NJの山花旅

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ロシア提督と戸田・天災・助け合い・伊豆めぐり(5)

2006年01月22日 13時20分17秒 | ■旅・吉野・伊豆箱根・米国・欧州など
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戸田・へだ・を見渡す展望台・夕映えの丘に立ちました。湾の北から南を眺めました。静かで美しい湾です。
しかし、数奇な歴史を秘めています。



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web 「Captain Fleet」より

1854年、米国ペリー艦隊が下田を去って4ヶ月後、ロシアのプチャーチン提督が、皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗って来航しました。
当時ロシアは、クリミヤ戦争で、その同盟国のイギリス、フランス両国との間で戦争中でしたが、アメリカが日本と和親条約を結んだことを知り、危険を冒して来航し、条約締結を求めて来たのです。
条約の内容は、水や食料の供給と千島列島の国境問題の解決にありました。
プチャーチンは、数多くの苦難を乗り越え、下田の長楽寺で日露和親条約を締結しました。

1854年11月第1回目の日露交渉が福泉寺において開かれ、双方の主張が述べられた。
その後第2回目の交渉を約束後、不運にも翌日(11/4)午前に大地震が発生し、大津波が下田をおそいました。(安政の大地震)
何度かの津波と引き潮により、ディアナ号は、42回も回転したと言われています。
プチャーチンは、ディアナ号が大破したにもかかわらず、乗員と医師を陸上に派遣し、下田の人々を救助や医療の援助をおこなっています。
この津波のためディアナ号は、自力航行不能になり、西伊豆の戸田(へだ)へ修理のため曳航中、風と波により数百隻の救助活動もむなしく、ついに宮島村沖で沈没してしまいました。
乗員約500人は、全員救助され、戸田まで歩き、収容されました。
それでも12月21日には長楽寺で日露和親条約が締結されたのです。
今でもこのときの津波で犠牲となった人達を供養する「つなみ塚」が稲田寺に残されています。



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湾の西に御浜岬があります。ここに造船郷土資料博物館があり、ロシア関係の資料もあります。修理のために戸田へ運ぼうとしたのは、アメリカに見つからないためでした。
ディアナ号を失った乗組員たちは、帰国するためにここで造船したのです。




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2 コメント

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今晩は (monkey)
2006-01-23 22:07:55
NJさま今晩は★

ロシアの交渉団が津波に遭ったのは聞いていましたが、詳しい経緯は知りませんでした。

お陰様で知識が増えました。
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monkeyさま・近代日本の歴史 (NJ)
2006-01-24 13:51:05
私は歴史に弱いのですが、日本が西欧諸国との付き合いを始め、今に至るまでのいきさつ、特に多くの犠牲が出た戦争に走るあたりまでのことをもっと知りたいと思うこの頃です。
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