「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想​​​​​​​「応仁の乱の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子電子書籍紹介。角川電子書籍・

2020-03-19 16:49:51 | 史跡探訪

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応仁・文明の乱は応仁元年(1467)~文明9年(1477)、越後・信濃・駿河以東と南九州を除く、諸国の守護らが細川勝元と山名持豊(宗全)を領軸にして東西両軍に分かれ、京都を中心舞台にして戦った大乱。
原因は土一揆、徳政一揆に代表される庶民の成長・台頭が荘園制や守護国制の基盤を揺るがす大事件「嘉吉の乱」で矛盾を露呈し幕府権力の弱体化が、将軍足利義政の下でさらに進み、政治も混乱の度を越えたこと、長禄・寛正の飢饉が起こり、社会不安が広がったこと、などを背景に上げらえる。乱の直後原因は、将軍家や畠山氏・斯波氏などの有力守護家に家督争いが起こり、幕府の実権を争う勝元と宗全がそれぞれを支援して、二大派閥が形成されたことにある。畠山氏では享徳3年(1454)畠山持国の後継者畠山義就に反発する被官らが持国の甥弥三郎を擁立、勝元も弥三郎・政長を支持した。義就は寛正元年(1460)政長はじめ幕府軍の追討受け、足掛け4年間河内嶽山城に籠城した。この嶽山合戦が、応仁・文明の乱の前哨戦となった。斯波氏では、義建の死後一族の斯波義敏が継いだが守護代と対立して失脚、宗全が画策して渋川義鎮の子斯波義康が後を継ぎ、義敏は勝元を頼った。将軍義政が定見もなく守護監督の安堵と追放を繰り返したことで守護家の家督争いは一層抜き差しならないものとなり、細川・山名領派閥の形成と対立の深刻化を助長することとなった。一方、将軍義政にははじめ男子がいなく、弟足利義視を後継者と定めた。しかし1465年義政室日野富子の足利義尚が生まれ、その庇護を宗全に託した。1467年正月に宗全の支援を受けた畠山義就が赦免され、勝元方に管領畠山政長は失脚、斯波、司馬義康が慣例に任じられた。政長は京都上御霊神社で義就と戦ったものの退却し、上御霊神社の戦いが、大乱の導火線となった。緒戦に敗れた勝元は、山名方の領国でゲリラ活動に出て行動を開始、ついに細川一族の成之・常有・勝久、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢、畠山政長らの軍勢を京都に集めた。これに対抗して山名側も、一族の勝豊、畠山義就、六角義直、管領の斯波義康、畠山義統、六角高頼、土岐成頼、一色義直、管領の斯波義康、畠山義就らが集結した。そして5月26日、細川方から山名方を攻撃して、大乱の幕が切って落とされた。細川方は室町第(花の御所)と細川邸を本営として、山名方はその西側の堀川を隔てた山名邸を本営とされた。細川方は東軍、山名方は西軍と呼ばれた。東軍の兵力は16万1500余名、西軍方は大内軍を加えて11万6000余名の戦力で約10年間、京都を荒廃させ不毛な戦いが繰り広げられた。