「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「岡山古社寺探訪」備後国一ノ宮・吉備津神社・祭神吉備津彦命

2016-08-10 04:28:50 | 岡山古社寺探訪

広島県福山市新市町宮内400・旧国弊小社
祭神は大吉備津彦命で第七代孝霊天皇の第三子、四将軍の一人として山陽道に派遣され吉備を平定した。
相殿には大日本根子彦太瓊命・父孝霊天皇・細比売命(孝霊天皇の皇后)、稚武吉備津彦命(大吉備津彦命の弟)この神社は備中一ノ宮から分祀されたものと思われる。
伝承に依れば吉備国が三国に分国された際に大同元年(806)に吉備国一ノ宮から勧請された。
この神社は『延喜式』に記載されていないので、実際の創建はもっと後年であろうと思われている。
長和三年(1014)には神仏習合の時代背景もあって褞日と言う修行僧が社前四方利益のやめの法華八講を行なった。この時代、神祇官に年貢を納める慣例になっていて、その点で中央に良く知られていた。
後白河天皇の歓喜元年(1229)に起った社殿焼失事件が「百錬抄」に記載されていたりする。
武門の時代になっても深く崇敬され社領を寄進され、強力な神人を従えて、時として近隣の豪族と衝突することが有った。
貞和二年(1346)高師泰が守護佐々布次郎に吉備津神社の神人の横暴を止めるべく命令を下している。
室町時代には神仏習合の影響で僧持範によって三重塔が建立されて、天文九年(1540)には八尾城主によって梵鐘が寄進された。
慶長五年(1600)には福島正則によって、元和五年(16199)には水野勝成によって社領が寄進された。
★祭神の大吉備津彦命は『記紀』ともキビツヒコで表記は『日本書紀』彦五十狭芹彦命・吉備津彦命で『古事記』では比古伊佐勢理毗古命・大吉備津日子命となっている。
第七代孝霊天皇の夜麻登登母母曾毗命の間に生まれた御子である。『古事記』では孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命と共に四将軍の一人として派遣されたとし、播磨(針間)の氷川之前に忌瓮をすえ播磨の道を平定された。


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『古代史群像の標榜』(全58回)(最終回) 五十八、源氏蜂起と平氏追討

2016-08-07 04:24:59 | 岡山古社寺探訪
『古代史群像の標榜』(全58回)(最終回)

五十八、源氏(げんじ)蜂起(ほうき)と平氏追討

平氏打倒の引き金は以仁王(もちひとおう)の挙兵は治承四年(1180)高倉天皇の兄宮である以仁王(もちひとのおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)が打倒平氏の挙兵の燧(のろし)を上げ計画をし、諸国の源氏と大社寺に蜂起を促す令旨を発した事件である。
その事件は準備不足の為に露見し追討を受けて以仁王と源頼政は宇治平等院の合戦で敗死、早期に鎮圧された。
これを契機に諸国の反平氏の勢力が結集され治承(じしょう)の乱・寿(じゅ)永(えい)の乱が始まった。
義(よし)朝(とも)一族(いちぞく)は皆(みな)悉く(ことごとく)消滅(しょうめつ)、ただ頼(より)朝(とも)だけが生き残り(いきのこり)伊豆(いず)に流罪(るざい)になって、地元(じもと)の豪族(ごうぞく)の北條(ほうじょう)時政(ときまさ)の娘(むすめ)の政子(まさこ)と結婚し、そこを足掛かりに地域の豪族と連携し力を蓄えて行った。
頼朝の最初の目的は地域を制することで、妻の足利氏の協力で伊豆の目代山本兼隆を討ち取り、相模国土肥郷に向かった。それに従った者が北條時政・工藤茂光・土肥実平・土屋宗達・佐々木兄弟・天野(あまの)遠景(えんけい)・加藤景康らと三浦からは三浦一族の三浦(みうら)義(よし)登(と)・和田義盛らが合流するが、その前に頼朝軍三百騎が平氏方の大庭景(おおにわかげ)親(ちか)・熊谷直実ら三千騎と戦って敗北した。
一旦退き頼朝軍は安房国に逃れ安房国を制圧すべく上総上広ら地元の勢力に協力を要請をした。
東京を南下した頼朝軍は下総に向かった。下総国府で上総・千葉氏の協力を取り付け、武蔵国に入り葛西清重・足立遠元に加え、一度は敵対した畠山重忠・河越重頼らも従えて、かっては父兄らと住んだ鎌倉に入った。鎌倉に落ち着いた頼朝はここを本拠地に支配地を広げて行った。
それに対して平維盛率いる追討軍は駿河に達すると鎌倉を出立し武田信義・北條時政らの二万騎と合流。富士川の戦いで、頼朝軍の勢いに恐れをなして、維盛軍浮き足ったって戦わずして退脚、頼朝は相模で勲功の賞を行なった。

一方平氏方は各地からの打倒平氏の源氏の挙兵を聞いて、福原から京に都を移し反撃に転じ近江源氏や南都寺院勢力に制圧をする。養和元年(1081)には尾張の源行家、美濃国の美濃源氏が挙兵し平氏方網が一段と強って行った。そんな混乱の最中清盛が熱病で死去した。
平氏(へいし)は平重盛(へいしげもり)が総大将(そうだいしょう)にして尾張(おわり)以東(いとう)の東国(とうごく)征伐(せいばつ)に赴いた。
頼(より)朝(とも)は京の朝廷の後白河院に決して謀反の意のない事を伝えて、平氏の対話の余地が有る事も伝えた。頼朝は京への挙兵に向かっての下地を着々と手を打っていた。奥州藤原氏の動きも探りながら、関東での敵対勢力の一掃を図った。
また伊勢神宮へも平治打倒の願文を奉じた。
その内京より再三入京の要請があったが頼朝は断った。理由は藤原秀郷と佐竹孝義に攻められる恐れと、数万の兵で入京すれば京は混乱すると言う理由であった。

方や寿永二年(1183)源氏の雄の一人の動きも平氏にとって気になる存在であった。以仁王の令旨を受けて挙兵をした木曽義仲である。
また頼朝の叔父義広・家行を庇護したことへの反目が武力衝突にしかねない状況の中、義仲の嫡男・義高を頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に送ることで和議が成立した。
義仲軍は平氏との戦いで勝利を挙げ、平氏一門を今日から追い落としに成功した。
所が義仲軍の京で統制が執れず皇位継承にまで口出し、食糧不足に悪化させる愚行が在京の公家などの反感を買い、後白河院は頼朝の上洛に期待し、義仲軍を西国へ敗走する平氏追討へ向わせ、頼朝軍の入京を要請した。
木曽義仲は頼朝の上洛を恐れ、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望んだが許されず、逆に頼朝が送った義経軍が近江に迫っていた。
平氏と義経軍に挟み撃ちにされた義仲軍は法住寺の合戦で後白河院を拘束、頼朝の追討の宣旨を出させ征夷大将軍になった。
それに対して源範頼と義経は数万の兵を率いて京に向かい粟津の戦いで討たれた。
義仲を討った範頼と義経は平氏を討つべく京を発ち、一の谷の合戦で勝利を収め、平重衡を捕えて京に戻った。
頼朝は義経を自らは代官として都に残し、義経ん采配のもと畿内の武士たちの掌握を図る一方、四国に逃れる平氏追討に、土肥実平・梶原景時を派遣した。
平氏追討の西海の範頼から兵糧と船の不足で、関東へ戻る帰還を望む関東武士の不穏な窮を訴える書状が届いた。頼朝は京にあって建礼門院の守護、保護の為には軍を動かせず、反感を持たず範頼に従い平氏を討つべし事を求めた。
所がこの状況に義経が後白河院に西国出陣の奏上し許可を得ると、讃岐国の屋島に向けて出陣し、平氏を屋島から海上に追いやった。
範頼は九州から兵糧を貰い受けて、周防から豊後国に渡り、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡をした。
この時義経が取った行動に梶原景時らが弾劾(だんがい)した書状が届き、処が頼朝は関東の武士には、朝廷からの任官だけで、頼朝の内挙の許しも無く取った行動に、罰として関東に帰還の許可を与えなかった。範頼は義経の屋島の合戦への越権行為を快く思わず、義経への反感が各所より噴出した。
数々の勝利と功績を立てた義経は、平宗盛親子を伴って相模国に凱旋をするが、関東武士たちの反感おおく鎌倉に入れないままに、平宗盛親子を伴い帰洛を命じられた。
これに深く頼朝を深く恨んだ。これを聞き頼朝は義経の所領の全て没収をした。帰京の途中に近江国で宗盛親子を斬首し、重盛の東大寺焼打ちの所に送った。頼朝は叔父行家に命じ追討を佐々木定綱に命じた。義経の様子を探るべく梶原景時を京に遣わすと、義経が現れた。
その時景時は行家の追討に加わるように要請に、義経は同じ源氏の叔父を討つこと出来ないと断った。
鎌倉に帰った景時の報告で頼朝は行家と義経は通じていると判断し、義経の追討を命じた。
これを知った義経は直ちに後白河院に後白河院に求めたが、逆に頼朝は京の後白河院に義経追討の勅許を求めた。こういった頼朝の圧力に負けた後白河院は宣下をくだした。
頼朝の命令を受けた土佐坊ら六十騎は義経邸を襲撃するが行家の加勢をして失敗に終わった。
頼朝は御家人たちに上洛の命を出した。鎌倉に集まった二千人余りの武士の内、命に応じた武士は五十八人であった。
頼朝軍は鎌倉を発ち駿河国に布陣をしても兵が集まらなかった。
一方義経・行家ら郎党は戦わずして京を落ち延び西海を目指すが、嵐の前に船団は難破、一行は離散した。義経の妾は吉野で捕えられ、義経の所在はわからず、鎌倉から北條時政が頼朝の代官として兵を率いて入京したが義経が京周辺で出没する噂が流れた。
京に居場所を無くした義経は奥州藤原氏に庇護を受けることになった。
頼朝は奥州藤原氏に圧力を加え続け、文治二年(1186)藤原秀郷が亡くなると、義経の潜伏が発覚した。
今度は頼朝は秀郷の子に義経追討の宣下を下すように奏上し、この申請を受けて藤原基成・泰衡に追討の宣旨が下された。
鎌倉方の圧力に屈し、泰衡は衣川の館に住む義経を急襲し自害へと追いやった。義経の首が鎌倉に届けられ和田義盛らが首実検に立ち会った。
建久三年(1192)三月に後白河法皇が崩御し、ここに頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府が樹立をした。

★源頼朝(1147~1199)源義朝の三男として生まれ、尾張熱田に生まれた。母は熱田宮司の娘幼名鬼武(おにぶ)丸(まる)・鬼(おに)武者(むしゃ)と言う。父源義朝は清和天皇を祖として河内国を本拠地として源頼信・頼義・義家らが東国に勢力を築いた源氏の流れを汲む武士である。
平治の乱に加わり三条焼き討ちを決行し、襲撃の除目で十三歳歳の頼朝は右兵衛権佐に任じられが、二条天皇の側近の策略で六波羅の清盛邸に送られ官軍となった平氏が賊軍となった信頼らの居る大内裏へ攻めて、この戦いに義朝軍は敗れ、一門は官職を剥奪され都落ちをした。
義朝に従う頼朝ら八騎は本拠地の東国を目指すが頼朝は一行から外れ、平頼宗の家人に捕えられる。父義朝は尾張の長田忠致に殺され、長兄の義平は都に潜伏中に捕えられ次兄は逃亡中負傷で落命した。
頼朝は六波(ろくは)羅(ら)に送られ伊豆に流された。
この伊豆に流された頃の資料は少なく流人生活は解ってはいない。流刑になっている間に、伊豆の豪族・北條時政の長女の政子と婚姻関係を結び大姫を設けているが、その時の物語は後世での作り話が多く確実な記述は残されていない。
★源義経(1159~1189)源氏は義朝の九子、幼名牛若丸、母は九条院雑仕、常盤御前ともいう、平治の乱で父義朝が敗北し、母や兄と共に捕えられたが、出家を条件に救われ、洛北は鞍馬山に預けられた。
成長し九郎義経と名乗り平氏とは距離を持って一時は奥州藤原氏に庇護を受けた。兄頼朝が関東で挙兵をすると、僅かな手勢で参加、黄瀬川の陣で兄頼朝と初めて対面し、畿内ですでに入京していた義仲の乱行と混乱を招いていたのを近江で討ち取り、ついで播州で平氏追討に功績を上げたが、兄頼朝の許可なく朝廷より検非違使の任を受け、兄頼朝の怒りを買ったが、その後平氏追討に屋島の合戦などの数々の功績にその器量に恐れを感じた頼朝は関東武士の義経への不満を理由に満開を拒否して、また叔父行家と共にあらぬ嫌疑で追われる。奥州藤原氏に逃れるが頼朝の圧力で衣川で奇襲を受け討ち死にした。
★北條時政(1138~1215)鎌倉幕府の最初の執権、在職三年間。父は北条時家、母は伊豆条伴房の女、1160年伊豆に流された源頼朝の監視を伊東祐親と共に命じられた。嘉応(かおう)二年(1170)伊豆大島の源為朝(みなもとのためとも)を征伐する軍を参加し、女の時子が頼朝と結婚したのちに頼朝の挙兵に計画に参画。その後山本兼隆を攻めを指揮、石橋山の戦いで敗戦し素早く頼朝の使者として、渡海し甲斐武田党に潜行する。甲信地方で軍勢と共に駿河国の頼朝軍と合流した。以降頼朝に近侍する。
★源義仲(1154~1184)木曾義仲とも呼び、父は源義(よし)賢(かた)、母は遊女という。通称木曾冠者と言い、父が甥の義平に打たれて、二歳で乳母の夫中原兼遠に抱かれ信濃は木曾に逃れた。その庇護で育ち、以仁王の令旨で信濃国の武士らと糾合し、対立していた頼朝と和睦を図り倶(く)利(り)伽羅(から)峠の合戦・加賀国の篠原合戦で勝利し平氏を打ち破り、入京したが乱行を廻って後白河法皇と対立し、院の近臣らが平氏討ちに行っている間に反義仲で蜂起するがこれを鎮圧した。
その後頼朝軍の義経軍に敗れ、近江国で討ち取られた。
★源行家(?~1186)河内源氏、源為朝も十男、熊野新宮に居住し新宮十郎と称し、以仁王の挙兵に際し令旨(りょうじ)の配布の為に蔵人の補任、以仁王の令旨を頼朝以下諸国の源氏に伝えた。翌年には尾張・美濃付近で源氏と供応、墨俣川付近で平重盛・維盛と戦い惨敗し、その後木曽義仲を頼り一緒に入京した。その後義仲と対立し平氏追討に向かうが播磨国室山付近の合戦で惨敗、和泉国に逃れ範頼・義経に接近し、義経に結び頼朝追討に西国に向かう途中に和泉国で北條時定に追討された。

※栄枯(えいこ)盛衰(せいすい)は世の習いではあるが、平氏・源氏の興亡に平安時代後期は淘汰されていった。また身内同士の覇権を廻り粛清され、源氏は頼義・義家で隆盛を極め、没落し一族は離散し再び源氏の蜂起で集結し平氏を滅亡された後に身内の粛清で頼朝一人が覇者として生き残った。
“両雄並び立たず“の諺の通り、離合集散を繰り返し時代は次の時代に移って行った。




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「兵庫古社寺探訪」播磨国一ノ宮・伊和神社・祭神大己貴神

2016-08-07 04:13:55 | 岡山古社寺探訪
「兵庫古社寺探訪」播磨国一ノ宮・伊和神社・祭神大己貴神
兵庫県宍粟市一宮町須行名407・式内社・旧国弊中社
兵庫県は宍粟市ある播磨国一宮伊和神社の主祭神は大己貴神である。
播磨の神と大己貴神とは同一神と見なせる。配神に少彦名神・下照姫神で主祭神の大己貴神は出雲国から来たと言う。
「伊和」の語源については「神酒」から或いは「於和」の国造りが終わったと言う意味からと言われている。
創建については欽明天皇の御世の創建と伝える。『延喜式』には「伊和坐大名持魂神社」とあり、正暦二年(991)正一位の神階に叙せられている。
播磨国一ノ宮とされ、幾度か火災に見舞われ焼失の度に朝廷に国司、守護職赤松氏、近隣の藩主などの庇護を受けて再建された。
また地元の豪族に伊和恒郷に大己貴神から「我れ祀れ」の神託が有った。恒郷は西の野で一夜に木々が群生し。大きな白鶴が二羽が石の上に北向きに眠っていたのを見て、そこに北向きの社殿を造営した。鶴石は本殿裏に祀られた。
★この社の祭神は大己貴神、配神は少彦名神・下照姫神は『古事記』ではこの様に記されている。
大己貴神は諸国を平定国造りしていた所、波間に天の船に乗り、蛾の皮の被服を着て近づく小さな神がいた。
名も聞いても答えず、諸神に聞いても分らず、ヒキガエルが案山子に聞けば知っている。そこで案山子に聞くと「神産巣日神の御子の少名毗古那神(古事記)と分かった」そこで大己貴神が神産巣日神に質すと、確かに自分の子で手からこぼれ落ちた子であると言う。
そこで大己貴神と兄弟の契りを結んで国を造り固めよと言った。そこで少彦名神も一緒に国造りを助けたが、少彦名神は途中で常世の世界に行ってしまった。そこで大己貴神は最後まで国造りを終えた時に天津神の天孫から国を譲るように求められた。
国譲りに応じて条件として「我が住むところに、皇孫の住処のように太く深い柱で、千木が空高くまで届くような立派な宮殿を造り頂ければ、そこにお隠れしよう」これに従い出雲の「多芸志の浜」に天之御舎を造った。
★祭神の大己貴命は『古事記』に出てくる大己(おおなむ)貴(ぢ)命は多くの名前を持つ大国主神の事で・大穴牟遅(おおなむぢ)神・大穴基持(おおあなもとも)神・大汝(おほなむち)命・大名持(おおなもち)神・八千代(やちよほこ)神・葦原醜男・葦原色許男(あしはらしこを)神・大物(おおもの)主(ぬし)神・大国(おおくに)魂(たま)大神・伊和(いわ)大神(おおかみ)・杵築(きつき)大神(おおかみ)などがある。

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『古代史群像の標榜』(全58回) 五十五、保元の乱

2016-08-04 04:17:32 | 岡山古社寺探訪
『古代史群像の標榜』(全58回)
五十五、保元の乱

保元の乱は、平安時代末期の保元元年(1156)に皇位継承を廻り摂関家の内紛により朝廷の後白河天皇方(忠通)と崇徳上皇方(頼長)に分裂し、双方の武力衝突にまで起きた政変であった。
事の起こりは鳥羽法皇(とばほうおう)が崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子の間の皇子の体仁親王(近衛天皇)即位を強行したことにあった。
崇徳天皇まで院政は順調に進み、半ば慣例化されていた中、皇太弟では院政が出来ない崇徳にとって不本意な事であった。
翌年には得子への呪詛(じゅそ)の嫌疑をかけられ崇徳の母の藤原璋子(待(じ)賢門院(げんもんいん))が出家に追い込まれ、崇徳の外戚の閑院流の勢力は衰退をした。
近衛を天皇に推挙する藤原得子(美福門院派)と二派の対立とその上に摂関家の内紛が事態を複雑に大きく展開させ、摂政同様、院政も不合理を抱えたものであった。
始めに白河院政が終わって摂関家は息を吹き返した。まず鳥羽院政が始まると藤原忠実の娘・藤原泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となって復活。
関白藤原伊通は後継者に恵まれず養子に異母弟の頼長を迎えた。養子を迎えて実子の基実が生まれ摂関の地位を実子に継がせようとし、忠実・頼長と対立することになった。
久安六年(1150)近衛天皇が元服の式を挙げて頼長の養女、多子が入内し女御となった。一方藤原伊通は娘・呈子を養女に迎え、鳥羽上皇に「摂関家以外の者の娘は立后が出来ない」と奉じた。
呈子は美福門院の養女で忠通は美福門院と連携することで摂関の地位を保持しょうとした。
そこで事態を荒立てることのないようにの配慮から鳥羽上皇は多子を
皇后・呈子を中宮にすることで事を治めようとした。
忠実は激怒し摂関家の邸や宝物を接収し、氏長者の地位を剥奪し頼長に与え、忠通と絶縁をした。
内覧となった頼長は旧儀復興と綱紀粛清に取り組んだが、融通と妥協の知らない院近者と軋轢を生み、近衛天皇の重病に至り後継の天皇を定めるに崇徳の第一子の重仁親王が有力であったが、忠通は美福門院の養子守仁親王を法王に奏上した。
重臣の公卿たちの動きは崇徳の院政を阻止するためにも守仁親王に事態は動いて行った。重仁親王と守仁親王の二人の候補が上がった、守仁親王は親の雅仁親王を飛び越えて即位は如何ものかとの異を唱えるものあって、急遽中継ぎとして雅仁親王が即位して後白河天皇が誕生をした。
この采配に一番動き策動をしたのが信西で、裏で策動いたようである。また世間の近衛の死に関して忠実と頼長が呪詛した噂が流れた。所が新体制も定まらない中、保元元年(1156)鳥羽法皇が病に倒れ、鳥羽法皇を後ろ盾にしていた後白河派は崇徳、頼長の巻き返しを恐れた。
その後崇徳は鳥羽法皇に見舞いに行っても対面できず、死去の報せも崇徳には遺体を見せないように言い残した。
鳥羽法皇が崩御して事態は急変し勅命により検非違使の平基盛(清盛の次男)平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止された。これは明らかに忠実、頼長の動きを抑え、牽制するもので、裏で操作したのは側近の信西と言われている。
頼長等の荘園からの兵の徴兵の禁止と、蔵人・高階俊成と源義明の隋兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。武士の動員に成功した後白河・守仁陣営の挑発行為であった。
この動きを察知した崇徳上皇は少数の側近と鳥羽田中殿を脱出して、洛東にある統子内親王の御所に押し入った。
『兵範記』には「上下奇と成す、親疎知らず」重仁親王も同行しないなどその行動は唐突なものだった。「上皇左府同心」の噂が流れそのまま留まれば拘束される恐れあり近くには六波羅蜜の平氏の本拠地があって、北面の武士を持つ平氏に去就を明らかにしない貴族層に支援を期待した。
一方頼長は謀反人の烙印を押され洛上し北白河殿に入った。挙兵の正統性を主張するためにも崇徳を担ぐことを決意したと思われる。
北白河では崇徳の側近の藤原教長、盛憲・経憲の兄弟に武士は平家弘・源爲国・源爲義・平忠正(清盛の伯父)源頼憲などが集結する。
この手勢では見劣り太刀打ちはできなく清盛が味方に付くことを唯一の頼み、源義朝は高松殿に夜襲をかけることを提案、頼長はこれを退けて興福寺の悪僧集団などの大和からの応援を待った。
これに対して後白河・守仁陣営は崇徳陣営の動きを知って高松殿の警備をしていた源義朝・義康が加わり、清盛・源頼政・源重成・源季実・平信兼・平維繁らが続々召集された。また大半の公卿は鳥羽法皇の喪中を理由に情勢を静観をしていた。
七月十一日未明、清盛率いる三百騎余が二条大路を、義朝軍率いる二百騎余が近衛大路を東に向かい上皇方との戦いに火ぶたが切られた。
後白河天皇は神器と共に高松殿の隣の東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めた。双方入り乱れて負傷者を出しながら戦ったが天皇方は攻めあぐねて新たな手勢を投入し崇徳方は敗走、頼長の敗北を知って忠実は宇治に逃げ帰った。
逃亡していた崇徳上皇方は仁和寺に出頭し、源重成の監視下に置かれ、崇徳方に着いた武将らは続々投降し、その後処罰が決まった。忠実・頼長等の所領は忠通の取り成しがあったが没収された。
一方崇徳上皇は讃岐に流罪。天皇もしくは上皇の配流は藤原仲麻呂の乱の淳仁天皇の淡路流罪以来であった。
崇徳上皇は二度と都の地を踏むことなく八年後の長寛二年(1164)にこの世を去った。重仁親王は出家することを条件に不問とされた。

崇(す)徳派(とくは)
★藤原忠実(1078~1162)知足院・富豪殿と称され、関白師通の子。母は藤原俊家の娘全子、元服後急速に昇進権大納言となり、父師通は亡くなって内覧、氏長者になり翌年には右大臣になり長治二年(1105)には関白。鳥羽天皇即位には摂政。
この時外戚の藤原公実が摂政を望んだが源俊明が練止したが、天永三年(1112)には太政大臣、翌年辞任、関白も辞任。泰子の入内問題で院の怒りに触れ内覧停止。翌年長子忠通が関白になり宇治に引退、白河院が死去し鳥羽院政になって復帰、忠通と並び内覧になった。
泰子も鳥羽院に入内。その後出家し宇治に住む、忠実は次男の頼長を偏愛し忠通に頼長への関白の譲渡を求めたが、忠通は拒否、これに激怒し氏長者を頼長に与えた。
その後頼長親子の呪詛の噂が流れ鳥羽院に疎んじられた。翌年の保元の乱では敗走する頼長に対面を拒み、所領を忠通に譲って処罰を逃れ知足院に籠居した。

★藤原頼長(1120~1156)関白藤原忠実の次男、母は藤原盛実の娘、異母兄に忠通の養子となる。昇進は早く十七歳で内大臣になる。朝議の復興に尽力を尽くし1149年に左大臣になった。天皇の外戚をめざし養女の多子を入内させた。
摂関家の将来を考えて父忠実は多子の立后を終えると、兄忠通に弟頼長に摂政を譲るように説得したが拒絶され、忠実、忠通親子は絶縁をした。その後忠通と頼長の対立が激化、ただ頼長の評判は芳しくなく、激烈な性格に「悪左府」という異名を持っていた。
鳥羽上皇も疎んじ、頼長親子が呪詛の噂に法王の信頼を失い宇治に籠居余儀なくされたが、鳥羽法皇が死去すると、後白河、忠通の挑発に乗って崇徳上皇と挙兵をした。
頼長は急襲もしくは東国に下向を主張する源爲義の意見を退けて大和の武士などの支援の到着を待つうちに白河北殿の奇襲を受けて負傷し宇治の父忠実に面会を求めたが拒絶されその地で絶命した。
★源爲義(1096~1156)平安後期の武士、清和源氏。源義(よし)親(ちか)の四男。義親が平正盛に追討されたために、祖父義家の遺命により叔父義忠の後継者となった。翌年源氏の内紛で義忠を殺した大叔父義綱を追補した。その功績によって任官、度々おこった僧兵の傲訴の制止にあたり、藤原頼長の従者になった。保元の乱では息子、郎党を率いて崇徳方について戦い敗北し洛北の船岡で斬られた。
★平忠(ただ)正(まさ)(?~1156)平安期の武将、平正盛の子、顕(あき)仁(ひと)親王(崇徳天皇)が生まれると、家司である御監に補任される。その後昇進するが鳥羽上皇の勘当を受けて散位のまま過ごしたが、藤原頼長に臣従し高陽院殿上人になる。保元の乱で崇徳・頼長(よりなが)に付き敗れ、六波羅で処刑された。

後白河派
★藤原忠通(1097~1164)関白忠実の嫡男、母は右大臣源顕房の娘、妻は白河法王の籠愛権大納言藤原宗通の娘を正妻とした。父忠実が法王と対立から関白に免じられると、翌年に関白を任じられ以後保元三年(1158)まで三十七年間摂政・関白の地位にあった。
その間父忠実と弟頼長の対立、剥奪された氏長者を取り返し、摂関家の紛争が保元の乱の一因となり、忠通は後白河天皇側仁立って勝利を治めた。その後は嫡男基実に関白職を譲り洛東の法性寺で出家をした。詩文に優れ、重厚で力強い法性寺流書道の祖としても知られている。
★源義朝(げんよしとも)(1136~1160)平安後期の武将、源爲(げんため)義(よし)の嫡男。「保元の乱」の物語の父爲義の言として「義朝こそ坂東育ちのものにて、武勇のみちにたけて候」といった。
従者千騎を率いて相模国大庭(おおにわ)御厨(みくりや)に乱入、また下総国相馬御厨を伊勢神宮に寄贈しようとした千葉市に圧力を加え、幼少より関東育ち、鎌倉の館を拠点に関東武士を統率していたようである。義明は息子に任せて東国武士を集結し上洛し、清盛らと共に後白河方に付いて破り、昇殿を許されたが近臣の信頼に接近し清盛と対立し「平治の乱」で敗れ、尾張で裏切りに合い謀殺された。
★信西(しんぜん)(1106~1159)宮廷政治家、出家して政務を執る。文章生(もんじょしょう)藤原実兼(さねかね)の子で父早世によって出世の道絶たれ高階(たかしな)経(つね)敏(とし)の養子になった。博識を買われ待賢院門判官代になって、鳥羽院判官代になる。
その後藤原氏に復名し出家したがその後の出世は目覚ましく鳥羽院の近臣として辣腕を振るって、保元の乱では源義朝の意見を取り入れて、崇徳上皇方の白河北殿に急襲し、乱を勝利に導き、乱の処理を主導し、論功行賞を行い、崇徳上皇を讃岐に配流した。長く途絶えていた死刑を復活した。その後信頼と義朝らと対立し、戦いに敗れ宇治田原で自決をした。

※もともと院政の成立は親政の新制にあった。後継については直系の皇子がない限り、皇系の弟と言ども継承できないはずが、白河・堀河・鳥羽・崇徳から弟の後白河の即位はあくまでも中継ぎの筈が、本格的親政皇位継承となって後々問題を引き起こす結果となった。
この事件は忠実と忠通親子の確執が弟後白河天皇と兄崇徳上皇の主導権争いが絡んだ紛争が兵を持っての乱に展開していった。



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「滋賀古社寺探訪」近江国一ノ宮建部神社

2016-08-02 04:34:29 | 岡山古社寺探訪
「滋賀古社寺探訪」近江国一ノ宮建部(たけべ)神社(じんじゃ)・祭神日本武尊・大己貴命・滋賀県大津市神領1-16-1・式内社・旧官幣大社・社伝では、日本武尊の死後に景行天皇四十六年日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命と共に住んでいた神埼郡建部郷千草獄(今の東近江市五個荘伊野部町付近)の地に日本武尊「建部大神」として祀ったのが始まりという。
天武天応四年(675)建部連安麿に勅して、近江の守護神として現在の地の栗太郡勢多に遷座した。
天平勝報七年(755)には大和国の大神神社から大己貴神を勧請し権殿に祀られたと言う。平安中期に『延喜式神名帳』に近江国栗太郎に「建部神社、名神大社」に記載された。朝廷の崇敬も厚く、度々神領も増加された。その後近江一ノ宮として崇敬された。源頼朝が平治の乱に敗れ伊豆に流される時に、道中に有った当社に源氏再興の祈願、後に大成就したので、出生開運の神として知られるようになった。
承久の乱以降しばしば戦火に遭い、また神領を横領されたりしたために衰退をした。江戸時代には膳所城主戸田氏あるいは本多氏は二十石の寄進を受けていた。★『ヤマトタケル』の説話には『日本書紀』『先代旧事本記』には“日本武尊“文字を表記する。『古事記』は”倭建命“と表記する。『日本書紀』では景行天皇の第二子。『古事記』では第三子。母は播磨稲日大郎姫。『古事記』と『日本書紀』と内容はほぼ同じであるが多少の違いはある。『古事記』では父の寵愛する妃を奪った兄の大碓命に諭すように言われたが勘違いをして、小碓命(倭建)は素手で兄を握りつぶしてしまう。その為に強暴だと父景行天皇に怒られ、疎まれる。父景行天皇は九州熊襲建兄弟の討伐を命じられる。僅かな従者を与えられなかった。行く前に叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢に赴き女性用の衣装を与えられる。まだその頃は髪を結う少年であった。九州には行った小碓命は熊襲建(クマソタケル)の新室の宴に美少女に変装し忍び込み、宴たけなわの頃を見計らって兄の建を斬り、続いて弟建の刃を突き立てた。絶命の前に、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトオグナを名乗る小碓に譲って、倭建(ヤマトタケル)の名の号を贈った。
その後、倭建は出雲に入った、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換して太刀合わせと言って、申込み殺してしまう。西方の蛮族の討伐から帰った倭建に父景行天皇は東方の蛮族の討伐を命じる。再び倭比売命を訪ね、父王は自分に死ねと思っておられると嘆く、倭比売命は倭建に伊勢神宮にある草薙の剣を与え緊急のときにはこれを使いなさいと渡された。倭建はまず尾張国造家に入り、美夜受比売と結婚をする。相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれ倭建は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋から火打ち石を取り出し、草薙の剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。相模から上総に渡る際、走水の海の神が波を起こし倭建の船は進退を窮まった。
そこで后の弟橘比売が自ら命に替わって入水をする。波は鎮まり七日後比売の櫛が対岸に流れ着いた。
御陵を造って櫛を納めた。その後、倭建は足柄山の神を蒜で打ち殺し、東国を平定した。そし後、科野(信濃)を経て、倭建は尾張に入る。
尾張に入った倭建はかねてより婚約をしていた美夜受比売と歌を交わし、その際、媛が生理中を知るがそのまま結婚をする。伊勢の神剣、草薙の剣を美夜受比売に預けたままにして伊吹山の神を素手で討ち取ろうと出立をする。伊吹山で倭建の前に白猪が現れる。倭建はこれは神の使いだと無視をするが、実際は神の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神をする。山を降りた倭建は居醒めた清水で正気を取り戻したが、最早、病の身になっていた。能煩野に到着した「倭は国のまほろば、たたづく青垣、山隠れる、倭麗し」と国偲び歌を詠って亡くなった。倭建の報せを聞いて、大和から訪れた后や御子たちは陵墓を築いて周囲を廻り嘆き悲しんだ。すると倭建は白鳥になって飛んで行くのである。皆等はその後を追を追い続けた。白鳥は伊勢を出て、河内の国、志紀に留まり、そこにも陵墓を造るが、やがて天に昇り、行ってしまうのである。


(たけべ)神社(じんじゃ)・祭神日本武尊・大己貴命・滋賀県大津市神領1-16-1・式内社・旧官幣大社・社伝では、日本武尊の死後に景行天皇四十六年日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命と共に住んでいた神埼郡建部郷千草獄(今の東近江市五個荘伊野部町付近)の地に日本武尊「建部大神」として祀ったのが始まりという。
天武天応四年(675)建部連安麿に勅して、近江の守護神として現在の地の栗太郡勢多に遷座した。
天平勝報七年(755)には大和国の大神神社から大己貴神を勧請し権殿に祀られたと言う。平安中期に『延喜式神名帳』に近江国栗太郎に「建部神社、名神大社」に記載された。朝廷の崇敬も厚く、度々神領も増加された。その後近江一ノ宮として崇敬された。源頼朝が平治の乱に敗れ伊豆に流される時に、道中に有った当社に源氏再興の祈願、後に大成就したので、出生開運の神として知られるようになった。
承久の乱以降しばしば戦火に遭い、また神領を横領されたりしたために衰退をした。江戸時代には膳所城主戸田氏あるいは本多氏は二十石の寄進を受けていた。★『ヤマトタケル』の説話には『日本書紀』『先代旧事本記』には“日本武尊“文字を表記する。『古事記』は”倭建命“と表記する。『日本書紀』では景行天皇の第二子。『古事記』では第三子。母は播磨稲日大郎姫。『古事記』と『日本書紀』と内容はほぼ同じであるが多少の違いはある。『古事記』では父の寵愛する妃を奪った兄の大碓命に諭すように言われたが勘違いをして、小碓命(倭建)は素手で兄を握りつぶしてしまう。その為に強暴だと父景行天皇に怒られ、疎まれる。父景行天皇は九州熊襲建兄弟の討伐を命じられる。僅かな従者を与えられなかった。行く前に叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢に赴き女性用の衣装を与えられる。まだその頃は髪を結う少年であった。九州には行った小碓命は熊襲建(クマソタケル)の新室の宴に美少女に変装し忍び込み、宴たけなわの頃を見計らって兄の建を斬り、続いて弟建の刃を突き立てた。絶命の前に、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトオグナを名乗る小碓に譲って、倭建(ヤマトタケル)の名の号を贈った。
その後、倭建は出雲に入った、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換して太刀合わせと言って、申込み殺してしまう。西方の蛮族の討伐から帰った倭建に父景行天皇は東方の蛮族の討伐を命じる。再び倭比売命を訪ね、父王は自分に死ねと思っておられると嘆く、倭比売命は倭建に伊勢神宮にある草薙の剣を与え緊急のときにはこれを使いなさいと渡された。倭建はまず尾張国造家に入り、美夜受比売と結婚をする。相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれ倭建は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋から火打ち石を取り出し、草薙の剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。相模から上総に渡る際、走水の海の神が波を起こし倭建の船は進退を窮まった。
そこで后の弟橘比売が自ら命に替わって入水をする。波は鎮まり七日後比売の櫛が対岸に流れ着いた。
御陵を造って櫛を納めた。その後、倭建は足柄山の神を蒜で打ち殺し、東国を平定した。そし後、科野(信濃)を経て、倭建は尾張に入る。
尾張に入った倭建はかねてより婚約をしていた美夜受比売と歌を交わし、その際、媛が生理中を知るがそのまま結婚をする。伊勢の神剣、草薙の剣を美夜受比売に預けたままにして伊吹山の神を素手で討ち取ろうと出立をする。伊吹山で倭建の前に白猪が現れる。倭建はこれは神の使いだと無視をするが、実際は神の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神をする。山を降りた倭建は居醒めた清水で正気を取り戻したが、最早、病の身になっていた。能煩野に到着した「倭は国のまほろば、たたづく青垣、山隠れる、倭麗し」と国偲び歌を詠って亡くなった。倭建の報せを聞いて、大和から訪れた后や御子たちは陵墓を築いて周囲を廻り嘆き悲しんだ。すると倭建は白鳥になって飛んで行くのである。皆等はその後を追を追い続けた。白鳥は伊勢を出て、河内の国、志紀に留まり、そこにも陵墓を造るが、やがて天に昇り、行ってしまうのである。


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『古代史群像の標榜』(全58回) 五十二、前九年の役

2016-08-01 04:23:41 | 岡山古社寺探訪

「前九年の役」は奥州を舞台に繰り広げられた安倍氏と清原氏の覇権をめぐる戦いで、安倍氏は滅び清原氏が覇者になった戦いであった。
平忠常の乱が平定されて二十年後の永承(えいしょう)六年(1051)に起きたのが安倍頼良の反乱であった。陸奥の土着の有力な豪族安倍氏は陸奥国の奥六郡に城砦(じょうさい)を築き独立勢力を形成をしていた。
十一世紀半ば、安倍氏(陸奥の土着した)が朝廷への納税を怠るようになった為に、永承六年(1051)陸奥守藤原登(なり)任(とう)が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みた、両者の間に戦闘が勃発した。
この戦闘で舞台となった玉造郡鬼(おに)切部(きりべ)の地名から「鬼切部の戦い」と呼ばれている。
この戦闘に秋田城介の平繁成も国司軍に加勢をしたが、結果安倍軍の圧勝に終わった。敗れた登任は更迭され京に戻された。
そこで朝廷は河内源氏の源頼義(平安の武将源頼信の子、平忠常の乱には父に伴って追討に参加)を陸奥守として事態の収拾を図った。所が陸奥に赴任した翌年に後冷泉天皇の祖母、上東門院(中宮藤原彰子)の病気祈願の大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪が許されると、安倍頼良は陸奥に赴いた頼義に饗応(きょうおう)し頼義と名が同音であることに遠慮し頼時と改めた。そして頼義は鎮守府将軍になった。
頼義が任期の三年で終る、天喜四年(1056)阿久利川事件と呼ばれる事件が起きた。その事件とはこう言った経緯である。
頼義が鎮守府から国府に戻る為に阿久利川の河原に野営をしている時に、密かに頼義の許に密使が来て、「藤原光定と元貞が野営をしていると夜討ちに遭い人馬に被害が出た」という情報が知らされた。
頼義が光定に呼びその事情を問いただしたところ、以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚をしたいと申し出があったが、自分は安倍のように賤しい一族にはやれないと断った。今回はその時の仕打ちに違いがないと言った。
そこで頼義は貞任を呼び出し、こと次第を問いただそうと呼び出したところ、頼時は貞任の出頭を拒否したために再び安倍氏と戦いに入ったと言う。
天喜五年(1057)頼義は一進一退の戦況の打開のため、安倍氏を挟み打ち作戦を講じ気仙郡司金爲時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を取り込み味方に入れることに成功、それを知った頼時は慌て富忠らを思い留まらせようと津軽に向かうが富忠の伏兵に襲撃され深手を負い衣川目前に横死してしまった。
頼義は朝廷に頼時の戦死を報告し、論功行賞を願い出たが受けることが出来なかった。再び陸奥国府に戻った頼義は出撃し貞任に決戦に挑んだ。この時の頼義の兵力は多く見積もっても国衙兵二千人程度と傘下の武士五百名程度と推測される。
これに対して貞任は河崎柵に四千名程兵力を集め、黄海にて頼義軍を迎撃した。冬季の遠征で疲弊し補給も乏しく戦力で劣っていた頼義軍は惨敗、頼義と長男の義家を含む僅かな手勢で戦線を離脱するのが精一杯であった。
頼義軍は佐伯経範、藤原景季、和気致輔、紀爲清らの有力中心を失い大打撃を受けた。
頼義が体勢を立て直すべく間に安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の税の徴収でなく、白札の貞任の税に徴収をするほどの勢いであった。
康平五年(1062)頼義の任期切れの為に、後任の陸奥守に高階経重を派遣したが、群司らは頼義に従って経重には従わず、経重を解任し再び頼義を陸奥守に就任させた。
苦戦を強いられていた頼義軍は中立を保っていた出羽国の俘囚の豪族清原氏の族長清原光頼に贈り物を送り続け参戦を依頼した。
また朝廷の参陣の要請を強く求めた。これを聞きいれた光頼は弟の武則を総大将として軍勢を派遣した。第一陣の息子の武貞から第七陣の清原武道率いる軍まで、一万人と推定され、内源頼義率いる軍は三千人ほどであった。
清原氏の参戦によって一気に形成は逆転し朝廷側が有利になった。小松柵から頼義軍は優勢になって安倍氏側の拠点厨川柵、嫗戸柵(おうなと)陥落。貞任は深手を負って捕まり頼義の前に引き出され一喝をされて息を引きとった。
経清は苦痛を長引かせ錆びた刀で斬首された。清原参戦で僅か一カ月で安倍氏が滅亡したことには安倍氏と清原氏との裏取引があったとされ、清衡の助命と引き換えの密約があったと囁かれていた。
頼義は騒乱を平定し上奏した。論功行賞では頼義の意に反して陸奥守ではなく、伊予守であった。貞任の身内らは筑前の宗像に流され、武則は戦功により従五位下鎮守将軍に補任され奥六郷を与えられ、清原氏が陸奥の覇者となった。
頼時の息女は敵の武則の妻となり、経清の遺児、後の藤原清衡(きよひら)(奥州藤原の祖)は共々清原氏に引き取られていった。
この処置が今後の陸奥の大きな後三年の役の伏線になる。

★源頼義(よりよし)(988~1075)頼信の子。一時期、小一条院に仕えるなど都での生活を送ったが,地方での暮らしが多かった。前九年の役では相模守から陸奥守に起用され頼義が鎮守府将軍も兼ね、子の義家と共に俘囚(ふしゅう)の長、安倍頼時の反乱を苦戦の末に平定、戦功によって頼義は伊予守、子の義家が出羽守に任じられた。赴任で坂東武士とのつながりを深め。評価は冷静沈着にして武略に長けている『陸奥和記』に載っている。故郷の河内の通法寺を創建、この寺迹に墓がある。
★藤原経(つね)清(きよ)(?~1062)奥州藤原初代清衡の父、陸奥権守、貴族で国府官人として赴任したものと思われる。安倍頼時の娘を娶って生まれたのが清衡、前九年の役では最初源頼義に付いたが永衡が内通した嫌疑に処刑されるのを見て離反、以後安倍氏側で戦って御厨川柵戦いで剥ぶれ,斬首された。
★清原武則(たけのり)(生没年不詳)出羽国の俘囚の長。光方の子。前九年の苦戦中の頼義から支援の要請を受け、軍平を率いて陸奥国に赴く、清原一族の参戦で一期に頼義軍が有利となって安倍軍は壊滅、武側は鎮守府将軍に任じられた。
★安倍頼(より)時(とき)(?~1057)陸奥の豪族、祖父忠頼は俘囚の長で元は蝦夷と考えられている。安倍氏は孝元天皇の皇子大彦命を祖とするが『新選姓氏録』安倍比羅夫が東北経営から関係したことからでた附会である。
★安倍貞(さだ)任(とう)(1029~1062)平安後期の陸奥国の武将、奥六郡の俘囚の長。安倍時頼の嫡男。武勇を持って鳴り、父頼時の死後安倍一族の総師として、前九年の役を指導した。黄海の戦いで陸
奥守頼義を破り、以後数年間は圧倒した。五年後の出羽山北の戦いから敗戦が続き、御厨川柵が陥落後、敗死をした。
◆平忠常の乱*下総・上総・安房に勢力を伸ばした平忠常は安房守惟忠を殺害し公然と反乱をした。東国で忠常と敵対する右衛門尉平直方が追討使に任じられ、討伐にあったが、忠常の抵抗抗戦に遭い安房一帯が荒廃し、直方は解任された。後任に源頼信が追討使になるや、以前に頼信の家人であった忠常は降伏し京に護送中に美濃で没した。

※東北の混乱で坂東武士たちは「雲如く雨の如く来た」と表され、前九年の変の陸奥周辺は不安定で、朝廷の権力も威光も届きにくい状況であった。
この物語の展開は複雑で理解しがたいが、結局は河内源氏の台頭と、奥州の藤原一族の覇者への布石の序幕と前段になってしまった。
その当時都から遠く置かれた僻地の武士に、誰もが混乱に乗じて一旗揚げようとする野心満々の兵者揃い、安定をした土着氏族も無い、ある意味下剋上の末世状態であったのだろう。
そんな状況下でも身内、同士族の団結は深く、一族の誰かが浮上すれば引っ張り上げてもらえる、支え合う棟梁集団の利害関係が生じ戦いになって、淘汰されていく。中央の朝廷は支配の及ばない地域での税の徴収には、地域の状況を考えて出ないと円滑にゆかない。
陸奥、東北政策は遠距離操作、指令から中央への報告と再度命令と気の遠くなるような工程を経て進められ、前九年の役はこうしてはっきりしないままに収束していく時代ではなかったろうか。
朝廷は巧みな論功行賞と階位と大役を任命し人臣の心を揺さぶって行くのである。
解決したはずの「前九年の役」は次の「後三年の役」の火種を残して時代は移って行き新たな氏族の出現となるのである。




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「岡山古社寺探訪」備前国一ノ宮・吉備津彦神社・祭神大吉備津彦命

2016-07-31 04:11:53 | 岡山古社寺探訪
「岡山古社寺探訪」備前国一ノ宮・吉備津彦神社・祭神大吉備津彦命
岡山県岡山市一宮1043・旧国弊小社
主祭神に大吉備津彦命に相殿には孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇・崇神天皇の四天皇に天足彦国押入命・吉備武彦の六柱が祀られている。
古代信仰とされる御神体の吉備中山と広大な境内を持ち、神池には鶴島と亀島の二つの島がある。巨大な磐座郡には元宮奥宮で天御中主大神・高御産巣日神・神産巣日神の造化三神が鎮座し、山頂の吉備中山の茶臼山と名付ける所に、祭神の吉備津彦命の祖廟がる。
社殿前には東洋一と言われる大きな石燈篭がある。
社伝に依れば推古朝に創祀されたと言う。歴史的検証から大化改新以後の創建と考えられている。
他の吉備津神社同様に朝廷に崇敬されてきた。
承和七年(840)には一品の神階を授けられた。長保年間、応徳年間。天永年間、勅営による社殿改修が行われた。
やはりこの神社も中世の神仏習合の時勢には正宮・本宮・摂社などと神宮寺・神力寺・常行堂・法華堂も建てられて総括され吉備津宮と称し、一品一宮吉備津大明神として崇敬されている。
ただこの神社に訪れて感じることは、朝鮮の影響を受けた形跡があると言うことである。韓式の鳥居が有り、中国張道陵が開祖した道教が入り磐座神社ある。鳥居も神宮も渡来氏族の影響が窺える。
江戸時代になると岡山藩主池田氏の崇敬も厚く度々改修が行われた。
この付近には古墳群が存在し古代吉備国を象徴する。
★吉備国平定後は崇神天皇六〇年には武淳川別命ともに進んで出雲を征し、当時の出雲タケル、出雲振根を倒した子孫が吉備氏であると言う説もある。
岡山の名物「吉備団子」は西道将軍としての吉備津大明神と桃太郎伝説がる。何らかの古代吉備国に謎を秘めたものではないかと言われている。

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