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●元々無い「弱者の信頼」をさらに失うことに

2011年03月22日 04時53分45秒 | Weblog


NPJ(News for the People in Japan、http://www.news-pj.net/index.html)に出ていました弁護士の方の一連の抗議文をコピペさせていただきます。

 もちろん私は、以前から反・小皇帝 石原慎太郎都知事だった訳ですから、これらの文章に大変に心揺さぶられるのは当然かもしれません。四選出馬を許し、さらに、都民の皆さんは彼を当選させるのでしょうか? 都民の皆さんは、これら一連の文章をどのようにお感じになるでしょう??

 「君の場合、到底 「謝って済む」 問題ではない」・・・というのは、原発推進者にも言えること。自民党谷垣総裁が「原発推進の見直し」を枝野官房長官に進言したそうだが、そんなことは当たり前であり、その前に言うべきことがあるはず。中曽根中曾根)氏をはじめ、この間一貫して、さんざん原発・「原子力の〝平和!?〟利用」を推進してきた自民党が言うべきことがあるのではないか?

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http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110315.html

石原慎太郎の 「震災は天罰」 発言に抗議する
                                   弁護士 澤藤統一郎

  敢えて一切の敬称を省略する。石原慎太郎は、東北太平洋沖大震災・津波の被災者に謝罪し、即刻すべての政治活動から身を退くべきである。

  複数メディアの報ずるところによれば、石原は大震災の被害を 「これはやっぱり天罰だと思う」 と記者会見の場で公言した。「津波で我欲を洗い落とせ」とも言ったという。

  その後記者から 「『天罰』 は不謹慎では」 との質問に対して、「被災した方には非常に耳障りな言葉に聞こえるかもしれませんが、と言葉を添えている」として、発言の撤回も謝罪もしていない。しかも実際には、添えられたとされる言葉はなかったという。

  かつてない大災害で万を数えようという犠牲者が出ている。多くの罹災者が家族を失い、家も職も地域社会をも失って塗炭の苦しみに嗚咽の声をあげている。そのときに、石原はこの苦しみを「天罰」と言ってのけたのだ。

  言うまでもなく、罰は罪を犯したものに対してくだされる。罹災者に何の罪があったというのか。「津波で我欲を洗い落とせ」 とは何という無神経で、心ない言葉。不用意に出た言葉としても、何という思いやりに欠けた、唾棄すべき人格であろうか。石原にとっては、この大災害の罹災者一人一人の死や離別、恐怖は、「被災者の方々はかわいそうですよ」という程度のものでしかない。

  明らかに、石原はこの発言で政治家たるの資質のないことを露わにした。少なくとも、民主主義社会において、これほど人権感覚を欠如し、これほどに国民を見下した政治家に、責任ある地位を与えておくことはできない。

  発言を撤回し謝罪するだけではたりない。政治家失格者としてあらゆる政治活動から身を退くよう、要求する。




http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110315-2.html

石原慎太郎君、君こそ 「天罰」 を甘受したまえ。
                               弁護士 澤藤統一郎

  敢えて敬称を 「君」 としよう。  石原慎太郎君、知事を辞めたまえ四選出馬を撤回したまえ。潔く、大震災・津波の被災者にたいする謝罪広告を掲出し、すべての政治活動から即刻に身を退きたまえ

  君は、大震災の被害を天罰だと記者会見の場で広言した。塗炭の苦しみを味わっている被災者を罪ある者とし、その苦しみを天罰と言ったのだ。被災者を我欲者として「津波で我欲を洗い落とせ」 とも言った。その君の罪は限りなく重い。

  君の 「天罰発言」 は、失言だとか、不用意に口が滑ったという次元の問題ではない。君の人格そのものの表出なのだ。権力者面をした君には、この大災害の被災者一人一人の死や離別の恐怖・苦悶・悲嘆に共感する能力が根本的に欠落している。このことは、民主主義社会での政治家として決定的な欠陥なのだ。

  君は、いとも簡単に 「言葉が足りなかった」 として、「謝罪し、発言を撤回した」 と報じられている。君は、自分の言葉の軽さを当然として、その撤回は可能と考えているようだが、それは心得違いも甚だしい。

  君の 「天罰発言」 は、政治家としての君の資質の欠落を露呈させたものだ。だから、政治家失格の真実を消し去ることはできない。発言を撤回したところで、君の人権感覚の欠如、国民無視の姿勢の露呈を消し去ることはできない。

  君が都知事を続けたら、不幸な都民に再度 「天罰」 と言うだろう。いや、既にこれまでも「天罰」として切り捨てられている都民を指摘することもできる。

  このたびは、謂わば君自身が君の原罪を露わにしたのだ。天罰を甘受するよりないではないか。天罰発言を撤回して、謝罪するだけでなく、知事も辞めたまえ、四選出馬を撤回したまえ、あらゆる政治活動から身を退きたまえ。それが、民主主義と人権の進展のために、君がなし得る唯一のことなのだから。




http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110317.html

石原慎太郎君、君は 「謝って済む」 立場にない。
                                  弁護士 澤藤統一郎

  石原慎太郎君。

  君は、このたびの大震災の被害を天罰だと広言し、その翌日、まことにぶざまに発言を撤回して謝罪した。しかし、君には、自らの発言の罪の深さが理解できていない。君の「天罰発言」への謝罪は、到底受け容れられるものではない。君は、今さら謝罪で許される立場にはないと知るべきだ。

  加害行為は、その態様と程度によっては、加害者の真摯な反省と謝罪が被害感情を慰藉することがある。その場合には、謝罪は被害者に受容される。つまりは、「謝って済む」ことになる。しかし、君の場合、到底 「謝って済む」 問題ではない

  尊い命を失った方、あるいは掛け替えのない家族を失って悲嘆にくれ、またあるいは恐怖と絶望に震える大震災の被災者に対して、君は 「その不幸は天罰」と言ったのだ。かつて君自身が田中均外務審議官に投げつけた言葉を借りるなら、君の発言こそが 「万死に値する」 行為なのだ。到底許されるものではない。

  私は、岩手県の出身者として知人の被災に胸を痛めているが、もとより被災者に代わって発言する資格はない。しかし、君の発言は、私の心情も大きく傷つけた。私も君の発言の被害者の一人だが、私の怒りはおさまらない。「発言の撤回と謝罪」程度で、私はけっして君を許さない。多くの被災者はなおさらのことと思う。

  あらためて要求する。石原君、即刻政治家を辞めたまえ。

  「万死に値する」 とは、君の言葉の使い方と同様レトリックでしかない。死をもって償えなどと野蛮な要求はしない。知事を辞め、四選出馬表明も撤回し、あらゆる政治活動から身を退きたまえ。それが、今君のなし得る真摯な謝罪の方法である。

  その実行があれば、私は、君の人間性と真摯さを見直し、君の発言を宥恕するにやぶさかではない。もっとも、私に比較すべくもなく大きく深く君の発言に傷つけられた被災者が、君を許すかどうか…。それは、私の忖度の限りではない。




http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110317-2.html

石原慎太郎君、君は民衆の信頼を失った。
                                 弁護士 澤藤統一郎

  君には、「天・罰」 の二文字が深く刻まれた。どのようにあがいても、もう、洗い落とすことはできない。君が人前にその姿を晒せば、人は君の額に「天・罰」 の二文字を見る。君がものを書けば、人は紙背に 「天・罰」 の二文字を読み取る。君が、何をしゃべろうと、また書こうと、「天・罰」 の二文字が君から離れることはけっしてない。

  みんなが心得ている。君の 「被災はやっぱり天罰」 「津波を利用して我欲を洗い落とす必要がある」 という言こそが君のホンネであることを。翌日の撤回と謝罪とが、選挙戦術としてのとりつくろいでしかないことを。

  唾棄すべき言論にも表現の自由は保障されよう。君がその本性をむき出しに、無慈悲で無神経な心ない言論を行うことも、君の嫌忌する日本国憲法が保障するところ。君の一個人としての不愉快な言論は自由だ。しかし、政治家としての言論は自ずから別だ。限界もあり、特別の責任が伴う

  民主主義社会における政治は、選挙民である民衆の信頼を基礎に存立している。選挙で選ばれた政治家は、選挙民の信頼に応える責任を負っている。その信頼の内容は、民衆の利益への奉仕にある。就中、最も弱い者、最も困窮している者、最も援助を必要とする者に真摯に寄り添うことにある。

  震災被災者の困窮を天罰と言い、援助の手を必要とする津波の被災者に 「我欲を洗え」 と悪罵を投げつけた君は、弱者を切り捨てたつもりが、自分への信頼を切り捨てたのだ。民衆からの信頼を根底から洗い流した。その信頼喪失の象徴が「天・罰」 の二文字である。君がいかなる美辞麗句を連ねても 「天・罰」 の二文字から君のホンネと本性が透けて見えるのだ。

  民衆からの信頼を失った政治家は潔く身を処すしか道はない。知事の職を辞し、四選出馬を断念し、あらゆる政治活動から身を退いて、民衆を蔑視し民衆の信頼を失った政治家の身の処し方を見せてもらいたい。それがせめてもの、君ができる償いであろう。


http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110318.html

石原慎太郎知事の罪と罰
                                 弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月18日)

  石原慎太郎知事は、このたびの大震災の被害を 「天罰」 と言った。
  天罰にせよ刑罰にせよ、罰は罪を犯した者に科せられる。知事は 「天罰」 という発言で、被災した無辜の被害者に対して、罪ありと指弾したのだ。「被災は自業自得」と放言したに等しい。

  知事は弁明するかも知れない。「自分は日本という国の罪を考え、日本に天罰が下ったと述べたのだ」 と。これもまた恥と愚の上塗りである。なにゆえに、国策の決定や遂行に遠い位置にある東北の人々が、また最も弱い立場の幼児や老人までもが、日本の罪を引き受けなければならないのか。なにゆえに、知事自身を含め、権力の中枢にある人々が天の鉄槌を免れているのか。

  知事の視野には、およそ空疎な 「日本」 や 「国家」 や 「民族」 だけがあって、災害に苦しむ生身の人間の姿が見えていない。このような思い上がった人物に、民主主義社会は権力も権限も与えてはならない。多くの人々の運命の帰趨にかかわる地位に置くことは、都民にとって危険極まりないからだ。

  言うまでもなく震災・津波の被災者に罪はない。被災は罰ではあり得ない。むしろ、知事の側にこそ大きな罪があり、厳しく罰せらるべきである。

  知事の 「罪」 (違法)を数え上げよう。
  公然と被災者を侮辱したこと。被災者の名誉を大きく毀損したこと。虚偽の風説を流布して被災者の信用を毀損したこと。罪のない者を罪ありと誣告したこと。知事にあるまじき愚かで心ない放言によって都民に肩身の狭い思いをさせたこと…。
  なによりも、苦悶する被災者に対する情誼を著しく欠いたこと。そして、災害を非科学的に 「天罰」 などと言ってのけ、災害の原因把握や再発予防、そして被害救済の施策と実行について根本的に無能であることを露呈したこと…。

  以上の 「罪」 に対する 「罰」 として、まずは自発的な贖罪が期待される。自ら、知事の職を辞し、四戦出馬を取りやめること。すべての政治活動から身を退くこと。
  さもなくば、天に代わって選挙民が 「罰」 を与えねばならない




http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110319.html

災害を 「天罰」 とするオカルティズムの危険
                                 弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月19日)

  未開の時代、人は災害を畏れ、これを天の啓示とした。個人の被災は個人への啓示、大災害は国家や民族が天命に反したゆえの天罰とされた。
  董仲舒の災異説によれば、天は善政あれば瑞祥を下すが、非道あれば世に災異をもたらす。地震や洪水は天の罰としての災異であるという。洋の東西を問わず古くは存在したこのような考え方は、人間の合理的思考の発達とともに克服されてきた。

  天罰思想とは、実は独善である。天命や神慮の何たるかを誰も論証することはできない。だから、歴史的には易姓革命思想において利用され、政権簒奪者のデマゴギーとして重用された。

  このたびの石原発言の中に、「残念ながら無能な内閣ができるとこういうことが起きる。村山内閣もそうだった」 との言葉があったのに驚いた。政権簒奪をねらうデマゴギーか、さもなくば合理的思考能力欠如の証明である。このように、自然災害の発生を「無能な内閣」 の存在と結びつける、非合理的な人物が首都の知事である現実に、肌が泡立つ

 また、天罰思想は災害克服に無効である。天の罰との理解においては、最重要事は災害への具体的対応ではなく、天命や神慮の内容を忖度することに終始せざるをえない。また、災害は天命のなすところと甘受することにもならざるをえない。

  本来、災害や事故に対しては、まず現状を把握して緊急に救命・救助の手を差し伸べ、復旧の方策を講じなければならない。さらに、事象の因果を正確に把握し、原因を分析し、再発防止の対策を構築しなければならない。このことは科学的思考などという大袈裟なものではなく、常識的な合理的な思考姿勢である。この常識的思考過程に、非合理的な天罰思想がはいりこむ余地はない。

  アナクロのオカルト人物が、今、何を間違ってか首都の知事の座に居ることが明白となった。このままでは、都民の命が危ない。
  都民は、愚かな知事をいだいていることの「天罰」甘受を拒絶する。都民の命と安全のために、知事には、即刻その座を退いていただきたい。



http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110320.html

日本国憲法の嘆きと願い
                                 弁護士 澤藤統一郎 (2011年3月20日)

  私は 「日本国憲法」 である。
  人類の叡智の正統な承継者として1947年日本に生まれた。以後、主権者国民に育てられて地に根を下ろし、枝をひろげた大樹となっている。
  私の根幹を成すものは、「人権」 と 「民主主義」 と 「平和」 である。その各々は相互に関連し、相補うものとしてある。とりわけ、至高の価値である国民個人の人権を擁護するために民主主義が円滑に機能することが、私の切なる願いである。

  このことを、私は、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」と高らかに宣言した。

  「人権」 とは、国民の命・健康・安全・名誉・自由・財産であって、私の最も貴重とするものである。国民の代表者たる公務員・政治家は、その貴重な国民の人権を預かる者として、心して国民の福利のために献身しなければならない。
  ときに、この理をわきまえない不心得な政治家が現れることが心配でならない。

  石原慎太郎という首都の知事、何を勘違いしてか、公僕たる立場にありながら偉そうに国民に教訓を垂れたという。「津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思うとは、私にとって聞くに堪えない悲しい暴言である。

  本来石原は、被災した国民の命・健康・安全・名誉・自由・財産をいかに擁護し、いかに回復するかに心を砕かねばならない立場にある。被災を 「天罰」ということは、苦しむ国民の傷に塩を塗り込むことで、私の想像を絶する。石原は、私の目の黒いうちは、知事としても政治家としても失格というほかはない。

  しかし、私は寛容にできている。私には直接に石原を失脚させる物理的な力はなく、胸を痛めるしかない首都の主権者にお願いしたい。私に代わって石原を諭して知事の座を退くよう力を尽くしていただきたい。その実現を私は待ち望んでいる。

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