「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「神仏霊場巡り」丹生官省符神社・和歌山県伊都郡九度山町にある神社。九度山町慈尊院集落の南部に位置する。本殿は国の重要文化財。

2017-11-25 05:10:59 | 温故知新
「神仏霊場巡り」丹生官省符神社・和歌山県伊都郡九度山町にある神社。九度山町慈尊院集落の南部に位置する。本殿は国の重要文化財。本殿はユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』祭神は丹生都比売大神・高野御子大神・大食都比売大神・市杵島比売大神・四神に太神宮(天照大御神)、八幡宮(誉田別大神)、春日明神(天児屋根大神)の三社を祀り、神宮寺の神通寺をあわせ神通寺七社明神とも呼んだ。社伝では弘仁七年(816年)に空海によって創建されたという。高野山の領する官省符荘の鎮守とされ、応永三年(1396年)の文書に「官省符鎮守・神通寺七社」と記録がある(『官省符荘庁番殿原請文』.この他にも神通寺七社明神の記録があり、七社のほかに十二王子社・百二十番神社などの名前が挙げられている。また、『紀伊続風土記』によれば、七社のうち丹生・高野の両神は弘仁年間に空海が勧請し、十二王子と百二十番神の二社が同時に勧請され、気比・厳島の二神は文明年間に勧請されたと伝えられており、これら四社は天文年間の洪水によって昔の境内が沈んでしまったので移転したという。1910年(明治四三年)に九度山、入郷、慈尊院(現・九度山町)にあった諸社を合祀し、1946年(昭和21年)、丹生官省符神社の社号にあらためた。

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「西国観音三十三所巡り」一乗寺”西国二十六番札所“兵庫県加西市にある天台宗の寺院。山号は法華山、本尊は聖観音菩薩である。寺伝では孝徳天皇

2017-11-25 04:54:44 | 温故知新
「西国観音三十三所巡り」一乗寺”西国二十六番札所“兵庫県加西市にある天台宗の寺院。山号は法華山、本尊は聖観音菩薩である。寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基は法道仙人とされる。 国宝に指定されている三重塔(1171年建立)は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔である。 境内は山深く、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られている。一乗寺の開基とされる法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。法道仙人開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。一乗寺には7世紀~8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かである。創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されている。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われる。現存する一乗寺三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われるが、正確な移転時期は不明である。一乗寺は中世、近世には何度かの火災に遭っているが、平安時代の三重塔をはじめとする古建築がよく保存されている。本堂は姫路藩主本多忠政の寄進により、寛永五年(1628年)に建てられたものである。山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されている。バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆が立つ。その左方には宝物館と本坊の地蔵院がある。右方は公園風に整備され、太子堂、放生池、やや奥まったところに見子大明神の社がある。境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)がある。三重塔の直上、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂が建つ。このため、本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができる。本堂裏手には鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂、行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登ったところに法道仙人を祀る奥の院開山堂が建つ。


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『江戸泰平の群像』(全385回)103・北村 季吟(きたむら きぎん、寛永元年12

2017-11-25 04:50:57 | 温故知新
『江戸泰平の群像』(全385回)103・北村 季吟(きたむら きぎん、寛永元年12月11日(1625年1月19日) - 宝永2年6月15日(1705年8月4日))は、江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。名は静厚、通称は久助・再昌院、別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭。出身は近江国野洲郡北村(現在の滋賀県野洲市)。祖父の宗龍、父の宗円を継いで医学を修めた。はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳について俳諧を学び、『山之井』の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれた。飛鳥井雅章・清水谷実業に和歌、歌学を学んだことで、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわし、元禄2年(1689年)には歌学方として500石にて子息湖春と共に幕府に仕えた。以後、北村家が幕府歌学方を世襲した。俳諧は貞門派の域を出なかったが、『新続犬筑波集』、『続連珠』、『季吟十会集』の撰集、式目書「埋木(うもれぎ)」、句集「いなご」は特筆される。山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出している。台東区池之端の正慶寺に季吟の墓(東京都史跡)があり、墓石正面に「再昌院法印季吟先生」、墓石側面に「花も見つ 郭公(ほととぎす)をもまち出でつ この世 後の世おもふ事なき」と辞世の句が刻まれている。末裔に、長野県の県歌『信濃の国』を作曲した北村季晴および元サッカー日本代表で数学者の北村春吉がいる。


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戦後日本の記憶と記録」(全307回)3、“戦争処理の内閣の創設” 「昭和二十年八月一五日、天皇、戦争終結の詔書を放送する

2017-11-25 04:48:18 | 温故知新
「戦後日本の記憶と記録」(全307回)3、“戦争処理の内閣の創設”
「昭和二十年八月一五日、天皇、戦争終結の詔書を放送する。世に言う「玉音放送」である、「現人神」であった天皇が、人間天皇として、終戦を宣言して「戦後日本」が始まった。八月十七日戦争終結の処理内閣に適当な人物が無く模索していたが、皇族で東久邇宮稔彦王に、次期首班就任を打診され、緒方、近衛の三者で、赤坂離宮で協議されたが、組閣に思うに任せず、適任者の住所が判明せず終戦の焼け野原の状態の中、戦後処理に組閣が急がれた。
何故なら戦時中の責任者は交渉の対象者ではなく、戦犯として裁かれる者に戦後処理をさせる訳に行かず、その人選は難行していた。
第四十三代東久邇宮内閣、    外務大臣。重光葵、吉田茂。
内務大臣。山崎巌。       大蔵大臣。津島壽一。
陸軍大臣。東久邇宮兼任、下村定。海軍大臣。米内光政。
司法大臣。岩田宙造。  の布陣で組閣され、戦後処理に当たることになった。
●東久邇宮稔彦王(1887~1990)昭和初期の元皇族・東久邇宮家を創設・妃は明治天皇の皇女聡子内親王・東久邇宮朝彦王の九王子、皇族唯一の内閣総理大臣。陸軍大将を卒業・大正十一年フランス陸軍大学校を卒業・軍事参事官・、敗戦処理に皇族であり、陸軍大将でもあったので、その任に相応しいとして、時代の要請に生きた皇族で、百二歳まで生きられた。
●重光葵(1887~1957)大分生まれ、東大卒・昭和期の外交官、東京帝大卒後外務省に入り、ドイツ、イギリス、中国などの大使、公使に勤務する。終戦時日本降伏文書に調印しのち改進党総裁、日ソ国交回復に尽くした。パリ講和会議に随行・一九三〇年に中国在勤中に日中関税協定を締結し対中国宥和に務めた。
満州事変で挫折・満州事変などで収拾に当たるが三二年の上海事変で収拾を計る中、爆弾を投げられて片足を失う。三三年から三六年まで外務次官として日中提携政策を推進。以後中ソ、駐英、中華大使を経て四三年に東条内閣の外相になって、小磯内閣では外相兼大東亜相に就任した。
東久邇宮内閣でも外相を務めて降伏文書に調印・極東軍事裁判でも禁固七年の刑を受けた。五二年に改進党総裁・衆議院議員に五四年に鳩山内閣に入閣・副総理・外相に日ソ国交回復に努めた。
●吉田茂(1878~1967)戦後の米軍占領下、七年に渡り首相を務めた。
土佐自由党の志士袖竹内綱の五男として生まれ、吉田家に養子にいる。
養子に入った茂は養父健三は若くして死去し膨大な遺産を手にする。
少年期の茂は義母に厳しく育てられ次々と学校を変えて、中退、退校を繰り返し最終的に学習院に入学吉田茂の人生を決める外交官養成の学科に入学、その後領事館試験に合格した。
二十年間は中国大陸で暮らし政界に人脈を作る二.二六事件以後大臣候補に浮上し、戦後処理内閣の東久邇宮内閣に外相として入閣、続いて幣原内閣でも外相を勤め頭角、自由党鳩山一郎総裁の公職追放に伴い後任の総裁に就任し、内閣総理大臣に就任。
豪腕で知られた政治的手腕は多くの対立を生み、日本社会党に大一党を奪われたが社会党も政権は長続きせず、その後の選挙で自由党は大勝し吉田内閣を組閣し、強引にサンフランシスコ条約を締結した。
昭和二十九年十二月波乱ずくめの吉田内閣は総辞職、自由党総裁を辞任した。日本で五度に渡り内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ一人である
任期期間は二六一六日間だった。戦後日本の路線を残し大きな影響を与えた反面、ワンマン体制とか、“バカヤロー解散”など異例ずくめの政治家だった。その後の吉田学校の主な門下生に佐藤栄作、池田隼人、田中角栄などがいた。
●山崎巌(1894~1968)昭和初期の内務官僚・政治家・福岡県出身、東大卒内務省社会局・土木局・警保局長・警視総監・内務次官を経て昭和二十年東久邇宮内閣の内相・翌年公職追放になり、五二年に政界衆議院に連続当選、池田内閣で自治省国家公安員会になったが、浅沼委員長暗殺事件で引責辞職。
●津島壽一(1888~1967)昭和期の官僚、政治家、香川県出身明治四十五年に大蔵省に入り昭和九年に大蔵次官となった。
北支那開発会社の総裁を経て1945年に東久邇宮内閣の蔵相。戦後は公職追放になり、解除後は戦後処理の東南アジアの賠償の交渉に当たる。岸内閣では防衛庁長官に就任。
●下村定(1887~1968)昭和の軍人、陸軍大将高知県出身、東久邇宮内閣の陸相となって、陸軍解体の業務にあたる。
●米内光政〔1880~1948〕海軍軍人、政治家岩手県出身、1936年連合艦隊司令部長官兼第一艦隊司令長官と成る。その後、林内閣の海軍相に就任、近衛、平沼内閣にも留任し、日米開戦には反対し、海上封鎖と爆撃による日中戦争の解決を主張した。鈴木貫太郎内閣に留任し戦争終結に尽力を尽くした

「東久邇宮」は苦渋の発言によって、国民に、その国民として全てに一人一人に責任を促し、戦後を取り組むことを、表明しなければならなかった。
「一億総懺悔」の発言だった。
*八月三十日、厚木に「連合軍総司令官、ダズラス、マッカーサー」が、あの有名なタラップから降り立つ、長い愛用のコーンパイプを燻らせながらサングラスをかけて日本を眺めていた光景である。
慌しく時は動き、混乱の中、九月一日に第八十八臨時議会が召集し、五日に開会し、六日に閉会したのである。
*八月二十二日、ソ連の潜水艦、樺太から日本へ引揚船三隻を撃沈させ、死者千七百八人の犠牲者に達した。
◇よく戦後に語られることに、ソ連は日本の敗戦後も、執拗に終戦を知りつつ敗走する日本の軍、民間を問わず、銃砲を向けた非道な戦後処理をしたことは、日本人の忘れえぬ事実であった。
武器も反撃も出来ない引揚げ船に撃沈をさせたことは、終戦の混乱の中「うやむや」になったが決して忘れてはならないと責を問う人も多い。
*八月二十三日、陸海軍の復員始まる。
*九月一日 第八十八回臨時議会召集。(九月四日開会、九月五日閉会)
この時期に議会が召集され翌日に閉会されたが多分、残された人々による戦後処理を協議されたのだろうか。
*九月二日、日本の歴史的瞬間である、東京湾のミズリー号艦上で降伏文書に調印したのが、全権の重光葵、梅津美治郎参謀総長だった。
●梅津美冶郎〔1882~1949〕陸軍大将、参謀本部総務部長を経て支那駐屯軍司令官となり、2・26事件後陸軍の中枢に位置し、陸軍次官、参謀総長となって、降伏調印式に陸軍代表となって参列、戦後A級戦犯で終身刑と成った。
◇それは日本の降伏と言う屈辱と、再生に懸けた国民の、戦後の基点となった、記念すべき日だった。
上海事件で片足を失い、戦前、戦後の政治の中枢の波乱に生きた重光外相の痛々しくも、毅然とした態度、
服装と振る舞いは、黒の礼服に山高帽に白い手袋に握られた杖は、英国紳士のスッテキに見え、誇りと威厳をもって臨む外交に生きた紳士の姿であった。


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『歴史古代豆知識』27・殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、

2017-11-25 04:44:22 | 温故知新
『歴史古代豆知識』27・殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。天皇・皇后・太皇太后・皇太后の大喪儀の一つとして行われる。『古事記』、『日本書紀』では殯、『万葉集』では大殯とされ、貴人を殯にした記録や、それを連想させる記録が散見されるが、具体的な方法などは記録されていない。『日本書紀』においては、一書の九でイザナギがイザナミの腐乱した遺骸を見た際「伊弉諾尊欲見其妹乃到殯斂之處」の殯斂や天稚彦(あめわかひこ)の殯「便造喪屋而殯之」(一書の一「而於天作喪屋殯哭之」)、巻8の仲哀天皇の死後にその遺体を武内宿禰による海路に穴門を通って豊浦宮におけるもの「竊收天皇之屍付武内宿禰以從海路遷穴門而殯于豐浦宮爲无火殯斂无火殯斂此謂褒那之阿餓利」があり、その後数代して欽明天皇(欽明天皇32年4月15日(571年5月24日)死去)32年5月に河内古市に殯し、秋8月に新羅の未叱子失消が殯に哀悼した「五月殯于河內古市秋八月丙子朔 新羅遣弔使未叱子失消等奉哀於殯是月未叱子失消等罷九月葬于檜隈阪合陵」と記述される。なおこのときは1年に満たない殯である。隋書に記録された殯、『隋書』「卷八十一列傳第四十六東夷俀國」には、死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。「死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而及葬置屍船上陸地牽之」とあり、また、『隋書』「卷八十一列傳第四十六東夷高麗」(高句麗)には、死者は屋内に於て殯し、3年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す「死者殯於屋内經三年擇吉日而葬居父母及夫之喪服皆三年兄弟三月初終哭泣葬則鼓舞作樂以送之埋訖悉取死者生時服玩車馬置於墓側會葬者爭取而去」とある。これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にしたことがうかがえる。なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。長い殯の期間は大規模な墳墓の整備に必要だったとも考えられる。皇室喪儀令第一章大喪儀第六條「大行天皇太皇太后皇太后皇后ノ柩ハ之ヲ殯宮ニ奉遷ス」とあり、附式第一編大喪儀に詳しく方式が記されている。殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の名として使用されることになっており、戦後に於いては昭和天皇や貞明皇后、香淳皇后の崩御の際に設置されている。
死後13日目に遺体を収めた棺は御所から宮殿内の殯宮に移御され、45日目を目処に行われる大喪の礼や斂葬の儀までの間に諸儀式が行われ
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『浪速史跡めぐり』淀屋の屋敷跡・地下鉄淀屋橋の上の交差点の南西

2017-11-25 04:40:45 | 温故知新
『浪速史跡めぐり』淀屋の屋敷跡・地下鉄淀屋橋の上の交差点の南西に淀屋の屋敷跡碑と林市蔵記念像がある。江戸時代の豪商であった淀屋は本名岡本と言い、初代与三郎常安は大坂の陣で徳川方に与した、夏の陣の後、この辺り一帯を邸宅を構えた。その規模は100間四方1万坪を有し、淀屋橋は淀屋が米市への交通の便を良くするために架けたもので、その名称の始まりになった。また林市蔵は大阪府第15代知事として府政に尽力を注いだ。特に福祉社会に寄与し「民生委員の父」と言われ大正七年に府内に方面委員を設置したことから今日の民生委員制度の発端となった。

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「京都古社寺探訪」新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。

2017-11-24 04:42:16 | 温故知新
「京都古社寺探訪」新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。旧称は新日吉社、明治以降は新日吉神社。主祭神・大山咋命・大己貴命・玉依比売命・大山咋命荒魂・田心比売命・菊理比売命・玉依比売命荒魂・後白河天皇・相殿・素盞嗚尊・大年神。社伝によれば、永暦元年(1160)後白河上皇の命により、院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、比叡山は東坂本の日吉大社から迎え祀ったのが始まりと言う。桃山時代になって秀吉は三十三間堂(蓮華院)方広寺の境内に含められた。新日吉社は現在より南に創建されたと伝えられる。その後、社地を転々とし、現在の社地となったのは、豊国廟が再興された明治三十年(1897)になってからである。昭和三十三年(1958)、後白河天皇を増祀し、翌昭和三十四年(1959)に神社名を現在の新日吉神宮と改めた。

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「西国観音三十三所巡り」三井寺・園城寺・“西国一四番札所”滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。開基は大友与多王、開祖は三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍

2017-11-24 04:39:31 | 温故知新
「西国観音三十三所巡り」三井寺・園城寺・“西国一四番札所”滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山。開基は大友与多王、開祖は三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁五年(814年)、讃岐国那珂郡に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹にあたる。本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第十四番札所である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。三井寺は七世紀に大友氏 の氏寺として草創され、九世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、十世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、二十五歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。



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『江戸泰平の群像』(全385回)102・酒井 忠清(さかい ただきよ)(1624~1681)は、江戸時代前期の譜代大名。江戸幕府老中、大老。上野厩橋藩第4代藩主

2017-11-24 04:35:04 | 温故知新
『江戸泰平の群像』(全385回)102・酒井 忠清(さかい ただきよ)(1624~1681)は、江戸時代前期の譜代大名。江戸幕府老中、大老。上野厩橋藩第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家4代。第4代将軍徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世の孫にあたる。寛永元年(1624年)10月19日、酒井忠行の長男(嫡出長子)として酒井家江戸屋敷に生まれる。幼少期は不明であるが、酒井家江戸屋敷で育てられたと考えられている。寛永7年(1630年)1月26日には将軍・家光が忠清の祖父・忠世邸に渡御しており、忠清も初目見して金馬代を献上し、家光から来国光の脇差を与えられている。『東武実録』によれば、さらに1月29日には大御所・秀忠が同じく忠世邸に渡御し、このときも忠清が初目見し太刀馬代を献上し、国俊の脇差を与えられている。寛永9年(1632年)12月1日には江戸城に初登営し、弟の忠能とともに将軍家光に謁見している。寛永13年(1636年)3月19日には祖父・忠世、同年11月17日には父・忠行が相次いで死去する。翌寛永14年(1637年)1月4日に遺領12万2,500石のうち上野厩橋藩10万石の相続を許され、同日には弟の忠能にも上野伊勢崎藩を分地された。寛永15年(1638年)に出仕し、従五位下・河内守に任じられる。雅楽頭家嫡流として父の忠行が務めていた奏者番を命じられ、武家故実を習得して殿中儀礼の諸役を務める。この年には忠能と共に上野へ初入国をしている。なお、同年には土井利勝と酒井忠勝が大事の折の登城を命じられ、これが後の大老の起こりとされる。寛永18年(1641年)には3代将軍・徳川家光に嫡子・家綱が誕生。忠清は家光付きの本丸付家臣であり、幼少の家綱との接触は儀礼を通じてのみであったが、忠能は家綱付の家臣団に加わっている。正保元年(1644年)12月には松平定綱の娘・鶴姫と婚礼、慶安元年(1648年)には長男の忠明が生まれるが、鶴姫は慶安3年(1650年)に死去。慶安4年(1651年)4月には家光が死去し、8月には家綱が将軍宣下を受ける。大老・酒井忠勝、老中・松平信綱や後見の保科正之、家綱付家臣団の松平乗寿らに補佐された家綱政権が成立し、忠清は引き続き奏者番を務め、10月には左近衛権少将へ任官し、雅楽頭へ改名を命じられる。家光の死後には西の丸老中が本丸老中へ吸収され、承応2年(1653年)6月には忠清も老中に就任し、諸役と兼任する。忠清は就任と同時に老中首座として松平信綱、松平乗寿、阿部忠秋と共に4人連署体制を構成するが、翌3年(1654年)には乗寿が死去し、万治元年(1658年)閏12月29日に稲葉正則が加えられるまでは3人体制となる。明暦元年(1655年)、池田光政から光政の娘ふきと榊原政房の縁談について相談を持ちかけられている[3]。寛文4年(1664年)には一般奉書の加判を免じられており、寛文6年(1666年)2月2日、諸国山川掟を発する1人となり、3月26日には老中奉書への加判も免じられ、大老職に就任する。保科正之や阿部忠秋が没すると権力が集中し、新たに久世広之・土屋数直・板倉重矩を加えた老中達と共に将軍家綱を補佐して殉死禁止令や、陸奥仙台藩62万石の伊達家で生じた伊達騒動(寛文事件)や、延宝年間に越後高田藩で生じた越後騒動などのお家騒動の裁定に関わった。延宝8年(1680年)1月、上総久留里2万石を加増されて15万石となり、忠行時代の家格に復する。同年5月には家綱が死去し、8月には家綱の異母弟・綱吉が将軍宣下を受ける。12月9日には病気療養を命じられ、大老職を解任される。翌天和元年(1681年)2月27日に隠居し、5月19日に死去。享年58(満56歳没)。


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「戦後日本の記憶と記録」(全307回)2、玉音放送“ 玉音放送(ぎょくおんほうそう)とは、天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。特に

2017-11-24 04:31:00 | 温故知新
「戦後日本の記憶と記録」(全307回)2、玉音放送“
玉音放送(ぎょくおんほうそう)とは、天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。特に1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、日本で唯一の放送局だった社団法人NHK(日本放送協会)(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)の音読放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。
この放送は、太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の降伏を日本国民に伝えるもので、日本ではこの玉音放送のあった8月15日を終戦の日あるいは終戦記念日と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。
ソ連対日参戦を受けて、1945年(昭和20年)8月14日、日本は御前会議において鈴木貫太郎首相が昭和天皇の判断を仰ぎ、ポツダム宣言の受諾を最終決定した(いわゆる聖断)。
ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争において、日本が降伏することを意味した。御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を国民に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイス及びスウェーデン駐在の日本公使館を通じて連合国側に伝えられた。
昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議の後も陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。
前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置が採られた。
放送は正午に開始された。初めに日本放送協会の放送員(アナウンサー)・和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁・下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、君が代の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」等の補足的文書のアナウンスが行われた。
放送はアセテート盤のレコード、玉音盤(ぎょくおんばん)再生によるものであった。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪く[注 3]、天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気等で事情を把握した人が大半だった。
玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国・英国・支那・蘇連の4か国に対し、共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という文言が「日本政府はポツダム宣言を受諾し、降伏する」ことを表明する最も重要な主題ではあるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKの特集番組の、“皇居前広場で土下座して昭和天皇に詫びる庶民達”の映像と共に繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である(この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい。信頼)し常に爾臣民と共にあり。」(これ―被占領の屈辱に耐えること―によって世界を平和にして欲しい。私はここに国体を護持することが出来、忠実なお前達臣民の赤誠を頼って常にお前達臣民と共にある)と続く)。『大東亜戦争終結ノ詔書』は「終戦詔書」とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付けで詔として発布された。文体は古典的な漢文訓読体。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。喫緊の間かつ極めて秘密裡に作業が行われたため、起草、正本の作成に充分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣・阿南惟幾が「戦局日ニ非(あらざる)ニシテ」の改訂を求め、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末の御璽を十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅である。全815文字とされるが、異説もある。(本文は802文字)
当初、迫水久常は分かりやすい口語体による放送にしようと考えていた。内閣嘱託の木原通雄とともに案を作り始めたが、一人称と二人称をどうするかという基本的な点で行き詰まってしまった。つまり、それまで天皇が国民に直接語り掛けることなど無かったので、天皇が自分自身のことを何と云うのか、また、国民に対して「おまえたち」と云うのか「みなさん」と云うのか、適当な表現を考え付かなかったので、結局実現はできなかった。


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『歴史古代豆知識』26・屯倉(みやけ)とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。「屯倉」は『日本書紀』

2017-11-24 04:26:55 | 温故知新
『歴史古代豆知識』26・屯倉(みやけ)とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。「官家」もミヤケと読まれることもあり、後に「郡家」はコオリノミヤケ、「五十戸家」がサトノミヤケと読まれた可能性がある。ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。屯倉は、直接経営し課税する地区や直接経営しないが課税をする地区も含むなど、時代によってその性格が変遷したらしいが、詳しいことは分かっていない。大化の改新で廃止された。屯倉制度は、土地支配でなく、地域民衆の直接支配である。管理の仕方や労働力は多様であり、屯倉の経営は古墳の発達と関係しており、概観すると5世紀を境に前期屯倉と後期屯倉に分かれている。前期屯倉は、顕宗(けんぞう)・仁賢(にんけん)朝以前にできたという伝承をもつ屯倉であり、その設置地域は、朝鮮半島を除き畿内またはその周辺部に限られている。たとえば『記・紀』にみえる倭(やまと)・茨田(まむた)・依網(よさみ)・淡路の屯倉、『播磨国風土記』にみえる餝磨(しかま)・佐岡の屯倉、『記・紀』や『風土記』にみえる縮見(しじみ)屯倉などがある。これらの屯倉は大王自らの力で開発され経営された。たとえば、倭屯倉は、垂仁朝や景行朝に大王自らが設置したと『記・紀』に伝えられているもので、その地は現在の奈良県磯城郡三宅町の地を中心とした一帯であると推定されている。このあたりの微高地に蔵としての屯倉を置き、周辺の低湿地を開発して田地とし、倭屯倉を造った。5世紀頃であると考えられている。また、大阪市住吉区我孫子あたりから松原市などにわたる一帯に、依網池を造成し、灌漑施設を造るなどして依網屯倉が造られた。また、屯倉は王室の財産であり、直接支配する土地であった。仲哀朝に置かれたといわれている淡路の屯倉は、田地ではなく大王の狩猟場であった。漁民や山民は直属の民として、狩猟での獲物や海産物を王室に納めた。加古川の上流三木市にあったといわれている播磨の宿見屯倉は、在地の土豪忍海部造細目を管理者として経営している。継体天皇22年(528年)九州に糟屋屯倉が置かれ、続く安閑天皇期には関東以西の各地に数多くの屯倉が設けられた。安閑天皇元年(532年)には伊甚屯倉をはじめ10個ほどの屯倉が、翌年には筑紫国に穗波屯倉・鎌屯倉の各屯倉、豊国に滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大拔屯倉・我鹿屯倉など20個あまりの屯倉が設置されたことが『日本書紀』にみえる。



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浪速史跡めぐり』堀越神社は、大阪市天王寺区茶臼山町にある神社。聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神

2017-11-24 04:20:21 | 温故知新
<font size="4">『浪速史跡めぐり』堀越神社は、大阪市天王寺区茶臼山町にある神社。聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。かつて創建当初から明治中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したのが社名の由来だといわれる。また、古くから「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。現在は交通量の多い谷町筋に面しているが、境内は樹齢数百年に及ぶ樹木をはじめ緑が多く、閑静な境内を構成している。
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「京都古社寺探訪」宇治神社・京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は府社。隣接する宇治上神社とは対をなす。祭神は次の1柱。菟道稚郎子命

2017-11-23 05:27:53 | 温故知新
「京都古社寺探訪」宇治神社・京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は府社。隣接する宇治上神社とは対をなす。祭神は次の1柱。菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。本殿には、菟道稚郎子像と伝える神像(国の重要文化財)が祀られている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち1座に比定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かないものの、もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする諸説がある。創建年代などの起源は明らかではない。宇治神社のすぐ近くには宇治上神社があるが、宇治神社とは二社一体の存在であった。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる[1]。宇治上神社の境内外には「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もある。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。のちに近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された[1]。明治に入って宇治上神社とは分離し、明治44年(1911年)府社に昇格した。
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「西国観音回り」華厳寺・岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。 山号は谷汲山(たにぐみさん)。 本尊は十一面観音、脇侍として不動明王

2017-11-23 05:23:32 | 温故知新
「西国観音回り」華厳寺・岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。 山号は谷汲山(たにぐみさん)。 本尊は十一面観音、脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。 西国三十三所第三十三番札所、満願結願の寺院で桜、紅葉の名所としても知られ多くの観光客で賑わう。 西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にある。永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたという。『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である『寺門高僧記』所収の「行尊伝」及び「覚忠伝」では、第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。また、三種の御詠歌(後出)のうち、「世を照らす」の歌は作者が判明しており、花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である[1]。建武元年 1334年足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱をはじめとする戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。江戸時代には薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀上人によって再興された。仁王門 - 宝暦年間に再建・本堂 - 1879年本尊は十一面観世音菩薩、脇侍として不動明王像と毘沙門天像。堂内右手に納経所、地下に「戒壇巡り」があり、正面向拝の左右の柱には「精進落としの鯉」と称する、笈摺堂 - 本堂背後にある小堂。当寺には花山法皇が禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したとされる。満願堂 - 本堂から裏手に進み、笈摺堂、子安観音堂を出て、階段を三十三段上った先に建つ堂。本尊は十一面観世音菩薩。周囲には「満願」の文字の刻まれた狸の石造が並ぶ。巡礼者はここで納め札を納める。

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『江戸泰平の群像』(全385回)101・三井 高利(みつい たかとし、元和8年(1622年) - 元禄7年5月6日(1694年5月29日))は、江戸時代の商人

2017-11-23 05:19:15 | 温故知新
『江戸泰平の群像』(全385回)101・三井 高利(みつい たかとし、元和8年(1622年) - 元禄7年5月6日(1694年5月29日))は、江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。高利は伊勢国松坂(現 三重県松阪市)で高俊(表記は異なるが読みは「たかとし」で高利と同じ)の四男として生まれた。江戸で釘抜三井家を創業した長兄の三井高次(三郎左衛門)に丁稚奉公し、番頭となる。のちその商才を恐れた兄達に(郷里で母親・三井殊法の面倒を見てほしいという表向きの理由をつけて)事実上放逐され、松坂で金融業を営む。1673年、長兄高次の死後、母・殊法の許しを得て江戸本町一丁目に呉服店を開業し、屋号を越後屋(のちの三越)とする。それまでの呉服店は、代金は後日の掛け(ツケ)払いで、定価がなく客との交渉での駆け引きで売値を決める方法で、売買単位は1反単位が当たり前、得意先で見本を見せて売る方法が一般的であったのを、現金掛値無し(現金払いでの定価販売)、必要分だけ反物の切り売りし、店前(たなさき)売り(店頭で、現金を持っている人なら誰にでも販売する方法)などの新商法を導入して繁盛する。これらの方法は呉服業界においては斬新であり、顧客に現金支払いを要求する一方で良質な商品を必要な分だけ安価で販売した(ツケの踏み倒しの危険性がないためにそのリスク分を価格に上乗せする必要性がなかった)ために、顧客にとっても便利な仕組みであったのである。だが、これらの方法はそれまでの呉服店間でのルールに反するため、繁盛ぶりに嫉妬した同業者からは迫害され、組合からの追放や引き抜き、不買運動などにあい、店舗の位置を駿河町に移転することを余儀なくされる。だが、側用人牧野成貞の推薦によって幕府御用達の商人となってからは、幕府御用達店への攻撃は幕府に対する非礼に当たるため、こうした動きは影を潜めた。なお、高利は江戸に移り住んだのか、松坂から江戸に対して指示を送っていたのかははっきりしていない。江戸の店の実務は主に長男高平らに任せていた。松坂(あるいは江戸)から後に京都に移り住んだ。店を駿河町に移転後に両替商(三井両替店・現在の三井住友銀行の源流)も開業する。高利は両替店を活用した為替でも才能を発揮し、幕府の御用為替方を引き受けた。1694年に73歳で死去。墓所は真正極楽寺(真如堂)にある三井一族の墓地にある。高利は長男の高平はじめ息子達や娘夫婦等に数家を創設させており、遺産はそこで共有するものとした。これが江戸期の豪商、後に財閥当主となる三井家である。

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