「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

日本神道の神々』1188円アマゾン書籍紹介。 日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞

2019-11-26 05:37:55 | 温故知新
『日本神道の神々』1188円アマゾン書籍紹介。
日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞穴や奇岩、巨木に巨大岩石に峻険な峰々に精霊を感じ信仰されていった。また大自然の海や川、山岳に畏敬の念をもって祀られていた。それぞれの地域に集団で氏族が形成され、一族の崇敬する祭神が氏族の団結を高めていき、古神道が生まれていった。『記紀』が成立し、神話の世界から天地創造の神々が生まれ、いち早く地方へと神々の伝播されていった。仏教伝来と同時に、時代を経て融和、同化していった。それが「神仏習合であった。千年以上も神仏習合の歴史文化が明治維新の神仏分離令を持って、分別されていった。今や神社数、仏教寺院数はほぼ同じ勢力を持って棲み分け作って共存している。再び過去の日本神道は振り返って神道はどう進化

歴史の回想・「加藤氏一族の群像」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介・

2019-11-26 05:36:45 | 温故知新

「加藤氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

加藤氏については、大きく分けて①近江国加藤氏。伊予国大洲藩主の加藤氏。肥後国熊本城主の三つに分けられる。近江国の加藤氏は水口藩主。三河国生まれた。加藤嘉明は豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)当初淡路国で1万5000石を宛がわれた。後に伊予国松前へ転封となり6万2000石を領有。10万石加増される。席が蠅らの戦後、10万石を加増され松山城に入った。寛永4年(1627)20万石加増されて陸奥国会津に転封。1643年明成のとき、領地を返上した(会津騒動)が、孫明友に石見国吉永で1万石が宛がわれた。天和2年(1696)1万石加増されて近江国水口へ移り、元禄8年下野国壬生に転封となり3万5000石を領有した。4代明英は、寺社奉行、奏番者、若年寄りを歴任して、更に正徳2年(1712)5代嘉矩のとき、近江国水口に戻り明治に至った。

②加藤氏に伊予国大洲藩主。家祖加藤光泰の父景泰は家電によると、藤原鎌足12代目の末裔とされる。光泰はその嫡男で美濃国生まれの斎藤龍興の武将、のち豊臣秀吉に仕え美濃国大垣に城主4万石に立身する。一時秀吉の勘気に触れて、近江国佐和山城主になり、小田原攻めの後、甲斐24万石に減封されたが、関ケ原の戦い後、徳川氏から伯耆国米子6万石を得、大坂の陣の戦功で元和3年(1617)大洲藩6万石に転封、以後廃藩置県まで13代続いた。

③もう一つの加藤氏は肥後熊本城主加藤清正、子の加藤忠広を中心とした姓氏、藤原北家道長流と言うが不明。清正の祖父が斉藤道三の家臣で尾張国愛知郡中村に住したのが始まり、清正の父清忠に継嗣されたという。清正は幼少期より秀吉に仕え、豊臣の武将として成長し天正16年(1588)肥後半国19万5000石の大名と秀吉蔵入り地の代官となり。関ケ原戦い後は肥後52万石となり、熊本城主となったが1611年に没後、1611年三男忠広が襲封したが、1632年に失政し出羽国庄内1万石に没落、その後飛騨国高山に流され、加藤家は消滅した。


「井伊氏一族の群像」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。

2019-11-26 05:31:31 | 温故知新

「井伊氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
江戸時代の普代大名。遠江国引佐郡井伊谷(現、静岡引佐町井伊谷)を本貫地とする氏族。藤原冬嗣の末裔とする氏族、藤原共資が平安時代後期に遠江守に任じられ敷知郡村櫛に来往、その子、共保が井伊谷に住み井伊氏を称したとする。「吾妻鏡」などに「井伊介」として記されるのがその子孫とみられるが、鎌倉時代以降、多くの分家を発生。江戸時代の井伊氏につながる一派は、室町期に遠江守護斯波氏の配下にあり勢力をもった井伊直貞・直秀・直幸らで渋川を拠点とした井伊氏が滅亡したのちに台頭。歴史上、井伊谷の井伊氏の活動が具体的になるのには、戦国時代に今川氏に仕えた直平以降で、直宗、直盛は今川氏に従軍し戦死。直盛の養子直親は家臣小野氏の讒言により今川氏により謀殺され、家督を女子の治郎法師直虎が継ぎ、直親の幼子虎松(直政)は親類の新野親矩らによりかくまわれた。のち井伊直政が浜松で徳川家康に取りたてられ井伊氏を再興。直政は家康の関東入部の際は家臣中再興の12万石を与えられた。関ケ原戦い後に、近江国佐和山城に配置され西国の押さえとなる。
直政没後、彦根城を築いた嫡男井伊直継(1590~1662)は家中を取りまとめられず、家康の命令により大坂冬の陣後、彦根藩の家督を異母弟井伊直孝に譲り、上野国安中藩3万石に、後に西尾、掛川・与板藩の転封に分置された。宗家の彦根藩井伊家は普代大名の筆頭大名で、常に幕政の中枢にあり、井伊直弼ら5人の大老を出している。