「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

記事のタイトルを入力してください(必須)『社寺神仏豆知識』7・イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)は、日本神話の女神。伊弉諾神(

2016-12-24 07:44:47 | 二十二社
伊邪那岐命、伊耶那岐命・いざなぎ)の妹であり妻。別名 黄泉津大神、道敷大神。天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。オノゴロ島におりたち、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子をもうける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。火の神軻遇突智(迦具土神・かぐつち)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。亡骸は、『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町)に、『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたという。死後、イザナミは自分に逢いに黄泉国までやってきたイザナギに腐敗した死体(自分)を見られたことに恥をかかされたと大いに怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかける。しかし、黄泉国と葦原中津国(地上)の間の黄泉路において葦原中国とつながっている黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナミに対してイザナギが大岩で道を塞ぎ会えなくしてしまう。そしてイザナミとイザナギは離縁した。この後、イザナミは黄泉の主宰神となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになった。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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『歴史歳時記豆知識』13文章博士(もんじょうはかせ)とは?、

2016-12-24 07:39:59 | 二十二社
『歴史歳時記豆知識』13文章博士(もんじょうはかせ)とは?、大学寮紀伝道の教官(令外官)。文章生に対して漢文学及び中国正史などの歴史学を教授した。唐名は翰林学士(かんりんがくし)。神亀5年7月21日(728年8月30日)の格において、明経道を補助する事(儒学以外の漢文の解釈)を目的として律学博士(後の明法博士)とともに設置された。当初は明経道の助博士に準じて正七位下相当とした。2年後の天平2年3月27日(730年4月18日)に明法生・文章生が設置されて事実上の独立した教科となった。日本の律令法における学令は、唐の制度に倣って中国王朝の支配思想であった儒学を教える明経道を中心に置いた規定がなされ、文章博士はそれを補う目的で設置されたものであった。ところが、日本においては思想(明経道)や実務(明法道)よりも親しみやすい文学・史学への関心が高く、宝亀3年(772年)には淡海三船が大学寮の長である大学頭と文章博士を兼ねるなど、文章博士の地位が高まるようになった。弘仁12年2月17日(811年3月15日)に官位相当が従五位下に引き上げられ、諸博士の筆頭であった明経博士を追い越して大学寮の教官で唯一の貴族身分とされた[1]。更に承和元年3月8日(834年4月20日)には、紀伝博士(大同3年(808年)設置)1名を統合して定員を2名とした。以後、学科名としては紀伝科あるいは紀伝道が採用されたものの、博士の号は神亀以来の「文章博士」の呼称が採用された(ただし、文章中に他の科の博士と併記する場合には、「紀伝道の博士」という意味で「紀伝博士」の表記を用いた例もある)。更に貞観元年(859年)には職田が4町から6町に増加された。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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『浪速史跡めぐり』少彦名神社(神農さん)・大阪では薬問屋は昔より道修町

2016-12-24 04:39:46 | 二十二社
『浪速史跡めぐり』少彦名神社(神農さん)・大阪では薬問屋は昔より道修町と誰もが知っている。その薬の町の道修町の守り神こそ「少彦名神社」である。薬問屋が軒を連ね、創業延宝六年の田辺製薬や享保年間の小野薬品工業に天明年間創業の武田製薬など日本の薬の老舗が集中し江戸時代から卸問屋に番頭丁稚の商人を代表する町であった。そんな少彦名神社はビルとビルの間に狭い境内に「くすり道修町資料館」と合わせて鎮座する。元々日本の神さんのうち少彦名神は大国さんと共に国造りをされた神と同時に薬の神さんでもある。江戸時代に伊勢講を組織し天照大神に祈り日本の薬祖神少彦名命を京都は五条の天神社から勧請し祀ったのが起源で、江戸時代の名医北山寿安が父が中国の福建省出身で道修町の少彦名神と共に薬祖神神農氏を合祀した。記述に拠れば伏見町と平野町に挟まれた道修町は豊臣時代から薬を扱い、徳川八代将軍吉宗の病を治したと伝えられ和薬種改会所を設け、検査する特権を与えられたという。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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『歴史の時々変遷』(全361回)39”藤原純友の乱“

2016-12-24 04:35:21 | 二十二社
『歴史の時々変遷』(全361回)39”藤原純友の乱“
「藤原純友の乱」承平天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発ていた。従七位下伊予掾の藤原純友は海賊の討伐に当たっていたが、承平6年(936)頃には伊予国日振島を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされる。純友が武芸と説得によって鎮圧した海賊は朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちが、税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていたものであった。それに対して純友らの武装勢力は、海賊鎮圧後も治安維持のために土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層であり、彼らは親の世代の早世などによって保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者達であった。つまり、東国などの初期世代の武士とほぼ同じ立場の者達だったのである。しかし彼らは、自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのである。また、純友の父の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったという事実に注目されている。純友はこの元名の代行として現地に派遣されて運京租税の任にあたるうちに富豪層出身の舎人ら海賊勢力と関係を結んだとされている。天慶2年(939)12月、純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅にて襲撃させた。ちょうど、東国で平将門が謀反を起こし新皇を称したとの報告が京にもたらされており、朝廷は驚愕し、将門と純友が東西で共謀して謀反を起こしたのではないかと恐れた。朝廷は天慶3年(940)1月16日小野好古を山陽道追捕使、源経基を次官に任じるとともに、30日には純友の懐柔をはかり、従五位下を授け、とりあえずは兵力を東国に集中させた。純友はこれを受けたが、両端を持して海賊行為はやめなかった。2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪っている。この頃、京の各所で放火が頻発し、小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある」と報告している。朝廷は純友が京を襲撃するのではないかと恐れて宮廷の14門に兵を配備して2月22日には藤原慶幸が山城の入り口である山崎に派遣して警備を強化するが、26日には山崎が謎の放火によって焼き払われた。なお、この一連の事件と純友との関係について純友軍の幹部に前山城掾藤原三辰がいる事や先の藤原子高襲撃事件などから、実は純友の勢力は瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけてのいわゆる「盗賊」と呼ばれている武装した不満分子にも浸透しており、京への直接的脅威と言う点では、極めて深刻な状況であったのではとする見方もある。将門敗北の報を受けて、将門討伐の成功によって純友鎮圧の自信を深めた朝廷が純友を挑発して彼に対して文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるかの二者択一を迫るものであった。8月、純友は400艘で出撃して伊予国、讃岐国を襲って放火。備前国、備後国の兵船100余艘を焼いた。更に長門国を襲撃して官物を略奪した。10月、大宰府と追捕使の兵が、純友軍と戦い敗れている。11月、周防国の鋳銭司を襲い焼いている。12月、土佐国幡多郡を襲撃。天慶4年(941)2月、純友軍の幹部藤原恒利が朝廷軍に降り、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破った。純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領する。純友の弟の藤原純乗は、柳川に侵攻するが、大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池で敗れる。5月、小野好古率いる官軍が九州に到着。好古は陸路から、大蔵春実は海路から攻撃した。純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った。激戦の末に純友軍は大敗、800余艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れた。同年6月、純友は伊予に潜伏しているところを警固使橘遠保に捕らえられ、獄中で没した。
※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)142“今川範国” 今川範国(?~1384)南北朝から室町時代の武将。

2016-12-24 04:30:35 | 二十二社
『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)142“今川範国”
今川範国(?~1384)南北朝から室町時代の武将。駿河・遠江守護。出家名心省。父は今川基氏、母は香雲院清庵の5男として生まれ、嘉暦元年(1326)に出家したが、1335年中先代の乱で兄たちが戦死した為、家督を継ぐ。遠江守護として南朝勢力と戦い、1338年美濃国青野原合戦の功によりっ駿河守護に補任された。観応の擾乱後引付頭人として幕府に出仕した。幼少より冷泉派の和歌を学び、武家故実にも詳しく、射芸にも熟練していた。その資質はとくに次男今川貞世に大きな影響を与え、その後の今川氏の文武両道の家風を培う基となった。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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「神仏霊場巡り」鹿苑寺・京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った三層の楼閣建築である舎利殿は金閣

2016-12-24 04:25:24 | 二十二社
「神仏霊場巡り」鹿苑寺・京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った三層の楼閣建築である舎利殿は金閣、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。寺名は開基(創設者)である室町幕府三代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和二十五年(1950年)に放火により焼失し、昭和三十年(1955年)に再建された。平成六年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有し、同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとする謀反が発覚したために逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。応永4年(1397年)、室町幕府三代将軍足利義満が河内の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年(1394年)に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。応永十五年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣を追放して自らここに入ったが、翌十六年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。その後、義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永二十六年(1419年)北山院が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。また、応永二十三年(1416年)1月に義満が相国寺から移築した七重大塔が落雷で焼失すると、義持は七重大塔を相国寺に再建するように命じている。応永二十七年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山としている。応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安二年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により明治二十七年(1894年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。
※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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「二十二社巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物(おおもの)主(ぬし)大神(おおかみ) 奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社・

2016-12-24 04:18:31 | 二十二社
「二十二社巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物(おおもの)主(ぬし)大神(おおかみ)
奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社・神武東征の以前よりこの地域纏向一帯に勢力を持った、先住氏族の磯城彦(しきひこ)が崇拝し、代々族長によって引き継がれた磐座(いわくら)祭祀(さいし)の儀式が行われたと思われている。皇室の崇敬も深く融和の為に外戚関係にあった。旧来は「大神大物主神社」と呼ばれてきた。大神神社には本殿がない、三輪山自体が神体としており、江戸時代に造営された拝殿から三輪山自体の御神体を仰ぎ見る「古神道」(原始神道)の形を残している。三輪山の祭祀は山や山麓に留まらず、初瀬川、巻向川に挟まれた地域から望拝して行われた。大神氏の同族は各地に点在し活躍したことは国史によって知られることで、天平神護元(765)神封一六〇個の内、大和三五戸、摂津二五戸、遠江十戸、美濃五十戸、長門三十戸、と各地に神封を得ている。また各地にミワ神社が祀られている理由が窺える。『延喜式』には名神大社、月次、相嘗、新嘗などの祭の幣を預かる。中世には大和国一ノ宮として二十二社の一に数えられ朝野の崇敬を受けた。拝殿の奥には三つ鳥居は明神鳥居三つを一つに組み合わせた特異な形をしている。鳥居から辺津磐座まで禁足地で、4,5世紀の布留式土器、須恵器など勾玉、臼玉などは出土され、大半の須恵器は堺市の泉北古窯で焼かれたことが判明され、何らかの関係が有ったのかと思われている。★
『古事記』に大国主神が国造りに少彦名神と共に精を出して平定をしていたが、ある時、少彦名神は常世国に行ってしまい途方に暮れておる時に海原の彼方から現れた「幸魂奇魂」であり、大和国の東方の山に祀れば国造りを手伝いと言った。その山とは三輪山(御諸山)に鎮座する大物主神であった。★『古事記』の説話に崇神天皇の御世に、疫病が盛んに流行って、国民が絶えてしまう程であった。天皇は心配され、神の信託を得ようと床に就かれ眠ろうとされた夜に、大物主神の御夢にはっきりと現れて「この疫病は、私が引き起こしたもので、意(お)富(ほ)多々(たた)泥(ね)古(こ)によって、私を祭ってくださるならば、国も安らかになるであろう」とお告げがあった。そこで早馬の使者を四方に分けて出し、意(お)富(ほ)多々(たた)泥(ね)古(こ)と言う人を探し求めたところ、河内国の美怒村でその人見つけた、そしてその人を献上した。天皇はその人に「お前は誰の子だ」と尋ねられた。するとその者は「私は大物主神が、陶津(すえつ)耳(みみ)命(みこと)の娘の活玉依毗売(いくたまよりびめ)と結婚をして生んだ子の、名は櫛(くし)御方(みかた)命(みこと)の、またその子の飯(いひ)肩(かた)巣(す)見(み)命(みこと)、さらにその子の建甕遣(たけみかずち)命(みこと)の子が、私を含め意富多々泥古であります。」と答えた。これを聞き天皇はたいそう喜ばれて「これで天下泰平になる、人民は栄えるであろう」と意富多々泥古命を神主として、御諸山(みもろやま)に、大三輪神社の神である大物主神をお祭りになったと言う。★【古事記』この美和の大物主神の説話については大和の国津神と征服者の天津神の融合と一般的に考えられる。この融合は新旧の勢力の対立から起きた、禍を指すのかもしれない。三輪神社に伝わる説話にこんな話がある。【オオタタネコがオオモノヌシの子孫であると云い伝える物語がある。あおのイクタマヨリビメは容姿端麗な美人だった。ところが夜半になると、鍵音もなく忍び寄る男がいた。見れば容姿も良く、二人はたちまち相思相愛の仲になり、親の目を盗んでは同棲生活をした、その内姫は妊娠をしてしまった。当然のことながら、娘の異変に気付いた両親は「お前は身籠ったようだが、どうしてそのようになったのか」と問い詰めた。「名前は知りませんが、毎夜私のもとにやって来て、一緒に過ごすうちに、何時の間にか出来てしまったのです」姫は答えた。】これはオオタタネビコを三輪のオオモノヌシの子孫とする系譜に伝わる話である。因みに三輪の地名に、麻糸が三輪残ったので、美和(三輪)と名付けた。★天津神の子孫は、国譲りで、国つ神の葦中国を得たので、その恨みや不満での禍を恐れた、そのための国津神の御霊を癒す試みを、子々孫々の融合を考えられた。【イクタマヨリヒメは容姿端麗な美人だった。毎夜姫の所に通う美男子に相思相愛、たちまち子供を宿り、親に発覚、男の素性を知りたく、麻糸を男に付け、床に赤土を巻いたが痕跡は出てこなかった。糸を手繰って行くと三輪山に辿り着き、三輪神社の神のオオタネヒコであった話である。】☆もう一つオオモノヌシ伝説に孝霊天皇の皇女のヤマトトトヒモモソヒメがオオモノヌシの妻になった話、【崇神紀に皇女ヤマトトヒモモヒメガオオモノヌシの妻となった時に、神の姿を櫛箱に入っている子蛇を見て驚いて叫ぶと、辱められたと、怒って三輪山に帰ってしまった。姫は箸で陰(ホト)を突いて急死をした。】そしてその墓が箸塚古墳で今一番卑弥呼の墓として注目されている。この説話はこの地の豪族が征服した王族に服従したことになぞらえたのかも知れない。
◎上記の『古事記』の説話を見ても大神神社が「国つ神」の代表として影響力を持っていたかが窺い知れる。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

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「二十二社巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物おおもの主ぬし大神おおかみ 奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社

2016-12-24 04:17:40 | 二十二社
「二十二社巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物おおもの主ぬし大神おおかみ
奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社・神武東征の以前よりこの地域纏向一帯に勢力を持った、先住氏族の磯城彦しきひこが崇拝し、代々族長によって引き継がれた磐座いわくら祭祀さいしの儀式が行われたと思われている。皇室の崇敬も深く融和の為に外戚関係にあった。旧来は「大神大物主神社」と呼ばれてきた。大神神社には本殿がない、三輪山自体が神体としており、江戸時代に造営された拝殿から三輪山自体の御神体を仰ぎ見る「古神道」(原始神道)の形を残している。三輪山の祭祀は山や山麓に留まらず、初瀬川、巻向川に挟まれた地域から望拝して行われた。大神氏の同族は各地に点在し活躍したことは国史によって知られることで、天平神護元(765)神封一六〇個の内、大和三五戸、摂津二五戸、遠江十戸、美濃五十戸、長門三十戸、と各地に神封を得ている。また各地にミワ神社が祀られている理由が窺える。『延喜式』には名神大社、月次、相嘗、新嘗などの祭の幣を預かる。中世には大和国一ノ宮として二十二社の一に数えられ朝野の崇敬を受けた。拝殿の奥には三つ鳥居は明神鳥居三つを一つに組み合わせた特異な形をしている。鳥居から辺津磐座まで禁足地で、4,5世紀の布留式土器、須恵器など勾玉、臼玉などは出土され、大半の須恵器は堺市の泉北古窯で焼かれたことが判明され、何らかの関係が有ったのかと思われている。★
『古事記』に大国主神が国造りに少彦名神と共に精を出して平定をしていたが、ある時、少彦名神は常世国に行ってしまい途方に暮れておる時に海原の彼方から現れた「幸魂奇魂」であり、大和国の東方の山に祀れば国造りを手伝いと言った。その山とは三輪山(御諸山)に鎮座する大物主神であった。★『古事記』の説話に崇神天皇の御世に、疫病が盛んに流行って、国民が絶えてしまう程であった。天皇は心配され、神の信託を得ようと床に就かれ眠ろうとされた夜に、大物主神の御夢にはっきりと現れて「この疫病は、私が引き起こしたもので、意お富ほ多々たた泥ね古こによって、私を祭ってくださるならば、国も安らかになるであろう」とお告げがあった。そこで早馬の使者を四方に分けて出し、意お富ほ多々たた泥ね古こと言う人を探し求めたところ、河内国の美怒村でその人見つけた、そしてその人を献上した。天皇はその人に「お前は誰の子だ」と尋ねられた。するとその者は「私は大物主神が、陶津すえつ耳みみ命みことの娘の活玉依毗売いくたまよりびめと結婚をして生んだ子の、名は櫛くし御方みかた命みことの、またその子の飯いひ肩かた巣す見み命みこと、さらにその子の建甕遣たけみかずち命みことの子が、私を含め意富多々泥古であります。」と答えた。これを聞き天皇はたいそう喜ばれて「これで天下泰平になる、人民は栄えるであろう」と意富多々泥古命を神主として、御諸山みもろやまに、大三輪神社の神である大物主神をお祭りになったと言う。★【古事記』この美和の大物主神の説話については大和の国津神と征服者の天津神の融合と一般的に考えられる。この融合は新旧の勢力の対立から起きた、禍を指すのかもしれない。三輪神社に伝わる説話にこんな話がある。【オオタタネコがオオモノヌシの子孫であると云い伝える物語がある。あおのイクタマヨリビメは容姿端麗な美人だった。ところが夜半になると、鍵音もなく忍び寄る男がいた。見れば容姿も良く、二人はたちまち相思相愛の仲になり、親の目を盗んでは同棲生活をした、その内姫は妊娠をしてしまった。当然のことながら、娘の異変に気付いた両親は「お前は身籠ったようだが、どうしてそのようになったのか」と問い詰めた。「名前は知りませんが、毎夜私のもとにやって来て、一緒に過ごすうちに、何時の間にか出来てしまったのです」姫は答えた。】これはオオタタネビコを三輪のオオモノヌシの子孫とする系譜に伝わる話である。因みに三輪の地名に、麻糸が三輪残ったので、美和(三輪)と名付けた。★天津神の子孫は、国譲りで、国つ神の葦中国を得たので、その恨みや不満での禍を恐れた、そのための国津神の御霊を癒す試みを、子々孫々の融合を考えられた。【イクタマヨリヒメは容姿端麗な美人だった。毎夜姫の所に通う美男子に相思相愛、たちまち子供を宿り、親に発覚、男の素性を知りたく、麻糸を男に付け、床に赤土を巻いたが痕跡は出てこなかった。糸を手繰って行くと三輪山に辿り着き、三輪神社の神のオオタネヒコであった話である。】☆もう一つオオモノヌシ伝説に孝霊天皇の皇女のヤマトトトヒモモソヒメがオオモノヌシの妻になった話、【崇神紀に皇女ヤマトトヒモモヒメガオオモノヌシの妻となった時に、神の姿を櫛箱に入っている子蛇を見て驚いて叫ぶと、辱められたと、怒って三輪山に帰ってしまった。姫は箸で陰(ホト)を突いて急死をした。】そしてその墓が箸塚古墳で今一番卑弥呼の墓として注目されている。この説話はこの地の豪族が征服した王族に服従したことになぞらえたのかも知れない。
◎上記の『古事記』の説話を見ても大神神社が「国つ神」の代表として影響力を持っていたかが窺い知れる。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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『浪速史跡めぐり』慶沢園(天王寺公園内)・天王寺公園は茶臼山の南に庭園は元は住友本邸の庭

2016-12-23 04:26:59 | 二十二社
『浪速史跡めぐり』慶沢園(天王寺公園内)・天王寺公園は茶臼山の南に庭園は元は住友本邸の庭で、都島区は網島町の藤田邸、中央区今橋の鴻池邸と共に大阪三庭園の一つである。木津聿斎の設計、京都は庭師小川冶兵衛によって明治四十一年に着工し大正七年に完成した。林泉回遊式の近代日本庭園である。大小三つの島が浮かび池の周囲の林間を回遊し鑑賞する様式で全国から名石、名木を集めて広大な庭園は十年という月日を費やし出完成された。大正十年に住友家から大阪市に寄付された。庭園の命名は伏見宮貞愛親王がされた。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記) 倭建の英雄伝説話 兄を握りつぶした小碓命

2016-12-23 04:24:14 | 二十二社
『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記)
倭建の英雄伝説話
兄を握りつぶした小碓命
天皇は小碓おうす命みことに「前の兄の大碓おおうすは朝夕の食事に顔を出さないのか、たっぷりと丁寧にお前が諭さとしておくように」と仰せになった。
その後五日経っても、大碓は食事に出てこないので、天皇は兄が未だ御膳に陪席しないではないので,小碓に「お前の兄は未だ出てこないではないか、教えたのか」の問いに、小碓命は「もう、“ねぎ”ました」と申した
天皇は「どのように“ねぎ”を諭したのか」と仰せになった。小碓命は「明け方兄が厠に入った時に、待ち構え捕まえて握り潰し、手足をもぎ取り“ねぎ”して薦こもにくるんで捨てました」と申した。
この事があって天皇は、小碓命の性格の激しく荒荒しいことに恐れ、遠ざけるようになり「西の方に熊曽建が二人いる。これら服従しない無礼な奴ら、お前が言って退治せよ」と命じられた。
“熊襲くまそ征伐せいばつ”
当時まだ少年期であった小碓に西の方の二人いる熊襲建を征伐命じられた。
粗暴な性格に景行天皇から疎んじられた小碓命は、叔母の倭比売やまとひめ命みことから衣装を貰い、剣を懐中に入れて行かれた。
やがて熊襲健の家のある所まで行かれて、様子を見ると、其の家の周辺を三重にも軍隊を廻らし、その中の室を作ってその中に居た。
その新築である室の落成祝いに宴が開かれて、騒がしく御馳走の準備が行われていた。
小碓はその近くを出歩いて、その日の宴を待たれた。宴の当日、小碓は少年の髪型で結って、髪を梳きおろし、叔母に授かった衣装に身を変装した。
外見上は女性と変わらないほどであった。
熊襲健の兄弟の二人とも、変装した倭健の乙女姿に人目可愛いと思って、自分たちの間に座らせ、盛んに宴に興じていた。
宴たけなわと言う時に、小碓命は懐中にある剣を取り出し、熊襲健の衣の襟を掴み、剣を健の胸から刺し通した時に、弟健はそれを見るや恐を成して逃げ出した。
小碓命はその室の階下まで追いかけ、弟建の背を捉えて、尻から突き通した。
そこで熊襲健が申すに「どうかその刀を動かさないでください、自分には申したいことがあります」と言った。
すこしだけ許し、押し伏せていた中で熊襲健は「あなた様は一体どなたですか」と言った。そこで小碓命は「我ら纏まき向むくの日代宮に居らしゃる、大八島国を統治される、大帯おおたらし日子淤斯ひこおし呂ろ和気わけ天皇すめらぎのみこの御子、名は倭男具那やまとおとこぐな王みこである。お前ら熊襲建の二人が、天皇に服従せず、無礼である。天皇はお前たちを殺せと仰せになり、我をお遣わしになった」と言われた。
すると熊襲健は「まさしくそうでありましょう。西の方面では私ども他、勇ましく強い人はいません。ところが大和の国に私どもより強く、勇ましい男がおられたとは。そこで自分の御名前を献上致したく存じます。
今後”倭健御子“と称え、名付けましょう」
小碓命は聞き終わると、熟した蔕の落ちた瓜を切るように、熊襲健を切り裂いて殺しになった。この時以後、お名前を称え申し、倭健命と言うようになった。
そして都に帰られる時には、山の神、河の神と宍戸の神を皆へいてして帰京された。
☆倭建命説話・景行天皇の記述は倭健伝説に隠れて、その存在の印象は薄く、八十人の皇子を皇女がいたとされ、倭健が九州、出雲、東征に数々の平定伝説に、景行天皇も九州各地を平定し、地域の名称を残している。それが継体の磐井の反乱と混同されることがあって、九州平定は数々の伝説が交錯をするものである。
天皇の補佐をする武内野宿祢の現れるのも景行天皇の御世からである。
大帯おおたらし日子淤斯ひこおし呂ろ和気わき天皇てんのうは景行・成務・仲哀天皇の名に使われているのに何か深い理由があるのだろうか、と専門家の研究も未解決で間近いかと推測されている。
天皇は多くの妃を持ちながら、美しき姫には興味旺盛であったようで、美濃国の祖先の大根王の娘の、名は兄比売・弟比売の二人の乙女を、その容姿が整って美しいと聞きになって、お召になろうとした。皇子の大碓おおうす命みことを派遣してお召しになられた。
その大碓命は天皇の為に召し上げないで、自分のものとして二人の乙女と結婚をされた。その代りに別の女性を探して、偽って天皇お求めの乙女と名乗らせて、天皇に差し出した。
しかしその偽装もすぐに発覚したが、しばらく恨み言を見ら我慢された。差し出された女とも婚姻をしないで、悩まれていた。
所が大碓命は兄比売と結婚して生んだ子が、押おし黒兄くろえ日子ひこ王みこ弟比売と結婚して生んだ子は押おし黒弟くろおとうと日子ひこ王おうである。
☆景行天皇は多くの御子を残し、諸国に要職に就け派遣した意味では、大和朝廷の基礎を成したとも考えられるが、温厚で気弱な性格の天皇か、小碓にも大碓を殺したことに、罰も責めもしなかった。ただ好色で多くの妃と御子を輩出したこと以外、特に天皇自身に関わる記述は少ない。
☆倭建命の英雄伝の熊襲説話・景行天皇の命で、大和を旅立った、小碓は熊襲の首長クマソタケル兄弟を征伐に向かう。熊襲は隼人と同じ九州の部族と考えられて、大和王朝に服従しなかったのだろうと推測できる。海幸彦、山幸彦の登場の海幸彦ホデリも隼人だとされている。
熊襲もの九州の先住民族として、大和に対抗し不服従しなかったので、景行天皇は武勇に長けた小碓に派遣したのであろう。
畿内から九州の長旅の末に、クマソタケルの館に到着したヲウスは護衛に行く重にも要塞が廻らされては、変装して中に潜入しかなかった。
叔母の貰った衣装が役に立って女装をした。少年のヲウスは女装しても何ら不思議に感じられず、クマソタケル兄弟の部屋に潜入できて、一気に兄のクマソタケルを胸に剣を突き刺すことができた。
『古事記』では近親結婚とか殺戮の場面など、仏教の倫理観に影響されず、自然な状況に描かれている。
クマソタケル兄弟を切り刻み、殺すのは古代の中国でも同じ、根絶やしにをしないと、報復を起こさせないための防御である。
弟のクマソノタケルには剣で尻から突き刺し、串刺しにした。クマソノタケルは今際の際に、名前「倭健」の名を称えて送る。潔さを著している。
以後ヲウスは倭健と名乗った。
☆叔母の倭姫命はイクメイリビコの娘で、伊勢の祭祀を命じられた女性、倭健の節々に助けの手をだす。
☆九州の鹿児島には隼人塚があって幾度となく大和と朝廷と戦いを繰り返したようで、熊襲・隼人塚の二つある。
霧島市の塚からは平安時代の石像が出土し、隼人の姿を伝えるものとして注目を集めている。
☆ヤマトタケルの熊襲建の征伐には正攻法の戦いでない。少々卑怯な作戦は勝つことに方法を選ばない。天孫に刃向うの者に対して容赦のない使命を受けている。
出雲建征伐
帰京の途中、出雲に入り滞在をした。それはこの地の出雲健を殺そうと思っての事、到着するとすぐに、出雲健と交友関係を結ばれた。そこで密かに赤橋の木で偽物の刀を作り、それを自分の方として身に着け、出雲健と一緒に斐伊川で水浴をした。
倭健は先に川から上がり、出雲健が解いて置いてある太刀を取り上げ身に着けて「太刀を交換しよう」提案された。それで出雲健が川から上がって、倭健命の偽太刀を身に着けた。
すると倭健は挑発し「さあ太刀合わせをしよう」と言われた。めいめいが身に着けた太刀を抜く時に、出雲健は偽物の太刀で抜けなった。
そこで倭健は太刀を抜いて、出雲健を打ち殺してしまった。
そして、御歌って言われるに、
出雲健が、腰に付けた太刀は
蔓ばかり幾重にも巻く飾り鞘 刀身無くして ああおかし
このような うち払い平定して 都に上がって 天皇に申し上げた。

☆倭建命の英雄伝出雲説話・『古事記』に出てくる、武勇伝には姑息こそくであっても、手段を選ばず勝利を治める。勝つための方法の大義名分はあまり重きにおかれない。その点では現実的で自然な対処方法と言えよう。
出雲については近年、『古事記』を通じて、古代の世界で先住民族が大和朝廷と対立し戦って、『古事記』のあるような、国譲りが成立したのではと思われている。
前項に述べたように、荒神谷の遺跡の大発見によってより一層確実になりつつある。
※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)141“足利義量”足利義量(1407~1425)室町幕府第5代将軍。

2016-12-23 04:16:09 | 二十二社
『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)141“足利義量”足利義量(1407~1425)室町幕府第5代将軍。応永30年(1423)から2年間在職。4代将軍足利義持の長子。母は日野資康の女栄子。応永24年(1417)に元服し、正五位下右近衛中将に叙任。1423年父義持の将軍職辞任より、17歳で将軍になった。実権は義持が握っていた。諸所への参詣遊山に明け暮れ、大酒を義持より諫められている。1425年2月27日病を得て没し、京都は等持院に葬られた。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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「京都古社寺探訪」萬福寺・京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。

2016-12-23 04:12:53 | 二十二社
「京都古社寺探訪」萬福寺・京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来である。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。開山・隠元隆琦は中国明時代の万暦二十年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元は当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。隠元が招かれて来日するのは1654年(順治11年、承応3年)、63歳の時である。当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。隠元は長崎・興福寺の僧・逸然性融らの招きに応じて来日したものである。はじめ、逸然が招いた僧は、隠元の弟子である也嬾性圭という僧であったが、也嬾の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。そこで逸然は也嬾の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。承応三年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津富田の普門寺に住した。隠元は中国に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、中国の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を幕府にも働きかけている。万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝七年(1679年)頃にほぼ完成した。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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「二十二社巡り」吉田神社・京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社の一社。旧社格は官幣中社で、

2016-12-23 04:08:42 | 二十二社
「二十二社巡り」吉田神社・京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は以下の四柱春日神で、勧請元の春日大社と同じ。建御賀豆智命(武甕槌命)伊波比主命(経津主命)天之子八根命(天児屋根命)比売神(ひめのかみ)貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦二年(991年)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。鎌倉時代以降は、卜部氏(吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道を創始し、その拠点として文明十六年(1484年)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永五年(1665年)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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『社寺神仏豆知識』6・釈迦如来(しゃかにょらい、しきゃじらい)または釈迦牟尼仏

2016-12-22 17:31:29 | 二十二社
『社寺神仏豆知識』6・釈迦如来(しゃかにょらい、しきゃじらい)または釈迦牟尼仏は、仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ガウタマ・シッダールタ、瞿曇悉達多)を、仏(仏陀)として敬う呼び名である。上座部仏教(いわゆる小乗仏教)では、釈迦牟尼仏は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。大乗仏教では、釈迦牟尼仏(釈迦如来)は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である。また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。大乗仏教の中でも、日蓮宗・法華宗では宗派の本尊とする本仏が誰かという論争が有り、釈迦本仏論と日蓮本仏論の対立がある。このうち釈迦本仏論の本尊が本仏としての釈迦牟尼仏である。かつて天台宗においても唱えられていたようであるが、今では日蓮宗・法華宗でしきりに論じられる。法華経の如来寿量品第十六に登場する無量長寿の釈迦牟尼世尊がこれに当たる。ユーラシア大陸の古代インドで活躍し肉体を持ったゴータマ・シッダルタ(釈迦)を指すのではなく、インドで肉体を持って生誕した前の悠久の昔から存在し、入寂の後も遥か将来まで存在して行くという信仰上の釈迦牟尼世尊である。無量の諸仏を迹仏とし、本仏釈尊のコピーに過ぎず、言わば、本仏釈尊を月とすれば諸仏は千枚田に映る千の月であるという論である。釈迦本仏論の宗門の信仰の対象である。久遠本仏とも呼び、日蓮宗総本山身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡)の寺名にもなっている。なお、法華経では、釈迦如来はインドの菩提樹下で初めて覚ったのではなく五百塵点劫の遠い過去に成仏していたと説かれると共に実際には入滅することも無く永遠にこの世に在り続けていることを説き(久遠実成)、涅槃経では入滅後の未来について強く言及するものの、実際には如来は常住不滅であると説かれる。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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『歴史歳時記豆知識』12詔勅(しょうちょく)とは?

2016-12-22 17:25:36 | 二十二社
『歴史歳時記豆知識』12詔勅(しょうちょく)とは?、日本国憲法施行以前において、天皇が公務で行った意思表示をいう。広義には憲法や法律などの法規を含むが、狭義には詔書・勅書・勅語など特段の形式を定めていないものをいう。一般には狭義で用いられることが多い。日本書紀・古事記には「詔」「勅」の語がみえ、ともに天皇が公務で発する言葉を意味した。詔は一般に宣告する言葉に、勅は特定者に伝達する言葉に使われる傾向があった。律令制度では公式令(くしきりょう)において詔書と勅書の書式が定められた。・詔書は重要事項の宣告に用いられた。天皇は署名せず、草案に日付を書き(御画日)、成案に可の字を書いた(御画可)。また、公卿(大臣・大中納言・参議)全員の署名を要した。詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり手続きが煩雑であるため、改元など儀式的な事項にのみ用いられるようになった。・勅書には勅旨式条によるものと飛駅式条によるものがあり、前者は通常の政策の決定に用いられ、後者は緊急事項を地方官へ伝達する際に用いられた。勅書に天皇の書き入れや公卿の署名はなかった。やがて律令制度が形骸化するにつれて、天皇の意思表示は女房奉書や御沙汰書など非公式の形で伝えられるようになった。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓
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