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第7回 音戸の舟唄全国大会 決勝 51番 (島根県松江市の美声です)

2014-02-03 14:25:20 | 音戸の舟唄 (呉市音戸町)
2014 1/26 第7回 音戸の舟唄全国大会 決勝 51番


和楽民謡ファンのみなさまこんにちは 本日ご紹介したいのは私が隠岐しげさ節三味線の数ある先生の中でも とっても堂々とされていて心から尊敬している松江市の民謡の先生でございます 宮さんです(今大会で母の心を鷲掴みしてくださいました) 宮さんは昨年、初めて広島県呉市で開催された第6回音戸の舟唄全国大会に出場されました。 私が宮さんと初めて出会ったのは、2010年の鳥取の境港のフェリーの待合室でした。 宮さんはカッコイイ紺色の三味線のハードケースに白髪が妙に決まっていて(白髪って多いと逆に素敵なんですよ by 理容師より) 実に印象深く私にとって、カッコ良い兄様でした(同級生には見えませんでした)。 同じフェリーに乗って隠岐を目指すのでしたが・・ 待合室では大先輩だと思っていたので話かける勇気もその時の私にはなく・・ ただ、初めての隠岐でしたので、松江の治朗さんが私をエスコートしてくれたのでした 治朗さんっていう人は、本当に隠岐でも人気者でして・・ 隠岐に行っても若くて美しい民謡歌手みたいな方からも、笑顔で挨拶をもらっていたりと・・ 僕は正直、羨ましかった・・ 今、考えてみるとあの美しい女性は夢先生の娘さんだったのですね まぁ僕なんかが気軽に話かける勇気も出ず・・ あの時の僕はとにかく初めての隠岐の島に正直、ビビッていたんです。

だって隠岐って私にとって民謡の聖地だと思っていたものですからね そうそう、宮さんと接するチャンスがついに到来したのですよ 宮さんから近くに寄ってきてくれましてね フェリーの外の屋上でした 実は私は隠岐行きフェリーの中で・・ その大きな船の揺れ  に気分が悪くなっていたのでした このままでは吐いてしまう そう思った私は、気晴らしに三味線ハードケースを持ち、外の3階に向かって上がっていったのです。 大好きな三味線を弾けば、もしかしたら気分が良くなるかもしれないという一抹の期待に賭けたのでした そして私は三味線を弾き始めたのでした そこへ宮さんが近寄ってきてくれたのでした 宮さんはまず私が弾くのをじっと見ていました。 次にこう言ったのです 「この隠岐の大海原の中で三味線を弾くっていうのは素晴らしい想い出になるだろうね~ 素晴らしいことだよ~」 って笑顔で言ってくれました   今考えると・・ 逆の立場でもし私なら・・ このように言っていたと思います 「ここで三味線を弾くのは気持ちはいいだろうけれども・・ 塩がたくさん飛んでいるので皮が痛むから気をつけた方がいいよ」 ← これが普通の人間の言葉だと私は思った だがスケールの大きな宮さんは、そんな当たり前なことは言わなかった。 そこをよく理解しておきながらも決して私の喜んでいる雰囲気を崩そうとはしなかったのである・・ あえてマイナスなことを述べなかった・・ そんなことを言うよりも、私が嬉しそうに弾いていることに対して 楽しくていい思い出になるよと笑顔で伝えてくれたんだ。 なんて男らしく器が広い民謡人なのだろうと 私は今になって強く思う

確かに、あの無謀な場所で三味線を弾くのは 塩をたくさん受けダメージを食らった私の三味線の皮は、あれから2ヶ月も持たなかった・・ 皮がずれてしまったのだ 結果、張り替えることになってしまったのだったのだが・・ 私は、あの時の宮さんのやさしが今になってボディーブローのように・・ じわりじわりと心地よく心に利いてきている。 ただの上級者の立場で述べるのでは決してなく相手のレベルに応じた宮さんの言葉の投げ掛けは今の私にとっては大切な宝物そのものである。 宮さんは島根県松江市で民謡会の会主をされている。 隠岐の上級者の三味線競技でもよく参加され戦っているのだが・・ 宮さんの三味線の構えは私にとって誰よりもどっしり堂々としていて男らしくカッコイイ 顔も表情もまん前を見詰めて 微動だにしない それは例えるなら松江に立派に生えている風格の素晴らしい松そのものである。 少々の横風が吹いてきても揺れそうにない、その構えは男として非常に安定感があり、とてもカッコ良いと僕は思う。 私のような甘ちゃんは、まだ三味線を弾いている時にニヤケタリして自分の下手な技術をなんとかごまかそうとしているのが精一杯なのだが・・ 宮さんは全く違ってすごい。 例え途中でミスをしたとしても、最後まで姿勢を崩さず表情も変えず弾く姿は、私の心の中の素晴らしいお手本として生涯に渡り残ることだろう。

そのように私が弾く姿や唄う姿を・・ いつの日か誰かが目標にしてくださるような、私はそんな民謡人を目指してみたい 宮さん、治朗さん、こばさん、かをりんさん、すみれさん、赤田先生、夢先生・・ どなた様も私にとっては本来近寄ることのできないような日本を代表する民謡人ばかりです。 そんな方々が、いったいどれだけの苦労と努力を重ねて民謡道を突き進んで来られたのかと想像すると・・ 私は末恐ろしいのです でも、みなさんは私のことを可愛がってくれます。 なんでかはわかりません。 気がついたらいつの間にか(6年もの間に)すごい民謡人とお話ができるようになってたんです。 民謡の世界の方々は、なぜだかわからないけれども、初心者にもやさしいですね。 私は師匠について習ったことがございませんので本物の民謡の厳しさは全く知りません。 そういえば春コンサートの練習の時に夢先生から「伴奏者は絶対に途中で止まってはなりません」って本気で怒ってくださいました 私はあの時、正直、心に応えてしまったのでした すごく心が弱いんです  私は毎日、母と二人っきりでこれまで働きわがままに生きてきました。 人から怒られることは滅多になく自己流を通し生きて参りました。 だから私は社会の中で揉まれ鍛えられた人間ではないため(4年ほど修行時代はございましたが) 人から厳しく指摘されることに本当にめちゃくちゃ弱いんです。

夢先生は隠岐や本土の松江に生徒さんがたくさんいらっしゃいます。 その生徒さん達は、先生の指導についていっているわけです(想像です)。 すごい生徒さん達だ と思った。 こんなに心を込めて怒ってくれたり、笑顔を振りまいてくださる先生にご指導を受けることができる生徒さん達は幸せ者だと感じました。 やはり、人というのは、怒られないと駄目なんですね。 12年前に亡くなった私の父も小学生のソフトボールの監督を長年勤め上げ、おお田舎の飛渡瀬小学校(ひとのせ 母校です)をなんと全国大会3位に2度も輝やかせたのでした。 当時、その世界で父は有名でした。 日本を相手に父は競っていたのです。 父は怒る時には非常に厳しかったですが愛情も一杯注いでおりました だから子供達はついてゆけたんです。 何が述べたいのかまとめてお伝えします 夢先生が教えている民謡の生徒さんは、みんなすごい民謡人になると私は思います。 その鍛え上げられた生徒さんたちに私は立ち向かおうとしている 厳しさや愛情が半端じゃなく それらを受け継いでいらっしゃる本物の隠岐民謡の本場の生徒さん達と私は隠岐の舞台で競えるのです。 これはすごい勇気が必要だし、同時に素晴らしい経験ですし大変嬉しく有難いです

私がここにブログを書き、それが切っ掛けで今年初めて隠岐の舞台に挑戦しようとしている勇敢な民謡人が現れております なんと素晴らしい ことなのでしょうか 隠岐の舞台でツイン三味線を是非、聞いてみてくださいませ それが本物の隠岐民謡ですから(私だけの思いです)。 私だっていつの日か・・ あの舞台の上で浄土ヶ浦小唄を唄ってみたい 隠岐には、こんな素敵な風情がある曲がたくさんあるのだと伝えたい 夢は見たもの勝ちですからね~ 見たい 見よう 見る一本  本日もご拝読 誠にありがとうございます

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