「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「真言宗十八本山」教王護国寺・東寺・仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある

2016-12-22 04:18:11 | 史跡探訪
「真言宗十八本山」教王護国寺・東寺・仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。本尊は薬師如来。東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、二十一世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。この寺には「東寺」および「教王護国寺」という二つの名称がある。八世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という二つの寺院の建立が計画された。これら二つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦十五年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁十四年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明十八年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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「奈良古社寺探訪」矢田寺・奈良県大和郡山市にある高野山真言宗の寺院。

2016-12-20 04:45:35 | 史跡探訪
「奈良古社寺探訪」矢田寺・奈良県大和郡山市にある高野山真言宗の寺院。山号は矢田山。正式の寺号を金剛山寺(こんごうせんじ)という。別名「あじさい寺」とも呼ばれ、境内には約10,000株、約60種のアジサイが植えられている。 さらに矢田寺大門坊では、古くより容眞御流(ようしんごりゅう)華道の家元として、華道研究も盛んに行われている。寺伝によれば天武天皇の勅願により天武天皇八年(679年)に智通が開基。七堂伽藍四十八坊を造営、十一面観音菩薩と吉祥天を安置したという。その後の戦乱などにより多くを焼失し、現在は矢田寺北僧坊・矢田寺大門坊・矢田寺念仏院・矢田寺南僧坊の4つの僧坊を総称して矢田寺と呼ばれている。矢田寺の名は万葉の昔からの地名が矢田の里であったことに由来する。「矢田のお地蔵さん」で親しまれている矢田寺(矢田山・金剛山寺)は、 城下町・郡山より西へ3.5キロ、矢田丘陵の中心矢田山の中腹にあり、 日本最古の延命地蔵菩薩を安置しています。今から約1300年前、大海人皇子(おおあまのみこ…後の天武天皇)が、 壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位後の白鳳4年、智通僧上に勅せられ、 七堂伽欄48カ所坊を造営されたのが当山の開基です。当初は十一面観世音菩薩と吉祥天女を本尊としていましたが、 弘仁年間に、満米上人により地蔵菩薩が安置されて以来、地蔵信仰の中心地として栄えてきました。
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「京都古社寺探訪」瀧尾神社・京阪東福寺下車から旧街道の面影を残す本町通りを北へ歩くと、住宅街のなかに突然、立派な鳥居とたくさんの提灯に囲まれた瀧尾神社

2016-12-17 04:56:47 | 史跡探訪
「京都古社寺探訪」瀧尾神社・京阪東福寺下車から旧街道の面影を残す本町通りを北へ歩くと、住宅街のなかに突然、立派な鳥居とたくさんの提灯に囲まれた瀧尾神社が現れます。神社の創建や由来はよくわかっていないが、平安末期に起きた源平の争乱を描いた『源平盛衰記』に、こちらの旧名「武鶏ノ社(後に多景の社)」が記されており、平安時代にはすでに存在していたと考えられている。天正十四(1586)年の豊臣秀吉の方広寺大仏殿建立に伴って現在地に遷座したとも、皇室にゆかりの深い泉涌寺の僧が守るところの社であったともいわれている。江戸時代初めの宝永年間(1704~11)に幕府の命令により改築され、多景の社から瀧尾神社と改名されました。祭神は大己貴命と、弁財天、毘沙門天の三神です。瀧尾神社を訪れたら、境内の絵馬舎に必見である。呉服屋時代の店頭や店舗ビルの写真など、大丸百貨店ゆかりの絵馬が3枚奉納されています。なぜここに、そんな絵馬があるのかといいますと、家業の呉服屋を大きく発展させ、現在の大丸百貨店の基礎を築いた人物が、自宅のあった伏見区京町から行商へ行く途中に、毎朝欠かさず瀧尾神社に参拝していたからなのです。大丸創業家では、すべての繁栄は瀧尾神社の御利益のおかげと今なお厚い信仰を寄せ続けています。
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『社寺神仏豆知識』1“廬舎那仏“

2016-12-16 16:55:22 | 史跡探訪
『社寺神仏豆知識』1“廬舎那仏“毘盧遮那とはサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。「毘盧舎那仏」とも表記される。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される。史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。毘盧遮那仏については、『華厳経』に詳しく説かれている。真言宗などの密教における「摩訶毘盧遮那仏」(大毘盧遮那仏(マハー・ヴァイローチャナ))は、大日如来と呼ばれ、成立の起源を、ゾロアスター教の善の最高神アフラ・マズダーに求める学説がある。仏像では、聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、東大寺大仏)が有名。同様に、鑑真が開創した唐招提寺金堂の中尊も、天平時代の脱乾漆像として有名であり、鑑真が中国からもたらした盛唐様式の作風を伝える彫刻として貴重な存在である。 尊名に於いて舎と遮の使い分けであるが、華厳経では毘盧舎那仏(舎)であり、大日経では毘盧遮那仏(遮)と記述されている様である。
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「京洛八社巡り」下御霊神社・、京都市中京区にある神社である。旧社格は府社。社名は上御霊神社に呼応するものである。祭神は以下の八柱で、「八所御霊」

2016-12-14 04:19:25 | 史跡探訪
「京洛八社巡り」下御霊神社・、京都市中京区にある神社である。旧社格は府社。社名は上御霊神社に呼応するものである。祭神は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。○吉備聖霊(吉備真備とされることも多いが、吉備真備は憤死した人ではないので、神社側は六座の神霊の和魂と解釈している)○崇道天皇(桓武天皇の皇太子、早良親王)○伊予親王(桓武天皇の皇子)○藤原大夫人(伊予親王の母、藤原吉子)○藤大夫(藤原広嗣)○橘大夫(橘逸勢)○文大夫(文屋宮田麻呂)○火雷天神(菅原道真とされることも多いが、神社の創建は道真が天神とされるよりも以前なので、神社側は六座の神霊の荒魂と解釈している)●相殿に天中柱皇神・霊元天皇を祀る。これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来より京都御所の産土神として崇敬された。享保年間に霊元天皇の霊を配祀した。元は出雲路の上御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったと伝えられる。後に新町出水に移され、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座した。なお、式内社研究家の志賀剛は延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)を当社に比定している。
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「古社寺探訪」石切劔箭神社・大阪府東大阪市にある神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社

2016-12-10 04:09:39 | 史跡探訪
「古社寺探訪」石切劔箭神社・大阪府東大阪市にある神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社(旧社格)。「石切劔箭命神社二座」。祭神は饒速日尊・可美真手命(饒速日尊の御子)「石切大明神」と総称される。「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。 創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、 代々の社家「木積」家には、皇紀二年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。 現在確認できる文献では、日本三代実録(巻十一)に「貞観五年九月二十二日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。 宮山の地にあった祭祀の場は、いつの頃か現上之社の場所に遷され、さらに明治三十八年には現在の本社本殿に合祀された。 その後も、上之社のあった土地は、奥の院として信仰を集め、いよいよ再興の気運が高まり、昭和七年に解体保存されていた本社の旧本殿を上之社に移し、昭和四十七年に往古の姿を取り戻した。★歴史が綴る、伝統文化を、未来に語る継ぐ。
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「古社寺探訪」泉岳寺・東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる

2016-12-06 04:14:44 | 史跡探訪
「古社寺探訪」泉岳寺・東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる。現在の住職は駒澤大学名誉教授の小坂機融。慶長十七年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名により、現在の高輪の地で再建された。赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が訪れる。また、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催される。また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある。他に、「高島易断」で知られる高島嘉右衛門の墓もある。境内には学寮があり、後に吉祥寺の旃檀林学寮、青松寺の獅子窟学寮と統合して駒澤大学に発展したほか、現在でも僧侶は境内の学寮で共同生活を行いながら大学に通学している。赤穂義士墓所がある。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「京都古社寺探訪」法然院・京都市左京区鹿ヶ谷にある浄土宗系の寺院である

2016-11-27 04:43:15 | 史跡探訪
「京都古社寺探訪」法然院・京都市左京区鹿ヶ谷にある浄土宗系の寺院である。元は浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28年(1953年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。別称には「本山獅子谷法然院」がある。寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。江戸時代になり、延宝八年(1680年)に、知恩院の第三十八世である萬無が、法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍澂と共に再興したのが当寺であるとされる。現貫主は三十一世の梶田真章(1984年就任)。寺は、鄙びた趣きをもつ、茅葺で数奇屋造りの山門と、内藤湖南、河上肇、谷崎潤一郎、九鬼周造などの著名な学者や文人の墓が数多く存在する。哲学の道近くという立地も関係して、春秋の観光シーズンには、大勢の参拝者がある。本堂の本尊は阿弥陀如来坐像であり、法然上人立像なども安置されている。また、方丈にある狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指定されている。また境内には、名水として有名な「善気水」が湧き出している。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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京都十六社巡り・新熊野神社・祭神・伊邪那美命(いざなみのみこと)を始め12社の神々・ 京都市東山区今熊野椥ノ森町42

2016-11-25 04:20:39 | 史跡探訪
京都十六社巡り・新熊野神社・祭神・伊邪那美命(いざなみのみこと)を始め12社の神々・
京都市東山区今熊野椥ノ森町42・熊野信仰盛んな平安末期、後白河上皇は紀州国(和歌山県)の熊野の神を勧請、1160年熊野の新宮、新熊野神社を創建した。その際、熊野の土砂材木等で、社域を造成、社殿を造営、那智の浜の青白の小石をまき、熊野をここに再現した。社頭の大樟は当時、熊野より移植、上皇お手植、熊野の神降臨の霊樹と伝え、樹齢九百年、健康長寿・病魔退散・特にお腹の神と信じられ、参詣者が多い。本殿は京都市の重要文化財。尚、能楽の祖、観阿弥・世阿弥父子は1374年(応安7年)足利三代将軍義満台覧の下、有名な「新熊野神事猿楽」を演能、これが今日の能楽の礎となった。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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京都十六社巡り・熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)・国常立神、伊佐那岐神、伊佐那美神、天照皇大神、恵比須像・

2016-11-24 04:10:09 | 史跡探訪
京都十六社巡り・熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)・国常立神、伊佐那岐神、伊佐那美神、天照皇大神、恵比須像・
京都市左京区若王子町2番地・
当社は永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請せられ祈願所とされた正東山若王子の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって当社のみが今日に残ったのである。夷川通りに鎮座せられていた室町時代作の恵比須を祀っている足利尊氏、義政が、この地に花を愛で宴を開いたと伝えるが今日でも東方山中に瀑布が有り奇岩老樹も多く、夏は納涼地、秋は紅葉の名所として聞こえている。社殿は度々荒廃し、明治の修築の際本宮、新宮、那智、若宮などがあったが、現在は1社
相殿になっている。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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「護王神社」京都府京都市上京区にある神社である。旧社格は別格官幣社。別称子育明神。和気清麻呂

2016-11-23 04:12:38 | 史跡探訪
「護王神社」京都府京都市上京区にある神社である。旧社格は別格官幣社。別称子育明神。和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、藤原百川と路豊永を配祀する。護王神社は、和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った廟(護王善神堂)に始まる。正確な創建の年代は不詳である。和気清麻呂と姉の広虫は、宇佐八幡宮神託事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守った。孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851年)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。明治7年(1874年)、護王善神堂を神社として護王神社に改称し、別格官幣社に列格した。明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡(現在地)に遷座された。大正4年(1915年)、大正天皇の即位の際に広虫が合祀された。広虫が孤児救済事業で知られることから、当社は子育明神と呼ばれるようになった。和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から、明治23年(1890年)から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれており、「いのしし神社」の俗称もある。そのため亥年の参拝者は例年よりも増加する傾向がある。境内には狛猪のほかにも多くの猪に因むものがある。★史跡が教える先人の葛藤と情景に学ぶ教訓。
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「奈良古社寺巡り」、氷室神社・祭神・闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大仲彦命

2016-11-20 04:19:46 | 史跡探訪
「奈良古社寺巡り」、氷室神社・祭神・闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大仲彦命
奈良県奈良市にある神社。式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される[2]。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し(下津岩根社)、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始された。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷され、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われたが、明治以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。春日造の一ノ鳥居が、登大路に面する[2]。鳥居を入ると両側に石灯籠が立ち並び、右手に手水舎、左手に境内社の祓戸社がある[。右手の石灯籠、手水舎の背後には、鏡池と枝垂れ桜がある。正面石段を登ると表門(四脚門)と東西廊がある。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。
★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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「京都パワースポット巡り」平安神宮・京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社

2016-11-02 04:01:56 | 史跡探訪

「京都パワースポット巡り」平安神宮・京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社。1895年(明治二十八年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。平安遷都を行った天皇であった第五十代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第百二十一代孝明天皇が祭神に加えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。
1976年(昭和五十一年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)が発生し本殿・内拝殿など九棟が炎上、焼失した。ただし、外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれている。創建が比較的新しかったことから、当時はこれらの建物は文化財指定を受けていなかったため、再建のための国からの補助金が見込めなかった。しかし、全国からの募金により、本殿や内拝殿は三年後に再建された。

★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市・山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都になるまでの皇都長岡京の跡であり、

2016-09-06 04:15:26 | 史跡探訪

京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神2-15-13・
山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都になるまでの皇都長岡京の跡であり、又当天満宮の御祭神菅原道真公が在原業平と共に、しばしば遊んで詩歌管絃を楽しまれたところであります。道真公が太宰府に左遷せられました時この地にお立ち寄りになり「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しまれた縁故によって公御自作の木像を祀ったのが、当宮の創立であります。以来、皇室の崇敬殊に厚く、元和九(1623)年には八條宮の御領地となり、度々の御寄進・御造営・御殊遇をうけ、寛永十五(1638)年には、参道をはさんで南北にひろびろと広がり、西山の翆緑を映す八條ヶ池が築造されました。中堤の太鼓橋は加賀・前田候の寄進になると伝えられる名橋であり、両側には樹齢百五十年余、高さ三米に達する「キリシマツツジ」が多数植えられており、新緑に映える真紅のキリシマの見事さは、まさに我が国随一のものと称されております。
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「福井古社寺探訪」大安禅寺・福井県福井市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。

2016-09-01 04:27:14 | 史跡探訪
「福井古社寺探訪」大安禅寺・福井県福井市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は萬松山(ばんしょうざん)。福井藩第四代藩主松平光通が大愚宗築を開山として、越前松平家の永代菩提所として万治元年(1658年)[1]に創建した。境内地は天正二年(1574年)に焼失した竜王山 田谷寺の跡地である。北陸観音霊場第10番礼所。大安寺は、もとこの地にあった竜王山田谷寺の跡地に建立された。田谷寺は、伝承によれば、奈良時代に「越の大徳」と言われ、山岳修行僧だった泰澄によって創建されたという。往時は坊舎が四十八坊もあり、門前に市までなしていたが、天正二年(1574年)に織田信長の越前侵攻に伴い、全山が焼失した。80数年の空白の後、万治二年(1658年)に松平光通によって大安寺が創建される。ほぼ全ての建造物が第二次世界大戦や福井地震の影響を受けることなく創建当時のまま残存し、五棟が2008年に国の重要文化財に指定され
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