「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「荒木村重の下克上」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍・角川・BOOK★WALKER、電子書籍紹介」

2020-07-31 19:44:37 | 投稿済C

「荒木村重の下克上」アマゾン電子書籍・グーグル・プレイ電子書籍・楽天ブックス電子書籍・角川・BOOK★WALKER、電子書籍紹介」
荒木村重(1535~1587)安土桃山時代の武将。先祖は丹波の波多野一門という。父義村の頃より摂津国池田に住み、池田城主池田勝正に属したが池田家の内紛に乗じて勢力を強め、やがて「中川瀬兵衛らと池田21人衆を形成して主導権を掌握。1571年(元亀2)茨木の茨木佐渡守や高槻の和田惟政らと白井河原に戦って茨木城を奪い、近郷に威を振るった。1573年(天正3)足利義昭と織田信長と不和に際して信長に従い、功により摂津国一国の支配を任され、従4位下摂津守に叙任された。その後は信長の播州・紀州攻略の主力として功績があったが、1578年讒言により信長に怒りを買い、やむえず本願寺・毛利氏と通じて本拠伊丹有岡城に立て籠もって信長に背いた。籠城10カ月ののち、毛利を頼って安芸に逃れ、後に尾道に住んだ。かつては千利休に茶の湯を学び、晩年は境に住み茶の湯を持って豊臣秀吉に仕えた。


歴史の回想「最後の将軍・徳川慶喜」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天ブックス電子書籍・角川・BOOK★WALKER、電子書籍紹介」 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)【1837~1913】

2020-07-30 12:43:20 | 投稿済C

「最後の将軍・徳川慶喜」アマゾン電子書籍・グーグル・プレイ電子書籍・楽天ブックス電子書籍・角川・BOOK★WALKER、電子書籍紹介」
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)【1837~1913】
江戸幕府最後の将軍(第15代)の将軍、1866年(慶応2)~1867年在職。明治末期の公爵。水戸藩主徳川斉昭の七郎麿。生母は斉昭正室の有栖川宮吉子。1847年(弘化4)一橋家を相続して慶喜と改名。13代将軍家定の後継者候補だったが、紀州藩主の慶福(14代将軍家茂)に敗れ、安政の大獄で隠居謹慎処分となった。1862年(文久2)島津久光が率兵上京し、幕政改革を命じる勅使を擁して東下してくるという情勢下で一橋家を再相続し将軍後見人に任じられた。同年8月の参勤交代廃止などの幕政改革は慶喜後見職、松平慶永政事総裁職をトップとする新体制によって強行された。1863年の将軍家茂の上京に際しては旧暦前年末から先行入京し、将軍に政務を委任するとの言質を取り付けることに努めた。天皇と公卿の強烈な要求を受けて攘夷実行を約束し、帰府のうえ不可能を理由に辞表を提出するなどの駆け引きに苦心が多かった。1864年(元治元)には京都で島津久光や山内豊信らとともに朝議にあずかっていた参予会議、幕府の希望でやむなく内側から崩壊させた。同年後見職を免ぜられ禁裏守衛総督に就任して京都に常駐、蛤門の変では禁裏防衛の総指揮をとった。1865年(慶応元)から翌年にかけて長州親征を呼号して家茂が大坂城に滞在したときには、京都、大坂を往復して幕府と朝廷の間を調停することが多かった。1866年家茂が大坂城で病没すると、はじめは徳川家相続のみ、ついに1867年1月10日将軍宣下の2段階を経て戴5代将軍となったが、襲職後も京都にとどまり条約の締結諸国公使らの謁見は大坂城で行った。土佐藩の建白を受け入れて同年11月9日大政奉還を上表、しかし将軍職の辞表は諸侯会議まで待つようにと却下された。1868年1月3日(慶応3年12月9日)諸侯会議抜きで王政復興の大号令が発せられ将軍職廃止が一方的に宣言されると、大坂城に集結した旧幕府系の軍隊はこれは一部の大名の陰謀だと断じ、同月末討薩表を掲げて京都へ攻め上がったが、鳥羽伏見の戦で敗北し、慶喜は城と軍隊を放棄して江戸に戻り謹慎、徳川宗家を田安亀之助に譲って隠居した。謹慎解除後も長く静岡に閑居、狩猟や写真を趣味として1897年(明治30)東京に居を移し、1902年には家達の徳川公爵家とは別に公爵を親授され徳川慶喜公爵家の当主となった。1908年慶喜公爵家を七男慶久に譲って隠居、なお3年生きて「大正」に達した。


「江戸の名工・尾形光琳」アマゾン・グーグル・角川・楽天・電子書籍紹介」

2020-07-11 05:29:31 | 投稿済C

「江戸の名工・尾形光琳」アマゾン電子書籍紹介」
尾形光琳(1658年~1716)江戸中期の画家。後半生の一時期小形と改姓。名は惟富、惟亮、伊亮、50歳で方祝。通称は市丞。35歳の頃から光琳を称し、積翠、道崇等を号す。東福門院の御用を務める裕福な呉服商、雁金屋の尾形宗謙の次男として京都に生まれる。弟は陶工の尾形乾山。曾祖父道拍の妻は本阿弥光悦の姉で、父宗謙も光悦流の書をよくした。そのためか光琳は漆芸の分野で光悦蒔絵を倣った。「住之江蒔絵硯箱」(重文)などを遺し、そのほか「八橋蒔絵硯箱」(国宝)などの優品がある。また能をたしなみ、お伽衆的な存在として公家の二条家に出入りした。光琳が画家としてたったのは、父から譲られた莫大な遺産を蕩尽した40歳頃であったとみられ、1701年(元禄14)に法橋に叙せられた。光琳伝記が比較て明らかなのは、嫡子の養子先に伝わった「小西家文書」の古文書によるところが大きい。「尾形流略印譜」などに光琳が初めて本格的に絵を学んだのが狩野派の山本素軒だと伝えられているが、同文書に含まれる狩野派の紛本により確認される。「鳥獣写生図」も模写で、狩野探幽の原本によることが近年判明した。



「四天王・榊原康政」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介」。

2020-07-10 05:26:01 | 投稿済C

「四天王・榊原康政」アマゾン電子書籍紹介」。
榊原康政(1548~1606)安土桃山時代の武将。徳川家康四天王の一人。小平太。式部大輔。祖父の代以来松平氏に仕え、康政も1560年(永禄3)徳川家康に初めて拝謁して仕えた。1563年三河一向一揆との上野も戦が初陣、のち家康から一字を与えらえて康政と名乗った。よく1564年三河国吉田城攻めで本多忠勝と旗本の先手となって、以後多くの戦で旗本の先手を務めた。1570年(元亀元)姉川の合戦では本多広孝と旗本勢を率いて朝倉軍の側面を攻撃、敗走させた。三方ヶ原戦、長篠の戦に功を上げ、1581年(天正9)遠江国高天神城攻略にも活躍した。小牧長久手の戦でも奮戦し、1587年従5位下隙部大輔に叙任された。1590年家康の関東転封により、上野国舘林10万石を与えらえた。関ヶ原の戦の際は家康の三男秀忠を補佐し中山道を進み、主戦の決戦には間に合わなかった。戦後は、本多正信ら家康側近の権勢の前に退隠したという。
 



歴史の回想「老中・本多正信」アマゾン・グーグル。楽天・角川・電子書籍紹介」

2020-07-09 05:49:17 | 投稿済C

「老中・本多正信」アマゾン電子書籍紹介」
本多正信(1538~1616)江戸幕府初期の年寄(老中)。通称弥八郎。佐渡守。三河国に生まれる。幼くして徳川家康に仕える。1563年(永禄6)三河一向一揆に加わり、家康に背く。後に加賀国に住むが帰参し、1570年(元亀元)の姉川の戦に従軍。家康の側近にとなり、1586年(天正14)従5位下佐渡守に叙任。1590年の家康の関東入国に際して1万石を領し。後に加増され2万2千石関ヶ原の戦に際しては中山道を進んだ徳川秀忠に従う。秀忠の将軍職後は大久保忠隣とともに秀忠付き年寄(老中)となる。家康の下にいた子の本多正純とともに幕政に深くかかわった。秀忠に従って大坂の冬の陣・夏の陣に参戦。家康の死後まもなく江戸で死去。「本佐録」は正信の著作東われているが、未詳。



「江戸の絵師・菱川師宣」アマゾン・グーグル。楽天・角川・電子書籍紹介」

2020-07-08 05:59:55 | 投稿済C


「江戸の絵師・菱川師宣」アマゾン電子書籍紹介」
「菱川師宣」(?~1694)江戸前期の浮世絵師。俗称を吉右衛門、晩年の号は友竹。安房国平郡郡安田村の縫箔師の子で江戸に出て狩野派や土佐派などの画風を自習自得し、寛永期(1624~1644)以来の近世初期風俗画の主題表現や構成にも学び、独自の美人画風を築いた。1671年(寛文11)刊の仮名草子「私可多拙」などの版本挿絵の人物表現の魅力を高めて、1枚摺挿絵の浮世絵版画を独立させ、文字と折浮世絵の元祖となる。大和絵師を自称した師宣は、「菱川や吾妻俤」と俳諧に詠まれる圧倒的人気を得、肉筆画の分野でも、優れた門人たちを育て質の高い作品を工房的に制作提供した。








歴史の回想「四天王井伊直政」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介」。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」 井伊直政(いいなおまさ)

2020-07-03 06:02:45 | 投稿済C

「四天王井伊直政」アマゾン電子書籍紹介」。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
井伊直政(いいなおまさ)
安土桃山時代・戦国時代~江戸時代(永禄4年2月19日(1561年3月4日)~慶長7年2月1日(1602年3月24日))に生きた戦国武将。安土桃山時代に徳川家康へ仕えた武将。徳川四天王の一人で、武田家から赤備えを引き継いだ。佐和山藩(後に彦根藩へ改組)初代藩主。子孫の方が知名度が高い人物。徳川家康に仕えた徳川四天王や徳川三傑に数えられる名将の一人。井伊家は江戸時代には譜代扱いになるが、ほかの四天王三人の家がより古い時期から安祥松平家(徳川家の先祖)に仕えていたのに対して、そもそも三河武士ではなく遠江出身で、元は今川家の家臣だった。また、先祖は南北朝時代には南朝側に付いていた古い家系である。
今川家家臣・井伊直親の長男として遠江国(静岡県西部)で生まれた。幼名は「虎松」。しかし、家臣といっても外様である井伊家は今川家との関係があまり良くなく、父は今川氏真から謀反の疑いをかけられ処刑された。断絶の危機にあった井伊家は信親の従兄妹(虎松のはとこ)の井伊直虎が女当主として井伊家を存続させ、虎松を養子に迎え育てた。その後、母が徳川家康の家臣・松下源太郎に再嫁したため虎松は所領と家督相続権を失ってしまう。
天正3年(1575年)、徳川家康に見出されて小姓として仕え、「万千代」と名を改め、井伊姓を名乗った。天正10年(1582年)3月、武田攻めの頃に22歳で元服して、「直政」と名乗った。天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こった際、堺から家康とともに伊賀越えに従い、無事に三河へ帰還した。北条家との外交交渉で手腕を発揮し、武田家から受け継いだ直政直属の精鋭部隊「赤備え」の大将となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは赤備えを率いて戦功を挙げ、勇猛な姿から天下にその名を馳せ、「井伊の赤鬼」と称され、豊臣秀吉にも評価された。天正18年(1590年)の小田原攻めでも活躍し、徳川家の江戸転封では上野(群馬)国高崎に12万石を与えられ、城を構えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方として島津軍と戦い、島津豊久を追撃して討ち取った。しかし、戦いの最中に銃弾を受けた。戦後には敗将の毛利輝元の講和や長宗我部盛親の謝罪の取次ぎをし、真田信之の懇意を受け入れて、進退もかけて真田昌幸と信繁の助命に尽力した。のみならず、自らを銃撃した島津家と、徳川家との仲裁役を山口直友と共に担った。江戸幕府が開かれ、石田三成の居城・佐和山城と三成の所領・近江(滋賀)を与えられ19万石を領し、佐和山藩、次に彦根藩の初代藩主となった。非常時に皇室を守るため勤皇の家柄(皇室は北朝の系統で、南北朝時代は敵対していたのだが野暮な事は言わない)の井伊家を京に近い彦根に領地を配されたとされる。
慶長7年(1602年)2月1日に過労と関が原での古傷が原因で亡く


歴史の回想「漂泊の西行」電子書籍紹介」。アマゾン・グーグル・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電

2020-07-02 05:55:18 | 投稿済C

「漂泊の西行」アマゾン電子書籍紹介」。角川電子書籍・BOOK★WALKER電
西行(1118~1190)平安後期から鎌倉初期の歌人。父は藤原氏北家藤成流、左衛門尉佐藤康清。母は監物源清経の女。鳥羽院の北面武士を務めていたが、1140年(保延6)23歳で出家。法名円位。出家後しばらく東山や嵯峨野辺りにとどまっていたが、初度の陸奥への旅にを終えたのちは高野山に居を構えた。約20年の高野山の修行には中国・四国地方にも赴いている。1180年(治承4)頃、高野山から伊勢へ移住。その後1186年(文治2)東大寺復興のために砂金勧進を目的として再度陸奥に旅した。無地旅を終えたのち嵯峨野に庵に居を構える。伊勢神宮に奉納するために『御裳濯河歌合』『宮河歌合』の自歌合を編み、藤原俊成・定家に加判を依頼。1190年(建久元)2月16日「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という生前の願い通り河内国弘川寺で没した。西行の生涯とその詠歌は当時の人々に深い感銘を与えた。その後成立した『新古今和歌集』には最大の94首が選ばれた。




歴史の回想「高僧名僧伝・蓮如」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介」。

2020-07-01 13:21:33 | 投稿済C

「高僧名僧伝・蓮如」アマゾン電子書籍紹介」。
蓮如(1415年~1499年)室町から戦国時代の浄土真宗の僧侶。本願寺第8世として布教を行い、教団の発展に寄与した。諱は兼寿。父は第7世存如。本願寺の本所である延暦寺青蓮院で17歳の時得度、20歳の頃から父存如の活動を助けた。存如「正信偈」「山帖和議」を勤行の中心とするなど作法を整備し、近江門徒へ教化を行い、室町幕府の有力者日野氏や将軍側近の伊勢下総守家と、姻戚関係を結び教団の地位向上を図った。その方針を連如も引き継いだ。その正妻如円尼は実子応玄を後継者にしょうとしたが、一族、家臣、門徒衆の衆議に支えられて蓮如が住持となった。蓮如の精力的活動によって近江の教線は拡大し、幕府奉公衆にも帰依するものが現れた。こうした発展は延暦寺を刺激し、1465年(寛政6)延暦寺衆徒によって京都東山の本願寺は破却され、近江門徒も多く弾圧を受けた。1467年(応仁元)延暦寺西塔院末寺として末寺銭を上納することで和解が成立した。1471年(文明3)越前国吉崎に坊舎吉崎御坊を構え、この頃から頻繁に御文を門徒たちに与えるようになる。また「正信偈」「三帖和議」を開板した。これらの活動によって教線は飛躍的に発展し、加賀で盛んだった高田派との対立が激化、高田派が守護富樫幸千代と結んだために、本願寺派幸千代と対立していた富樫政親を擁立し、1474年幸千代を追放した。翌年、蓮如は加賀国内の抗争を避けて北陸に去り、京都山科に本願寺の建設に着手、完成後はそこに住んだ。一家衆の制を設け教団は基礎を築いだ。著作「御文」真宗教義の書として広く親しまれている。