国の自由と民主主義を守ったヒーロー」の名声と共に一生を過ごす元兵士たちが大多数だが、私が取材をした元兵士たちの多くは、「感謝されるのが一番つらい」と胸の内を明かした。「自分が戦場で何をしてきたのか、何も知らないくせに……」と。

 元兵士たちの声を聞く中で気づかされたのは、戦争体験の継承において、体験者の減少は本質的な問題ではないということだ。問題は、戦争体験をどう評価するのかである。米国市民が、元兵士や戦没者を「尊い犠牲」と見なす価値観から脱却することなしに米国政府がいう「正義の戦争」の殻を破ることは不可能だ

 これは日本も他人事ではない。私自身、子どもの頃から受けてきた平和教育では、「戦没者たちの尊い犠牲の上に、今の平和な日本がある」と繰り返し教えられてきた。しかし、戦争の歴史をひもとけば、自国軍の存在ゆえに死亡した3600人以上の八重山の住民たちがいる。彼らを「尊い犠牲」と呼ぶことで、放免されるのは国家と軍隊の責任であり、命令や集団に従う人間の普遍的弱さは学ばれないまま、個人の命を切り捨てることによって国体を守ろうとした歴史は忘却されていく

 軍隊はなぜ住民を守らなかったのか果たして住民の命を守れる軍隊など存在するのか。何が山下のような軍人を作り出したのか。住民はどのように戦争に巻き込まれ、命令に従ったのか。今こそ、戦争マラリアの歴史から学び、現代社会との共通点をあぶり出さねばならない。それが戦後75年の戦争報道の使命だ。理由はひとつ。二度と同じ手段で騙されないよう知恵をつけるためだ。それこそが本当の意味で、戦争を語り継ぐということだと思う。


※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』8月号から収録しています。同号の特集は「8月ジャーナリズム」です。
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●《「遊撃戦遂行の為特に住民の懐柔利用は重要なる一手段にして我が手足の如く之を活用する」…住民同士を監視させ…批判している…》

2020年06月23日 00時00分32秒 | Weblog

[※ 『沖縄スパイ戦史』(三上智恵大矢英代共同監督) (LOFT)↑]



三上智恵さんご自身のツイートで知りました。【週刊エコノミスト Online ワイドインタビュー問答有用/沖縄の「秘密戦」を記録=三上智恵 映画監督、ジャーナリスト/797】(https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20200623/se1/00m/020/004000c)。COVID19の関係で、本屋にほとんど行けていない……まだ、未購入。

 《第二次世界大戦末期の沖縄戦をテーマにしたドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」(2018年)を監督した三上智恵さん。同名の『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)をこのほど出版した》。


 

 《「遊撃隊戦闘教令(案)」はこう書いています。「遊撃戦遂行の為特に住民の懐柔利用は重要なる一手段にして我が手足の如く之を活用する」……。住民同士を監視させ、日本軍を批判している人はいないか、外国語が上手な人は誰かなどを探し、スパイとして密告させました》…いま、そうだとまでは言いません。でも、アベ様らが目指しているのは、そんな社会でしょうし、超監視・超管理したくて仕方ない雰囲気はふんぷんとします。

 《三上 私は二度と沖縄を戦場にしないためにという思いでやっているので…》。本当に賛成です。沖縄だけではありませんが、どこの親が子や孫が戦争すること、殺し合うことに、賛意を示すでしょうか。
 映画の共同監督の大矢英代さんは、かつて、「戦争のためにカメラを回しません。戦争のためにペンを持ちません。戦争のために輪転機を回しません」と仰っています。「私たちは、過去の歴史からしか学べません…私たちが何を学ぶのかが今、問われている」とも。アベ様の政で〝唯一上手くいっている〟《メディアコントロール》の下、愚かな社会へと堕ちないように(もう既に堕落しきっていますが…)、いま、やるべきことは明確です。

   『●加害者性と被害者性…「私たち一人一人が被害者となり、
              加害者となり得る戦争。戦争はどこかで今も…」
    「【記憶の澱/NNNドキュメント’17】…。
     《先の大戦の記憶を、今だからこそ「語り、残したい」という人々がいます。
     …心の奥底にまるで「」のようにこびりついた記憶には「被害」と「加害」、
     その両方が存在しました》」

   『●「戦争のためにカメラを回しません。
      戦争のためにペンを持ちません。戦争のために輪転機を回しません」
   『●『沖縄スパイ戦史』(三上智恵・大矢英代共同監督): 
           「「スパイリスト」…歪んだ論理が生み出す殺人」
   『●三上智恵・大矢英代監督映画『沖縄スパイ戦史』…
       「戦争というシステムに巻き込まれていった人たちの姿」

   『●中山きくさん「戦争は体験してからでは遅い」、
       城山三郎さん「平和の有難さは失ってみないとわからない」

   『●「改めて身に迫るのは、軍隊というものが持つ
      狂気性」(高野孟さん)と、いまも続く沖縄での不条理の連鎖
    《マガジン9連載コラム「沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌」でおなじみの
     三上智恵さんが、大矢英代さんとの共同監督で制作した
     映画『沖縄スパイ戦史』が7月下旬からいよいよ公開…
     「軍隊は住民を守らない」…「戦争や軍隊の本質を伝えたい」》。

   『●「安倍政権が旗をふる「極右プロパガンダ映画」が 
      世界中に発信されるという恥ずかしい事態が現実に」!?
   『●『沖縄スパイ戦史』と《記憶の澱》…
     「護郷隊…中高生の年頃の少年たち…スパイと疑われた仲間の処刑…」

    《▼日本軍第32軍の周辺で起きた本島中南部の激戦を「表の沖縄戦」と
     すれば、映画が描くのは北部の少年ゲリラ兵部隊護郷隊」や八重山
     戦争マラリアなどの「裏の沖縄戦」。綿密な取材による証言と資料映像で、
     6月23日以降も続いた遊撃戦の実相をつづる》

   『●自衛隊配備・ミサイル基地建設…『沖縄スパイ戦史』「自衛隊
              …昔と同じく住民を顧みない軍隊の本質」暴露
    「レイバーネット…のコラム【<木下昌明の映画の部屋 243回> 三上智恵
     大矢英代監督『沖縄スパイ戦史』/住民500人を死に追いやった犯罪】」

   『●沖縄デマによる市民の分断: 『沖縄スパイ戦史』の両監督…
               「反基地運動は中国のスパイ」デマも同根
   『●大矢英代さん「私たちは、過去の歴史からしか学べません…
               私たちが何を学ぶのかが今、問われている」①
   『●大矢英代さん「私たちは、過去の歴史からしか学べません…
               私たちが何を学ぶのかが今、問われている」②
   『●『沖縄スパイ戦史』: 「それまで『先生』と島の人たちに
           慕われていた山下が抜刀した」…「軍隊の本性」
   『●与那国島や石垣島、《沖縄は名護市辺野古だけでなく、
         宮古島もまた国防のために政府に翻弄されている》
   『●沖縄イジメ…《この74年間、沖縄戦以来、陸兵が軍服を
          着て宮古島を闊歩する姿など誰も見たことはない》
   『●《戦争が廊下の奥に立つてゐた》…《そんな時代にしては
          ならない》はずが、癒党お維や与党議員ときたら
   『●2019年度文化庁映画賞《文化記録映画部門の優秀賞》を受賞
               …三上智恵・大矢英代監督『沖縄スパイ戦史』

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https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20200623/se1/00m/020/004000c

週刊エコノミスト Onlineワイドインタビュー問答有用
沖縄の「秘密戦」を記録=三上智恵 映画監督、ジャーナリスト/797
2020年6月15日

     (「たくさんの人におじいちゃんたちと会ってほしかったので、
       話し声が聞こえてくるように書きました」 撮影=佐々木龍)

 第二次世界大戦末期の沖縄戦をテーマにしたドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」(2018年)を監督した三上智恵さん。同名の『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書)をこのほど出版した。

(聞き手=井上志津・ライター)(問答有用)


「つらい記憶のふたを開けた責任がある」

「軍隊が勝つための作戦と住民を守るための作戦は一致しないのが戦争の構図」

── 750ページ余に及ぶ『証言 沖縄スパイ戦史』には映画には盛り込まれなかった新たな証言も数多く収録されています。いつごろから本にまとめようと思いましたか。

三上 映画「沖縄スパイ戦史」の撮影中から本にしたいと思っていました。沖縄戦は沖縄守備軍・牛島満司令官の自決で1945年6月23日に終わり、民間人を含む20万人以上が犠牲になりましたが、映画はその後も北部で続けられた「秘密戦」の実態を描いたものです。映画には時間の制約があり、証言者一人ひとりを追うことはできないため、集団の記録として構成しましたが、皆さんのライフストーリーを聞き取った者の責任として、絶対に本として書き残さなければいけないと思いました。


── 映画に出ていない人の証言もありますね。

三上 本に掲載した証言者31人のうち10人は映画に登場していません。追加取材も重ね、第1章の元「護郷隊(ごきょうたい)」のおじいちゃんたちの証言だけでも300ページ以上になりました。執筆期間も、最初は3カ月の予定が1年半かかりました。


「秘密戦」とはスパイを使って敵の情報を入手したり、身内から情報が漏れる=スパイが出ることを防いだりする、正規軍がやらない「裏の戦争」のことだ。映画は秘密戦や遊撃戦と呼ばれるゲリラ戦の中で、主に日本軍が沖縄の住民に対して行ったスパイ視や虐殺に目を向けた。

「スパイリスト」工作

    (米軍が沖縄北部の山中で押収した日本軍の「秘密戦に関する書類」
    (映画「沖縄スパイ戦史」から)(C)2018「沖縄スパイ戦史」製作委員会)


── 映画「沖縄スパイ戦史」を作ることになったきっかけは?

三上 1作目の「標的の村」(2013年)と、続く「戦場(いくさば)ぬ止(とぅどぅ)み」(15年)は辺野古新基地高江ヘリパッドの建設に抵抗する人々を記録しました。3作目「標的の島 風(かじ)かたか」(17年)では、それに加えて15年から与那国、宮古、石垣島など南西諸島に自衛隊の新しい基地計画が進んでいく状況を描きました。攻撃能力を備えた自衛隊の配備は、今や沖縄だけではなく日本列島全体が対中国戦略の米軍の防波堤にされていることを意味します。なのに、映画を見た人の反応の多くは「沖縄は大変ね」というものだったんです。とかく自衛隊というと合憲だ、違憲だとイデオロギーの話に矮小(わいしょう)化されてしまう面もあり、この「鈍感の壁」をもどかしく感じていました。

 そんな時、自衛隊の情報機関が反対派住民の情報を収集し、リスト化していると聞いたのです。それって沖縄戦の「スパイリスト」の再来じゃないかと愕然(がくぜん)としました。でも、その話を周りにしても反応が薄い。知られていないんですね。それで4作目のテーマは沖縄戦にしよう、戦争の仕組みを知らせようと決め、「風かたか」の公開後、すぐに動き出しました。


 米軍の沖縄上陸が迫っていた44年晩夏、42人の青年将校らが沖縄各地に潜伏した。軍事諜報(ちょうほう)員の養成機関「陸軍中野学校」の出身者たちだった。任務は本土決戦までの時間稼ぎのため、沖縄の守備軍が壊滅してもゲリラ戦を展開すること。14~17歳の少年たち約1000人をゲリラ部隊「護郷隊」に召集し、敵の食糧庫や弾薬庫の夜襲や、特殊兵器を使った爆破などをさせたほか、マラリアで恐れられた西表島への波照間島民の強制移住、地域の有力者による住民監視組織の結成など、さまざまな秘密工作を行った。


── この工作の一つが「スパイリスト」ですね。

三上 44年1月作成の「遊撃隊戦闘教令(案)」や米軍が押収した日本軍の「秘密戦に関する書類」を見ると、秘密工作はみなマニュアル通りに行われていたことが分かります。「遊撃隊戦闘教令(案)」はこう書いています。「遊撃戦遂行の為特に住民の懐柔利用は重要なる一手段にして我が手足の如く之を活用する」……。住民同士を監視させ、日本軍を批判している人はいないか、外国語が上手な人は誰かなどを探し、スパイとして密告させました恐怖と疑心暗鬼の中、スパイと疑われて虐殺された住民は、数百人とも1000人ともいわれています


── スパイリストによる住民虐殺については、番組制作のため09年にすでに取材していたものの、公開を保留にしたそうですね。

三上 当時は関係者が健在だったからです。小さな村ですから、誰の密告で誰が殺されたか、分かっているんですよ。大事なのは関係者の罪を問うことではなく、軍隊が勝つための作戦と、住民を守るための作戦は一致しないという戦争の構図を示すこと。多角的に描かないと、「沖縄の少年兵や住民が虐殺に関わっていた」などとセンセーショナルな部分だけが内地のメディアに取り上げられるのもいけないと思いました。


加害者になる心の動き

── リストには18歳の少女も載っていました。その中本米子さんは映画にも登場しますが、本書では映画で語らなかった告白をしているのが衝撃的です。

三上 映画完成後にお会いした時に、急に語り始めたんですよ。撮影中は隠していたのではなく、つらい記憶だから封印していたのだと思います。私のある質問をきっかけに、記憶のふたが急に開いてしまったようでした。私は残酷なことをしているのではないかと、動揺したのを覚えています。


── 本土決戦に向け、岐阜で少年兵を訓練していた中野学校関係者も初めて登場しています。

三上 現在98歳の野原正孝さんです。公開後、岐阜新聞を通じて連絡が取れました。「住民は兵器の一つで消耗品だった」と言い切り、「ゲリラの教官だったことは誰にも話してこなかったから、話せてよかった」とも言ってくれました。ただ、出版後、野原さんから手紙が来たんです。「あの当時、国のため、天皇陛下のために尽くしたことに後悔はありません。でも、あなたのような広い知見を持って、このような本にまとめられた歴史としてみた時に、一抹のわびしさを感じます」と書いてありました。

 野原さんは今も自分が中野学校の一員だった誇りを持っているんです。今回、米子さんの告白からも分かりましたが、もちろん戦争は悪であっても、自分の青春時代を全部否定的にとらえたくはないですよね。楽しかった時間もたくさんあったはず。でも、「あの時代は大変だった」以外の話は、これまで耳を傾ける人がいなかったし、あまり話さないまま来たのかもしれません。

 野原さんは中野学校の面白い裏話もたくさんしてくれました。だから、できればもう一回、劇映画などにして野原さんが喜ぶものを作りたいなと思っているのですが……。


── 「虐殺者」の面だけではない将校たちの人間性も描いています。

三上 護郷隊の隊長は戦後、戦死した全ての部下の家を回り、仏壇に手を合わせました。慰霊祭にも死ぬまで出席しました。これまで私は住民側の目線でずっと取材をしてきましたが、彼らに課せられた任務を知るにつれて、狂ったシステムの中で加害者になる人の心の動きが理解できるようになりました。初めて兵士の立場で考えられるようになったと思います。


── 証言を世に出すことで取材相手を傷つけてしまうのではないかという葛藤は?

三上 それは常に苦しんでいます。でも、誰も傷つけたくないのなら、ジャーナリストなんかやるべきじゃない。取材相手には「三上さんの作品でひどい目にあったけど、三上さんは憎めなかったな」と思ってもらえるように、その後も通い続けるようにしています。


── 12歳の時に家族旅行で初めて沖縄を訪れたのですね。

三上 強烈なカルチャーショックを受けました。家のような形のお墓も、本土とは異なる言語も不思議でしたし、南部戦跡や平和祈念資料館には沖縄の思いが詰まっているのを感じました。旧満州(現中国東北部)から引き揚げた経験を持つ祖母の話を聞いて育ったからか、もともと戦争には興味のある子どもでしたが、以来、沖縄のことが頭から離れなくなりました。大学では宮古島に通ってシャーマニズムを研究しました。ユタ(巫女)さんから「あんたの背後には草の冠に白装束を着けたおばあがたくさんいる」と言われたことが何度もあるんですよ。


「自分のこと」だから

     (元第二護郷隊員の瑞慶山良光(ずけやまよしみつ)さん、
      宮城清助(きよすけ)さん、仲泊栄吉さん(右から)と
      三上さん(今年2月撮影) 三上智恵さん提供)


── 草の冠?

三上 草冠は祭祀(さいし)をつかさどり、神女と呼ばれる女性たちが身に着けるものです。だから、ひょっとして神に仕えながら島を守る役割の人たちから、島を守るよう使命を与えられているのかなと思っています。

 三上さんは毎日放送(大阪市)でアナウンサーをしていたが、95年に開局した琉球朝日放送(QAB)へ開局と同時に転職。QABではキャスターを務めながら、ディレクターとしても「海にすわる~辺野古600日の闘い」(06年)、「英霊か犬死か~沖縄から問う靖国裁判」(11年)など多くのドキュメンタリー番組を制作した。


── 当時1歳だった息子さんを連れて沖縄に移住したのですね。

三上 航空会社に勤める父がその前に沖縄に転勤していて、両親が夜も息子を見てくれたので、思う存分仕事ができ、楽しくて仕方がなかったです。夫とはそれ以来、別居婚になりましたが。


── 95年には米兵による少女暴行事件が起きました。

三上 彼女を忘れた日はありません。彼女は二度と同じような犠牲者を出したくないという一心で事件を公にしたのに、普天間飛行場の返還が発表された時、私たちは「県民の怒りが普天間を動かした」と報道してしまいました。辺野古が面する大浦湾に米軍基地を作る計画は60年代からあり、それをこの機を利用して日本に作らせるというカラクリに気づいてなかったのです。

 それが悔しくて、古い基地を返す代わりに新しい基地を日本の税金で作らせるという欺瞞(ぎまん)を伝えなければと、がむしゃらに走ってきました。沖縄の人から今も時々、「内地から来たのに沖縄のことをやってくれてありがとう」と言われますが、私は自分のことだからやっている感じなんですよ。


── QABの番組「標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち」が映画化された後、QABを退職したのはなぜですか。

三上 QABでは19年間、ニュース番組でキャスターを務めてきましたが、局からは管理職として裏方に回るよう言われていたんです。私は現場の方が向いていると反論し続けましたが、限界でした。直接言われたことはないですが、キャスターの主張が「反基地」すぎるのも問題だったと思います。何のあてもなく、どうしようと思っていたら、「標的の村」を応援してくれた人たちが「お金を集めるから取材を続けて」と言ってくれ、2作目につながりました。


── 今後も映画監督を?

三上 私は二度と沖縄を戦場にしないためにという思いでやっているので、映画にはこだわりません。人の人生を活字で再構成する楽しさを知ったので、沖縄戦をテーマに、また本を書きたいかな。

 この本は証言者の話し声が聞こえてくるようでしょう。たくさんの人に証言者のおじいちゃんたちに会ってほしくて、黒砂糖とお茶を出して仏壇の前で話してくれる様子をそのまま表現するよう心がけました。この本は分厚いので、1ページ目から読まなくてもいいですよ(笑)。たまたまその日、開いたページに出てくる人の証言を読んでほしい。その人と出会ってもらえたらうれしいです。



 ●プロフィール●

みかみ・ちえ

 1964年東京都生まれ。87年成城大学文芸学部を卒業し、アナウンサー職で毎日放送入社。95年琉球朝日放送(QAB)開局と同時に入社。2003年沖縄国際大学大学院修士課程修了。キャスターを務めながらドキュメンタリーを制作。初監督映画「標的の村」(13年)でキネマ旬報文化映画部門1位など数々の賞を受賞。14年独立。「戦場ぬ止み」(15年)など次々と手がける。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)など。沖縄県読谷村在住。
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