Activated Sludge ブログ ~日々読学~

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●松元ヒロさん「憲法くん」は語る

2014年05月31日 00時00分37秒 | Weblog


澤藤統一郎の憲法日記』から『松元ヒロ・「憲法くん」の語りに脱帽』(http://article9.jp/wordpress/?p=2602)。

 「だけど丸投げで頼むわけじゃない。頼まれたから何でもできると思って戦争なんか始めちゃダメだよ。そのために、憲法にしっかりと9条を書いてこれをわたす。この憲法に書いてあることをしっかり守って、頼まれごとをやってくれ、と」・・・・・・松本ヒロさんの「憲法くん」は語る。アベ様をはじめとした自公議員、翼賛野党の壊憲派には理解できまい。

   『●「ぼくらは差別が見えていない」 『週刊金曜日』
                     (2014年5月9日、990号)
    「■⑩『週刊金曜日』(2014年5月9日、990号) / 松元ヒロさん
     【写日記その30】、「ドキュメンタリー映画『
ザ・思いやり予算』・・
     バクレーさんが「ヒロさん、ギャラなんですが・・・・・・」
     「大丈夫、『予算』がないんでしょ? 私の『
思いやり』!」。
     さすが「
憲法くん
     (
http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/9cf92a972ac07b0d0538d9f8b4167b3a)」

   『●「放射能と学校給食③」『週刊金曜日』
        (2013年6月7日、946号)についてのつぶやき

    「■『週刊金曜日』(2013年6月7日、946号) / 松元ヒロ氏
     【写日記 その10】、「日本国憲法を擬人化した『
憲法くん』と
     言うネタで全国を飛び廻っているお笑い芸人」「
憲法くん
     『私のことを自虐的とか言う人がいる。でも私は六六年間、
     戦争という名前で他国の人々を殺したことがない。
それが誇りです
     私をどうするか、皆さんに託しましたよ』と締めくくると満場の拍手に包まれた」」

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http://article9.jp/wordpress/?p=2602

澤藤統一郎の憲法日記
松元ヒロ・「憲法くん」の語りに脱帽

憲法フェスティバル、略称「憲フェス」に足を運んだ。40回目の憲法記念日となった1987年に、青年法律家協会が企画して第1回を開催。以来連綿と続いて、今年は28回目となっている。実行委員会は、年に1度のイベントを開催するだけでなく、通年の憲法運動の担い手となっている。これが立派なところ。

今年のテーマは、子どもの日にちなんで「この子らに託すもの」。大林宣彦監督作品「この空の花ー長岡花火物語」の上映と、同監督のトークがメインの企画だが、私のお目当ては、松元ヒロさん。「今年の憲フェスに、あの『憲法くん』が帰ってくる!」という惹句に惹かれて、「憲法くん」に会いに行った。

素晴らしいステージだった。45分間の熱演を堪能した。…という程度では言葉が足りない。脱帽した。ショックさえ感じた。そして、その姿勢に学びたいと思った。こんな風に、楽しく、分かりやすく、大切なことを上手に語れるようになりたいものと思う。

私は、ヒロさんの「憲法くん」の初演を観ている。あのときもすごいと思ったが、あれから遙かに芸が磨かれ、洗練されている。同じ古典落語をくり返し聞いていると、簡潔だが実に的確な言葉の組み立てになっていることに気づかされる。言葉の贅肉を殺ぎ落として成り立つ芸。そういう芸を聞かせてもらった。

ヒロさんは、「テレビには出演することのない」芸人として定着している。政権への批判や皇室への物言いにも遠慮がない。そこが、観客にウケる所以だが、決して言葉にどぎつさを感じさせない。政権の要人や天皇を揶揄して笑い飛ばしても、その人格を貶めてはいない。だから、会場全体で安心して笑える。

いくつかのセリフに感心した。憲法の本質を語り、自民党改憲草案の危険性の本質をよく語っている。以下は、私の記憶の限りでのトークの一部の再現。

   「私たち国民が国の主人公なんですよ。戦前とはそこが違う。
    だから本当は私たち国民自身が、どのように国を動かしていくか
    話し合って決めなければならない。だけど、私たち、みんな忙しい
    ですよね。仕事もしなければならない。だから、私たちの代わりに
    話し合いをする人を選んで、その人たちにきちんと国を動かすように
    頼むんです。その頼む相手が代議士・国会議員。その中から、
    国を動かす責任者も出てくる。別にエラクもなければ、
    先生と呼ぶ必要もない。」

   「私たちはこういう人たちに、しっかりと国を動かしてくれよ、
    と頼むんです。だけど丸投げで頼むわけじゃない。頼まれたから
    何でもできると思って戦争なんか始めちゃダメだよ。そのために、
    憲法にしっかりと9条を書いてこれをわたす。この憲法に書いてあることを
    しっかり守って、頼まれごとをやってくれ、と」

   「この世の中の歪みの犠牲者として、貧しい人が出てきますよね。
    不幸な境遇の方もいる。そういう人を、社会全体で支えてあげたい
    と思いますよね。お互いさまですから。私たちは、国の主人公として、
    そういう風に国民のお金を使いたい。だけど、私たち一人一人は
    みんな忙しいですよね。仕事をしなくちゃならない。だから、
    みんなからお金を集めて、困っている人に配分する仕事を頼むんです。
    そのときに、『ハイ、これが25条。これに基づいてみんなのお金を
    使ってくれ』と渡す。これが憲法というものなんです」

私も、ヒロさんに学んで分かりやすく語ることの修行を積み重ねよう。分かりにくいのは、語る側がよく分かっていないからだ。あるいは、分かってもらおうという情熱に欠けるから。聞き手に、あるいは読み手に分かってもらうため工夫を重ねよう。そして、話しも文章も、長すぎないように心掛けよう。原則として…、だけど。

(2014年5月5日)
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●馬鹿馬鹿しく、そして無力感漂う

2011年04月20日 00時00分08秒 | Weblog


都知事選翌日のツルシカズヒコさんのブログ(http://www.kureyan.com/diary-kureyan/8022.html)。

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http://www.kureyan.com/diary-kureyan/8022.html

都知事選    2011-04-10

午後、コウとふたりで東大原小学校へ。
都知事選の投票をする。
石原でも東国原でも
ドクター中松でも渡辺美樹でもない候補者に投票した。
たぶん、コウもそうだと思う
その候補者に期待したのではなく、
あまりに候補者の面子が貧弱すぎて頭に来ているのである。
投票締め切りの夜8時直後に石原の当確の情報が流れ、
どうしようもない無力感に襲われる。
しかし、生きていかねばならぬ。
闘いだな〜、生きるって。
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 20時ちょうどに当確速報。全くなすすべもない、といったところか。しかし、彼が4回も選ばれるのですから、滑稽な話です。

 共同通信によると、何方かが「一方で4選実現の要因については、小説家としての人気や、果敢な実行力を備えているためだと指摘した」(http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20110411-759523.html)そうです。御笑いです。 実行力の方向性! 非実在青少年など唱えられる作家センセの感性!!
 石原慎太郎氏は、エネルギーを「「(福島原発と同じ量だ。日本の電気消費の形はおかしい。)必要ないものに使っている」と指摘」しつつ吠えた(http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20110411-759622.html)そうだ。素晴らしい。正論、賛成。でっ、これまでの都知事としての3期を振り返ってみてどうなんでしょう。税金やその他のことについては、「必要ないものに使ったりしてない」ですよね? 都政に御自分の時間を無駄なくお使いになっていますよね?
 これまでの3期を反面教師に、180度反対のことをやられればよい訳ですから、4期目の都政に期待しています。「東京に原発を」という発想から、反面教師として真逆に、原発を全廃する方向に転換されれば、喝さいを浴びることができるはずです。そういった方向にこそ、都民の皆さんが期待する石原都知事の「実行力」を発揮してほしいものです。五輪とか銀行とか教育とか、頓珍漢な(確信的)差別発言・行動なでに「実行力」を発揮されたりしないようにしてもらいたいものです。パンダ以下の働きとまで揶揄されたのですから。そういえば、祝日にはちゃんと実行されていますでしょうか?


 それでは、いつも引用させていただいている澤藤統一郎氏の記事の最終回を引用。都民の民主主義感覚とは、都民の民度は? これは最善の選択たっだのでしょうか、それとも最悪の選択だったのか?

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http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110410.html

               石原慎太郎「震災は天罰」発言
弁護士 澤藤統一郎

民主主義とは何だろう
                     (2011年4月10日)

 先日学生時代の同級会があり、気のおけない昔の仲間と楽しいひとときを過ごした。その圧倒的多数が都立高の出身者。彼らが高校生の時代には、「都立の自由」が横溢していた。都立の出身ではない私などにはまぶしいような、自由のエピソードの数々に、羨望の念を禁じ得なかったものだ。
 ところが今、事情は様変わりである。「都立の自由」は、教育行政によって根こそぎ奪われた。かつての自由の土壌は、管理主義の放射能に汚染されている。放射線の線源は「震災は天罰」と言ったあの知事。事態はその2期目からのことである。
 2003年4月、この知事は308万票を得て再選された。その直後から、都の教育行政は暴走を始めた。都の教育委員は知事の「お友だち」で固められた。本来、「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」(地教行法4条)者から選ばれるはずの委員が、およそ人格高潔とは言い難く、右翼的識見で凝り固まった人物で占められた。
 同年6月、教育庁内に「卒業式・入学式対策本部」が設置され、その年の10月23日、悪名高い「10・23通達」発出にいたった。各校で工夫を凝らしたこれまでの個性的な卒業式は全面禁止となり、式の主役は生徒ではなく「日の丸・君が代」となった。以来、全校長が全教職員に、文書による「起立・斉唱」の職務命令を手交するという異常事態が続いている。
 「日の丸・君が代」の浸透度は、学校の自由度のメルクマールである。文科省の調査では、1998年度入学式における都立校の「国歌斉唱実施率」は3.4%に過ぎない。もちろん、起立・斉唱の強制などはありえない。その以前、60~70年代の都立校出身者は、高校生活で「日の丸・君が代」のカケラと出会うこともなかったであろう。
 今、「日の丸・君が代」実施率は100%。かつて行われていた、「憲法19条によって起立しない自由も保障されます」という、出席者への「内心の自由」についてのアナウンスも禁止された。日の丸の貼り方、参加者の椅子の並べ方までこまごまとした指示がなされる。そして、起立斉唱の職務命令違反者には、過酷な懲戒処分である。昔々の話ではない。どこかの独裁国の話しではない。日本の首都の公立校の現在進行の事態なのだ。
 この異常事態は、知事の308万票獲得から始まっており、都民の意思によるものとの擬制が可能である。謂わば、民主主義がもたらした異常事態なのだ。民主主義は衆愚政治と紙一重である。ファシズムもナチズムも、熱狂的な大衆の支持によって成立した。天皇制の侵略戦争も国民の支持あればこその側面を否定しがたい。今、またナショナリズム鼓吹者を都民が支持し、この知事が教育現場で「日の丸・君が代」を強制している。放射線被害にも似た危険このうえない事態である。
 民主主義が正常に作動しないとき、司法は「人権」侵害を救済する立場から、これに歯止めをかけなければならない。10・23通達関連の訴訟は18件に及ぶ。提訴者数の合計は延べ726名(都立校702名、小中校24名)である。
 先陣を切った訴訟が、懲戒処分前に提訴した「予防訴訟」(原告数402名)である。2006年9月21日にみごとな一審全面勝訴の違憲判決(難波判決)となり、知事をはじめとする都庁内右翼の心胆を寒からしめた。「日の丸・君が代」強制を違憲・違法という根拠は、憲法19条(「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」)、憲法20条(「信教の自由の保障」)、教育基本法10条(「行政による教育内容に対する不当な支配の禁止」)である。
 しかし、この流れは10・23通達以前の事件である、「ピアノ伴奏強制拒否訴訟」最高裁判決(2007年2月27日)によって断ち切られた。君が代のピアノ伴奏強制を合憲としたこの最高裁(第3小法廷)判決は、オーソドックスな憲法論からは極めて評判が悪い。「ロースクールの学生がこんな答案を書けば、到底合格点をやれない」という憲法学者もいるほどの代物。ところが、その後の下級審判決は、ピアノ判決のコピペ同然の言い回しで、教員側の請求を棄却するようになった。今度は当方が切歯扼腕する事態。
 長い暗闇を抜けて、本年3月10日、東京高等裁判所第2民事部が168名の懲戒処分を全部取り消すという勇気ある判決を言い渡した。震災前日のことであり、あの知事が4選出馬の正式表明に先立つプレゼントでもあった。
 周知のとおり、現実の司法は行政に甘い。行政裁量の範囲を極端にまで寛く認める。行政に対しての批判に過度に臆病であるというべきであろう。しかし、東京都の「日の丸・君が代」強制は、その大甘の裁判所から見ても見過ごせない。少なくとも、良心的な裁判官は、これを断罪している。知事と教育委員会、その事務局である教育庁は猛省すべきである。
 都は、敗訴判決を不服として、上告(受理申立)をした。10・通達関連の訴訟については、これで6件が最高裁に係属している。最高裁判決で確定した訴訟は、まだ一件もない。憲法訴訟として、そして教育訴訟として、その成り行きが注目される。
 とは言え、「震災は天罰」と言った知事の乱暴さは、「日の丸・君が代」強制をして恥じない乱暴さと結びついている。人権感覚欠如のしからしむるところなのだ。このような人物を4期も知事に据え置いた都民の民意を理解しがたい。いったい、民主主義とは何なのだ。


http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110411.html

再び、民主主義とは何なのだろう
                         (2011年4月11日)

 私は、1971年4月に弁護士となった。実務法律家としてちょうど40年の職業生活を送ったことになる。この間の私の幸運は、日本国憲法とともに過ごしたことである。人権・平和・民主主義を謳った実定憲法を武器に職業生活を送ることができたことは、なんという僥倖。
 しかし、私の不運は日本国憲法の理念に忠実ならざる司法とともに過ごしたことにある。憲法に輝く基本的人権も、恒久平和も、民主主義も、法廷や判決では急に色褪せてしまうのだ。何という不幸
 裁判所が、毅然と 「日の丸・君が代」 強制を許さずとする明確な判決を言い渡すのなら、石原教育行政の出番はない。裁判所に、「歌や旗よりも子どもが大切」、「国家ではなく人権こそが根源的価値」という教科書の第1ページの理解があれば、そもそも行政が憲法を蹂躙する暴挙を犯すことはないのだ。
 もうひとつ、右翼の知事に出番を提供したのは都民である震災は天罰と言ってのけ、思想差別を敢行するこの右翼的人物に知事の座を与えたのは都民である。恐るべきは石原個人ではなく、敢えて石原に権力を与えた都民の意思であり、日本の民主主義の成熟度と言わねばならない。
 それにしても石原4選である。東京都の人権と教育は、あと4年もの間危殆に瀕し続けねばならない。「人権や憲法に刃を突きつける民主主義とは、いったい何なのだ」と問い続けなければならない。問い続けつつも、他にこれと替わり得る制度がない以上、絶望することも、あきらめることも許されない。心ある人々とともに、東京都の反憲法状態を糾弾し続け、都民に訴え続ける以外にはない。
 そのような決意を自分に言い聞かせて、しばし擱筆する。

・・・・・・。
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●言葉を失います・・・

2011年04月09日 01時43分07秒 | Weblog


〝右側〟がお好きな方々には毛嫌いされているでしょうが、〝極右〟の本多さん的には、「これまでの差別発言、傲慢発言、高額の無駄遣い、思いつき政治の失敗、そして反人権、反民主主義、反憲法の言辞の数々」(澤藤統一郎氏)を十分に認識したうえで、原子力発電をこの期に及んでも推進しようとする「都知事候補者にもはや問題があるのではなく、それを選ぶ側の問題である。民度の問題」と云ったところでしょうか。

 zakzakに出ていた、現都知事を持ちあげるヨイショ記事(http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20110407/plt1104071634003-n1.htm)を見ていて嫌になってきました。「四度目の絶望」となりそうですね・・・。言うべき言葉が見つからないし、都民の皆さん、どうぞご勝手に、という気分になってきました。

 
記事によると・・・。
 「他候補をダブルスコア以上も引き離している」なんて、例えヨイショ記事でも絶望的な気分になります。「発言力も実行力もある」「氏に期待しているのではないか」とは、一体どんな発言をし、一体どんなことを実行したというのでしょう?
 2位の〝勝海舟〟氏にも「2倍以上の差をつけ」るほどで、「「国家破綻への危機感」を理由に引退から翻意した」「氏が断トツ」の人気だそうだ。現状次点の方も困ったものだが、いろんな意味で国家どころか都を破綻させようようとしている後だしジャンケン氏を皆さんがそれほど支持されるとは。
 「人気俳優らを応援弁士に呼ぶ派手な選挙戦をしてきたが、今回は都庁で東日本大震災への対応にほぼ専念。いまだに街頭演説も行わない異例の選挙戦を展開」、そりゃ派手には出来んでしょうね。これ以上の失言も避けたいところといった心理も。でもその心理は意味がないでしょうね。どんな行動でも発言をしても、だって都民はこれまで何度も当選させてるんですから。
 「唯一、・・・行われた有力候補4人の生討論会には出演。・・・らが、原発問題や計画停電築地市場移転などで・・・攻撃したが、「全然違う」「ごっちゃにしたらいかんよ」などと、批判を受けて立つ」(見てないんで知りませんが)いつもの傲慢な態度で反論にもならんことを言ったことでしょう。それを見ても何も感じないんでしょうね、視聴者は。
 自民党ベテラン秘書は「危機に必要なのは饒舌さやパフォーマンスではない。批判を恐れず『これをやるんだ』という意志と実行力。東京を地盤とする菅首相が震災・原発対応で不評を買うなか、『危機の指導者』として」氏の存在感が高まっている、と語ったそうです。歯がうきませんかね? 「築地移転問題」や「東京に原発を」など、『危機の指導者』だと思うのですが。
 「現に、時事通信の世論調査では、都知事選の投票で、防災・危機管理対策を意識するかとの質問に、「意識する」「ある程度意識する」と答えた人は75・3%に上った」。今回の大震災で、原発に「防災」など設定できないことを理解できないのでしょうか。100%安全な原発なんてありえないのですから、「災害を防ぐ」ことは無理です。7割を越える人が「防災・危機管理対策を意識」した投票行動を取ろうとしているのに、他候補をダブルスコア以上も引き離して」ダントツの人気だなんて。

 東京都から遠く離れた地より、明日がどうか反原発派・原発廃止派にとって良き日となりますよう願っています。


 アクセスジャーナルhttp://www.accessjournal.jp/modules/weblog/)の山岡俊介さんの4月7日の記事の一部を以下に引用させて頂きます。

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http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/の4月7日】
                                    2011/04/07
これが現地映像ーー土壌汚染に液状化も加わった、「築地市場」移転予定地
執筆者: Yamaoka (7:00 pm)

 石原慎太郎東京都知事が強引に進めようとしているとしか思えない都民の台所を預かる「築地市場」の豊洲への移転問題ーー本紙では一貫して反対の立場から、この間、ゴーサインを出すために裏で謀略"があった可能性もあるとして、「東卸」の件を逐一取り上げて来た。
 そうしたなか、3月11日、東日本大地震が発生し、築地市場の移転予定地である豊洲の東京ガス工場跡地も液状化現象が起きているとの情報が入って来た(冒頭写真は移転予定地の一部と、そこに立つ看板)。
 東京湾の埋め立て地故、液状化が起きても不思議ではないが、問題はその程度が、築地市場移転に支障を来すほど深刻かどうかなのだが、都中央卸売市場によれば、約90箇所、地下水の噴出が確認されているという。
 そして、この対策のためには、すでに明らかになっている土壌汚染処理(約586億円)以上のコストがかかるということで、もはや事実上、豊洲移転は無理との声さえ一部関係者の間では上がっているという。
 そこで本紙は真偽を確認すべく、4月5日、現場を撮影して来た。
 ・・・・・・。
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 さらに、いつも引用させていただいている澤藤統一郎氏の記事http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110407.html)も。

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http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110407.html

                石原慎太郎 「震災は天罰」 発言
                   弁護士 澤藤統一郎  目次

あなたも被災者支援のひと言を
2011年4月7日)

  東日本大震災の被災者を励ましたいと願っていらっしゃる方、被災者に寄り添い何か一つでも被災者のためにできることをしたいとお考えの思いやりのある方に、そのやさしい心根にすがってお願いを申しあげます。

  「震災は天罰」 と言った政治家に、首都の責任ある立場からは降りていただくよう、勇気あるひと言を発言していただきたいのです。家族との会話、友人とのおしゃべり、学食でのコーヒーブレイク、職場での立ち話、メル友とのメールのやり取り、季節のご挨拶のお手紙、どんな機会にでも、ついでのひと言として、次のような趣旨を、口に出し、あるいは文書にしたためていただきたいのです。

  「震災を天罰という人の人間性を疑う」 「津波を天罰なんて口にできるのは、被災者の苦しみを本気で分かろうとしていないからだよね」 「発言を撤回したところで、本性があらわれたってところだろう」 「こんな人は、政治家として絶対失格」 「とても行政を任せることはできない」 「こういう人を東京の代表にしておくことは、都民として恥ずかしい限り

  重ねて、この政治家が 私は今も原発推進論者 と言ってはばからないことについても、ぜひ一言添えていただきたいのです。

  「みんなが、こんなにも放射線被曝を心配しているときに、よくも神経を逆撫ですることが言えたものね」 「時代は、ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・フクシマだろう」 「いま求められているのは、生活の豊かさよりは安全じゃないか」 「少なくとも徹底的な原発政策見直しが必要なときに、国民感情が分かっていない」 「天罰は東北に、天恵は東京に。そんな都合のよいことが許されるはずはない」

  できれば、この人のこれまでの差別発言、傲慢発言、高額の無駄遣い、思いつき政治の失敗、そして反人権、反民主主義、反憲法の言辞の数々についても

  あなたのそのひと言が、被災者を励まします。被災者に寄り添うことになります。被災者の心の支えと慰めになります。それだけでなく、東京の安全と福祉、さらには人権と民主主義の発展にも必ずつながるのですから。
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 最後に、CMLの記事(http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-April/008737.html)からの一部マゴヒキ。事情をあまり知りませんが、羨ましい限りです。それに対して我が国は、我国の未来は・・・。

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http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-April/008737.html

反原発「緑の党」支持率2位に=ドイツ
  http://www.jiji.com/jc/p?id=20110407103038-0653026&n=1

独、反原発の緑の党支持率が急伸 福島事故後28%に

  http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011040701000024.html

ドイツ:緑の党の支持率28%に 議会第1党に迫る勢い

  http://mainichi.jp/select/world/news/20110408k0000m030075000c.html

ドイツ:緑の党の支持率、過去最高の28%-シュテルン誌調査
  http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920012&sid=aP1JmiRczcKs

独連立与党の支持率低下、緑の党が支持伸ばす=世論調査

  http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-20478820110407

ドイツ副首相がFDP党首退任へ-原発への反感広がり、選挙で敗北
  http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920012&sid=aL8I5g6RN2CU

ドイツ:与党党首が引責辞任 州議会選、環境政党に大敗で

  http://mainichi.jp/select/world/news/20110404dde002030018000c.html

独外相、与党党首退任へ 州議会選大敗で引責

  http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2011040402000178.html
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●選挙に際しての祈り: 「空疎な小皇帝」を支持することの意味

2011年04月06日 00時32分24秒 | Weblog


コメント欄に書いたこと、折角なので再掲します。前後のつながりが悪いですが。『空疎な小皇帝』斎藤貴男さんの著書の一つです。


都民の皆様がその知事を選択し・・・ (AS)

 東京都民の皆さんがそういう選択をされるのであれば、それで仕方ないです。でも、もし事故が起こった際には汚染が東京都からは広がらないようにしていただきたいです。そんなことは無理でしょうけれども。

 これは都民の皆さんの選挙だけではないです。原発を周辺地域に押し付けている他の地域も同様。

 この時期に、平気で原子力平和利用・「安全」利用を口にできるその感覚を私は信じることができません。今回の都知事選では、この人(達)を選ばないでほしい!、というよりも、選ぶべき人がいませんか?、ということを都民の皆様に訴えたいです。


リスク・覚悟と投票・責任と汚染地域 (AS)

 小出裕章さんらの情報を聞かれた上でのリスクの理解、覚悟であればよいのですが。その覚悟の上での原発推進という投票結果には責任を負えない、と私は思います。投票した人もしなかった人も含めて原発推進の首長さんの周辺だけで汚染がとどまるようなリスクではなく、破滅型のリスクではないでしょうか? 私も誤解しているところがあったのですが、プルトニウムが最悪だといった認識は誤りで、それは単なる相対的なものであり、どんなに低量・低濃度であろうと放射性物質そのものがあらゆる生物にとって有害であるということです。原子力の平和利用など幻想で、パンドラの箱を開いてはいけなかったのです。汚染は周辺地域だけでなく、国土どころか、地球全体に及びます。たとえこの先「平和利用」できたとしても、次世代以降、いったい何世代の子孫に、汚染されてしまった地域の管理や日々生みだされる放射性廃棄物の保管を押し付ければよいのでしょうか。

 私も、「それなりの覚悟」を持った投票行動であってほしいと思います。「それなりの覚悟」が破滅型のリスクに対して責任を負えるとは私には思えませんけれども。

 昨日のasahi.comの都知事選の動向記事を読んで、正直なところ、目を疑いました。
 私の住んでいるところの知事選では、圧倒的優位を伝えられている(反原発政党までが相乗り)候補者が原発に対してどのような判断をするつもりかどうかは分かりません。電力事情は首都に似たところがあります。原発に対して現都知事のような考え方を決してしないとは思いますが、(かつての?)原発支持政党との相乗りではとてもその候補者を評価できず、私はもう一人の候補者に投票しますが、99.9%当選はあり得ない状況です。ぜひ新知事には、「○○に原発を!」などと仰らずに、「原発は廃止を!」と宣言されることに期待します。FUKUSIMAを見てそう判断されないはずがない、と信じています。


これまでの言動や行動 (AS)

 「氏はその覚悟を持って原発推進の姿勢を維持」はどこまで信頼のおける「覚悟」なのでしょうか? 先日も引用しましたが、松沢呉一さんの仰るように、氏「こそ物欲、名誉欲にまみれた我欲の権化、その自分の生き様を顧みるのはいいとして、わざわざ口に出すことではあるまいに。黙って、全財産、被災地に送ればいいだけのことすぐにやれ」(http://www.pot.co.jp/matsukuro/20110316_010929493922695.html)、という氏に対する評価(決してそんな行動はとらない)が正しいように思え、原発のリスクを理解した上で本当に「覚悟」などしているのかどうか大変に疑わしいものです。氏は「完ぺきな管理が行われれば、東京湾に原子力発電所を造ってもいい」と発言されていますが、今回の燃料プールの件も含めて、原子炉及び周辺機器、日々生みだされる放射性廃棄物の未来永劫の「完璧な管理」が可能などと本気で考えているのかどうか、大変に疑わしい。

 (私は相当に大問題であると思う)氏のこれまでの言動や行動を理解し、支持し、さらに、氏の「覚悟」を持った「原発推進の姿勢を維持」している点をも理解・支持する都民が大勢を占めるようでは、不支持派の都民(および日本人、アジアの人々)は四度目の絶望を味わうことになると思っています。

 現状で、氏を追うと云われるメジャーな2候補(※追記: お一人は、首相候補の自薦だの、勝海舟に自らをなぞらえるだの・・・トホホです)も、都民でないのでとやかく言うのも変ですけど、私にとってはなんだかな~な感じです・・・。都民の皆さんもお気の毒です。でも、都民の皆さんが気づいていない、とても良い候補者がいると私は思うのです。都民の皆さん、是非、よ~く見渡してもらえないでしょうかね。この点に関してこそ「色眼鏡をはずして」検討してほしいものです、折角の貴重な機会ですから。

 低投票率も勘弁してほしいですね。是非何らかの意思表示をしてほしいです。白票でも良いじゃないですか。立派な意思表示です。




 最後に、いつも引用させていただいている澤藤統一郎氏の記事(http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110405.html)を。反省など、全く無縁の方です。

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http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110405.html

                石原慎太郎
「震災は天罰」 発言

                                   弁護士 澤藤統一郎  目次

「天罰」
は東北に、「福利」 は首都に
                                        2011年4月5日)

 「毎日」 の読み始めは 「万能川柳」 欄から。本日の秀逸句が、「首都圏の電気 福島からと知る」 (熊本・坂の上の風)。東北出身者としては白けた気分とならざるを得ない。そんなこと、今ごろ知ったというのか。作句者には他人事なのだろう。

  今さら言うまでもないが、東京電力の原発は、福島第一(6基)・福島第二(4基)柏崎刈羽(7基)の3か所。いずれも、東京を遠く離れた 「東電エリアの外」 にある。首都の利便と安全のために、僻遠の 「化外の民」 が危険を引き受けているのだ。

  「そもそも電力は、国民必須の需要によるものてあって、電力政策の権威は産学協同に由来し、その権力は政府がこれを行使し、その危険は東北北陸が引き受け、福利は専ら首都圏がこれを享受する。これは我が国固有の歴史的構造原理であって、東電の原発経営はかかる原理に基くものである」

  だから、3月25日における、首都の知事と福島県知事の会見は、特別の意味をもつものであった。危険を東北に押しつけて利便を享受してきた首都と、リスクが顕在化した東北との、本来であれば火花を散らすべき対決である。そこで、首都の知事は 「私は今でも原発推進論者」 と言ってのけたのだ。私には、「今後とも首都の利便のために原発を推進する。電力供給は必要なのだから、被災は東北の天罰として甘受していただきたい との、彼の本音と聞こえる。

  ところが、3日のフジテレビ系公開討論会の席上、「小池()が、石原(慎太郎)が福島県で 『私は原発論者』 と発言したことを批判すると、石原氏は 『そんなことは言っていない』」 と反論、「小池氏は 『いやいやハッキリ報道されてます。ごまかさないでください と言い返した と報道されている。また、席上 「慎太郎氏は都の防災服姿。『フランスは原子力発電をうまくやっている』 『何も、原子力一辺倒と言ってるわけじゃない』 などと主張し」 たとも報じられている。何も分かっちゃいない何も反省してはいないのだ

 首都圏の心ある人々よ。数多の蝦夷の末裔たちよ。こんな人物を知事にしておいてよいのか恥ずかしくないのか
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●都知事曰く「東京に原発を」

2011年04月03日 00時04分55秒 | Weblog


NPJhttp://www.news-pj.net/index.html)に出ていた記事(http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110327.html)を紹介させていただきます。この期に及んでまだ原発推進派とは・・・。

 BLOGOSの特集(http://blogos.livedoor.com/tokyo2011/)での須田慎一郎氏によるインタビュー記事(http://news.livedoor.com/article/detail/5433912/)、11頁に渡る長いものなのですが、都民の皆さん方に是非読んで、考えていただきたいです。都民でない私がお願いするのも変なのですが。

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http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110327.html

            石原慎太郎 「震災は天罰」 発言
                             弁護士 澤藤統一郎  目次

「東京湾に原発」

                             2011年3月27日)

 朝日新聞福島総局3月25日発のニュース。「東京都の石原慎太郎知事が、福島県災害対策本部を訪れ、佐藤雄平・福島県知事と会談。会談後、石原氏は報道陣に 私は原発推進論者です、今でも。日本のような資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う』 と発言した」

 何を今さら。天罰発言をした首都の知事、かねてから原発推進の発言を繰り返してきた。このことを多くの都民に知ってもらわねばならない。

 2000
年4月27日付 「読売」 には、「東京湾に原発 石原知事が推進論」 との見出しの次の記事がある。

 「『完ぺきな管理が行われれば、東京湾に原子力発電所を造ってもいい』
  26日に東京国際フォーラム(東京・丸の内)で開かれた日本原子力産業会議の年次大会で、東京都の石原慎太郎知事が思い切った原発推進論を展開した。
  招待講演者として立った同知事は 『首都としてエネルギー問題は重要だ』 と切り出し、『どこかの新聞が 「知事がバカなことを言った」 と書くかもしれないが』 と前置きした上で、東京湾原発を容認。「(日本には)それだけの管理能力があると思うし、技術もある」 と話し、原発技術に対する信頼性を強調した」

  また、2001年5月29日の 「毎日」 は、さらに衝撃。

 「東京都の石原慎太郎知事は、28日、新潟県刈羽村の住民投票でプルサーマル計画への反対が過半数となったことについて、『一部の反体制の人たちがたきつけて、日本をぶっこわしちゃおうということだろう』 と批判した。
  環境問題をテーマにした都民との討論集会で住民投票の結果に触れ、知事は 『原子力発電所は仕事をすればするほど、危険だというわけも分からない理屈で反対している。東京湾に造ったっていいくらい日本の原発は安全だ』 と話した」

  安全を求める住民の行動は、この人の色つきメガネでは、「反体制の日本ぶっこわし」 に見える。しかも、本気で 「東京湾に造ったっていいくらい日本の原発は安全」 思い込んでいる。こんな人と 「天罰」 をともにすることはまっぴらごめんだ。



http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110329.html

佐藤春夫・宇野浩二の石原慎太郎評
                                  (2011年3月29日)

  石原慎太郎は、1956年に第34回芥川賞を受賞している。受賞作品は、「太陽の季節」。選考委員は、石川達三、井上靖、宇野浩二、川端康成、佐藤春夫、瀧井孝作、中村光夫、丹羽文雄、舟橋聖一の9名。異例というべき酷評がなされている。

  佐藤春夫はこう述べている。「僕は 『太陽の季節』 の反倫理的なのは必ずしも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸としてもっとも低級なものとみている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者の物ではないと思ったし、又この作品から作者の美的節度の欠如をみてもっとも嫌悪を禁じ得なかったこれでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。僕にとってなんの取り柄もない『太陽の季節』 を人々が当選させるという多数決に対して… これに感心したとあっては恥ずかしいから僕は選者でもこの当選には連帯責任は負わない」

  石原を 「文学者ではなく興行者」 と言い当て、「これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思った」 とは、その後の石原を見抜いている。その炯眼には敬服するよりほかはない。

  また、宇野浩二は 「読み続けていく内に、私の気持ちは、次第に、索漠としてきた、味気なくなってきた。それは、この小説は、仮に新奇な作品としても、しいて意地悪く云えば、一種の下らぬ通俗小説であり、又、作者が、あたかも時代に(あるいはジャナリズム)に迎合するように、…ほしいままな 『性』 の遊戯を出来るだけ淫猥に露骨に、書きあらわしたりしているからである」

  積極的に推したのは、舟橋聖一と石川達三。

  「純粋な快楽と、素直にまっ正面から取組んでいる点」 を評価したという舟橋の評は論外。石川は、受賞作を 「倫理性について、美的節度について問題は残っている。…危険を感じながら、しかし私は推薦していいと思った」 と述べている。『人間の壁』 を著した石川達三は、石原のその後の 「危険」をどう把握したであろう。差別発言を恥じずにくり返し、震災を天罰という 「作家」 を評価しえたろうか。

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●本物を見分ける目

2011年03月24日 04時52分37秒 | Weblog


二つ紹介します。自戒を込めて、本物の言説を見分ける目を持ちたいものです。今だからこそ。そして、手遅れでなければ、未来のために。

 一つ目は、一昨日に続き、NPJ(News for the People in Japan、http://www.news-pj.net/index.html)に出ていました弁護士の方の二つの抗議文http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110321.htmlhttp://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110322.html)をコピペさせていただきます。

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http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110321.html

社会不安を奇貨とした妄言を許すな
                     弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月21日)

  大災害は社会不安をもたらす。多くの人々の不安の心理に付け込んで、妄言を吐く輩が跋扈する。牽強付会(けんきょうふかい)に災害の原因を解釈して見せ、都合の良いように人心を誘導しようとする。混乱のさなかには、時に大きな影響をもたらす危険ある言説として警戒を要する。石原慎太郎の「天罰発言」 もその例に洩れない。

  彼によれば、震災・津波の原因は、「我欲」 と 「ポピュリズム」 にある。つまりは、国民が我欲にとらわれ、政治がポピュリズムに陥っているから、天が罰を下して、震災と津波の被害をもたらした。したがって、「津波をうまく利用して、我欲を一回洗い落とす必要がある。日本人の心のあかをね」ということになる。彼の人心誘導の方向は、「我欲を洗い流す」 ことにある。

  彼のいう 「我欲」 の内実は必ずしも明確ではないが、「我」 の 「欲」 とは、「全体の利益」 「社会の調和」 「国家の繁栄」 などと対峙する個人の権利主張と理解するほかはない。「我欲を洗い落とす必要がある」とは、全体の利益ために個の抑制を求めるもの。何のことはない、滅私奉公・尽忠報国の焼き直しイデオロギーでしかない。ささやかな庶民の願いを 「非国民の我欲」 呼ばわりして圧殺した、ほんの少しの昔を思い起こさねばならない。

  もっとも、「ささやかな」 と限定することのない我欲を正当と認める立場が、経済制度としての資本主義であり、政治思想としての個人主義ないし自由主義である。国家は個人の我欲を抑圧する必要悪と位置づけられる。現行の制度は、我欲の衝突を調整する仕組みをそなえつつ、我欲を基本的に肯定している。

  これに反して、個人の我欲を否定し、国家・社会・民族の利益を第一義とする立場が全体主義である。石原を 「弱者に冷たい新自由主義者」 とするのは、実は褒めすぎ。「全体のために個人を否定する全体主義者」と評し直さなければならない。

  恐るべきは、石原の全体主義的言動に喝采を送る一定層が存在することである。その支持のうえに、3期12年もの都政のあかがたまった。これを一気に押し流す必要がある。「天罰発言」を石原ポピュリズム清算の天恵としよう



http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110322.html

都民は被災地の声に耳を傾けよう
                     弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月22日)

  本日の毎日新聞 「記者の目」 の欄。釜石を故郷とする、社会部記者が地元に入って、災害の惨状を生々しく報告している。
  その中に、次の1節がある。

  「浜町の高台にある児童公園の物置小屋で、地元の消防団員らと夜を越す。ろうそくを囲み、気付けに回す日本酒に思いが噴き出す。『石原慎太郎(都知事)のばかたれが。何が天罰だ。おだつなよ(ふざけるなの意味)』。
  傍らから声が続く。『こんな時こそ、人間性や生き方が問われんだべよ』」

  激しく厳しい叱正と、冷静な人間評。いずれも何という痛烈な石原批判であろうか。石原は、「馬鹿たれ」 「おだつな」 と怒りをぶつけられているだけではない。人間性や生き方そのものを、根底から見すかされ否定され軽蔑されているのだ。

  この声は、一児童公園の物置にたまたま集まった人の声ではない。三陸全体の、いや東北関東被災地全土の声である。今は声を出すこともかなわない2万余の犠牲者の声であり、30万避難者の声でもある。日本全国の心ある人々の真っ当な声でもあろう。

  今、東京都民の民度が問われている都民は、このような恥さらしの人物を、またまた首長に選出するのであろうか

  政治家は、聖人君子である必要はない。しかし、庶民の悩みや苦しみを理解する能力のない者は、政治家失格である。苦悩する被災者に、「天罰」 と悪罵を投げつける石原を知事に選出するようなことがあれば、こんどは都民が日本中に恥を晒すことになる

  首都の首長選びには、全国の目がそそがれている。とりわけ、被災地から見つめられ姿勢を問われていることを忘れてはならない。投票行動によって都民の「人間性や生き方が問わている」 のだ
  石原が 「馬鹿たれ」 「おだつな」 と酷評を受けることは当然としても、都民が石原同様の批判を受けるようなことがあってはならない

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 もう一つは、THE JOURNALhttp://www.the-journal.jp/)に出ていました金平茂紀さんの記事http://www.the-journal.jp/contents/kanehira2010/2011/03/post_3.html)の一部をコピペさせていただきます。元文には現地のルポなどもあります。

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http://www.the-journal.jp/contents/kanehira2010/2011/03/post_3.html

私たちは大震災と原発惨事のさなかで何を考えるべきなのか? 

 人間の歴史には「切断点」がある。その出来事の前と後とでは、まるで風景が違って見え、価値観が変容し、情況が一変するような「切断点」がある。いま私たちはそのような「切断点」のただなかにいる。そのような「切断点」はかつてヒロシマの8月6日にあったかもしれない。あるいは1945年の8月15日にあったかもしれない。僕にはいま論理立てて今回の出来事を整序するだけの余裕がない。だから以下の文章は論理に裏打ちされたものではなく、目の前で進行している事象の素描を記すに過ぎない。だが何を記すかによって見えてくる風景はおのずと異なるだろう。

 ・・・・・・。

 福島第一原発の事故はこれまで世界で起きた原発事故のなかでも最悪級に近い様相を呈している。原子力工学とか原子炉設計とか、「原発に詳しい」専門家、学者たちが僕らのテレビ局のスタジオにやってきた。出演交渉したのは僕らの仲間だ。ある人は饒舌でまるでニュースキャスターのようだった。その後、危機が深刻化し、発電所近辺で放射線量が基準を超えるような事態になったあとも、それらの人々は「ただちに健康に害を及ぼすような量ではない」「全く健康には問題がない」などと繰り返していた。彼らにも家族がいるのだろうに。
 インターネット系のメディアは「御用学者」とストレートな表現で彼らを非難した。「御用学者」「御用マスコミ」をつくりだしたのは僕ら自身だ。原発の安全性については長く異議申し立てが行われていた事実が厳然としてある。故・高木仁三郎の残した言葉に耳を傾けてみよう。何人かのメディア学者や小説家がパニックに陥り、関西地方に家族ともども避難した。マスコミは電力会社と結託して真実を隠している、と彼らは発信している。原子力委員会や原子力安全委員会の人々はなぜか固い沈黙を守っている。有名シンガーたちがコンサートをキャンセルし、同じく関西地方に長期滞在するためのホテルを押さえたという醜悪な話が飛び交う。16日からの来日公演ステージをやりとげたシンディ・ローパーの方がよほど偉い。
 この事態に誰が何を言い、どのような行動をとるか、僕らはしっかりと見よう。誰が本物で誰が偽物かを凝視しよう。
 岩手県石巻市出身の作家・辺見庸は大震災のおそらく数週間前に『朝日ジャーナル』増刊2号に寄稿した文章「標なき終わりへの未来論」のなかで、こんなことを記していた。

すさまじい大地震がくるだろう。それをビジネスチャンスとねらっている者らはすでにいる。富める者たちはたくさん生きのこり、貧しい者たちはたくさん死ぬであろう。階級矛盾はどんどん拡大するのに、階級闘争は爆発的力をもたないだろう。性愛はますます衰頽するだろう。テクノロジーはまだまだ発展し、言語と思想はどんどん幼稚になっていくであろう。ひじょうに大きな原発事故があるだろう。労働組合はけんめいに労働者をうらぎりつづけるだろう。多くの新聞社、テレビ局が倒産するだろう。生き残ったテレビ局はそれでもバカ番組をつくりつづけるだろう。
                              (辺見、上記文章より)

 辺見は予言していたのだ。
 日本が大打撃を受けたことを見越して投機マネーがハイエナのような動きをみせて、円はあっさり戦後最高値を更新した。資本の論理とはそのようなものだ。日本の地震被害に哀悼の意を表したその同じ頭と手で、米・英・仏はリビアを空爆し(彼らは何にでも作戦名をつけるのを好む。「オデッセイの夜明け作戦」という傲慢で自己陶酔的な作戦名がつけられたそうだ。)、内戦状態にある国の一方に肩入れし、政体をひっくリ返そうとしているそれが民主主義なのだという日本の民主党政権はただちにその空爆を支持した。それを伝えるNHKの解説委員が「時間との戦いです」などと空爆全面支持をテレビでさらけ出していた。ちなみに、アメリカ政府の日本震災支援特別チームの調整役は、あの「沖縄はゆすりの名人」発言で更迭されたはずのケビン・メア国務省元日本部長がつとめており、その作戦名は「トモダチ作戦」だとか。これが僕らが直面している同盟国アメリカの支援のひとつの現実だ。
 もう一度記しておこう。この事態に誰が何を言い、どのような行動をとるか、僕らはしっかりと見よう。誰が本物で誰が偽物かを凝視しよう。
                      (大震災発生から10日目に記す。)

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●元々無い「弱者の信頼」をさらに失うことに

2011年03月22日 04時53分45秒 | Weblog


NPJ(News for the People in Japan、http://www.news-pj.net/index.html)に出ていました弁護士の方の一連の抗議文をコピペさせていただきます。

 もちろん私は、以前から反・小皇帝 石原慎太郎都知事だった訳ですから、これらの文章に大変に心揺さぶられるのは当然かもしれません。四選出馬を許し、さらに、都民の皆さんは彼を当選させるのでしょうか? 都民の皆さんは、これら一連の文章をどのようにお感じになるでしょう??

 「君の場合、到底 「謝って済む」 問題ではない」・・・というのは、原発推進者にも言えること。自民党谷垣総裁が「原発推進の見直し」を枝野官房長官に進言したそうだが、そんなことは当たり前であり、その前に言うべきことがあるはず。中曽根中曾根)氏をはじめ、この間一貫して、さんざん原発・「原子力の〝平和!?〟利用」を推進してきた自民党が言うべきことがあるのではないか?

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http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110315.html

石原慎太郎の 「震災は天罰」 発言に抗議する
                                   弁護士 澤藤統一郎

  敢えて一切の敬称を省略する。石原慎太郎は、東北太平洋沖大震災・津波の被災者に謝罪し、即刻すべての政治活動から身を退くべきである。

  複数メディアの報ずるところによれば、石原は大震災の被害を 「これはやっぱり天罰だと思う」 と記者会見の場で公言した。「津波で我欲を洗い落とせ」とも言ったという。

  その後記者から 「『天罰』 は不謹慎では」 との質問に対して、「被災した方には非常に耳障りな言葉に聞こえるかもしれませんが、と言葉を添えている」として、発言の撤回も謝罪もしていない。しかも実際には、添えられたとされる言葉はなかったという。

  かつてない大災害で万を数えようという犠牲者が出ている。多くの罹災者が家族を失い、家も職も地域社会をも失って塗炭の苦しみに嗚咽の声をあげている。そのときに、石原はこの苦しみを「天罰」と言ってのけたのだ。

  言うまでもなく、罰は罪を犯したものに対してくだされる。罹災者に何の罪があったというのか。「津波で我欲を洗い落とせ」 とは何という無神経で、心ない言葉。不用意に出た言葉としても、何という思いやりに欠けた、唾棄すべき人格であろうか。石原にとっては、この大災害の罹災者一人一人の死や離別、恐怖は、「被災者の方々はかわいそうですよ」という程度のものでしかない。

  明らかに、石原はこの発言で政治家たるの資質のないことを露わにした。少なくとも、民主主義社会において、これほど人権感覚を欠如し、これほどに国民を見下した政治家に、責任ある地位を与えておくことはできない。

  発言を撤回し謝罪するだけではたりない。政治家失格者としてあらゆる政治活動から身を退くよう、要求する。




http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110315-2.html

石原慎太郎君、君こそ 「天罰」 を甘受したまえ。
                               弁護士 澤藤統一郎

  敢えて敬称を 「君」 としよう。  石原慎太郎君、知事を辞めたまえ四選出馬を撤回したまえ。潔く、大震災・津波の被災者にたいする謝罪広告を掲出し、すべての政治活動から即刻に身を退きたまえ

  君は、大震災の被害を天罰だと記者会見の場で広言した。塗炭の苦しみを味わっている被災者を罪ある者とし、その苦しみを天罰と言ったのだ。被災者を我欲者として「津波で我欲を洗い落とせ」 とも言った。その君の罪は限りなく重い。

  君の 「天罰発言」 は、失言だとか、不用意に口が滑ったという次元の問題ではない。君の人格そのものの表出なのだ。権力者面をした君には、この大災害の被災者一人一人の死や離別の恐怖・苦悶・悲嘆に共感する能力が根本的に欠落している。このことは、民主主義社会での政治家として決定的な欠陥なのだ。

  君は、いとも簡単に 「言葉が足りなかった」 として、「謝罪し、発言を撤回した」 と報じられている。君は、自分の言葉の軽さを当然として、その撤回は可能と考えているようだが、それは心得違いも甚だしい。

  君の 「天罰発言」 は、政治家としての君の資質の欠落を露呈させたものだ。だから、政治家失格の真実を消し去ることはできない。発言を撤回したところで、君の人権感覚の欠如、国民無視の姿勢の露呈を消し去ることはできない。

  君が都知事を続けたら、不幸な都民に再度 「天罰」 と言うだろう。いや、既にこれまでも「天罰」として切り捨てられている都民を指摘することもできる。

  このたびは、謂わば君自身が君の原罪を露わにしたのだ。天罰を甘受するよりないではないか。天罰発言を撤回して、謝罪するだけでなく、知事も辞めたまえ、四選出馬を撤回したまえ、あらゆる政治活動から身を退きたまえ。それが、民主主義と人権の進展のために、君がなし得る唯一のことなのだから。




http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110317.html

石原慎太郎君、君は 「謝って済む」 立場にない。
                                  弁護士 澤藤統一郎

  石原慎太郎君。

  君は、このたびの大震災の被害を天罰だと広言し、その翌日、まことにぶざまに発言を撤回して謝罪した。しかし、君には、自らの発言の罪の深さが理解できていない。君の「天罰発言」への謝罪は、到底受け容れられるものではない。君は、今さら謝罪で許される立場にはないと知るべきだ。

  加害行為は、その態様と程度によっては、加害者の真摯な反省と謝罪が被害感情を慰藉することがある。その場合には、謝罪は被害者に受容される。つまりは、「謝って済む」ことになる。しかし、君の場合、到底 「謝って済む」 問題ではない

  尊い命を失った方、あるいは掛け替えのない家族を失って悲嘆にくれ、またあるいは恐怖と絶望に震える大震災の被災者に対して、君は 「その不幸は天罰」と言ったのだ。かつて君自身が田中均外務審議官に投げつけた言葉を借りるなら、君の発言こそが 「万死に値する」 行為なのだ。到底許されるものではない。

  私は、岩手県の出身者として知人の被災に胸を痛めているが、もとより被災者に代わって発言する資格はない。しかし、君の発言は、私の心情も大きく傷つけた。私も君の発言の被害者の一人だが、私の怒りはおさまらない。「発言の撤回と謝罪」程度で、私はけっして君を許さない。多くの被災者はなおさらのことと思う。

  あらためて要求する。石原君、即刻政治家を辞めたまえ。

  「万死に値する」 とは、君の言葉の使い方と同様レトリックでしかない。死をもって償えなどと野蛮な要求はしない。知事を辞め、四選出馬表明も撤回し、あらゆる政治活動から身を退きたまえ。それが、今君のなし得る真摯な謝罪の方法である。

  その実行があれば、私は、君の人間性と真摯さを見直し、君の発言を宥恕するにやぶさかではない。もっとも、私に比較すべくもなく大きく深く君の発言に傷つけられた被災者が、君を許すかどうか…。それは、私の忖度の限りではない。




http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110317-2.html

石原慎太郎君、君は民衆の信頼を失った。
                                 弁護士 澤藤統一郎

  君には、「天・罰」 の二文字が深く刻まれた。どのようにあがいても、もう、洗い落とすことはできない。君が人前にその姿を晒せば、人は君の額に「天・罰」 の二文字を見る。君がものを書けば、人は紙背に 「天・罰」 の二文字を読み取る。君が、何をしゃべろうと、また書こうと、「天・罰」 の二文字が君から離れることはけっしてない。

  みんなが心得ている。君の 「被災はやっぱり天罰」 「津波を利用して我欲を洗い落とす必要がある」 という言こそが君のホンネであることを。翌日の撤回と謝罪とが、選挙戦術としてのとりつくろいでしかないことを。

  唾棄すべき言論にも表現の自由は保障されよう。君がその本性をむき出しに、無慈悲で無神経な心ない言論を行うことも、君の嫌忌する日本国憲法が保障するところ。君の一個人としての不愉快な言論は自由だ。しかし、政治家としての言論は自ずから別だ。限界もあり、特別の責任が伴う

  民主主義社会における政治は、選挙民である民衆の信頼を基礎に存立している。選挙で選ばれた政治家は、選挙民の信頼に応える責任を負っている。その信頼の内容は、民衆の利益への奉仕にある。就中、最も弱い者、最も困窮している者、最も援助を必要とする者に真摯に寄り添うことにある。

  震災被災者の困窮を天罰と言い、援助の手を必要とする津波の被災者に 「我欲を洗え」 と悪罵を投げつけた君は、弱者を切り捨てたつもりが、自分への信頼を切り捨てたのだ。民衆からの信頼を根底から洗い流した。その信頼喪失の象徴が「天・罰」 の二文字である。君がいかなる美辞麗句を連ねても 「天・罰」 の二文字から君のホンネと本性が透けて見えるのだ。

  民衆からの信頼を失った政治家は潔く身を処すしか道はない。知事の職を辞し、四選出馬を断念し、あらゆる政治活動から身を退いて、民衆を蔑視し民衆の信頼を失った政治家の身の処し方を見せてもらいたい。それがせめてもの、君ができる償いであろう。


http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110318.html

石原慎太郎知事の罪と罰
                                 弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月18日)

  石原慎太郎知事は、このたびの大震災の被害を 「天罰」 と言った。
  天罰にせよ刑罰にせよ、罰は罪を犯した者に科せられる。知事は 「天罰」 という発言で、被災した無辜の被害者に対して、罪ありと指弾したのだ。「被災は自業自得」と放言したに等しい。

  知事は弁明するかも知れない。「自分は日本という国の罪を考え、日本に天罰が下ったと述べたのだ」 と。これもまた恥と愚の上塗りである。なにゆえに、国策の決定や遂行に遠い位置にある東北の人々が、また最も弱い立場の幼児や老人までもが、日本の罪を引き受けなければならないのか。なにゆえに、知事自身を含め、権力の中枢にある人々が天の鉄槌を免れているのか。

  知事の視野には、およそ空疎な 「日本」 や 「国家」 や 「民族」 だけがあって、災害に苦しむ生身の人間の姿が見えていない。このような思い上がった人物に、民主主義社会は権力も権限も与えてはならない。多くの人々の運命の帰趨にかかわる地位に置くことは、都民にとって危険極まりないからだ。

  言うまでもなく震災・津波の被災者に罪はない。被災は罰ではあり得ない。むしろ、知事の側にこそ大きな罪があり、厳しく罰せらるべきである。

  知事の 「罪」 (違法)を数え上げよう。
  公然と被災者を侮辱したこと。被災者の名誉を大きく毀損したこと。虚偽の風説を流布して被災者の信用を毀損したこと。罪のない者を罪ありと誣告したこと。知事にあるまじき愚かで心ない放言によって都民に肩身の狭い思いをさせたこと…。
  なによりも、苦悶する被災者に対する情誼を著しく欠いたこと。そして、災害を非科学的に 「天罰」 などと言ってのけ、災害の原因把握や再発予防、そして被害救済の施策と実行について根本的に無能であることを露呈したこと…。

  以上の 「罪」 に対する 「罰」 として、まずは自発的な贖罪が期待される。自ら、知事の職を辞し、四戦出馬を取りやめること。すべての政治活動から身を退くこと。
  さもなくば、天に代わって選挙民が 「罰」 を与えねばならない




http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110319.html

災害を 「天罰」 とするオカルティズムの危険
                                 弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月19日)

  未開の時代、人は災害を畏れ、これを天の啓示とした。個人の被災は個人への啓示、大災害は国家や民族が天命に反したゆえの天罰とされた。
  董仲舒の災異説によれば、天は善政あれば瑞祥を下すが、非道あれば世に災異をもたらす。地震や洪水は天の罰としての災異であるという。洋の東西を問わず古くは存在したこのような考え方は、人間の合理的思考の発達とともに克服されてきた。

  天罰思想とは、実は独善である。天命や神慮の何たるかを誰も論証することはできない。だから、歴史的には易姓革命思想において利用され、政権簒奪者のデマゴギーとして重用された。

  このたびの石原発言の中に、「残念ながら無能な内閣ができるとこういうことが起きる。村山内閣もそうだった」 との言葉があったのに驚いた。政権簒奪をねらうデマゴギーか、さもなくば合理的思考能力欠如の証明である。このように、自然災害の発生を「無能な内閣」 の存在と結びつける、非合理的な人物が首都の知事である現実に、肌が泡立つ

 また、天罰思想は災害克服に無効である。天の罰との理解においては、最重要事は災害への具体的対応ではなく、天命や神慮の内容を忖度することに終始せざるをえない。また、災害は天命のなすところと甘受することにもならざるをえない。

  本来、災害や事故に対しては、まず現状を把握して緊急に救命・救助の手を差し伸べ、復旧の方策を講じなければならない。さらに、事象の因果を正確に把握し、原因を分析し、再発防止の対策を構築しなければならない。このことは科学的思考などという大袈裟なものではなく、常識的な合理的な思考姿勢である。この常識的思考過程に、非合理的な天罰思想がはいりこむ余地はない。

  アナクロのオカルト人物が、今、何を間違ってか首都の知事の座に居ることが明白となった。このままでは、都民の命が危ない。
  都民は、愚かな知事をいだいていることの「天罰」甘受を拒絶する。都民の命と安全のために、知事には、即刻その座を退いていただきたい。



http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110320.html

日本国憲法の嘆きと願い
                                 弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月20日)

  私は 「日本国憲法」 である。
  人類の叡智の正統な承継者として1947年日本に生まれた。以後、主権者国民に育てられて地に根を下ろし、枝をひろげた大樹となっている。
  私の根幹を成すものは、「人権」 と 「民主主義」 と 「平和」 である。その各々は相互に関連し、相補うものとしてある。とりわけ、至高の価値である国民個人の人権を擁護するために民主主義が円滑に機能することが、私の切なる願いである。

  このことを、私は、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」と高らかに宣言した。

  「人権」 とは、国民の命・健康・安全・名誉・自由・財産であって、私の最も貴重とするものである。国民の代表者たる公務員・政治家は、その貴重な国民の人権を預かる者として、心して国民の福利のために献身しなければならない。
  ときに、この理をわきまえない不心得な政治家が現れることが心配でならない。

  石原慎太郎という首都の知事、何を勘違いしてか、公僕たる立場にありながら偉そうに国民に教訓を垂れたという。「津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思うとは、私にとって聞くに堪えない悲しい暴言である。

  本来石原は、被災した国民の命・健康・安全・名誉・自由・財産をいかに擁護し、いかに回復するかに心を砕かねばならない立場にある。被災を 「天罰」ということは、苦しむ国民の傷に塩を塗り込むことで、私の想像を絶する。石原は、私の目の黒いうちは、知事としても政治家としても失格というほかはない。

  しかし、私は寛容にできている。私には直接に石原を失脚させる物理的な力はなく、胸を痛めるしかない首都の主権者にお願いしたい。私に代わって石原を諭して知事の座を退くよう力を尽くしていただきたい。その実現を私は待ち望んでいる。

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