「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「政僧・天海と崇伝」オンデマンド・アマゾン。@880円

2022-01-05 08:42:34 | オンデマンド・アマゾン。

『政僧・天海と崇伝』アマゾン書籍紹介
大坂の陣を勝利し、徳川幕府が開幕され、その基礎に貢献した二人の黒衣の政僧「崇伝と天海」の貢献と影響は見逃せない。
崇伝(1569)は家康に見込まれて、徳川幕府の初期の参謀役的存在で実務面で大きな発言力と、豊臣家の残党の一掃の為に方広寺鐘銘事件を提起し、紫衣事件で提起攻略と徳川幕府の諸大名の法的立案と諸法度で秩序作りで、徳川幕府の幕政の骨格を作ることに辣腕を振るった。
一方天下の知恵袋と称され天海は、江戸城築城に立地条件に有って、兵法に合理的な設計を提案し、天下の江戸城を構築した。
天海は年齢的に崇伝より年長だが、秀忠、家光に見込まれて幕政に参入し絶大な信頼とその温厚な性格から、徳川幕府の相談役と調停役に手腕を発揮した。
硬軟両者の志向は時として対立し、崇伝は臨済宗南禅寺派の再興の祖として、金地院としてその名を知らしめた。
南光院天海は天台僧として日光の輪王寺・寛永寺を建立し、家康の死後の祭祀に山王一実神道を展開し、崇伝の吉田神道の大明神の主張を打ち負かした。日光東照宮に貢献した。天海は秀忠から家光まで政僧であるながら、仏教道に徹した。


歴史の回想「古事記が紡ぐ一ノ宮の神々」オンデマンド・アマゾン。@1320円203ページ

2022-01-05 08:36:47 | オンデマンド・アマゾン。

「古事記紡ぐ一宮の神々」アマゾン書籍紹介。
『古事記』『日本書紀』 には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。
特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。
また古くより先住し、御神体が山々に磐座に鎮座する崇敬の信仰、氏族の祖神を祀る古代の豪族の神社など、地域に根付いた崇敬の神々が存在した。 
六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、崇敬、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。
本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。 
天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は、一つの流れは大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、二つ目の流れは大和から能登、越中、越後へ、三つ目の流れは大和から丹波、出雲、への流れがあるようだ。
大和国一ノ宮は大神神社の祭神大物主神は大国主神と同一神とされる神で、天孫降臨の子々孫々は大和国から国津神を一掃できなかった。
大和を拠点の天孫も天武朝の少し前の五世紀から六世紀に伊勢に鎮座を見た。住氏族、部族、豪族の祖神、氏神が諸国多く見られ、潮流によって北上し漂着、土着し祖神を祀った。
地主神としてその地域の神として鎮座、君臨する神など居たと思われる。 
一早く天孫の軍神となった四道将軍も派遣され、その地で土着し氏族の祖神となる場合など元来の地主神と融和をした。
渡来系の神々に、日本人の起源を考えてきた場合、縄文時代後期から弥生時代にかけて七倍ほどの人口増と周辺諸国からの流入が考えられる。
先住氏族と征服氏族らの天津神系も多種多様に戦いと融和を重ねながら、包み込み生み出されていった「八百万の神々」なのである。
平安時代から鎌倉時代にかけ、形成されていった一ノ宮は諸国の神社に熾烈な争いを巻き起こし、神仏習合と相成って明治の神仏分離令まで変遷を繰り返した。
今尚残る全国の地名に一ノ宮は往時の一ノ宮への威信かけた軌跡である。


歴史の回想・「重源」オンデマンド・アマゾン。@1100円124ページ

2022-01-05 08:31:31 | オンデマンド・アマゾン。
重源は保安二年(1121)生まれ、紀氏の出身。父紀季重の子。紀氏は大和国は平郡県紀里を本拠にした豪族の流れをくむ、重源は平郡で生まれ、俗名刑部左衛門尉重定。
一二歳の時に京都は真言宗の醍醐寺に入り出家する。
 醍醐寺は空海の孫弟子の聖宝が貞観一六年(874)に上醍醐准胝観音本尊・如意輪観音を安置して開山した。
その後,下醍醐も堂塔が立ち並び、五重塔は京都で一番古い建造物となっている。
醍醐寺も落雷による焼失、戦火による焼失と、再建と消失と繰り返してきた。
 重源が出家した修行の地は現在の下醍醐と違って西国一の険しい札所で知られている。かつては上がり口には結界があって、女人禁制で信仰の道場であった。
一二歳の重源は日々厳しい修業に励み、早朝より薬師堂・醍醐寺の鎮守神で有る清瀧権現拝殿・准胝堂・五大堂などへの勤行を勤める。
 醍醐山の頂上(標高450M)には如意輪堂と開山堂・白山権現が立ち並び山頂笠取山に向かう途中に奥の院がある。

「芭蕉紀行漂泊の憧憬」オンデマンド・アマゾン。@1540円

2022-01-05 08:26:24 | オンデマンド・アマゾン。

『芭蕉紀行漂泊の憧憬』アマゾン書籍
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。」
この名文は誰もが知っている芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭の名文である。
 感銘ある言葉の響きは、哲学を秘めた生死観であり、凝縮された人生観である。
紀行文は見聞録として江戸時代中期の陸奥、北陸などの地方の世相、世情を後世に伝える歴史の確認の指標である。
古人の足跡と古歌、神話の説話や西行の歌枕を辿りながら、時には杜甫の漢詩の一節を思い出しながら、俳諧の人脈を通じて名所、古跡の奥州と、その時代の情景、日々の暮らしとその光景が、紀行記述が俳諧を通じて味わい深い言葉で綴られている。
感性に満ち溢れた美的表現の枠を極めている。この最初に出てくる冒頭文で全体の作者の思いが察知できると言うものである。
また芭蕉は流派や大店の旦那衆の句会の連歌の集まりに、机上の俳諧より、広い世間に見聞する為に、身の危険も顧みず、未知の世界のみちのくの旅へ、思い立たせたのではないだろうか、それは芭蕉の気宇壮大な自然と人々の日々の生業と森羅万象の移り変わりを句に表すことに意図とした旅でもあった。
それはとりもなおさず、芭蕉の理念や信念や崇高な世界観の評価より、今から三百年余り前の陸奥、北陸地方の農民は漁民の日々の暮らしの句や紀行文にしたためたことと、また名所古跡や先人の流浪の足跡を記述に残したことと、また時間を隔てて今、その時代を世情,今、改めて足跡を辿るに、芭蕉の偉大さは今から三百年余りの江戸時代の「みちのく」の美景、情景、旅情を、独自の史観と世界観を持って切り取り、句に詩に、その思いや考えを込めて「おくのほそ道」に書き綴った功績は大きい。
書き綴られた「おくのほそ道」によって、後世の今、我々は当時の様々な美景、情景、旅情を句や詩の独自な表現を通じて知ることができた。
芭蕉のみちのく旅の「おくのほそ道」の行程予定は「歌枕」「古歌」の名所を辿ることで、おおよそ、その地図とその足跡が見えてくる。
先人に学び貴ぶ謙虚な芭蕉の姿勢が読み取れる。現代人には、その先人への畏敬と謙虚さが欠落していることを、「紀行文」が教えている。
また芭蕉の物事の興味旺盛は物見遊山のなかに、土地土地の人々の暮らしぶりを観察し俳句に綴っていく紀行であった。
また道中の出来事風景や習慣、習わしを詳しく書き残したことで元禄二年(1689)の時代背景を知ることが出来る。


「日本仏教十三宗・諸派総覧」オンデマンド・アマゾン。@1540円

2022-01-05 08:23:31 | オンデマンド・アマゾン。

『日本仏教十三宗諸派総覧』アマゾン電子書籍紹介。
「十三宗五十六派」とは、宗教団体法が施行される、昭和15年(1940)以前に日本の仏教の成立から見て、教義・歴史・伝統がその根本にある宗派のことである。
仏教歴史上、古代時代・中世時代・近世時代に立宗し日本を代表し存続し影響し続けた仏教宗派である。
「十三宗」とは、それぞれの宗旨のことである。「五十六派」とは、それぞれの分派のことである。宗教学上で仏教の伝統宗教と定義されるのは、この五十六宗派に基づく。また、歴史教科書に書かれる鎌倉祖師たちの宗名は宗旨のことである。
ただし、法相宗、華厳宗、律宗、融通念仏宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗は、宗派に分かれていないため、宗旨と宗派が同一である。また天台宗・浄土宗・日蓮宗のように宗派名が宗旨名と同一の場合でも、他派を従属するものではなく、本末・包括関係もない。
「十三宗五十六派」と言われた時代から、時代の変遷で、離合集散、栄光衰退、宗派間の攻防などで、攻防は繰り返し、吸収されたり、消え去った宗派も少なくない。
ここに伝統的に宗派として存続した仏教伝承から時代の趨勢に消え去った宗派まで網羅し、列挙し日本の歴史の重要な要因として明記した。


「太閤の夢の夢」オンデマンド・アマゾン。@1760円302ページ

2022-01-05 07:52:41 | オンデマンド・アマゾン。

「太閤の夢の夢」
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。
 織田信長が西暦1534年六月生まれ、豊臣秀吉が西暦1537年三月生まれ、徳川家康が西暦1543年一月生まれで三傑の年齢差は三歳・六歳違いのほぼ同世代の英雄である。
農民の子として生まれ天下人になり立身出世した。
 天下統一を果たした織田信長の家臣として活躍後、信長の本能寺の横死後に後継者争いに勝利を収めた。 柴田勝家・徳川家康を押さえて関白に任官し、紀伊・四国・越中攻略など経て九州平定・小田原征伐を終えて盤石な天下統一を果たした。
 日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。
 秀吉の野望は日本の遥か周辺国に目が向けらえて、朝鮮出兵で多大な損失を受けた。あろうことか中国の明をを支配下に置く野望を持ったが、秀吉死去などうやむやの内に敗北を帰した。秀吉は後継者に恵まれず、甥の秀次に関白に譲るが、皮肉にもその後継子・秀頼の誕生に溺愛、老いの一徹、非情な秀次切腹事件で晩成を汚しつつ、慶長三年(1598)八月一八日に六二歳で没した。


歴史の回想「日本神道の神々」アマゾン・オンデマンド@1210円

2022-01-05 07:25:40 | オンデマンド・アマゾン。

日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞穴や奇岩、巨木に巨大岩石に峻険な峰々に精霊を感じ信仰されていった。また大自然の海や川、山岳に畏敬の念をもって祀られていた。それぞれの地域に集団で氏族が形成され、一族の崇敬する祭神が氏族の団結を高めていき、古神道が生まれていった。『記紀』が成立し、神話の世界から天地創造の神々が生まれ、いち早く地方へと神々の伝播されていった。仏教伝来と同時に、時代を経て融和、同化していった。それが「神仏習合であった。千年以上も神仏習合の歴史文化が明治維新の神仏分離令を持って、分別されていった。今や神社数、仏教寺院数はほぼ同じ勢力を持って棲み分け作って共存している。再び過去の日本神道は振り返って神道はどう進化と変化をしてきたか検証して見た。