「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「古河公方の攻防」アマゾン電子電子書籍紹介。。 古河公方は室町中期から戦国期にかけて下総国古河を拠点に活動した足利氏小姓である。鎌倉公方に足利成氏が、

2019-10-31 05:14:02 | 温故知新
「古河公方の攻防」アマゾン電子電子書籍紹介。。
古河公方は室町中期から戦国期にかけて下総国古河を拠点に活動した足利氏小姓である。鎌倉公方に足利成氏が、上杉氏に対立して康正元年(1455)頃古河に入ったことに始まる。成氏氏は梁田氏や重臣たちを近隣に配置し、お山・結城氏ら北関東の大名たちを従えて、
上杉氏と戦いを続け享徳の乱室町後期の関東で展開された内乱。鎌倉公方が古河公方に拠点を移し関東管領の上杉氏派の戦で、20年間近く及んだ。享徳3年(1454)足利氏は上杉氏を遂に成氏氏が関東管領の上杉憲忠しを謀殺したのである。そのことを機に、翌年より本格的戦乱状況に入った。成氏氏はその時の拠点が下総古河を居所として、梁田ら重臣と直臣たち遠山・結城氏ら北関東の大名たちと糾合し、対する上杉方は武蔵五十子を拠点に山内・扇谷両上杉しとその家老ら、さらに越後の上杉氏ら連合して対抗した。結局講和してその地位を保った。成氏の子政氏と、その子も多か高基の子も、大名ららの支持を得て活動したが、高基の子の足利晴氏が北条と結んだためその影響に置かれ、次の義氏は完全に同氏が男子がなく死去すると攻防は消滅するが、娘が家を継承し、近世には喜



「大坂城代の歳時記」アマゾン電子電子書籍紹介。 大坂城代は江戸幕府の職名。将軍たる大坂城に常駐してこれを守備、守衛するとともに、大阪在勤中の幕府諸役人

2019-10-31 05:11:43 | 温故知新
「大坂城代の歳時記」アマゾン電子電子書籍紹介。
大坂城代は江戸幕府の職名。将軍たる大坂城に常駐してこれを守備、守衛するとともに、大阪在勤中の幕府諸役人の最高責任者として政務を統轄した。併せて西日本諸大名の監視の任務と非常時における軍事指揮権を持っていた。大坂は元和元年(1615)の大坂城落城、松平忠明の城主時代を経て1619年幕府の直轄地となり、内藤正信(1568~1626)が最初の大坂城代に就任。任期は不定期で幕末まで続き伸べ70代を数えた。江戸時代中期以降は奏者番兼寺社奉行から大坂城代に進み、さらに京都所司代に、そして老中に進む昇進事例が多かった。また坂城代の下に大坂在番が置かれた。大坂在番は、大坂城代の指揮下にあって大坂城の警備の常駐と幕府軍事組織で、定番・大番・加番・目付をさす大阪定番は、京橋口定番と、玉造口定番の定員2名で、1,2万国の譜代大名が選ばれた。任期不定。大坂大番は、東大番と西大番があり、それぞれ大番頭が1名、大番衆0名からなっている。大阪加番は、大判を補強するためにあり、山里加番・中小屋加番・青屋口加番・雁木坂加番・の4加番・がある、3万から1万国級の譜代大名が選ばれ任期は1年。大坂目付は大坂在勤の1万石以下の役人を監視する役目で定員2名からなる。旗本から選任され任期は1年が基準であった。



「歴史の回想・GHQ」アマゾン電子書籍紹介。 GHQは連合国最高司令官総司令部の略称で第二次世界大戦後、日本が連合国の占領下に置かれたときの日本占領管理機

2019-10-31 05:09:03 | 温故知新
「歴史の回想・GHQ」アマゾン電子書籍紹介。
GHQは連合国最高司令官総司令部の略称で第二次世界大戦後、日本が連合国の占領下に置かれたときの日本占領管理機関の一つであり、極東委員会およびアメリカ政府の対日占領政策の実施機関。俗称に連合国総司令部、連合国総司令部、総司令部、最高司令部などがある。昭和20年(1945)10月2日成立、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効と同時に廃止。戦後設置された米太平洋陸軍総司令部は東京有楽町の第一生命ビルを本部として何か所に分駐した。GHQは参謀本部・幕僚部から構成され、軍事的機能を果たす米太平洋陸軍の内、極東軍、総司令部と非軍事機能(民事)を果たす連合国最高司令官総司令部の二重構造になしている。すなわち幕僚部はスタッフ機能を果たし、SCAPの局長はしばしばFECの部長を兼任することもあった。参謀部(参謀課長、副参謀長、参謀長補佐=第一部長~第4部長)はライン機能を果たし最高司令官の命令は参謀長―副参謀長を経て管下部隊に伝達された。GHQ幕僚長の構成は費用に応じて存廃が決せられたが、極東軍事裁判を担当した国際検察局(1945年12月8日設立~1949年2月12日廃止)法務局財政・経済を担当した経済科学局、マスコミ、宗教、教育関係の民間情報教育局、放送、郵便、電話関係(1945年10月2日~1952年4月28日)民間通信局、立法、行政、地方自治など13局はそれぞれ設置と廃止が定めらえた。管理監督、許認可など絶大な権力行使ができるGHQ内部の部局





「天狗党の乱・幕末に舞う」アマゾン電子電子書籍紹介。

2019-10-30 06:40:35 | 温故知新
「天狗党の乱・幕末に舞う」アマゾン電子電子書籍紹介。
「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。






「京都所司代の歳時記」アマゾン電子電子書籍紹介。 京都所司代は所司の代官の意味で、室町幕府の侍所、所司をさす。所司の被官がこれを務めた。室町以降になると

2019-10-30 05:50:01 | 温故知新
「京都所司代の歳時記」アマゾン電子電子書籍紹介。
京都所司代は所司の代官の意味で、室町幕府の侍所、所司をさす。所司の被官がこれを務めた。室町以降になると、所司代がさらにその家人を小所司代に任命し、雑事を務めさせるようになる。室町時代の侍所は京中の検断・断罪を掌握としており、所司代は小舎人・雑色らを指揮して将軍外出の警護、犯罪人の逮捕などにあたった。京極持清の下で同役を務めた多賀高忠や、赤松政則の下で活躍した浦上政則の下で活躍した。応仁文明の乱後は、所司補任が断絶するとととに同代官として所司代も廃絶したが、戦国時代以降、時々の権力者は京都を実質的に支配する要職に所司代の名を用いた。



「応仁の乱の群像」アマゾン電子電子書籍紹介。 応仁・文明の乱は応仁元年(1467)~文明9年(1477)、越後・信濃・駿河以東と南九州を除く、諸国の守

2019-10-30 05:47:09 | 温故知新
「応仁の乱の群像」アマゾン電子電子書籍紹介。
応仁・文明の乱は応仁元年(1467)~文明9年(1477)、越後・信濃・駿河以東と南九州を除く、諸国の守護らが細川勝元と山名持豊(宗全)を領軸にして東西両軍に分かれ、京都を中心舞台にして戦った大乱。
原因は土一揆、徳政一揆に代表される庶民の成長・台頭が荘園制や守護国制の基盤を揺るがす大事件「嘉吉の乱」で矛盾を露呈し幕府権力の弱体化が、将軍足利義政の下でさらに進み、政治も混乱の度を越えたこと、長禄・寛正の飢饉が起こり、社会不安が広がったこと、などを背景に上げらえる。乱の直後原因は、将軍家や畠山氏・斯波氏などの有力守護家に家督争いが起こり、幕府の実権を争う勝元と宗全がそれぞれを支援して、二大派閥が形成されたことにある。畠山氏では享徳3年(1454)畠山持国の後継者畠山義就に反発する被官らが持国の甥弥三郎を擁立、勝元も弥三郎・政長を支持した。義就は寛正元年(1460)政長はじめ幕府軍の追討受け、足掛け4年間河内嶽山城に籠城した。この嶽山合戦が、応仁・文明の乱の前哨戦となった。斯波氏では、義建の死後一族の斯波義敏が継いだが守護代と対立して失脚、宗全が画策して渋川義鎮の子斯波義康が後を継ぎ、義敏は勝元を頼った。将軍義政が定見もなく守護監督の安堵と追放を繰り返したことで守護家の家督争いは一層抜き差しならないものとなり、細川・山名領派閥の形成と対立の深刻化を助長することとなった。一方、将軍義政にははじめ男子がいなく、弟足利義視を後継者と定めた。しかし1465年義政室日野富子の足利義尚が生まれ、その庇護を宗全に託した。1467年正月に宗全の支援を受けた畠山義就が赦免され、勝元方に管領畠山政長は失脚、斯波、司馬義康が慣例に任じられた。政長は京都上御霊神社で義就と戦ったものの退却し、上御霊神社の戦いが、大乱の導火線となった。緒戦に敗れた勝元は、山名方の領国でゲリラ活動に出て行動を開始、ついに細川一族の成之・常有・勝久、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢、畠山政長らの軍勢を京都に集めた。これに対抗して山名側も、一族の勝豊、畠山義就、六角義直、管領の斯波義康、畠山義統、六角高頼、土岐成頼、一色義直、管領の斯波義康、畠山義就らが集結した。そして5月26日、細川方から山名方を攻撃して、大乱の幕が切って落とされた。細川方は室町第(花の御所)と細川邸を本営として、山名方はその西側の堀川を隔てた山名邸を本営とされた。細川方は東軍、山名方は西軍と呼ばれた。東軍の兵力は16万1500余名、西軍方は大内軍を加えて11万6000余名の戦力で約10年間、京都を荒廃させ不毛な戦いが繰り広げられた。





「鳩摩羅什と玄奘」アマゾン電子電子書籍紹介。 仏教伝来と翻訳に鳩摩羅什と玄宗三蔵無しでは語ることも、日本や中国・朝鮮半島にも伝わらなかったであろう。

2019-10-29 05:39:15 | 温故知新
「鳩摩羅什と玄奘」アマゾン電子電子書籍紹介。
仏教伝来と翻訳に鳩摩羅什と玄宗三蔵無しでは語ることも、日本や中国・朝鮮半島にも伝わらなかったであろう。鳩摩羅什は西暦344~413年に西域のクチャ亀茲(きじ)国出身の大翻訳し僧。サンスクリット名クマーラジーバ「くまらじゅ」ともいう。羅什と略称されることもある。生没年は通説に従えば前期の通り350~409年という新設もある。いづれにせよ4世紀から5世紀初頭にかけて活躍した天才的学僧である。鳩摩羅什の西域における名声は中国に及んでいたので,前奏王苻堅は382年(建元18年)クチャ国を攻略倉中を虜にした。十数年間涼洲に滞在した後に、401年後秦の都長安に迎えられた。後奏王佻興は国師として迎えられ、西明閣および逍遥園で訳経に従事させた。長安における鳩摩羅什の訳経と興和は中国仏教を大乗仏教に方向づけるうえで決定的な役割を果たした。彼が翻訳した主な経論は『大品般若経』『金剛般若経』『妙法蓮華経』『維摩経』『阿弥陀経』など大乗仏教仏典「大智度論」『中論』『百論』『十二門論』『成実論』など戒律文献がある。中でも特に力を傾注したのは、大乗の空思想の的確な把握とその宣揚であった。中国仏教の龍樹系の中観思想を始めて紹介し、インド大乗仏教の正系と直結させたのは鳩摩羅什とその門下生であった。廬山の慧遠の質問に答えた『大乗仏教義章』には彼の国家によって手厚く保護された鳩摩羅什の仏教学の腐敗の兆しがなかった訳でもない。鳩摩羅什は自ら泥中に蓮華に喩、華のみを取って泥の濁りに染まるなど事を諫めた。鳩摩羅什の門下生は三千人と称されたが、とりわけ僧肇、僧叡、道生、道融は四哲として有名であった。三論、成実、天台などの中国の諸宗がのちに開かれる基礎が鳩摩羅什一門によって準備等、用意されていた。鳩摩羅什は唐代の玄奘と並ぶ大訳経僧であり、訳経史上に旧訳時代という一時期を期したと言える。
一方、大翻訳僧は玄奘(602~664)中国、唐代の仏教学者、大旅行家、俊て著名な、法相宗開創の祖。本名は禕。俗名陳氏。三蔵法師の名で知られる。洛州で602年(仁寿2年)ただし600年説もの有る。父慧の四男として誕生。幼くして敏、つねに古典を親しんでいた兄長捷につき、の洛陽の浄土寺に住し、614年(大行10)度僧の勅に応じ、人選の大理卿鄭善果にその才能を認められて出家。以降も浄土寺に留まり、景法師に厳法師にその才能を認められ師から『涅槃経』や『摂大乗論』を学ぶ。618年(武徳1年)兄に勧められて、洛陽から長安に移り、荘厳寺に住したが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌年、兄と共に蜀に向かい成都に至る。622年具足戒を受けてのち、各地の高僧を訪ね、翌年再び長安に戻り、大覚寺に住して道岳法師より『具舎論』を学び、624年、法常と僧弁の『摂大乗論』の講演に列し、両氏から大威にその将来を嘱望されたが、この頃より国内における仏教研究に限界を感じ、諸宗の疑問の解明のためにインドに留学を決意し、その準備に専念する。国外出立の公式許可を得ることが出来なかったが、627年秋8月意を決して密かに長安を出発し、天山南麓を経由して、


「新選組の佐幕の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。 幕末・維新期に佐幕浪士隊。新選組とも書く、幕府は浪士取り締まりに武芸上達の者を取りたてて浪士組を編成し

2019-10-29 05:36:42 | 温故知新
「新選組の佐幕の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。
幕末・維新期に佐幕浪士隊。新選組とも書く、幕府は浪士取り締まりに武芸上達の者を取りたてて浪士組を編成し、文久3年(1863)2月、将軍徳川家茂の警護を名目として上洛させた。その際の指導者清河八郎(幕末末期の攘夷運動家。本名は斎藤元司。出羽国田川郡清川村の豪農の、名主斎藤治兵衛の長男。弘化4年(1847)江戸に出て古学の東条一堂に入門。嘉永4年(1851)北辰一刀流の千葉周作に入門し、神田美川町で文芸塾を開き、近藤らと出会い、新選組に合流することになるが、考えが違った)清河八郎は国事掛に出入りし攘夷実行すべきとめざし動き始めたため、同年3月に江戸に呼び戻された。この時、京都に残留した芹沢、近藤勇・土方歳三らは、京都守護職松平容保の支配下に属し、京都近郊の壬生村に屯所を置いて新選組と名乗った。将軍身辺の警固から京都治安維持にあたり、尊王攘夷派志士の弾圧に努め、壬生浪人として恐れられた。無謀は行いが多かった初代局長芹沢鴨を斬殺したのち、新選組の実権は局長近藤勇、副長土方歳三らが握った。元治元年(1864)6月、池田屋事件、7月の蛤門の変における活動を頂点とし、その後も尊王攘夷派浪士を取り締まりにあたる。慶応4年(1868)正月鳥羽伏見の戦いには幕府軍に加わって敗れ、江戸に帰る。同年3月改めて近藤勇は甲陽鎮撫隊を編成し、甲斐国勝沼まで出兵して官軍と抗戦するが敗退、ここで実質的解隊に追い込まれる。その後近藤は下総流山で捕らえられる。、江戸板橋で処刑され、土方は翌年に箱館五稜郭で戦死した。



「天誅組の攘夷の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。 文久3年(1863)に尊王攘夷派の激派が大和に挙兵した事件。天誅組とも書く。大和五条の変ともいう。18

2019-10-29 05:34:12 | 温故知新
「天誅組の攘夷の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。
文久3年(1863)に尊王攘夷派の激派が大和に挙兵した事件。天誅組とも書く。大和五条の変ともいう。1863年は尊攘派が京都朝廷を制し、8月に孝明天皇の大和行幸が決定した。これを契機に、尊攘派の激派、土佐の吉村虎太郎、元刈谷藩士、松本奎堂、備前の藤本鉄石らは天誅組を結成し、中山忠能の七男の中山忠光を擁して8月14日に大和に挙兵し、河内の庄屋らも参加した。幕府の五条代官所を襲撃して、代官ら殺害し、同町に本陣を置き、五条を朝廷領とし年貢半減を布告した。しかし、八月十八日の政変により尊攘派が京都から追放され、大和行幸が取りやめになった。天誅組は十津川郷士1000余人に糾合し、8月26日高取城を攻撃した。ここで高取藩兵に敗れ、十津川郷士も離反したため、吉野から河内へ脱出を図った。途中の大和国吉野郡鷲口で彦根・津・和歌山の諸藩に敗北し9月25日に壊滅した。藤本・松本・吉村らは戦死し、中山ら7名が長州藩大坂藩邸に逃げた。


「九州探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電書籍

2019-10-28 06:45:48 | 温故知新
「九州探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電書籍「はじめに」九州探題は室地幕府が九州の軍事統率の為設置した機関。鎌倉幕府が設置した鎮西探題と区別をする。実質的九州探題の任に始めて着いたのは一色範氏であった。子の直氏の九州下向後は直氏が探題になり、父子一体となって経営をした。恩王の遊覧の一時期、足利直冬鎮西探題に就任したが、間もなく九州の地を離れた。康元元年(1361)には藩氏・直氏の後任として斯波氏経が九州に下向したが、征西将軍宮の全盛期時代であった。任務遂行に出来ないまま2年後に帰京し、その後任渋川義行はついに九州に入ることが出来なかった。このような状況の中、
1、今川貞世であった。貞世は応安4年(1371)から応永2年(1395)に解任されるまで25年間九州経営に当たった。北朝方勢力確立に当たり、その後九州探題は北朝勢力が確立し、九州探題は渋川氏によって世襲されたが、在地勢力に圧倒され、九州全体が行使することが出来なくなっていった。



「土岐氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。  美濃国の武家。清和源氏。平安後期、源国房、光国の頃に美濃に拠点を築き、光信、光衡の頃に土岐郡に土着し

2019-10-28 05:55:21 | 温故知新
「土岐氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
 美濃国の武家。清和源氏。平安後期、源国房、光国の頃に美濃に拠点を築き、光信、光衡の頃に土岐郡に土着し、土岐氏を名乗った。承久の乱で幕府方についたことで美濃国内で勢力を伸ばし、執権北条氏とも婚姻関係を持った。正中の変で一族が関係したが、南北朝の内乱に於いて土岐頼貞(?~1339)は足利尊氏に従い、その軍功により美濃守護になった。
土岐頼康の代には美濃・尾張・伊勢の三国を守護として勢力を拡大したが、その子土岐廉行の時、一族の内紛によって明徳元年(1390)幕府軍の追討を受けた。その後、美濃一国の守護として存続したが、応仁・文明の乱のころからは守護代斎藤氏によって実権は奪われ、天文21年(1552)土岐頼芸の時に斉藤道三によって追放され、守護土岐氏は滅亡した。庶流は土岐世保家・常陸土岐氏・明智土岐氏と江戸時代になっても旗本として土岐氏の血筋を伝えている。



「山名氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所

2019-10-28 05:51:37 | 温故知新
「山名氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。


「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介  中世の武家。村上源氏。中院雅家(1215~1275)が京の北畠の地に住んで北畠の姓を称したのに始まる

2019-10-27 05:48:31 | 温故知新
「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
 中世の武家。村上源氏。中院雅家(1215~1275)が京の北畠の地に住んで北畠の姓を称したのに始まる。鎌倉時代には正二位・大納言を極官とする公卿であったが、南北朝時代に北畠親房が出て後醍醐天皇の信任を受ける。その子北畠顕家・北畠顕信・北畠顕能も南朝側として活躍、顕能は伊勢国司となり、同国一志郡の多気城を本拠とする。その後も後南朝方の中心勢力になり、正長元年(1428)には北畠満雅が後亀山上皇の孫小倉宮を奉じて挙兵した。満雅は同年12月に戦死するが、室町幕府は弟北畠顕雅を赦免し一志・飯高両郡を安堵した。
これ以降、北畠氏は南伊勢、志摩、伊賀、大和に勢力を持つ大名として発展する。一族には、大河内・木造・田丸をはじめとする庶民が分立し、その勢力は伊勢中心にも及んだ。戦国時代には、伊勢の有力国人長野氏とも同盟をしたのは、天正3年(1575)にはあ信長の次男信雄が家督を継ぎ、翌年北畠具教を自殺させて事実上北畠氏は滅んだ。

『南都・北嶺の僧乱記』アマゾン電子書籍紹介。 平城京から平安京に遷都され、仏教の朝廷への影響が一挙に比叡山の天台系に主導権が移って行き、宮中の御斎会

2019-10-27 05:40:27 | 温故知新
『南都・北嶺の僧乱記』アマゾン電子書籍紹介。
平城京から平安京に遷都され、仏教の朝廷への影響が一挙に比叡山の天台系に主導権が移って行き、宮中の御斎会は仏事の覇権争いが日々激しくなっていき、武力を持って自分たちの言い分を押し通すために朝廷に押しかけていった。
 興福寺は藤原氏の氏寺として権力を行使、春日社の神木を持って京都に狼藉を働いた。
 それを屈し、南都の言い分を聞き入れた朝廷に、比叡山延暦寺側は大挙僧兵が日吉神社の神輿を持って京都に押しかけ、神々の威光を持って朝廷の大臣や上皇に強訴を繰り返した。
 有力寺院は財力的にも力をつけ、武力もそれぞれの寺院に僧兵を南都の興福寺・比叡山延暦寺も常時三千人を下らなかったと言われている。 武力すなわち朝廷への発言力となり、興福寺の春日社の神木や、延暦寺の日吉社の神輿で都に押しかけて狼藉を働いた。
 京都の役人や公家は神の威光の神罰を恐れて手出しができず、僧兵の強訴拡大に拍車をかけていった。
 ところが、北嶺の比叡山にも内紛が勃発、円仁派と円珍派に分裂し、円珍派は坂本の園城寺を拠点に寺門派を形成し、僧兵を持っての焼討の応酬を重ねた。
 一方、南都では興福寺と東大寺が双方僧兵を持って南都の主導権廻り僧兵の攻撃の応酬が繰り返され、複雑に南都六宗は荘園と僧兵の武力をもって戦いが続き、多武峰の拠点を持つ談山神社の僧兵は比叡山延暦寺派に組み込まれ、中国地方の大山寺まで強大な僧兵を持つ勢力へと成長し


「六波羅探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。 鎌倉時代、京都の六波羅に置かれた鎌倉幕府の出張機関もしくは機関の長。承久3年(1221)の承久の乱に際

2019-10-26 07:14:14 | 温故知新
「六波羅探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。
鎌倉時代、京都の六波羅に置かれた鎌倉幕府の出張機関もしくは機関の長。承久3年(1221)の承久の乱に際し、幕府軍の大将である北条泰時と北条時房は、六波羅の館に拠点を置いた。この六波羅の館は、乱以前から存在した。この六波羅の館は乱以前より存在し北条氏の館と思われる。泰時と時房は乱後も引き続きこの六波羅館に留まり、乱後の処理や公家政権との交渉に当たった。これを持って六波羅探題の成立と見なされている。以後、原則として二人の探題が任命されたが、前期を通じて北条氏によって占められていた。北条氏の中でも泰時の弟重時の極楽寺流など、とりわけ北条嫡流(得宗家)に忠実な庶流から選ばれることがあかった。二名の探題は、その宿所の位置によって各各北方、南方と呼ばれたが、南方が任命されず北方一名のみ在職することもあった。六波羅探題の主な職務は、京都周辺の治安維持と、西国の訴訟審理であった。京都周辺の治安維持は探題家来の中から選ばれ、検断頭人が責任者となり、居と常駐の御家人在京人や京都大番役衆、探題被官が指揮して行われた。訴訟機関としては独立性は低かった。身分的には探題と同格の御家人であり、探題個人とは職制の上では上下関係にあるに過ぎなかった。足利尊氏らの攻撃を受けた際には探題と行動を共にしたのは被官のみであった。