「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「二十二社巡り」廣瀬大社・奈良は大和側の合流する川合に廣瀬大社が鎮座する。

2017-06-23 04:56:38 | 史跡探訪
「二十二社巡り」廣瀬大社・奈良は大和側の合流する川合に廣瀬大社が鎮座する。
「廣瀬坐和加宇加売命神社」として表れ、崇神天皇の時世に創建されたと言う。祭神の若宇加能売命は大忌神と言う農業神。祭られている所から水神としての意味合いの神であったろうと思われている。
廣瀬の名が史料に初めて現れるのは『日本書紀』の天武四年(675)に「風神を龍田の立野に大忌神を廣瀬の河曲に祀る」と記されている。
龍田は生駒にある龍田大社、もう一つは廣瀬大社ことで、これは風水害がない事を祈り五穀豊穣を祈願する「大忌祭」の初見とされている。
何より有名なのは「砂かけ祭」とも呼ばれテレビなどに映し出される奇祭、人と牛に扮した者が田を耕すに参詣者の人の中に砂をかけあう。
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「神仏霊場巡り」大念仏寺・平野に府下最大の木造物が大念仏寺で、日本十三宗の一つで、融通念仏宗の総本山である。本尊は十一尊天得阿弥陀如来で開山良忍上人であ

2017-06-23 04:51:10 | 史跡探訪
「神仏霊場巡り」大念仏寺・平野に府下最大の木造物が大念仏寺で、日本十三宗の一つで、融通念仏宗の総本山である。本尊は十一尊天得阿弥陀如来で開山良忍上人である。
JR平野駅から南へ五分、国道を渡ると昔ながらの町屋が見える。古来平野郷と称して自治独立を徳川家康から許された。その平野郷の中にあって浪速、河内、大和を中心に末寺、檀家を持ち、地元に根付いた念仏道場である。
大きな堂内で繰り広げられる大数珠回し「百万遍大数珠くり」五月の連休の五日間「平野の万部おねり」は浪速、河内、大和の、難波の風物詩である。
この平野の地に大念仏寺を創建したのは「良忍上人」(聖応大師1072~1132)尾張国生れである。
比叡山に上がり修行後、洛北大原で二十余年の修行の末「阿弥陀仏」から融通念仏を授かり、諸国を念仏勧進をして、その途中の四天王寺に一夜参籠し聖徳太子の夢告により平野の地で大念仏会を開いた所、人々の参集があって、朝廷の天聴があって鳥羽天皇の加護と帰依があった。
僧にだけ留まらず一般庶民にまで普及し信者が急増した。室町には僧法明が各地の寺院に広め融通念仏が行なわれた。
「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行、十界一念、融通念仏、億百万遍、功徳円満」と言う風に念仏の功徳を融通するものであった。この念仏の考え方はその後の日本の阿弥陀信仰に大きな影響を与えた。中世、近世と伝統的な行事などは近年まで続けられ、浪速、河内一円で十一尊天得阿弥陀如来を奉納し鉦を打ち鳴らし檀家を廻る法要は有名である。
また本堂の天井の周りに吊ってある巨大な数珠は法会に降ろし信者が堂内を輪になって念仏をあげながら数珠を廻し、繰る法会はニュースの映像でよく見ることができる。


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『歴史の時々変遷』(全361回)205“上田合戦” 「上田合戦」信濃国の上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北

2017-06-23 04:44:45 | 史跡探訪
『歴史の時々変遷』(全361回)205“上田合戦”
「上田合戦」信濃国の上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦いの総称である。
この地で真田氏と徳川氏の戦は2回行われ、天正13年(1585)の戦を第一次、慶長5年(1600年)の戦を第二次とし区別する。
上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡を平定し、上田城を築城した。
この戦いで真田昌幸は主に上田城に籠もり戦ったことから、上田城の戦い、上田城攻防戦などとも呼ばれる。ただし、正確には上田城のみならず砥石城や丸子城など上田小県に点在する山城も含めた総力戦であったため上田合戦と呼ぶ方が相応しい。
天正10年(1582)3月、織田信長が行った甲州征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃、上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。同年6月に京都で織田信長が横死(本能寺の変)し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる5万6,000の兵で織田領上野に侵攻し、織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる2万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。
これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退すると、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。
甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田氏の工作により離反する。
10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。翌天正11年(1583)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。
天正13年(1585)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。
同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開。
これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。
この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる。
一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。
この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。
その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。
また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。
真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数ヶ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。




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『戦国時代の群像』134(全192回) 前田利長(1562~1614)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

2017-06-23 04:41:04 | 史跡探訪
『戦国時代の群像』134(全192回)
前田利長(1562~1614)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589)頃に利長と改名する。
若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。
永禄5年(1562)1月12日、織田氏の家臣・前田利家の長男として尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)に生まれる。幼名は犬千代。初めは安土城で織田信長に仕える。
天正9年(1581年)、父・利家の旧領越前国府中の一部を与えられ、信長の娘・永姫を室に迎える。天正10年(1582年)の本能寺の変は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田(現在の前田3
前田1
滋賀県大津市東部)で聞き、当時7歳の永姫を前田の本領・尾張国荒子へ逃がし匿わせ、自身は織田信雄の軍に加わったとも、蒲生賢秀と合流して日野城に立て籠もったともいわれる。
信長死後は父・利家と共に柴田勝家に与する。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにも参加し、戦後は父と共に越前府中城へ撤退する。
父が羽柴秀吉に恭順し、秀吉と共に勝家の本拠・北ノ庄城を攻める折り、秀吉は利長母のまつに「孫四郎は置いていく」と利長を残しておこうとしたが、まつはそれを断り、利長を従軍させた。利長はわずか2騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わったと伝わる。
勝家の自刃後は秀吉に仕えた。天正13年(1585)、秀吉により佐々成政が支配していた越中国(富山県)が制圧されると、同国射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられた。秀吉の配下として九州平定、小田原征伐などに従軍参加し、各地を転戦して功績を立てた。
特に九州平定戦では蒲生氏郷と共に岩石城を落とす活躍をしている。天正16年(1588)、豊臣姓を下賜された。慶長3年(1598)には利家より前田家家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。父の利家は豊臣政権において五大老の一人として徳川家康に対抗する位置にあった。
慶長4年(1599)閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老の一人(及び豊臣秀頼の傅役)となる。その翌日に五奉行の一人石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。
利家の遺言では3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、同年8月、家康の勧めにより金沢へ帰国した。翌月、増田長盛などが利長・浅野長政らの異心を家康に密告する。
この時期、前田氏を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられており、家康は強権を発動して加賀征伐を献言する。この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。
しかし豊臣家がこれを断ったため、実母の芳春院(まつ)の説得もあり、重臣の横山長知を弁明に3度派遣し、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠娘)を結婚させることなどを約して交戦を回避した(慶長の危機)。
この際に浅野長政・浅野幸長・大野治長などが連座している。慶長5年(1600)、利長は金沢を出陣するが、この金沢出陣についてはその解釈が二説あり、上杉征伐に出陣する際に背後の丹羽長重を討とうとしたとする説、石田方の挙兵に対抗するための出陣とする説である。
いずれにせよ、家康出陣中に石田三成らが五大老の一人・毛利輝元を擁立して挙兵すると、利長は大聖寺城(石川県加賀市)を攻略し、越前国まで平定。金沢への帰路の8月8日には小松城(石川県小松市)主・丹羽長重軍に背後を襲われ、からくも撃退した(浅井畷の戦い)。9月11日、弟・前田利政の軍務放棄に悩まされながらも再び西上。
18日には長重と和議を結ぶ。関ヶ原の戦い後、西軍に与した弟・利政の能登の七尾城22万5,000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3,000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国合わせて122万5千石を支配する日本最大の藩・加賀藩が成立した。
利長は、関ヶ原の戦いで敗れて薩摩国へ逃れていた宇喜多秀家の助命を家康に嘆願し、実現した。また家康の重臣・本多正信の次男の本多政重に3万石を与えて召し抱えた。男子がなかったので、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した(隠居領は新川郡22万石)。幼い利常を後見しつつ富山城を改修、城下町の整備に努めた。
慶長14年(1609)、富山城が焼失したため一時的に魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝わる)を築き移った。城と城下町の整備に努めるも、梅毒による腫れ物が悪化して病に倒れた。隠居領から10万石を本藩へ返納するなど自らの政治的存在感を薄くしていく。
慶長18年(1613)には豊臣家より織田頼長が訪れ勧誘を受けるが、利長はこれを拒否した。慶長19年(1614)、病はますます重くなり京都隠棲、及び高岡城の破却などを幕府に願って許されるが、5月20日に高岡城で病死。服毒自殺ともされる(『懐恵夜話』)。享年53。
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“日本名僧・高僧伝”79・日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日) - 長享2年9月17日(1488年10月21日))は、室町時代の日蓮宗の僧

2017-06-23 04:35:26 | 史跡探訪
“日本名僧・高僧伝”79・日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日) - 長享2年9月17日(1488年10月21日))は、室町時代の日蓮宗の僧である。埴谷重継の子。「不受不施義」を初めて唱えたとされている。久遠成院と号す。
上総国に生まれる。妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門する。応永34年(1427年)に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。
永享5年1433年)には中山門流の総導師として肥前国へ赴き、門徒を指導したものの、その厳しい折伏に対して反発を買い、同流から破門された。
同9年(1437年)再び上洛し、本法寺を開く。日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止された。
永享12年(1440年)2月、禁に背いたために投獄され、本法寺は破却となる。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。
翌嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で義教が殺されたことによって赦免され、本法寺を再建。寛正元年(1460年)肥前で布教したために再び本法寺を破却され、8代将軍足利義政からの上洛命令を受けた。
同3年(1462年)11月、千葉元胤によって京都に護送され、細川持賢邸に禁錮となるが、翌年(1463年)赦されて、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建する。
長享2年(1488年)に入寂、享年82。日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、南北朝の戦乱や室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを受けるなど、次第に変質していった。
特に中山法華経寺に代表される中山門流は本来他宗派に対して比較的寛容であったとされ、同寺の寺宝である立正安国論(現在国宝とされている日蓮真蹟本)が建武3年(1336年)に律宗寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写されていた事が記録されている程である。このような状況の中で、日親は不受不施を主張した。

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『浪速史跡めぐり』御霊神社・大阪は都心は淡路町に御霊神社、祭神は天照大神荒魂、津布良彦神、応神天皇、源正霊神

2017-06-23 04:31:17 | 史跡探訪
『浪速史跡めぐり』御霊神社・大阪は都心は淡路町に御霊神社、祭神は天照大神荒魂、津布良彦神、応神天皇、源正霊神(鎌倉五郎景政公霊).
神社の社伝拠れば古くより大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、阿波座、薩摩堀立売堀、長堀の西部他、摂津国津村郷の産土神として鎮座。
古くは海辺にしてぬかるみ芦萩繁殖し円江、円形の入り江をなしていた。その地に瀬織津比売神、地主神たる津布良彦神、津布良媛神、奉祀し円神詞と言ったのがこの神社の古名である。
御神威高く、上古、天皇のご即位大嘗祭に続く八十島祭を預かり給もうた。豊臣秀吉の大坂城築城後、各諸大名の寄進相次ぎ、特に石見藩亀井玆矩が屋敷地を割いて寄進した。
文禄三年(一五九四)に源正霊神を合祀して現在の地に遷座した。その後、御霊神社と改称された、江戸時代には大阪城大家老が巡見の折り、参拝するのが慣例となった。
境内には「文楽座之跡」の碑と御霊文楽座跡がある
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京都十六社巡り・御靈神社・祭神・崇道天皇、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫、火雷神、吉備大臣、三社明神、和光明神・

2017-06-22 05:10:20 | 史跡探訪
京都十六社巡り・御靈神社・祭神・崇道天皇、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫、火雷神、吉備大臣、三社明神、和光明神・
京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495番地・平安遷都にあたり延暦13年(794)桓武天皇が平安京の守り神として早良親王(崇道天皇)の神霊をおまつりされたのが当神社のおこりです。
当時天変地異や疫病の流行があいつぎ、それは非運の中に亡くなられた高貴の人々のお心によるものとされ、その人々の御霊を丁重におまつりすることによって、災いをなくそうという御霊信仰が盛んになりました。
そしてそのお祭りを御霊会(ごりょうえ)といい、京都の夏祭りの多くは御霊会ですが、当神社の祭礼はその発祥であります。以後、井上内親王、他戸親王を始めとする13柱の神霊が祀られ現在に至っています。
又、文正二年(1467)畠山政長が当社御霊の森に立てこもり、畠山義就と戦いを交えたのが応仁の乱の始まりとなりました。
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「奈良古社寺探訪」長岳寺・奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺院。山号は釜の口山(かまのくちさん)、

2017-06-22 05:05:57 | 史跡探訪
「奈良古社寺探訪」長岳寺・奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺院。山号は釜の口山(かまのくちさん)、本尊は阿弥陀如来、開基は空海(弘法大師)とされる。
関西花の寺二十五霊場第十九番札所。日本最古の歴史の道といわれる山の辺の道のほぼ中間点に位置している。釜口大師の名で親しまれている。
天長元年(824年)に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという。盛時には四十八もの塔頭が建ち並んでいた。
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『戦国時代の群像』133(全192回) 伊東長実(1560~1629)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将

2017-06-22 05:00:35 | 史跡探訪
『戦国時代の群像』133(全192回)
伊東長実(1560~1629)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名(外様大名)。
備中国岡田藩初代藩主。永禄3年(1560年)、尾張国岩倉の国人・伊東長久の長男として生まれる。日向国飫肥藩の伊東氏と遠祖を同じとする。
天正元年(1573年)の小谷城攻めから織田氏に仕え、羽柴秀吉配下につけられ、大母衣衆に抜擢される。別所氏攻めで功績を残して織田信長より脇差を与えられたとの記録が残る。
その後も秀吉配下として各地を転戦し、黄母衣衆24人の一人に列せられた。天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、山中城攻めの際には一番乗りを果たす活躍をし、戦後の天正19年(1591年)に備中川辺に1万300石を与えられ大名となった。
文禄・慶長の役では肥前国名護屋に駐屯した。慶長5年(1600年)6月16日、会津征伐に向かうため下野国小山にいた徳川家康にいち早く石田三成の挙兵を知らせる功績を残した。
この功績で後に大坂の陣では豊臣方として入城し、大坂七手組頭の一人として家康に敵対するものの、青木一重と共に大名として存続することを許された。殆どの豊臣方の大名が領地を取り上げられる中、この処置は異例であり、スパイ的な活動を行っていたのではないかとも考えられている。
晩年に剃髪し、宗徳と号した。寛永6年(1629年)2月17日に死去。享年70。家督は次男・長昌が継いだ。
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『歴史の時々変遷』(全361回)204“岩屋城の戦い“ 「岩屋城の戦い」日本の戦国時代に、九州制覇を目指す薩摩

2017-06-22 04:56:30 | 史跡探訪
『歴史の時々変遷』(全361回)204“岩屋城の戦い“
「岩屋城の戦い」日本の戦国時代に、九州制覇を目指す薩摩の島津氏が、大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を落とした戦い。
苛烈かつ激戦であった攻城戦と言われている。天正12年(1584)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を敗死させた島津氏は、大黒柱を失った龍造寺氏を軍門に降らせたことで、その勢いを急速に伸長した。
この年、龍造寺氏からの離反や大友氏への対立方針を採るなどの様々な思惑から肥後の隈部親永・親泰父子、筑前の秋月種実、筑後の筑紫広門といった小勢力らが、服属や和睦といった形で島津氏との関係を強化していった。
翌年には肥後の阿蘇惟光を降した島津氏にとって、九州全土掌握の大望を阻む勢力は大友氏のみになっていた。島津氏の当主・島津義久は筑前への進撃を命じ、島津忠長・伊集院忠棟を大将とする総勢20000余人が出陣した。
筑前で島津氏に抗い続けるのは、岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次子・高橋統増(のちの立花直次)、立花山城主で紹運の長子・立花宗茂といった大友氏の配下だけであった。
岩屋城には763名の城兵が籠る。1586年7月12日島津軍は降伏勧告を出すが紹運はこれに応じず、徹底抗戦を行った。7月14日、島津氏による岩屋城攻撃が開始された。
しかし、島津軍の大半は他国衆であり戦意に欠けていた。紹運の采配により、島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗していた。
城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じなかった。籠城戦が始まって半月が経過した27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けた。多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけになっていた。
紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。紹運以下763名全員が討死、自害して戦いの幕は降りた。一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため、態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった。
紹運は敢えて島津勢が最初に攻撃するであろう岩屋城に入城した。主将である紹運が敢えてこのような行動を取ったのは、島津勢に迂回されて立花城を衝かれるわけにはいかないからである。
立花城には紹運の実子、立花宗茂がいた。また宝満城には、紹運の妻や次男の高橋統増、岩屋城から避難した非戦闘員(女・子供)もいた。豊臣軍が来援するまで紹運は自らを囮として徹底抗戦する。
篭城軍は全員玉砕するが島津軍にも甚大な被害が出たため軍備を整えるため一時撤退する。結果、主家大友家・長男宗茂は豊臣軍来援まで持ちこたえる事に成功した。(次男、統増は島津軍の策略により捕虜になるが後に釈放される)
長男で立花氏の養子になった立花宗茂は、父高橋紹運が篭城する岩屋城に援軍を派遣したいと家臣に告げた。他家からの養子のため賛同者が出ないのではと考えたが、吉田兼正(吉田左京)を始めとする多数が援軍に赴きたいと願い出た。吉田左京は「武士の道は義に順ずることだと思う」と率先して岩屋城に援軍に向かった。
援軍に向かった吉田左京ら二十余人は、紹運と共に玉砕したと伝わっている。彼らの遺族は後に宗茂によって厚遇されている。
島津軍諸将は、紹運の武将としての器量を惜しみ降伏勧告を何度も送ったが、紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」と敵味方が見守る中で言い切った。
敵味方関係なく賞賛の声が上がったと言われている。ちなみに降伏勧告は計5回、島津方から3回、味方である立花宗茂と黒田孝高から、岩屋城が防衛に向かないために城を捨てて撤退せよという趣旨で1回ずつ受けているが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を断っている。落城後、攻め手の総大将だった島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検に及ぶとき、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。
紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」と床几を離れ、地に正座し涙を流したと伝わっている。


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“日本名僧・高僧伝”78・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう、明徳2年/元中8年12月8日(1392年1月2日)- 文明5年5月8日(1473年6月3日))は、室町時代中期の臨済宗夢窓派の僧。

2017-06-22 04:53:07 | 史跡探訪
“日本名僧・高僧伝”78・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう、明徳2年/元中8年12月8日(1392年1月2日)- 文明5年5月8日(1473年6月3日))は、室町時代中期の臨済宗夢窓派の僧。
和泉国堺の出身で、俗姓は大伴氏。諱は周鳳。字は瑞渓。臥雲山人とも称される。諡号は興宗明教禅師(文明14年(1482年)勅諡)。10歳のとき応永の乱で父を失った。
このため、応永11年(1404年)に京都相国寺の無求周伸(むきゅうしゅうしん)を頼って上洛し、応永13年(1406年)に無求を師として出家した。
応永20年(1413年)に師の死に逢ってその法を継承し、更に厳中周噩(げんちゅうしゅうがく)らの下で修行した。
季瓊真蘂の推挙によって6代将軍足利義教に拝謁してその文筆を高く評価され、永享8年(1436年)に山城国景徳寺の住持に任ぜられる。
翌年十刹の1つである等持寺の住持となり、永享11年(1439年)に発生した永享の乱後の処理のために義教の命を受けて関東に下向している。
永享12年(1440年)に相国寺第50世住持となり、文安3年(1446年)10月に相国寺鹿苑院院主兼僧録に任じられ、後に康正2年(1456年)と応仁元年(1467年)に再任されて死去までに通算3度務めた。
引き続き8代将軍足利義政に重用され、文筆の才により室町幕府の外交文書の作成にあたった。
外交史書の『善隣国宝記』を編集し、足利義満の明との朝貢形式の外交を非難している。『臥雲日件録』という日記も著し、今参局、烏丸資任、有馬持家(子の有馬元家とも)を非難している。


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『浪速史跡めぐり』南御堂(東本願寺難波別院)・大阪市内を南北を貫く目抜き通り

2017-06-22 04:45:49 | 史跡探訪
『浪速史跡めぐり』南御堂(東本願寺難波別院)・大阪市内を南北を貫く目抜き通りは御堂筋であるが、その名の由来は浄土真宗両本願寺の別院が置かれていた所に大正十五年に着工し昭和12年に竣工を見た。
当初「こんな大きな道路を造って飛行場でも造るのか」と言う声が多かった。その地名にもなっている御堂は本願寺八世蓮如にその端が始まる。
大坂の教化の拠点御坊を山科本願寺が焼失後、本山を今の大阪城辺りの石山本願寺である。十一世顕如のときに、信長との戦いによる十一年間の石山合戦である。
和議の後、本山は紀州、貝塚、天満を経て、天正十九年豊臣秀吉より京都六条堀川の地を与えられた。
顕如の死後長男教如が十二世となったが、弟を寵愛する如春尼が秀吉に願い出て教如を隠居させた。准如が十三世となった。そ
の後教如は関が原で勝利した徳川家康に近づき勢力を取り戻し、現在の道修町に大田に本願寺を建立し難波別院に移り、徳川家から分派を認められた。
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「神仏霊場巡り」湊川神社・兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。

2017-06-21 05:50:39 | 史跡探訪
「神仏霊場巡り」湊川神社・兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。
地元では親しみを込めて「楠公さん」と呼ばれている。
建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。
その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。
以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。  1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされた。
明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。
境内には、楠公にゆかりのあるものを納めた宝物殿や能楽堂である神能殿や結婚式などのための楠公会館などがある。また兵庫県内の神社の事務を管轄する兵庫県神社庁の事務所がある。
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近畿三十六不動巡り」七宝瀧寺・大阪府泉佐野市の犬鳴山の山中にある真言宗犬鳴派の寺院。

2017-06-21 05:43:14 | 史跡探訪
「近畿三十六不動巡り」七宝瀧寺・大阪府泉佐野市の犬鳴山の山中にある真言宗犬鳴派の寺院。
山号は犬鳴山(いぬなきさん)。本尊は倶利伽羅不動明王。
 661年、役小角によって大峰山山上ヶ岳の6年前に開山したと伝わり、元山上と呼ばれている。古くは犬鳴山を含む和泉山系全体を「葛城」と呼び、その中でも犬鳴山は西の行場、東の行場を持つ葛城二十八宿修験道の根本道場である。
「宇多天皇の御代、紀州の猟師がこの山域で狩りをしていた際、突然連れていた犬が激しく鳴きだし、結果猟師が射ようとしていた鹿が逃げてしまった。
怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。
愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝瀧寺の僧となって愛犬を供養した。 このことを聞いた天皇は、いたく感動し、七宝瀧寺に『山号を「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜った」と伝えられている。
(義犬伝説)本尊から数分歩くと滝の前に出る。行者の滝である。 飛鳥時代の661年(斉明天皇七)開山の役行者が集合した場所のひとつと伝わっている。
山中には他にも6つ、合計7つの滝があり、平安時代初期に大干ばつに見舞われたときに雨乞いを祈願して雨が降り、それを知った淳和天皇(じゅんなてんのう)が「七宝瀧寺」と名付けたという。
近世初頭の「口上覚」によると、毎年5月に高野山から葛城巡行する先達たちは、犬鳴山に7日間留まり柴焼護摩を修したといい、「葛城山中で七日間も逗留するのはここだけだ」と述べられており、いかにこの山の地位が高かったかをうかがわせるものとなっている。
南北朝期に六坊が創建され、室町期には二十坊の坊舎を有し、本堂の修復も行われて隆盛を迎えた。しかし豊臣秀吉の根来攻めによって本堂以外の堂舎を焼き払われ、田畑山林も没収され、一時は廃絶同然となった。
のち岸和田城主より寺領五石の寄進を受け、ほぼ今日見られるまでに復興したものである。

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『戦国時代の群像』132(全192回) 「赤座直保」(?~1606)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。赤座氏は朝倉氏家臣123家を所収した「一乘録」

2017-06-21 05:36:30 | 史跡探訪
『戦国時代の群像』132(全192回)
「赤座直保」(?~1606)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。赤座氏は朝倉氏家臣123家を所収した「一乘録」にその名が記されており、直保や父の直則も朝倉氏家臣であった可能性が高い。
天正元年(1573年)8月織田信長の越前朝倉氏討滅後、信長に降り信長書状によって本領を安堵されたのが直保の初出である。
その後越前守護代となった桂田長俊(前波吉継)の下で信長に仕え、天正3年(1575年)11月には長俊の書出しに基づいて府中火内村56石の加増を受けた。
この所領は翌年府中三人衆から打ち渡しを受けている。このころ堀江・新開・千福・赤座・鞍谷・諏訪といった越前の諸士は柴田勝家や府中三人衆の与力とされており、前田氏とは関係があった。
天正10年(1582年)の本能寺の変で父・直則が討ち死にすると家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて所領を安堵される。天正17年(1589年)10月、南条郡大桐村に灰焼きの営業独占権を与えた文書が現存する。
天正18年(1590年)の小田原征伐では石田三成の麾下で武蔵国岩槻城、忍城の攻略に参加し、この功によって従五位下備後守に任官、越前国今庄2万石に加増され大名に列する。
しかしその地位は小早川秀秋や堀尾吉晴の与力であり、独立の大名ではなかった。今庄は直保が居館を置いたことからその統治下において発展し、その統治は結城秀康の街道整備政策によって引き継がれて北国街道の宿駅として栄えるに至る。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで初めは西軍の大谷吉継の軍に属して北国口で戦ったが、本戦で小早川秀秋が東軍に寝返ったのに呼応し、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷軍を壊滅させる。
だが事前に通款を明らかにしなかったとの理由で、戦後、徳川家康にその功を認められず所領を没収されたとするが、そもそも直保は関ヶ原の戦いに参戦していなかったとする指摘もある。その後は京に住んだが、同年10月前田利長の家臣となり加賀へ赴き、松任城代として7千石を領した。
慶長8年(1603年)には利長の命により先祖赤座景秋が建立した棟岳寺を下屋敷の敷地内に移転させている。慶長11年(1606年)、越中大門川の氾濫の検分の際、濁流を渡河中に落馬、溺死している。子の孝治は永原と改姓し、加賀藩の藩士として存続した。
「寛永十九年小松侍帳」には「御人持」(人持組)の席次第四位に永原左京(5千石)、十四位に永原大学(□□800石)、「御馬廻」に永原内膳(600石)、永原五郎左衛門(300石)が記載されており、子弟か一族と思われる。
左京の娘は加賀八家長家嫡男長元連に嫁ぎ、この縁故から左京、大学の両名は浦野事件に藩側として関与し浦野孫右衛門の子弟を預かっている。幕末には馬廻役・作事奉行を歴任した永原甚七郎(孝知)が出、水戸天狗党討伐の指揮を執り、葉原でこれを降伏させ最期を看取っている。

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