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「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「鳩摩羅什と玄奘」」マゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電書籍 仏教伝来と翻訳に鳩摩羅什と玄宗三蔵無しでは語ることも、日本や中国・朝鮮半島にも伝わらなかったであろう。

2019-11-12 06:37:41 | 温故知新
「鳩摩羅什と玄奘」」マゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電書籍
仏教伝来と翻訳に鳩摩羅什と玄宗三蔵無しでは語ることも、日本や中国・朝鮮半島にも伝わらなかったであろう。鳩摩羅什は西暦344~413年に西域のクチャ亀茲(きじ)国出身の大翻訳し僧。サンスクリット名クマーラジーバ「くまらじゅ」ともいう。羅什と略称されることもある。生没年は通説に従えば前期の通り350~409年という新設もある。いづれにせよ4世紀から5世紀初頭にかけて活躍した天才的学僧である。鳩摩羅什の西域における名声は中国に及んでいたので,前奏王苻堅は382年(建元18年)クチャ国を攻略倉中を虜にした。十数年間涼洲に滞在した後に、401年後秦の都長安に迎えられた。後奏王佻興は国師として迎えられ、西明閣および逍遥園で訳経に従事させた。長安における鳩摩羅什の訳経と興和は中国仏教を大乗仏教に方向づけるうえで決定的な役割を果たした。彼が翻訳した主な経論は『大品般若経』『金剛般若経』『妙法蓮華経』『維摩経』『阿弥陀経』など大乗仏教仏典「大智度論」『中論』『百論』『十二門論』『成実論』など戒律文献がある。中でも特に力を傾注したのは、大乗の空思想の的確な把握とその宣揚であった。中国仏教の龍樹系の中観思想を始めて紹介し、インド大乗仏教の正系と直結させたのは鳩摩羅什とその門下生であった。廬山の慧遠の質問に答えた『大乗仏教義章』には彼の国家によって手厚く保護された鳩摩羅什の仏教学の腐敗の兆しがなかった訳でもない。鳩摩羅什は自ら泥中に蓮華に喩、華のみを取って泥の濁りに染まるなど事を諫めた。鳩摩羅什の門下生は三千人と称されたが、とりわけ僧肇、僧叡、道生、道融は四哲として有名であった。三論、成実、天台などの中国の諸宗がのちに開かれる基礎が鳩摩羅什一門によって準備等、用意されていた。鳩摩羅什は唐代の玄奘と並ぶ大訳経僧であり、訳経史上に旧訳時代という一時期を期したと言える。
一方、大翻訳僧は玄奘(602~664)中国、唐代の仏教学者、大旅行家、俊て著名な、法相宗開創の祖。本名は禕。俗名陳氏。三蔵法師の名で知られる。洛州で602年(仁寿2年)ただし600年説もの有る。父慧の四男として誕生。幼くして敏、つねに古典を親しんでいた兄長捷につき、の洛陽の浄土寺に住し、614年(大行10)度僧の勅に応じ、人選の大理卿鄭善果にその才能を認められて出家。以降も浄土寺に留まり、景法師に厳法師にその才能を認められ師から『涅槃経』や『摂大乗論』を学ぶ。618年(武徳1年)兄に勧められて、洛陽から長安に移り、荘厳寺に住したが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌年、兄と共に蜀に向かい成都に至る。622年具足戒を受けてのち、各地の高僧を訪ね、翌年再び長安に戻り、大覚寺に住して道岳法師より『具舎論』を学び、624年、法常と僧弁の『摂大乗論』の講演に列し、両氏から大威にその将来を嘱望されたが、この頃より国内における仏教研究に限界を感じ、諸宗の疑問の解明のためにインドに留学を決意し、その準備に専念する。国外出立の公式許可を得ることが出来なかったが、627年秋8月意を決して密かに長安を出発し、天山南麓を経由して、

「平安院政の布石」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍

2019-11-12 06:35:15 | 温故知新
「平安院政の布石」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍
院政。天皇の直系尊属である上皇が国政を執る政治形態を言う。院政を行った上皇を治天の君という。上皇が国政にあずかった例は7世紀末の持統天皇から19世紀の前半の光格上皇まで断続的に見られたが、政治形態が独自の機能を発揮したのは、11世紀前半からの後、宇多院政までで、この間は院政が朝廷の政治状態であった。応徳3年(1086)白河天皇が譲位し、その後も上皇として政治に関与したのを院政の初めとするが、白河は最初から院政を行う意図ではなかった。白河は子孫に皇位を伝える為、皇太弟を予定されていた弟の輔仁を退け即日即位させた。すなわち堀河天皇であるが、天皇が8歳であったたために、白河が後見人として政治に発言、その後孫の鳥羽曾孫の崇徳と幼帝が続く中で。白河の院政が定着していった。