「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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『歴史の時々変遷』(全361回)30”薬子の変“ 「薬子の変」平安時代初期に起こった事件。

2016-12-08 04:44:26 | 史跡探訪
『歴史の時々変遷』(全361回)30”薬子の変“
「薬子の変」平安時代初期に起こった事件。大同5年(810)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、延暦25年(806)、桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位、平城天皇は弟の神野親王を皇太弟とした。これは平城天皇が病弱でその子供達も幼かった事を考えて、嫡流相続による皇位継承を困難と見た父・桓武天皇の意向があったともいわれている。だが、翌大同2年(807)には早くも天皇の異母弟・伊予親王が突然謀反の罪を着せられて死に追い込まれるなど、皇位継承を巡る宮廷内部の紛争は収まる事を知らなかった。大同4年(809)4月、平城天皇は発病するが、病を叔父早良親王や伊予親王の祟りによるものと考えた天皇は、禍を避けるために譲位を決意する。天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は極力反対するが、天皇の意思は強く、同年4月13日に神野親王が即位する(嵯峨天皇)。皇太子には平城天皇の三男・高岳親王が立てられた。大同4年12月、平城上皇は旧都である平城京へ移る。平城上皇が天皇の時に設置した観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇が怒り、二所朝廷といわれる対立が起こる。平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成はこの対立を大いに助長した。しかも、薬子が任じられていた尚侍の職は、天皇による太政官への命令書である内侍宣の発給を掌っており、当時の太上天皇には天皇と同様に国政に関与できるという考えがあったことから、場合によっては上皇が薬子の職権で内侍宣を出して太政官を動かす事態も考えられた。嵯峨天皇は大同5年(810)3月に蔵人所を設置し、同年6月には観察使を廃止して参議を復活した。このことは平城上皇を刺激する。二所朝廷の対立が深まる中で、同年9月6日に平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。このことは嵯峨天皇にとって思いがけない出来事であったが、ひとまず詔勅に従うとして、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命する。嵯峨天皇が信任している者を造宮使として平城京に送り込み、平城上皇側を牽制することが目的と考えられる。また、遷都の詔勅が発せられたことに人心は大いに動揺したという。嵯峨天皇は遷都を拒否することを決断する。9月10日、嵯峨天皇は使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせる。その上で、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁の上で佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。嵯峨天皇は造宮使だった坂上田村麻呂を大納言に昇任させる。藤原冬嗣は式部大輔、紀田上は尾張守に任じられた。9月11日、嵯峨天皇は密使を平城京に送り若干の大官を召致した。この日、藤原真夏や文室綿麻呂らが帰京するが、平城上皇派と見られた綿麻呂は左衛士府に禁錮された。嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断をする。中納言・藤原葛野麻呂ら平城上皇方の群臣は極力これを諌めたが、上皇は薬子とともに輿にのって東に向かった。平城上皇の動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。田村麻呂は出発に当たってかつて蝦夷征討の戦友だった綿麻呂の禁錮を解くことを願い、綿麻呂は許されて参議に任じられる。この日の夜に仲成は射殺された。これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例であり、これ以降保元元年(1156年)の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約346年間一件も無かった。平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。9月12日、平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。事件後、嵯峨天皇は関係者に寛大な処置をとることを詔した。高岳親王は皇太子を廃され、代わって天皇の弟・大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。なお、弘仁15年(824年)の平城上皇の崩御の際に、既に退位していた嵯峨上皇の要望によって、淳和天皇の名で関係者の赦免が行われている。なお、僧・空海は嵯峨天皇側の勝利を祈念し、以降、日本仏教界一の実力者になる契機となった。


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京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神2-15-13・ 山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都

2016-11-22 04:14:20 | 史跡探訪
京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神2-15-13・
山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都になるまでの皇都長岡京の跡であり、又当天満宮の御祭神菅原道真公が在原業平と共に、しばしば遊んで詩歌管絃を楽しまれたところであります。道真公が太宰府に左遷せられました時この地にお立ち寄りになり「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しまれた縁故によって公御自作の木像を祀ったのが、当宮の創立であります。以来、皇室の崇敬殊に厚く、元和九(1623)年には八條宮の御領地となり、度々の御寄進・御造営・御殊遇をうけ、寛永十五(1638)年には、参道をはさんで南北にひろびろと広がり、西山の翆緑を映す八條ヶ池が築造されました。中堤の太鼓橋は加賀・前田候の寄進になると伝えられる名橋であり、両側には樹齢百五十年余、高さ三米に達する「キリシマツツジ」が多数植えられており、新緑に映える真紅のキリシマの見事さは、まさに我が国随一のものと称されております。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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「京洛八社」文子天満宮・京都府京都市下京区にある神社(天満宮)。菅原道真と乳母多治比文子を祀る。

2016-11-18 04:13:55 | 史跡探訪
「京洛八社」文子天満宮・京都府京都市下京区にある神社(天満宮)。菅原道真と乳母多治比文子を祀る。天神信仰発祥の神社、上京区にある北野天満宮の前身と伝えられる。社伝によれば、大宰府(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903年)に59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれている。これが当社の起こりで、天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられている。以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。現在の社殿は、大正7年(1918年)に造営されたものである。毎年4月16日に近い第3日曜日に、例祭が執り行われる。
★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「宗像神社」京都府京都市上京区、京都御苑内にある神社である。国史見在社で、旧社格は府社

2016-11-17 03:59:04 | 史跡探訪
「宗像神社」京都府京都市上京区、京都御苑内にある神社である。国史見在社で、旧社格は府社。宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命を主祭神に、倉稲魂神と天岩戸開神の2柱を配祀する。主祭神は『日本三代実録』に、筑前国の宗像神社(現宗像大社)と鎮座地を異にするが「同神」であると記されたり、「同神別社」であると記されている。配祀神の天岩戸開神も国史見在社(天石戸開神)を合祀したもので、『花山院家記』(『山城名勝志』所引)には合祀前の状況を「天石戸開神。大石也。霊有り」と伝えており、また倉稲魂神は藤原時平によって合祀されたと伝える。現在、御苑内の西南(裏鬼門)にあたる位置に鎮座するため、方除けの信仰を集めている。社伝によれば、延暦14年(795)、藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を蒙り、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自邸である東京第(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝えるが、当神社の鎮座由来を記す最古のものとしては『土右記』が挙げられる。東京第は冬嗣の没後、東の花山院と西の小一条第に分けられたが、同書には当時の小一条第第主師成の語った以下の話を載せている[4]。小一条第は藤原内麻呂が息子の冬嗣に買い与えた邸宅であるが、その理由は、冬嗣がまだ内舎人であった頃、参内の途中で虚空から宗像大神が呼びかけ、父に頼んで小一条第を買ってもらい、そこに居住して傍らに宗像大神を祀れば、子々孫々にわたって守護しようとの神託があったためである。また、邸内の東北隅には天石戸開神も祀られていたようであるが、その由緒は不明である。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


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「史跡探訪」紀伊路(中辺路)」熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。淀川河口の渡辺津(摂津国)から一路南下、和

2016-09-22 04:50:32 | 史跡探訪

「史跡探訪」紀伊路(中辺路)」熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。淀川河口の渡辺津(摂津国)から一路南下、和泉国を経て、雄ノ山峠を越えて紀伊国に入り、紀伊田辺からは大塔山地周縁部を東進して熊野本宮大社に至り、熊野速玉大社・熊野那智大社を結ぶ。近世までに紀伊田辺以東の部分が中辺路(なかへち)の名で区分されるようになったが(後述)、本項目にて扱う。紀伊路は畿内と熊野三山を結ぶ参詣道である。熊野古道の中では、伊勢路と並んで梁塵秘抄に詠われたように最も古くから知られた道であるが、摂津国・和泉国では和泉山脈・葛城山脈に、紀伊国では紀伊山地と紀伊山地に源流をもつ河川に制約され、決して容易ではない困難な道であった。そのような困難な道であるにもかかわらず、紀伊路は7世紀以降、熊野三山への参詣道として正式なルートとして認識され、京の院や貴族による参詣の隆盛を見た。のみならず、こうした院や貴族による参詣を中心とする平安末期から鎌倉初期にかけての中世熊野詣は徒歩が原則とされ、九十九王子への巡拝が行われた。中世熊野詣の先達をつとめ、参詣ルートの整備や参詣儀礼の指導にあたったのは修験者であったため、困難な修行の道を踏み越えて行くことそれ自体に信仰上の意義が見出されていたのである。
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「奈良古社寺巡り」聖林寺・奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。

2016-08-30 04:13:15 | 史跡探訪
「奈良古社寺巡り」聖林寺・奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は霊園山、本尊は地蔵菩薩、開基は定慧とされる。国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られる。聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下ろす小高い位置にある。伝承では和銅五年(712年)に多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したという。妙楽寺の後身である談山神社は当寺のはるか南方の山中に位置する。聖林寺の近世までの歴史は不明の部分が多いが、江戸時代には性亮玄心が三輪山平等寺の遍照院を移して再興したという。江戸中期には文春諦玄により現在の本尊・子安延命地蔵菩薩像が安置された。明治の神仏分離令の際に、三輪明神(大神神社)神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管された。

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「和泉古社寺探訪」水間観音・新西国4番札所“龍谷山水間寺

2016-07-08 04:04:16 | 史跡探訪
「和泉古社寺探訪」水間観音・新西国4番札所“龍谷山水間寺 天台宗 本尊聖観世音菩薩 新西国四番札所、「水間観音」の水間寺は南海貝塚駅より水間鉄道で終点水間駅下車五百メートル 高速阪和道貝塚インターすぐにある。泉州は和泉葛城山を背になだらかな山間にあって、和泉随一を思わせる堂々たる伽藍の水間寺の創建は古く、寺伝に縁れば、奈良時代は聖武天皇が病気になった時、夢に観音のお告げを受けられたと言う。その事を行基に話し現地に赴くように命じたという。行基はお告げに随い当地を訪れた所、観音さんの化身である白髪の仙人と16人の童子が現れた。導かれ裏山の滝に向かうと、身の丈一寸八分の聖観世音菩薩を見たという、聖武天皇の勅命によって行基は滝の傍らにお堂を建て、完成するまで16人の童子と共にしたという。近郷近在から遠方の願を掛ける人々に「水間観音さん」と親しまれ、初午の日には「厄除け観音」として厄年のお参詣の人が絶えない。その後、天正十三年に豊臣秀吉の、根来攻めの折り際その下臣堀秀政の軍勢によって火が放たれて、七重伽藍を始め坊舎などが火焔に包まれ灰塵と化したのである。その後、徳川時代岸和田城主の岡部美濃守は名刹水間寺を亡びることを惜しみ本堂と三重の塔などを再建されていった。水間寺は前後に川が流れ山門が無く、何時でも誰でも何処からでも入れる、自由豪放さは訪れる者はいつでも観音様に願いが掛けられる。川に架けられた「厄除け橋」に天台宗別格本山の石碑があって、参道で本堂より三重塔が中央に見える。元は多宝塔で多宝如来が安置されていたが、天正の戦乱で焼失したために「三重塔」を建立し釈迦如来が安置されている。水間の三重塔は再建は天保年かにもかかわらず昭和に修理が成されたと思われる、優美で新しさを思わせる塔で井原西鶴の作品のモデルになったと言われている。
本堂は二百年前に再建された大阪府か最大級の重厚な二重屋根のお堂である。本堂裏の小川に龍神より授けられた観音出現の滝、渓谷には観音像が降臨した石に伝教大師が刻んだ不動尊や、弘法大師の刻んだ名号石もあるという。水間寺は新西国四番札所として地元に及ばず遠方からの参拝の人の途切れは無い。境内の裏を川を隔て「行基堂」の南側に「鏡池」がありその池に中に「瑞泉堂」があって余りにも聖なる水で、清らかで澄み切って帰るも住めないと伝えられている。「薬師堂」「「弁財天堂」本堂の東に「愛染堂」に愛染明王は行基が椿の木刻んだものと言われ、その愛染堂の前に近松門左衛門の「お夏清十郎笠物狂」などで有名な「お夏、清十郎の墓」がある。水間の豪農楠右衛門の娘、お夏がこの愛染明王に恋を成就を祈願した縁で「お夏清十郎」の墓が立てられたと言う。また与謝野蕪村も「ここに今日、お馬水かえ、水間寺」と句を残している
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「浪花今昔百景」大阪城の盛衰

2016-06-27 04:55:16 | 史跡探訪
「浪花今昔百景」大阪城の盛衰・天下の名城大阪城は豊臣秀吉によって天正11年(1583)から15年の歳月を掛けて築城された。その前身は信長と一向宗の門徒衆との「石山合戦」の11年にも及ぶ戦場の舞台であった。それは本願寺8世蓮如が「摂津東成生玉内大坂」に隠居所に坊舎を立てた事に始る。その後山科本願寺が法華信徒に焼き討ちをされ、10世証如が大坂の坊舎を本山として大きな伽藍を中心に要塞化し石山本願寺ができた。大阪城二の丸に「蓮如上人袈裟懸けの松」の伝承地がある。11世顕如は天下一を目指す信長と対立し11年間の戦いの後、和議がなされたが一向宗の敗退と成った。信長が本能寺で没した後、秀吉の手で昼夜を問わず3万~5万人の労力で「三国無双の城」大坂城が築城された。秀吉の死後、関が原の合戦で敗退し、大坂冬の陣、夏の陣でついに豊臣家は没落し滅亡した。大坂城落城後は家康の孫の松平忠明に復興を命じ、大坂城を幕府直轄領とした。藤堂高虎を普請総奉行と任じ、外様大名64家動員させて再建に取り組んだ。豊臣時代の城壁を地中に埋めて、十年間かかり改めて造り直させた。江戸幕府によって再建された大坂城も40年も経たないうちに落雷で焼失した。その後紀州徳川家が大坂城本丸千畳敷と言う謁見の御殿が幕末に焼失した。明治の廃城命令によって廃城となった和歌山城の二の丸御殿を解体し大坂城内に移築し「紀州御殿」と言われた。現在の大阪城は昭和御大典事業として大阪市が「大坂夏の陣図屏風絵」を参考に市民の寄付によって再建された。大坂城内は軍事施設で一般のものは入城できなかったが、幕末動乱や第二次世界大戦で被害を受け多くを失ったが、大手門、多門櫓、乾櫓、一番櫓などが残っている。城内にあった「紀州御殿」が米軍の接取後、失火によって失った。尚本丸南側に在る「豊国神社」は1960年に中之島から移築され「豊臣秀吉、秀頼、秀長」を祀っている。
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「史跡探訪」鳥取藩主池田家墓所

2016-05-06 04:13:29 | 史跡探訪
「史跡探訪」鳥取藩主池田家墓所・史跡鳥取藩主池田墓所は初代藩主池田光仲の墓所として元禄6年(1693)現在の鳥取市国府町奥谷に池田家の廟所と定め代々の藩主とその関係者の墓所が設置された。この地の墓所は池田家の菩提寺の伯耆国興禅寺からその末寺として「清源寺」として明治の廃藩置県まで墓所の管理をされてきた。
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「淡路島7福神めぐり・智禅寺」

2016-04-14 04:38:16 | 史跡探訪

淡路島七福神めぐり

弁財天・智禅寺・弁財天は河川の流れる音の“音楽の神”音律が狂うと聞きつらく、言葉使いも
なにげない言葉使いにも人を傷つけたり励ましたり思いやる知恵の言葉が幸せ生むものです。
智禅寺の由来は本尊大日如来像を安置し、仏法有縁の修行道場として開かれた。脇侍に祭祀する地蔵菩薩像には太古の歴史がしのばれる。
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「河内古社寺探訪」金剛寺

2016-04-11 06:25:28 | 史跡探訪
「観音巡拝紀行」金剛寺・“新西国七番札所” 真言宗御室派大本山 本尊大日如来 新西国七番札所
河内長野市天野町九百九十六 近鉄、南海の河内長野駅より泉大津行きのバスに乗り、天野山下車、また泉大津よりバスあり。天野山の山間に天野川の清流に沿って、河内随一の伽藍が居並ぶ「女人高野 
天野行宮」でその名が知られた 天野山「金剛寺」である。創建は奈良時代は聖武天皇の勅願により行基が開山した、後に空海が修行の地として、真言宗の道場として高野山に次ぐ寺院として真言僧阿観により後白河法王、皇妹八条院の帰依を受け大いに栄えた。明治になるまで高野山は女人禁制で立ち入ることは許されず、高野より真如親王の筆による「大師の御影」を移し以後空海と結ぶ霊地としてその名が知れ渡った。
また南北朝時代、後村上天皇が六年間食堂を正殿として政務を執り、史上に天野行宮天野殿と称された。同時期に北朝の光源、光明、崇光の山上皇と皇太子直仁親王の御四方の四年間の御在所となった、奇しくも南北対立の中に天野山金剛寺がその舞台に有ったという事である。道一つを隔て南北朝の御在所があって、観月亭よりは遥か京都を偲んだと言う。また寺宝は多く残されている。
見事までの庭園は、枯山水、鶴島、亀島、阿波の蜂須賀家政公が手を加えたもの、金堂は重文で本尊大日如来、脇士不動明王、降三世明王も重文である。御在所となった、食堂(じきどう)鐘楼、御影堂、楼門、多宝塔どれを取っても貴重な文化財は、この金剛寺の歴史の重要な舞台に位置してきたことを物語るものである。
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「史跡探訪」称念寺(新田義貞の墓所)

2016-04-06 04:46:02 | 史跡探訪

「史跡探訪」称念寺(新田義貞の墓所)は、福井県坂井市(旧坂井郡丸岡町)にある時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。この寺は、室町時代につくられた縁起によれば、721年(養老五年)泰澄によって開かれたと伝えられ、1290年(正応三年)他阿真教によって時宗に改められたという。新田義貞が延元三年・暦応元年(1338年)に越前国藤島の燈明寺畷の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』にある。この往生院が当寺とされている。当寺境内に義貞墓所があり、近世に江戸幕府や福井藩から保護を受けた。近くにあった末寺の光明院は倉を経営していた[1]。また三国港から日本海を通じて交易を行っていた。そのため越後国府中(新潟県上越市)に同名の寺もできた(当初「応称寺」と言ったが、すぐ同じ名に改めた)。高田城下に移転した。室町時代には、後花園天皇や室町幕府八代将軍足利義満の祈願所となり、そのほか武将の帰依を得た。それらは文書として当寺に残されている[2]。門前に一時期明智光秀が住み、そこから仕官して出世していったという。その時の妻とのエピソードに因んで、松尾芭蕉が「月さびよ明智が妻の咄せむ」と詠んでいる

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「史跡探訪」天空の竹田城

2016-03-13 04:31:49 | 史跡探訪

天空の竹田城
竹田城は播磨・丹波・但馬の交通の要衝に築城された。築城には不明な点も多いが、標高353Mの頂上に天主台・本丸の存在する山頂部から三方に延びる尾根上に曲輪に連続に配置する竪堀で墓漁政を高めている山城である。山名氏と赤松氏の激しい戦いに、竹田城は赤松氏に対する前線基地として山名氏方の城として築城された。以後太田垣氏七代に渡り城主としたが、秀吉の但馬攻めによって、羽柴秀長が城代となった。その後竹田城は桑山重春に預けられさらに桑山氏が和歌山に転じると、赤松氏が城主となった。
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「史跡探訪」丸岡城は

2016-03-11 04:28:42 | 史跡探訪

「史跡探訪」丸岡城は、福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城である。別名霞ヶ城。江戸時代には丸岡藩の藩庁となった。現在は天守のみ残る。福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は、国の重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。移築現存する建物として、小松市の興善寺および、あわら市の蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門がある。ほかに土塀が現存する。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。
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第一番 不動明王・真言宗 智山派 総本山 智積院

2016-03-07 04:17:25 | 史跡探訪
font size="4">京都十三仏巡り・第一番 不動明王・真言宗 智山派 総本山 智積院
建立 1601年(慶長6年)・真言宗智山派総本山。
東大路と七条通りのT字路、そこが智積院。境内にはいると、東山を背に金堂が見え、その参道の左手、唐門を入ると不動堂がある。
信心深い農夫に代わって、朝早くから麦踏みをなされたというお不動様が祀られている。いつも庶民の味方のご本尊。智積院は、1601年(慶長6)に建立された真言宗智山派総本山で、末寺は全国に約3000あります。
南北朝のころに創建された、紀州根来山の学頭寺院が起こりです。1585年(天正13)に兵火を受け京都に避けました。
大坂城落城後に豊臣秀吉の愛児、鶴松の菩提をとむらう為に建立した、祥雲禅寺の寺領を徳川家康が寄進、「五百佛山 根来寺 智積院」とあらため、仏教研学の道場としてさかえてきました。明治に焼けた金堂は、1975年(昭和50)復興されており、江戸初期の池泉廻遊式庭園は、中国の廬山を形どったといわれ、収蔵庫には長谷川等伯一派による桜・楓図(国宝)など極彩色の障壁画が展示されています。智積院の庭園は、境内に入って左手。
細長い池があるので、北端からみると、池、滝、築山とが一体となった遠近感が強調されて印象的な視覚効果で美しい池泉廻遊式庭園です。
五月から六月にかけてはツツジやサツキがいっせいに花咲きますので、京都へ宿泊の際はぜひ知積院へお寄り下さい
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