「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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四国遍路記・志度寺・

2016-07-15 04:20:40 | 四国遍路紀
四国遍路記・志度寺・香川県さぬき市志度にある寺院。宗派は真言宗善通寺派で、四国八十八箇所霊場の第八十六番札所。詳名は補陀洛山清浄光院志度寺。本尊は十一面観音。謡曲『海人』で知られる「海女の玉取り伝説」が伝えられており、境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存する。また、浄瑠璃の『花上野誉の石碑』などの舞台にもなっている。寺伝によれば、志度浦にたどり着いた霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊(十一面観音)を造立し、堂宇が建立されたという。創建は推古天皇三十三年(626))のこととされている。天武天皇十年(681))には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度道場」として名づけたという。不比等に関わる「海女の玉取り」伝説は謡曲などでも知られる。また持統天皇七年(693)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立したと伝えている。室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄するが、そののち戦乱により寺院は荒廃する。藤原氏末裔の生駒親正による支援などを経てのち寛文十年(1671)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により再興された。

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四国遍路記・八十七番札所・長尾寺

2016-07-13 04:04:20 | 四国遍路紀
四国遍路記・八十七番札所・長尾寺・本尊は聖観世音菩薩・香川県はさぬき市長尾西にある寺院、宗派は天台宗である。以前は真言宗であったが天海によって天台宗に改められた。寺伝によれば天平十一年(739)行基が当地で霊感を得て聖観音像を刻み堂宇を建立したのが始まりと言う。その後、空海が入唐前に当地に滞在し、年頭七日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたという伝説があって、毎年一月七日の「福奪い」として今に伝わる。天長二年(825)唐より帰朝した弘法大師によって霊場と定められた。
その後幾度となく戦火に焼失したがその都度、歴代藩主によって再建されたという。
大師堂、石段を登った所にあります。内部にはお砂踏みができる道場があります。八十八ヶ所の小さな本尊が祀られ、一周すれば参拝と同じご利益が得られると言われます。

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四国遍路記・八十七番札所・長尾寺

2016-04-08 03:47:25 | 四国遍路紀

四国遍路記・八十七番札所・長尾寺・本尊は聖観世音菩薩・香川県はさぬき市長尾西にある寺院、宗派は天台宗である。以前は真言宗であったが天海によって天台宗に改められた。寺伝によれば天平十一年(739)行基が当地で霊感を得て聖観音像を刻み堂宇を建立したのが始まりと言う。その後、空海が入唐前に当地に滞在し、年頭七日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたという伝説があって、毎年一月七日の「福奪い」として今に伝わる。天長二年(825)唐より帰朝した弘法大師によって霊場と定められた。
その後幾度となく戦火に焼失したがその都度、歴代藩主によって再建されたという。
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四国遍路記・志度寺

2016-04-04 20:57:38 | 四国遍路紀

四国遍路記・志度寺・香川県さぬき市志度にある寺院。宗派は真言宗善通寺派で、四国八十八箇所霊場の第八十六番札所。詳名は補陀洛山清浄光院志度寺。本尊は十一面観音。謡曲『海人』で知られる「海女の玉取り伝説」が伝えられており、境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存する。また、浄瑠璃の『花上野誉の石碑』などの舞台にもなっている。寺伝によれば、志度浦にたどり着いた霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊(十一面観音)を造立し、堂宇が建立されたという。創建は推古天皇三十三年(626))のこととされている。天武天皇十年(681))には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度道場」として名づけたという。不比等に関わる「海女の玉取り」伝説は謡曲などでも知られる。また持統天皇七年(693)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立したと伝えている。室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄するが、そののち戦乱により寺院は荒廃する。藤原氏末裔の生駒親正による支援などを経てのち寛文十年(1671)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により再興された。
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「四国遍路記・大窪寺」

2016-04-04 04:21:04 | 四国遍路紀
四国遍路記・八十八番札所「大窪寺」・本尊薬師如来・
四国八十八ケ寺結願の霊場が「大窪寺」である。徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹に位置し結構な山道を行く。歩き遍路では最終の結願寺の大窪寺に最後の難所が待ち受けている感じである。縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと伝えられている。弘仁7年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とされている。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めました。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があります。大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられている。その水を薬とともに服用し、ご利益を受ける人も少なくない。四年に一度の逆打ち遍路で本来なら人とバスが賑わいを見せるところ、当日は冬の寒さの加減か静寂の中でお参りが出来でき、その清楚な境内の中で改めて弘法大師の遺徳と教えの深さを知ることになった。本尊通常薬師如来は左手に薬壺を持っていますが、大窪寺の本尊である薬師如来はホラ貝を持っています。人々の悩みや心の霧をホラ貝で吹き払うためでしょうか。(秘仏です)本堂、礼堂と中殿、多宝塔の奥殿があります。この奥殿に本尊・薬師如来と三国伝来の錫杖が安置されています。
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3月14日(月)のつぶやき

2016-03-15 01:15:11 | 四国遍路紀

「古事記が紡ぐ一ノ宮の神々」 紀伊国一ノ宮・丹生都比売 goo.gl/Cyh2Zb


『古事記が語る古代の世界』?  全34回 四、伊邪那岐・伊邪那美の神生み goo.gl/jNWfdM


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『古事記が語る古代の世界』④  全34回 四、伊邪那岐・伊邪那美の神生み

2016-03-14 04:29:39 | 四国遍路紀
 
『古事記が語る古代の世界』④  全34回


四、伊邪那岐・伊邪那美の神生み

伊邪那岐・伊邪那美の神生み   
●伊邪那岐神●伊邪那美神の国生みを経て、二神は更に神生みに取り掛かった。
◎大事(おほこと)忍男(しおの)神(かみ)○石(いわ)土毘(つちび)古神(こかみ)○石(いわ)巣比売(すひめ)神(かみ)○大戸(おほと)日(ひ)別(べつ)神(かみ)○天之吹男(あまのふきおの)神(かみ)を生み、次に○大屋毗(おおやび)古神(こかみ)○風(かざ)木津別之(もつわけの)忍男(おしお)神(かみ)次に海の神○大綿津(おおわたつ)未神(みかみ)・
次は河の神、○速(はや)秋津(あきつ)日子(ひこ)神(かみ)○妹速秋津比売(いもはやあきつひめ)神(かみ)この
◎二神ハヤアキツヒコノ・イモハヤアキチヒメノ、より海、川を司る八神が生まれる。
○沫那(あわな)芸(ぎの)神(かみ)○沫那(つらな)美(み)神(かみ)○頻那芸神○頬那(つらな)美(み)神(かみ)○天之水分(あめのみくまの)神(かみ)○国之水分(くにのみくまりの)神(かみ)○天之久比奢母(あまのくひざちもの)智(ち)神(かみ)○国之久比奢母智神の神々を生んだ。
次に風の神、○志那(つな)都比(つひ)古神(こかみ)・木の神、○久久(くく)能(のう)智(ち)神(かみ)・山の神、○大山津(おおやまつつ)見(み)神(かみ)・野の神・○鹿屋野比売(かのひめの)神(かみ)が生まれた。
○オオヤマツツミ神とカヤノヒメ神との二神の間に八神が生まれた。
○天之狭土(あまのさずち)神(かみ)○国之狭土(くにさずちの)神(かみ)○天之(あめの)狭霧(さぎり)神(かみ)○
国之(くにの)狭霧(さぎり)神(かみ)○天之(あまの)闇(くら)戸(との)神(かみ)○国之(くにの)闇(くら)戸(ど)神(かみ)○
大戸(おおと)或子(まとひこ)神(かみ)○大戸(おおと)或(まと)女神(めがみ)の八神を生んだ。
◎次にイザナキ命とイザナミ命の間に三神を生んだ。
○鳥之(とりの)石(い)楠(く)船(はく)神(かみ)○大都比売(おおげつめの)神(かみ)○次に生んだ神が『古事記』の重要な役割と物語に大きく影響する存在となる。
○火之夜芸速男(ひのはやぎはやおのこ)神(かみ)またの名を火之迦(ひのか)具土(ぐつち)神(かみ)が生まれた。
◎イザナミ命がヒノカグツチ神を生んで、火傷を負って病み六神を生んだ。
病の中、嘔吐から二神○金山毗(かのやまび)古神(こかみ)○金山毗売(かねやまびめの)神(かみ)が生まれた。
次に糞から生まれた二神○波(はに)迹夜湏毗(やすすび)古神(こかみ)○波(はに)迹夜湏毗売(やすびめの)神(かみ)(はにやすびめ)次に尿から生まれた二神は○弥都波能売(みつはのめ)神(かみ)○(まる)和久産(わくむ)巣(す)日(ひ)神(かみ)が生まれ、ワクムスヒ神から○豊宇気毗売(とようけびめ)神(かみ)が生まれた。イザナミ命がヒノカグツチ神を生んで病んで生まれた神々は七神生まれた。
系図1を参照
◎イザナキ神とイザナミ神の間に生まれた神は孫神を含め、住居に関する神々が七神が生まれ、自然現象に関係する神々が二十三神生まれ、生産の関する神々十神が生まれた。
これらの神以外に森羅万象を司る神々が鉱山や食料、山道、霧や峡谷、泡、凪さ波、水面など多彩にわたって生まれている。尿、糞、嘔吐などは農業に関係する神々の誕生になっている。
○火の神については火鑚臼と火鑚杵があって、火鑚臼は女性の陰部を表し、火鑚杵は男性の男根を表している。

火神迦具土神とイザナミ命の死
「愛しき我がなに妹の命を子の一木に易へむと謂ふや」(愛しい我が妻よ、お前の子一匹など引き換えにできようか)イザナミ神が横たわる遺体の枕もとを腹這いに大声で泣いて悲しみ、その涙で奈良香久山畝傍の木本に鎮座する神、泣沢女神である。
イザナミ命は火神迦具土神を生んだ時に陰部に火傷を負い、病床のなか七神を生みやがて死んでしまう。
イザナキ命は嘆き悲しみ、イザナミ命の遺体を出雲の国と伯耆国の境界にある、比婆の山に葬った。
火神カグツチ神の出産で死んだ怒りは、カグツチ神に向けられ、イザナキ命は十拳の剣でその子カグツチ神の頸を切り捨てた。
●すると剣先に着いた血が飛び散り、岩のなどに神聖な血がかかり、
その血液から石(いわ)折(さく)神(かみ)・根(ね)折(さく)神(かみ)・石筒之男(いしづつのおの)神(かみ)の三神が生まれた。
●次に剣の本に着いた血液から甕速(みかはy)日(ひ)神(かみ)・樋速(ひやはや)日(ひ)神(かみ)・建御雷之男(たけみかづちのお)神(かみ)の三神が生まれた。
●剣の手上に付着した血液から闇淤(くらお)加美(かみ)神(かみ)・闇淤津羽(くらみつは)神(かみ)が生まれた。
血液から生まれた神々は八神生まれた。
●次に体の部分から生まれた神は、頭より生まれた神は正鹿山津(まさかやまつ)見(み)神(かみ)次に胸から生まれた神は淤勝山津(おどやまつ)見(み)神(かみ)次に腹か生まれた神は奥山津(おくやまつ)見(み)神(かみ)・次に陰(ほと)から生まれた神は闇山津(くやまつ)見(み)神(かみ)・次に左手から生まれた神は志(し)芸山津(ぎやまつ)見(み)神(かみ)・次に右手から生まれた神は羽山津(はやまつ)美(み)神(かみ)・次に左足から生まれた神は原山津(はらやまつ)美(み)神(かみ)・次に右足から生まれた神は戸山津(とやまつ)美(み)神(かみ)まで八神が生まれた。
●カグツチ神の遺体から生まれた神々は血液から八神、体の部分から生まれた神々は八神で一六神が生まれた。またカグツチ神が切られた剣の名は天之尾羽張という。

※説話解釈・イザナキ命とイザナミ命の神生みで、火神カグツチ神の出産は深読みすれば、古代創世記に氏族、部族の内部紛争、国内の反乱があった挿入話かもしれない。
建御雷之男(たけみかづちのお)神(かみ)はまたの名を建布津神・豊布都神と三通の名も付く神も見受けられる。

※説話解釈・国生みの次にイザナギ命とイザナミ命は、神生みの作業に入った。自然現象に関わる神々孫上合わせ二十三神、住居に関する神々が七神、生産に関わる神々孫神合わせ、十神を生んだ。ところが、カグツチ神を生んで陰部に火傷を負って死んでしまう。怒り狂ってイザナキはカグツチを切って殺してしまう。切り刻んだ部位から十七神が生まれた。
イザナキ命が鳴き悲しんだ涙が奈良畝傍尾の木本の泣沢女神となると、神武天皇の東征の前から大和に関連性があるとするならば、東征は大和への必然性があって、深い関連性があったのではないか。
イザナミ命が葬られた比婆山は伯耆と出雲の境界は明らかに、すでに出雲との対立でイザナミ命が無くなって、紛争の地に葬られた。黄泉の国が出雲の国に近いと言われるのは、高天原の天上界から見れば不吉なところ、国であったのではないか。
イザナミ命を死なせる要因のカグツチ神は、古代王朝の内紛で打たれた挿入話かもしれない。

◎イザナキ命とイザナミ命の二神は、神世七代の天地創造の折に出現し、地上界の混沌とした世界を天上の神々から委任され、天の浮橋から下り、国生み、神生みで地上界に息吹を吹き込み、地上界を創造したことになる。
地上にもたらされた神々は地上の神々であって、天上の神々ではない。
これ以降、天上界の高天原の世界と葦原中国は森羅万象の神々の存在物であって、この時点で支配する神々の存在はない。神々の存在で意思を持った神々と、鉱物や自然の存在物と、意思を持って、使命を持った神格を持った神とは区別をしなければならない。






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3月13日(日)のつぶやき

2016-03-14 01:17:22 | 四国遍路紀
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「河内古社寺探訪」梅岩寺

2016-03-13 04:46:08 | 四国遍路紀


「河内古社寺探訪」梅岩寺は大阪府八尾市教興寺に所在する。黄檗宗で山号を寿福山。本尊は聖観音。河内西国十四番札所である。創建については近くにある教興寺と同様に用明天皇二年(587)聖徳太子による開基と伝えられている。寛文年間(1661~1673)に隠元禅師の弟子木庵禅師に命じて復興させ、隠元禅師の自身の筆によって「寿福山」の扁額が作られ黄檗宗の禅寺となって今日に至っている。梅岩寺を訪れると中国の寺院かと思わせる山門、その脇に「六方歓喜天」の石像。人身象頭の像が描かれている。本堂斜め前に別堂(阿弥陀堂・釈迦堂)本堂より大きいお堂である。
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「観音巡拝紀行」東光院

2016-03-13 04:41:11 | 四国遍路紀

「観音巡拝紀行」東光院”新西国一二番札所“大阪府豊中市にある曹洞宗の寺院。山号は仏日山。本尊は薬師如来。境内に萩が植えられ「萩の寺」とも称される。元は大阪市北区中津付近にあり、1914年(大正三年)に現在地へ移転した。境内の随所に萩が植えられているため「萩の寺」と称されており、毎年9月には「萩まつり」が催される。正岡子規も当寺の萩を賞して句を残し、境内に句碑が立てられている。天平年間(729年から749年)行基によって創建されたと伝えられ、1681年(天和元年)曹洞宗に改められたという。本堂には本尊薬師如来坐像のほか、札所本尊の十一面観音立像、西国七福神の一番とされる毘沙門天及び両脇侍像、平安時代の作で、国の重要文化財に指定されている木造釈迦如来坐像などが安置されている。十一面観音立像は「こより観音」と通称され、1985年(昭和六〇年)の修理で、法華経の料紙を「こより」にしたものを衣として着せ掛けた、全国的にも珍しい仏像であることがわかった。
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3月12日(土)のつぶやき

2016-03-13 01:18:10 | 四国遍路紀
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「浪速今昔百景」堀越神社

2016-03-12 05:42:36 | 四国遍路紀
「浪速今昔百景」堀越神社は、大阪市天王寺区茶臼山町にある神社。聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。かつて創建当初から明治中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したのが社名の由来だといわれる。また、古くから「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。現在は交通量の多い谷町筋に面しているが、境内は樹齢数百年に及ぶ樹木をはじめ緑が多く、閑静な境内を構成している。
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「河内古社寺探訪」真観寺・

2016-03-12 05:26:47 | 四国遍路紀
「河内古社寺探訪」真観寺・臨済宗南禅寺派金地院の末寺に三好長慶の墓がある。また応仁の乱で畠山政長の子尚順がこの付近で陣を構えた。その後、大坂夏の陣で焼失し、金地院崇伝が復興した。境内には畠山満家の墓と三好長慶の墓がある。三好長慶は戦国時代の武将で河内・四条畷の飯盛山に築いた飯盛城を本拠とし、その絶頂期の勢力は山城、摂津、河内、大和、和泉、丹波、阿波、淡路、讃岐の9ヵ国に及んだ。
 父元長の討死により11歳で家督を嗣ぎ近畿管領細川晴元の執事から台頭、摂津江口に三好宗三(政長)を討ち、その勢力を拡大。1560年(永禄3年)畠山高政(畠山政長の曾孫)を追放、河内の国の実権を握った。 しかし、嫡子義興ら相次ぐ身内の死と松永久秀の策謀の前に、1564年(永禄7年)失意のうちに病死。 一説にはこれら一連の相次ぐ死は久秀による謀殺ともいわれる。長慶の死は3年間伏せられた後、八尾市亀井の真観寺で葬儀が行われ、境内に葬られた。 その墓はここ真観寺のほか、飯盛山山中の御体塚丸をはじめ、堺市・南宋寺、京都市・大徳寺、徳島県三野町・滝寺(長慶の出生地)、なぜか千葉県銚子市・飯沼観音などにある。 なお、後年大坂夏の陣で、真田幸村の伏兵が当寺境内の藪の中隠れ、徳川家康を不意打ちして、槍傷を負わせ、家康は堺・南宗寺に運ばれたが、そこで絶命したとの伝説がある。

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3月11日(金)のつぶやき

2016-03-12 01:17:22 | 四国遍路紀
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3月10日(木)のつぶやき

2016-03-11 01:17:06 | 四国遍路紀
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