「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『日本人の観音信仰』アマゾン電子書籍紹介。 日本に数ある諸仏の中で、最も早く到来した仏さんは観音菩薩である。苦しむ衆生を救済するという現生利益の観

2019-11-13 06:28:07 | 温故知新
『日本人の観音信仰』アマゾン電子書籍紹介。
日本に数ある諸仏の中で、最も早く到来した仏さんは観音菩薩である。苦しむ衆生を救済するという現生利益の観音菩薩は、日本人に親しみと、馴染み深く、願いをかけたり、厄除けにも御利益の有る人気のある仏さんが「観世音菩薩」と言えよう。諸国の観音霊場巡りは、今日の札所巡りの朱印巡りに大きな影響を与えた。
筆者も西国観音巡拝は二度結願満願、新西国観音巡りも結願満願している。
一度目はマイカーで観音巡って地図を片手に迷いながら廻ったものである。二度目はバスツアーで添乗員さんが案内、朱印帳なども世話をしてくれて各地の名所古跡を案内、観音札所の由来を説明してくれて、巡拝の作法やお経の唱え方まで教えてくれ気軽に参加できるようになっている。
信仰と観光と好きな歴史が学べる一挙三徳の小旅行である。また同行者の会話も帰りには親しみが湧き、信仰による交流会話があって、都会の中に暮らし、近隣の会話も少ない当世にはまたとない機会でもある。何より朱印帳や本尊のお姿集めも、添乗員の人が世話をして代行してくれる。朱印帳に描かれていく宝印を見て、次に行こうと思う励みにもなる。1000年前より神社仏閣のお参りに、村人らは諸国を自由に往来できない時代、信仰とあればお伊勢参りも、お遍路も、観音霊場巡りも通行手形などが許可されて、お伊勢参り、遍路参りに西国観音霊場巡り行ける機会を得ることが出来た。諸国を廻るまたとない機会でもあった。
観音巡拝もお伊勢参りもお遍路も、金持ちの大店ばかリが行けたわけではない。民百姓、町人らは金を出し合って「講内」を作って少しの金を出し合って、くじ引きで四,五人が巡拝やお参りに出かけていく。帰りには、各戸へお札や暦(こよみ)や各地の情報を持ち帰り、便利な物の利用や工夫が伝播されていった。巡礼やお参りは、都合の良い物見遊山の好奇心も兼ねているのである。ここに、どうゆう風に日本に観音菩薩が根付き、信仰されていったかを述べてみた。


『政僧・天海と崇伝』アマゾン・書籍・電子書籍紹介 大坂の陣を勝利し、徳川幕府が開幕され、その基礎に貢献した二人の黒衣の政僧「崇伝と天海」の貢献と影響は見逃

2019-11-13 06:26:09 | 温故知新
『政僧・天海と崇伝』アマゾン・書籍・電子書籍紹介
大坂の陣を勝利し、徳川幕府が開幕され、その基礎に貢献した二人の黒衣の政僧「崇伝と天海」の貢献と影響は見逃せない。
崇伝(1569)は家康に見込まれて、徳川幕府の初期の参謀役的存在で実務面で大きな発言力と、豊臣家の残党の一掃の為に方広寺鐘銘事件を提起し、紫衣事件で提起攻略と徳川幕府の諸大名の法的立案と諸法度で秩序作りで、徳川幕府の幕政の骨格を作ることに辣腕を振るった。
一方天下の知恵袋と称され天海は、江戸城築城に立地条件に有って、兵法に合理的な設計を提案し、天下の江戸城を構築した。
天海は年齢的に崇伝より年長だが、秀忠、家光に見込まれて幕政に参入し絶大な信頼とその温厚な性格から、徳川幕府の相談役と調停役に手腕を発揮した。
硬軟両者の志向は時として対立し、崇伝は臨済宗南禅寺派の再興の祖として、金地院としてその名を知らしめた。
南光院天海は天台僧として日光の輪王寺・寛永寺を建立し、家康の死後の祭祀に山王一実神道を展開し、崇伝の吉田神道の大明神の主張を打ち負かした。日光東照宮に貢献した。天海は秀忠から家光まで政僧であるながら、仏教道に徹した。



『幕藩一揆の攻防』アマゾン電子書籍紹介。 日本史上,最も天下泰平で安定した時代は、慶長年間から始まった徳川幕府の江戸時代である。西暦1603年から186

2019-11-13 06:24:15 | 温故知新
『幕藩一揆の攻防』アマゾン電子書籍紹介。
日本史上,最も天下泰平で安定した時代は、慶長年間から始まった徳川幕府の江戸時代である。西暦1603年から1867年の明治維新までの約260年間の鎖国と共に、幕藩体制の下に日本の独自な統治と伝統文化、風習と習慣を形成していった。
江戸時代の天下泰平社会であっても、苦しい暮らしの百姓一揆は藩政に絶えることなく訴え続けた。藩政の財政難に検地を(税率)改め重税と税制を変え巧みに百姓に負担求め、百姓は年貢、労役に疲弊し、耐え切れなく越訴、箱訴、駕籠訴など、一揆を頻繁に起こした。一揆には秩序を乱し、混乱を招いたとして、厳しい処分が下されたが、処分は農民ばかりに、厳しい処罰は下されなかった。
藩政の失策として大名にも厳しい沙汰が下され、減封、転封、改易から切腹まで百姓同様の処分を下された。放漫藩政に破たんする藩には「藩再建屋」松波勘十郎様なるものが現れ、何カ所かの藩検地の見直しや地域物産の販売で成果を得たが、最後は水戸藩で失敗し獄死している。越訴によって藩政の失政が、幕府の知る所に至り大名が改易に処せられた。
天候異変で疲弊する百姓に年貢は農民の飢餓に死者の数が悲惨さを物語り、惣代、庄屋は立ち上がり、首謀者として斬首、磔(はりつけ)を以て収束をした。また地域に一揆で犠牲になった「義民」を後世に伝え残され、今尚、偉人として顕彰されている。
江戸中・後期には、打毀し、「世直し一揆」と藩政を揺るがす騒動へと変化していった。幕藩体制で52件の一揆を探り、江戸泰平の世に幕藩体制の維持・存続と、民・百姓の生存をかけて、丁々発止の攻防を繰り広げられた。