竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

散り残りの松

2010-12-08 08:53:36 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(7)
 散り残りの松

 春日社歌合に、落葉といふことをよみてたてまつりし               祝部成茂
冬の来て 山もあらはに 木の葉降り のこる松さへ 峯にさびしき
 冬が訪れて山もすっかりあらわになるほど木の葉が散り落ち、ぽつんと峰に残っている常磐木の松までさびしそうに見えるよ。

 作者の祝部(ほふりべ)成茂は、日吉神社の神官の子。この歌合に初めて歌を召され、しかも後鳥羽院から「感じ思しめす」由の「御教書」を賜り、涙を流して驚喜したという。
 ところが、後世になって、多くの人から「この歌は新古今集の中の歌屑」だとされて、至って評判が悪い。「この歌、上句少しくだくだしく、三の句殊によろしからず」(本居宣長)、「げにしらべはいとめでたくあらず」(石原正明)、「漢詩の直訳にとどまったごとくで、能あるものとは思われない」(尾上柴舟)等々と、非難囂々である。ただ、歌壇などにとらわれない、リアリスト吉田兼好は、一定の水準に達していると評価している。
「新古今歌壇の空気、とくに豪邁な後鳥羽院の御鑑賞は、後世のこざかしい議論を超越している。しらべのたどたどしさや姿のうるささを押し切って詠み出した、この冬嶺孤松のさびしげな素材的美は、あまりに、しらべや姿にばかりとらわれている当時の歌の中に、それこそ孤松のごとく秀でて見えたのであろうか。」(石田吉貞)
 わたしは、過日、叡山に次ぐ天台の霊場とされている大山寺から大神山神社奥宮に至る石畳の参道を散策して、まさに「木の葉降る」景に感動した。前回取り上げた曽禰好忠も、「曇らぬ雨と木の葉降りつつ(曇らないのに降る雨として、木の葉がしきりに降っている)」と詠って、当時の歌人から顰蹙を買っているが、わたしは実景を観て、ふたりの歌人の素朴な実感が共感できるように思った。
 拙宅から望見すると、この初冬の宇迦の山肌は、殊に松枯れがひどく、「峰に散り残る松」まで紅葉しており、もはやさびしさを通り越して、虚しい気持ちに襲われる。