「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「最上氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍

2019-11-06 05:48:14 | 温故知新
「最上氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍
出羽国の武家。延文元年(1356)羽州管領(のちの羽州探題)として最上郡山郡山形城に入部した斯波兼頼(1316~1379)を始祖とする。兼頼は奥州管領斯波家兼の次男。兄の斯波直持が奥州管領を継ぎ、ともに足利一門三職斯波家の一族として奥羽に勢力を固めた。分郡の最上・村上2郡に依拠し最上氏を称したのは、15世紀初期・欧州探題シナ氏が大崎氏を名乗った頃で、直家・満直父子の代とみられる。
天童、中野、高擶などの2郡内の郷を名字とする多くの庶家分出し、特に最上氏に養子を二度も送り込んだ中野氏と天童氏は重鎮的位置を占めた。
義定・善守の頃、戦国大名として勢力を強め、最上義光の代に最高期を迎え、豊臣期・徳川初期にも巧みな外交・内政で危機を切り抜けて、庄内まで領地を確保した。しかし元和8年(1622)に義俊は近江国に1万石に改易、子の義智以降は5000石の幕府の高家として命脈を保つことが出来た。

「千葉七族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍

2019-11-06 05:45:53 | 温故知新
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中世の武家。院政期に下総国千葉荘を名字の地として成立。へら忠常の子孫。嫡流は下総権介を世襲したために、本領地名を合わせて千葉介と称した。鎌倉幕府成立の際千葉常胤が活躍して下総守護のほか各地所領を獲得。以後、一族の多くは「胤」を名の通字とした。13世紀後半から伊賀守護を兼ねる。蒙古来襲来の際には、宗胤が肥前小城郡に下向したため、弟の胤宗が千葉介を継承。宗胤の子孫は肥前千葉氏となり、室町時代には小城・佐嘉・杵築3郡に勢力を振るったが、やがて龍造寺・鍋島氏に従属した。一方、胤宗の子孫は室町時代にも下総守護を世襲したが、15世紀半ばに古河公方と上杉氏の対立に巻き込まれて勢力を失った。上杉方に立った一族は武蔵に移る。公方派は佐倉に本拠を移し、子孫は戦国期には小田原北条氏に属し、千葉介の伝統的権威をっ持った下総国内の諸勢力の頂点に有ったが、天正18年(1590)北条氏と共に滅びた。

「平安摂関家の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-11-06 05:43:03 | 温故知新
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「摂関家。摂政・関白の職に就く家柄。9世紀後半に藤原氏北家の良房・基経によって例を開いた摂政・関白の職は基経の子忠平のとき、摂関制としての形を整えた。忠平の長子実頼は冷泉朝の関白・円融朝の摂政となる。その没後は、外戚政策に成功した実頼の弟師輔の長子伊尹が継ぐが、伊尹の弟兼通・兼家の対立の結果、関白となった実頼の子頼忠を最後に、摂関は兼家に独占される。兼家の子道長は、兄たちの後を受けて関白に準ずる文書内覧の宣旨を受け、未曾有の外戚関係を構築する。外孫の後一条天皇の摂政になったが、短期間で摂政を若年の長子頼通に譲り、背後でこれを支えた。以降摂関の地位が、外戚関係に関わらず、道長の子孫に継承される前例を開いたと言える。鎌倉時代に入ると、忠通の嫡男基実を祖とする近衛家、その弟の兼実を祖とする九条家、近衛家に分かれて兼平を祖とする鷹司家、九条家より別れ、良実を祖とする二条家、更の一条家に分かれ、五摂家として権勢をふるっていった。