「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「観応の擾乱は、南北朝の内乱の際、1349年(貞和2・正平4)から1352年(文和元年)にかけて起こった室町幕府中枢部の分裂と、それによる惹き起こされ

2019-12-25 05:48:08 | 温故知新
「観応の擾乱は、南北朝の内乱の際、1349年(貞和2・正平4)から1352年(文和元年)にかけて起こった室町幕府中枢部の分裂と、それによる惹き起こされた全国的争乱。室町幕府の将軍権力は、主従制的支配権を持つ足利尊氏と統治権支配権を有する弟の足利直義によって分権的に担われていた。しかし内乱の過程において、尊氏の執事高師直が機内近国の悪党的在地武士たちを掌握して勢力を伸長させると、幕府政治の主導権をめぐって、師直派と、鎌倉以来の有力御家人を基盤とする直義派権力間で熾烈な闘争が繰り広げられた。一方、吉野の南朝は、幕府の内訌を見逃さず1347年8月に、各地に南朝軍に蜂起を命令した。南朝軍と幕府軍とは、機内各地で合戦を展開したが、直義派の細川顕氏、山名時氏の軍勢は完敗して京都へと逃げ帰った。意気上がる南朝軍は楠正行を大将に北進を続けた。12月、幕府の危機を救うために高師直の軍勢を投入させた。南北両軍は翌年1月四条畷で激突、師直軍はこの合戦で正行軍を壊滅させるや、直ちに吉野に侵入し行宮をはじめ蔵王堂以下の諸寺社を焼き払った。吉野攻略の成功によって幕府内における師直の声望が高まった。この状況を危機感を深めて直義は1349年6月、師直の室辞職罷免を尊氏に強請した。師直はこれに屈することなく、同年8月には自派を京都に結集、直義の所に逃げ込んだ尊氏邸を包囲し、逆に直義の政務を取り上げ、鎌倉から足利義詮を上洛させて政務につかせるように要求した。尊氏は、紛争を早急に解決しょうと、直義派の武将上杉重能、畠山直宗を越前に流刑、のちに殺害した。1350年(観応元年・正平5年)になると直義派の武将たちが各地で蜂起し、同年10月に、直義は京都を脱出して大和に赴き南朝に帰服した。かくして、尊氏・師直派らは直義派との全面武力対決になった。よく351年2月、摂津打出浜の合戦において高氏派は敗れ、師直・師泰らは武庫川で上杉能憲に殺害された。打出浜の勝利の結果、直義は義詮の政務を後見することになったものの内訌は鎮静化に向かわず、その後も尊氏・義詮派と直義派は全国各地で合戦を繰り返した。そのため尊氏は南朝と和睦し正平統一、駿河・伊豆で直義軍を破り、1352年正月鎌倉を占拠したうえで、2月に直義を毒殺して擾乱に終止符を打った。








「上杉一族の群像」アマゾン電子書籍紹介  中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。

2019-12-03 05:55:22 | 温故知新
「上杉一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
 中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。
 重房は宗尊親王に従って鎌倉に下向、子頼重の娘上杉清子が足利貞氏に嫁いで尊氏と直義を生んで以降、一族は足利氏に重用され繁栄する。
 頼重の子重顕が扇谷を、重顕が扇谷を、重顕の弟憲房の子重能、憲藤、憲顕がそれぞれ宅間、犬飼、山内を称する。
 貞治2年(1363)に復帰して以来、一次的を除き関東管領を独占した。宅間家は早くに衰退し、犬飼家(上杉家)は応永23年(1416)鎌倉公方足利持氏に対して謀反を起こし自害した。(上杉弾正の乱)山内家(上杉家)は上野と北武蔵を勢力圏にし、両家は15世紀半以降衝突を繰り返した。
天文15年(1546)武蔵川を越で扇谷朝定と山内憲政が連合して北北条氏康の軍勢と戦うが敗れ、扇谷朝定が戦死した。山内憲政は長尾景虎(謙信)を頼り越後に逃れ、永禄4年(1561)景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲る。謙信は越後の盟主になり頻繁に関東や信濃・北陸に出兵した。武田軍と五度の川中島の戦い繰り返したが決せず、その後領土拡大し、豊臣政権の五大老に就任し往時には120万石を有した大名であったが、謙信の没後は2人の養子、景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)が対立し、景勝が景虎を自殺させ(御館の乱)謙信の後を継いだ。
景勝は豊臣秀吉に従属し、慶長3年(1598)国替えを命じられ合図若松に120万石を領し、五大老の一人となった。しかし関ケ原の合戦に敗れたために出羽米沢30万石に減封される。米沢藩は上杉氏が13代続いたが、寛文4年(1664)15万石の減封、戊辰戦争には新政府に対抗したために、4万石に減封され、廃藩置県に至る。


「島津一族の群像」アマゾン電子書籍紹介  鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家

2019-12-03 05:48:49 | 温故知新
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 鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。
比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。
建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。
南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡大した。天正15年(1600)豊臣秀吉の侵攻によって屈服し、薩摩・大隅・日向諸県などが安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、徳川幕府の制裁を巧みに領土を保全することに成功した。江戸時代末の幕末には薩摩藩は重要な役割を果たした。













「長宗我部一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 長宗我部氏は、中世土佐の武家、長曾我部とも書く。

2019-12-03 05:45:45 | 温故知新
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長宗我部氏は、中世土佐の武家、長曾我部とも書く。
長岡郡宗部郷(元南国市)を領したことから長宗我部氏と称し、岡豊城を本拠に勢力を伸ばした。
長宗我部氏の出自には諸説はあるが、まだ明確に解っていない。
 室町期には守護細川氏の配下に属して活動していたが、永正4年((1507)京都で細川政元が暗殺されると、国内で孤立を深めていった。
 まもなく、当主長宗我部兼序(かねつぐ)は周辺の国人達に襲撃を受けて岡豊城で自害をした。
 この時、兼序の子長宗我部国親(くにちか)(1504年~1560年)は幡多郡の一条氏の下で逃れたが、やがて岡豊に戻って長宗我部氏の再興を勧めた。永禄3年(1560)国親が急死すると、その子長宗我部元親が家督を継いで近隣の国人層を次々に従えて、天正3年(1575)土佐統一を達成し、更に阿波・讃岐を制圧し、伊予にも侵攻したが、1585年に豊臣秀吉に従属を拒否し戦いになった。秀吉は毛利氏と連携し元親へ出兵を決意し、羽柴秀長を総大将として四国へ侵攻させた。多くの家臣団が参戦した。黒田孝高に淡路に先鋒と派兵した。
元親も各地に防援軍を配置した。讃岐には宇喜多秀家軍が備前・美作の兵を、播磨から蜂須賀軍を編成し、仙谷軍が加わった。秀長軍の率いる大和・和泉・紀伊の軍勢は堺から船出し阿波に土佐伯に上陸し、元親防衛戦を次々突破し、長宗我部元親は最後には折れて秀長の停戦条件を飲み降伏したのである。元親は土佐一国は安堵されて、今後、秀吉に帰順する事で終結したのである。
秀吉に敗れて服属した。
 秀吉の下で諸国を転戦するが、慶長4年(1599)に元親が死ぬと、家督を長宗我部盛親は翌年の関が原では西軍に属した。
このために、徳川家康は土佐一国を長宗我部から没収したところ、遺臣らが反発して浦戸一揆など、度々蜂起が見られた。
元和元年(1615)盛親は大坂夏の陣で敗れて殺害され、一族は滅亡した。



「伊達一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。 「伊達氏」(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山蔭流

2019-12-02 06:28:36 | 温故知新
「伊達一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
「伊達氏」(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山蔭流と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、鎌倉時代に源頼朝より伊達郡の地を与えられ伊達を名乗ったとされている。
ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。また「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を挙げている。さらに下毛野氏とする説も提唱されている。
また、常陸入道念西と伊達朝宗は別人であるという説もあり、新井白石は元禄15年(1702)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子・宗村であるとしている。
初代・朝宗以降、ほとんどの歴代当主が「宗」(むね)の通字を使用する。ただし、江戸時代に伊達綱村(仙台藩第4代藩主)が父・綱宗と同名になるのを避け、第2代・宗村に由来する「村」(むら)の字を使用してから、第8代藩主斉村までの間、「村」が通字となった。
伊達朝宗~伊達政宗(9代)~伊達稙宗~伊達晴宗~伊達輝宗~伊達政宗(17代)~伊達成実~伊達綱宗~伊達宗勝~伊達吉村~伊達宗紀~伊達宗城~伊達慶邦~伊達邦直~伊達邦成~伊達順之助。
戦国大名伊達稙宗から有力大名らと婚姻を結び、陸奥国守護となり、晴宗は奥州探題となり領土拡大していったが、嫡子晴宗と対立し、七年間にわたる「伊達氏天文の乱」を起こし一時衰退したが、輝宗が徐々に再興し
ていった。何より伊達氏を居並ぶ大名の中で吐出して勢力拡大に寄与したのは、政宗の安土桃山時代である。天正12年(1584)に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めて、会津の蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589)には蘆名氏を摺上原の戦いで破り、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大(114万石)となった。しかしこれは関白・豊臣秀吉が発した惣無事令に背くものであったため、天正18年(1590)に政宗が秀吉が服属した後の奥州仕置では会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収され、伊達氏旧領(置賜・伊達・信夫など)および田村郡72万石のみを安堵され、米沢城に戻る。さらに、同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため、翌天正19年(1591)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、旧葛西・大崎領13郡を与えるかわりに置賜や伊達郡など旧領6郡を没収されて、米沢72万石から岩手沢58万石に減封された。
政宗は岩手沢城の縄張りや改修修築を行ない、岩出山城(現:宮城県大崎市岩出山)と改名し居城とした。それでも石高で豊臣一門(猶子)の宇喜多と小早川をしのぎ、徳川(255万石)・上杉(120万石)・毛利(112万石)・前田(80万石余)・島津(61万石)に次ぐ大大名になった。。




宇都宮城の釣天井事件』アマゾン電子書籍紹介 本多正信・正純は徳川幕府創設期に幕臣として貢献し、絶大な信頼を得て、栄誉栄華を手にし、幕閣の中枢として、

2019-12-02 06:25:54 | 温故知新
『宇都宮城の釣天井事件』アマゾン電子書籍紹介
本多正信・正純は徳川幕府創設期に幕臣として貢献し、絶大な信頼を得て、栄誉栄華を手にし、幕閣の中枢として、辣腕を振るったが、創設にこれと言った功績のままに立身出世を成し遂げ、周りの大名の不手際には容赦なく制裁と罰を将軍家の意向で裁可してきた。正純は父正信、将軍家康が亡くなって後ろ盾を失い、日頃より反目する者の恨み妬みが「宇都宮城釣天井事件」の謀略が仕込まれて、失脚し惨めな最期を迎えることになった。二代将軍秀忠でさえ疎ましく思っていた。

「時代を変えた国学者」アマゾン電子書籍紹介。 近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田

2019-12-01 06:16:35 | 温故知新
「時代を変えた国学者」アマゾン電子書籍紹介。
近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田春満、賀茂真淵を経て本居宣長に至って大成したと言われるが、平田篤胤以降の幕末国学もこの流れの中にある。国学をどのように定義するかについて「道統」をどのようにとらえるかによっても異なる。既に近世にも宣長没後門人などの間では、歌学派と古道派の間に争いが見られ、近代以降になっても国学を文献学とみなす村岡典嗣、久松潜一らの立場の間に見解の相違があった。いずれにせよ、その大成者と言われる宣長の学問内に、古典に対する文献考証学的価値と復興主義的古道論の二側面をとらえ、どちらが本質か依っては学者の眼差しは分岐点来たと言っても良い。趨勢的には、戦前は国体論と結びつけて来たのに対して、戦後はその考証学的側面を近代的なものと評価する傾向がある。そうした眼差しの相違にも関わらず、今なお近代の国文学、国語学などの淵源として国学をとらえる見方は大形で一致している。しかし、それは逆に近代国文学などの学知が、繰り返し国学を淵源として「再生」させてきたことによるもので、その系譜自体を疑問視する子安宣邦らの研究もある。国学が成立以前は古典研究・歌学研究は秘事口伝、古今伝授として相承されてきたが、これも疑義を呈した先駆者としては戸田茂睡、下河辺長流などが知られる。元禄初期の大坂妙法寺の僧、契沖はそのうえに書誌研究や言語的研究といった文献的方法に研究を加えて、国学者の先駆者としての位置づけている。



「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。 弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛

2019-12-01 06:13:14 | 温故知新
「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。
弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛利氏に挑発、大内氏の旧臣を引き継ぎ拡大路線で戦線をを広げる安芸の厳島に進駐した陶晴賢軍を急襲して全滅させた戦い。
天文20年(1551)大内義隆を倒した陶晴賢は、内海交通の要所の厳島を支配下に収めた。元就は当初晴賢に協力したが、1554年陶氏と絶ち、安芸西南部の諸城から陶軍を追い占領した。晴賢は1555年9月厳島に上陸、塔岡に本陣を置き、毛利軍が拠守する同島北部の宮尾城を攻撃した。毛利氏は同月晦日夜、暴風雨に乗じて反撃を決行、元就の本隊が島の北部包浦に上陸、山越えして背後から晴賢の本陣を急襲し、小早川隆景の水軍が鳥居沖で晴賢の水軍を破り、退路を断ったので、晴賢は敗走して山中で自刃し、陶軍は完敗した。


「時代を変えた国学者」アマゾン電子書籍紹介。 近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田春満

2019-12-01 06:10:13 | 温故知新
「時代を変えた国学者」アマゾン電子書籍紹介。
近世に起こった日本古典や古代史文化「古道」を考究、研究する学門の総称。一般には契沖を創設者として「荷田春満、賀茂真淵を経て本居宣長に至って大成したと言われるが、平田篤胤以降の幕末国学もこの流れの中にある。国学をどのように定義するかについて「道統」をどのようにとらえるかによっても異なる。既に近世にも宣長没後門人などの間では、歌学派と古道派の間に争いが見られ、近代以降になっても国学を文献学とみなす村岡典嗣、久松潜一らの立場の間に見解の相違があった。いずれにせよ、その大成者と言われる宣長の学問内に、古典に対する文献考証学的価値と復興主義的古道論の二側面をとらえ、どちらが本質か依っては学者の眼差しは分岐点来たと言っても良い。趨勢的には、戦前は国体論と結びつけて来たのに対して、戦後はその考証学的側面を近代的なものと評価する傾向がある。そうした眼差しの相違にも関わらず、今なお近代の国文学、国語学などの淵源として国学をとらえる見方は大形で一致している。しかし、それは逆に近代国文学などの学知が、繰り返し国学を淵源として「再生」させてきたことによるもので、その系譜自体を疑問視する子安宣邦らの研究もある。国学が成立以前は古典研究・歌学研究は秘事口伝、古今伝授として相承されてきたが、これも疑義を呈した先駆者としては戸田茂睡、下河辺長流などが知られる。元禄初期の大坂妙法寺の僧、契沖はそのうえに書誌研究や言語的研究といった文献的方法に研究を加えて、国学者の先駆者としての位置づけている。






「歴史の回想・大政翼賛会」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍

2019-12-01 06:06:04 | 温故知新
「歴史の回想・大政翼賛会」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書籍
大政翼賛会は昭和15年(1940)から終戦の昭和20年まで5年間で発足したアジア・太平洋戦期を通じて活動した中心的国民運動と動員組織。新体制運動の結果。1940年10月12日に戦時体制を担う中核組織として結成された。近衛文麿首相が総裁を兼任し有馬頼寧が事務総長になるなど、当初は近衛グループが主導し、軍部・革新右翼がそれぞれ支えた。中央本部には総務局・組織局・政策局・企画局・議会局の5局が置かれ、地方組織として道府県支部一郡支部・6大都市支部一市区町村があり、その末端に町内会・部落会・隣組が組み込まれた。道府県支部長には途中から知事が就任し、独自の組織を作ったものの内務省の影響力を免れることができなかった。別に協議機関として中央協力会議一道府県協力会議一市区町村協力会議が置かれたが、実際には「下情上通」の組織であった。近衛グループは新党において指導権得ることを期待して解党した政党勢力を議会局に押し込んで、強力なヘゲモニーを発揮しようとしたが、近衛が主導することを嫌う観念右翼は、翼賛会を唯一の政治活動団体として政事結社を主張した。これを内務官僚や財界人などが呼応したため、結局1941年2月に公事結社と認められ、能動的な政治活動が禁止された。さらに4月の改組では有馬事務総長以下が辞任を余儀なくされ、内務省の「上意下達」の行政補助機関として機能することになった。有馬に代わる事務総長にはk大蔵官僚出身の石渡壮太朗が就任し、以後横山助成・後藤文夫・丸山鶴吉・小畑忠良・安藤狂四郎と官僚出身者が引き継いだ1942年1月には実践組織として大日本翼賛壮年団を発足させ、6月には産業報国団、商業報告国会・大日本青少年団など6団体を統合した。また8月には町内会・部落会の会長翼賛会の世話役に、隣組長を世話人に指名して事実上両組織の一体化図り、住民の日常生活を管理する唯一の国民運動組織・行政補助組織として戦争動員体制を支えた。1945年6月23日の国民義勇隊の結成に伴い解散し