「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『五山・十刹の盛衰』アマゾン電子書籍紹介。  朝廷・幕府が定めた禅宗官寺の寺格。南宋(なんそう)の禅宗制度を移入し

2019-11-05 06:58:48 | 温故知新

『五山・十刹の盛衰』アマゾン電子書籍紹介。
 朝廷・幕府が定めた禅宗官寺の寺格。南宋(なんそう)の禅宗制度を移入したもので、朝廷や幕府が住持を任命する。
 臨済宗の五山に「このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
 五山、十刹(じっさつ)、諸山(しょざん)の3種の寺格がある。史料のうえで最初に五山に列せられたのは正安元年(1299))5月の鎌倉浄智寺で、そののち応長元年(1311)頃に鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺が加えられた。
 京都の禅寺は、さらに正慶2・元弘3(1333)10月に大徳が五山に列し、翌年正月南禅寺が五山第一に列せられた。
 建武年中(1334~1338)には建仁寺、東福寺も五山に加えられた。 
 やがて室町幕府が成立して天龍寺が建てられると、各寺の位次が定められるようになった。
 将軍足利尊氏は康永元(1342)4月、五山第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺、凖五山浄智寺と定めた。
 延文3年(1358)9月、将軍義詮(よしあきら)は第一建長寺・南禅寺、第二円覚寺・天龍寺、第三寿福寺、第四建仁寺、第五東福寺・浄智寺・浄妙寺・万寿寺とした。
 このうち建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺が鎌倉五山、ほかが京都五山である。
 至徳3年(1386)7月には、将軍義満によって創立された相国寺を加えて、五山之上南禅寺、第一天龍寺・建長寺、第二相国寺・円覚寺、第三建仁寺・寿福寺、第四東福寺・浄智寺、第五万寿寺・浄妙寺という京都五山優位の位次が初めて決定された。のち一時期、義満は相国寺と天龍寺の位次を取り替えたが、やがて元に復した。
 このように五山の順位は権力者が替われば順位が変わり、その後、京都では大徳寺と妙心寺では時の執権者の意に沿わなかったとか政治的に考慮して林下として加えることが無かった。
 五山に次ぐ十刹には、浄妙寺や豊後(ぶんご)の万寿寺などが鎌倉末期に列せられたのが初見で、ついで暦応4年(1341)8月、尊氏によって相模(さがみ)浄妙寺・相模禅興(ぜんこう)寺、筑前聖福(しょうふく)寺、京都万寿寺、相模東勝寺・相模万寿寺、上野(こうずけ)長楽寺、京都真如(しんにょ)寺・京都安国(あんこく)寺、豊後万寿寺の10か寺が決められた。
 そののち義詮、義満によって一部の改定が行われたが、康暦2年(1380)正月、義満によって第一等持(とうじ)寺(京都)、第二禅興寺、第三聖福寺、第四東勝寺、第五万寿寺(京都)、第六長楽寺、第七真如寺、第八安国寺(京都)、第九万寿寺(豊後)、第十清見(せいけん)寺(駿河(するが))の十刹と、臨川(りんせん)寺(京都)、宝幢(ほうどう)寺(京都)、瑞泉(ずいせん)寺(相模)、普門寺(京都)、宝林寺(播磨)、国清(こくしょう)寺(伊豆)の凖十刹、計16か寺の位次が決められ、ここに十刹は10か寺より多い一種の寺格に変わった。
 ついで至徳3年(1386)7月に等持寺・臨川寺・真如寺・安国寺・宝幢寺・普門(ふもん)寺・広覚(こうかく)寺・妙光(みょうこう)寺・大徳寺・龍翔(りょうしょう)寺の京都十刹と、禅興寺・瑞泉寺・東勝寺・万寿寺・大慶(だいけい)寺・興聖(こうしょう)寺・東漸(とうぜん)寺・善福寺・法泉寺・長楽寺の関東十刹が決定されたが、こののち将軍義持の頃からしだいに数を増し、文明末年(1486)頃には46か寺、さらに中世末には60か寺余の多きに達した。十刹に次ぐ諸山は、元亨元(1321)に相模の金剛崇寿(こんごうすうじゅ)寺が列せられたのが初見で、そののち各国の有力禅寺がしだいに加えられて、江戸初期には全国で230か寺を数えるに至っている。
 これら禅宗官寺の多くは将軍の御教書(みぎょうしょ)によって認定されたが、なかには北朝の院宣(いんぜん)や南朝の綸旨(りんじ)によるものもあった。
 なお、禅宗官寺は原則として五山のどの派の者も住持になりうる十方(じっぽう)住持制をとっており、その住持期間も原則として三年二夏(満2年)と決められていた。五山、十刹、諸山に編成された禅宗寺院を五山派と総称し、林下(りんか)と区別する。





「近衛家の一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-11-05 06:56:47 | 温故知新
「近衛家の一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍
五摂家の一つ。平安末期の摂政藤原基実(1143~1166)に始まり、家号は彼が父忠通から伝領した弟(近衛殿による。基実が若くし没したのち、摂政・関白の地位と氏長者を受け継いだ弟の松殿基房はやがて平氏と対立し失脚する。一方、基実の子近衛基通は兵士に後援されて基房の跡を襲伊、後白河院の寵愛設けてその地位を維持をした。後に院と対立し源頼朝によって基通はその地位を追われ、叔父の九条兼実に取って代わられたたが、兼実が失脚すると再び返り咲いた。
この時に頼朝の圧力から後白河の庇し、基通が保持し恵当た摂関家領の多くが、以降、近衛家領となる。このように平安末期から鎌倉初期の摂関家は、政治状況の変転によって分裂と相互対立の様相を呈し、特兼実の家系(九条家)と基通の家系(近衛家)とが摂関を出す家格として並ぶに至った。これが五摂家分立の始まり、鎌倉中期にはさらに近衛家を継承した兄兼経とは別に、鷹司家を立て、分立の形成が定まった。江戸初期の近衛家には天皇家から信尋が入って家を継いだ。
明治以降、家族となって公爵を受けられた。首相になった近衛文麿は、昭和戦前の政治史に残る重要な位置を占めている。

「前田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍

2019-11-05 06:54:36 | 温故知新
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①江戸時代の外様大名家。祖先は尾張国愛知郡荒子城主。前田利家が織田信長に取りたてられ、豊臣秀吉の五大老となり徳川家康と並び立ったが、その後徳川幕府の下で加賀・能登・越中3国100万石余の外様大名として廃藩置県まで14代続いた。居城は加賀国金沢。利家の時から菅原姓を称したが定姓は未詳。秀吉から羽柴姓・豊臣姓を、徳川氏から松平姓が許され、利家は極官、官位は正三位、前田利長従三位、斉泰正三位で他は正四位下であった。元和2年(1616)加賀藩初代の五男利孝が上野国甘楽軍に入府、三代利常の隠居時に次男の利次に越中国一〇万石、三男利治に加賀国江沼郡に分知、江戸城詰め間は大広間、元禄二年(1689)から御三家並みの白書院。家紋は剣梅鉢。②加賀藩三代利常の次男前田利次寛永一六年(1639)越中国に10万石を分知されて富山城主となり、富山藩成立、廃藩置県まで13代続いた。官位は極官は代々十四位下、江戸城詰間は柳の間、従四位下に進めば大広間であった。③加賀藩3代利常の3男前田利治(1618~1660)寛永16年(1639)可が酷江沼郡に、7万石分知され、同郡大聖寺町に館を持ち大聖寺藩が成立。廃藩置県まで14代続いた。④加賀藩初代利家の5男前田利孝(1594~1637)は徳川氏に仕え、元和2年(1616)上野国甘楽郡に1万石余を領知として七日市に陣屋を構え、廃藩置県まで12代続いた。官位は十五位下であった。