「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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「三重古社寺探訪」志摩国一ノ宮伊雑宮・祭神天照坐皇大御神御魂

2016-08-05 04:03:55 | 三重古社寺探訪
「三重古社寺探訪」志摩国一ノ宮伊(い)雑宮(ざわみや)・祭神天照坐皇大御神御魂
三重県志摩市磯部町上之郷374・式内社・皇大神宮別宮・皇大神宮の別宮の一社、渡会郡大紀町の瀧原宮とともに「天照大神の遥宮」と呼ばれる。伊雑宮は内宮の別宮で、内宮の背後の鳥路山を越えた志摩市磯部町の上之郷にある。伊勢神宮別宮で十四社の内伊勢以外のものは伊雑宮のみで神田を持つ唯一の別宮である。明治以降、式年遷宮の為にお木曳行事が伊勢神宮に準じて二十年に一度行われる。
祭神は「天照坐皇大御神御魂」創建は延暦二十三年(804)『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂とされる。中世から近世まで祭神には諸説が有って伊雑宮の神職の磯部一族の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱命の二柱と考えられてきた。その後、記述の確認で“天照大神分身”の箇所記されている事で明治以降は伊雑宮の祭神は天照大神御魂一柱とされた。鎌倉時代に成立したとみられる『倭姫命正紀』に依れば、伊勢神宮が内宮を建立した時に倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地を探していた所、志摩国の伊佐波登美命が御贄地を選定し伊雑宮を建立された。通説にはこの説が伊勢神宮にとって都合の良い説ではあるが、この説には未だ確証が得られていない。創建は不詳とされ、伊雑宮付近は水田、稲作に適したことから、志摩土着の海洋信仰とする説など謎が多く残されている。また伊勢平家にまつわる源氏との確執で、平安期には治承・寿永の乱で戦禍を被り、伊勢平氏の伊勢に源氏の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備をした。伊雑宮は熊野三山が源氏の支持を得られた勢いで攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われた。勢いに乗った熊野勢は山を越えて伊勢国に攻め込んだが反撃で退却をした経緯が有って、時代の趨勢に翻弄された面が有った。伊雑宮は伊勢神宮に社殿が類似していて、入って右に宿衛屋があって、正殿は南面にして建ち、周囲に内に瑞垣、玉垣で二重で、正殿は神明造り、屋根の鰹木は六本、東西両端に内宮と同じ千木が高く聳(そび)えている。参拝をして感想は今までにない特異な形式の一ノ宮であった。



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「三重古社寺探訪」伊勢一ノ宮・都波岐神社・奈加等神社・

2016-08-03 04:10:20 | 三重古社寺探訪
「三重古社寺探訪」伊勢一ノ宮・都波岐神社・奈加等神社・祭神猿田彦大神・天椹(あまのくに)野(の)命(みこと)・中筒之男命
三重県鈴鹿市一ノ宮町1181・式内社・県社・伊勢国には一ノ宮は二社がある。都波岐神社・奈加等神社とも式内社で旧県社、相殿で祀られている。社伝によれば、雄略天皇二十三年、勅により造高雄束命が伊勢国河曲群中跡村に社殿を二つ造営し、それぞれ都波岐神社・奈加等神社と称したのが起源とされ『延喜式神名帳』に両者とも小社に列した。また弘法大師が参篭し、獅子頭二つを奉納をした。承暦三年(一〇七九)には神階正一位を授けられ、白河天皇から宸筆の勅額を授けられた。その後永禄年間に信長に伊勢平定で焼失し旧記も失われたが、寛永年間、神戸城主一柳監物によって再建された。
★祭神の猿田彦大神は『古事記』に登場する、天孫ニニギ命の天下りの道案内役を引き受け、この地に鎮座した経緯は椿大神社と同じである。ただ相殿の祭神天椹野命はニニギ命を防衛(ふさぎもり)する三十二人の一柱で中跡直等の祖とされている。
・奈加等神社・祭神猿田彦大神・天椹(あまのくに)野(の)命(みこと)・中筒之男命
三重県鈴鹿市一ノ宮町1181・式内社・県社・伊勢国には一ノ宮は二社がある。都波岐神社・奈加等神社とも式内社で旧県社、相殿で祀られている。社伝によれば、雄略天皇二十三年、勅により造高雄束命が伊勢国河曲群中跡村に社殿を二つ造営し、それぞれ都波岐神社・奈加等神社と称したのが起源とされ『延喜式神名帳』に両者とも小社に列した。また弘法大師が参篭し、獅子頭二つを奉納をした。承暦三年(一〇七九)には神階正一位を授けられ、白河天皇から宸筆の勅額を授けられた。その後永禄年間に信長に伊勢平定で焼失し旧記も失われたが、寛永年間、神戸城主一柳監物によって再建された。
★祭神の猿田彦大神は『古事記』に登場する、天孫ニニギ命の天下りの道案内役を引き受け、この地に鎮座した経緯は椿大神社と同じである。ただ相殿の祭神天椹野命はニニギ命を防衛(ふさぎもり)する三十二人の一柱で中跡直等の祖とされている。
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「三重古社寺探訪」伊勢国一ノ宮椿大神社・祭神猿田彦大神・

2016-08-01 04:15:02 | 三重古社寺探訪
「三重古社寺探訪」伊勢国一ノ宮椿大神社・祭神猿田彦大神・
三重県鈴鹿市山本町字御旅1871・式内社・旧県社・猿彦神社は三重県では伊勢神宮、二見輿玉神社に次ぎ多くの参拝者が訪れる神社である。創建は垂仁天皇の御世に倭姫に降った神託によって、猿田彦大神の墳墓の近くに「道別大神」として社殿が造営されたことに始まる。記述の初見は天平年間『大安寺伽藍縁起並流記資材長』に見ることが出来、『延喜式神名帳』記載される「椿大神社」に比定される「都波岐神社」と「椿大神社」のどちらかと云うことについての議論も諸説ある。社伝に依れば猿田彦大神の末裔とされる行満大明神は修験道の開祖として役行者を導いたとされ、中世には修験神道の中心になった。現宮司は行満大明神の末裔とされている。明治四年には郷社、昭和二年に県社に、十年には内務省の調査によって、全国役二千社の総本社として「地祇猿田彦大本宮」認定された。総本社としての各地に点在する「椿神社」との関係は明確でない。また椿大神社には吉備真備の奉納としての獅子頭がって、獅子舞発祥の地としても知られている。★『古事記』の猿田彦大神は、天上から天孫ニニギ命が天降りをしょうとした時に、天の八衢(ちまた)に立って高天原から葦津中原まで照らす神がいた。その神鼻の長さが七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、ホオズキのように照り輝いている姿であった。
そこで天照大神と高木神が天宇受売命に、その神を確かめて尋ねてくるように命じられた。その神は国津神で猿田彦と名乗り、天孫ニニギ命が下界に降られると聞き先導しょうとしてやって来たことを伝えた。猿田彦神の先導で無事に葦津中国に着くと、ニニギ命は天宇受売命に猿田彦を送り届けて「猿女君」と名前を付けて仕えるように命じた。そこで天宇受売神は「猿女君」と名乗った。
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2016-07-30 04:14:11 | 三重古社寺探訪
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「三重古社寺探訪」伊賀国一ノ宮敢国神社・祭神大彦命・

2016-07-30 04:07:24 | 三重古社寺探訪
「三重古社寺探訪」伊賀国一ノ宮敢国神社・祭神大彦命(大毘古命)・配神少彦名命・金山比咩命
三重県伊賀市一ノ宮877・式内社・旧国弊中社・大彦命は孝元天皇の皇子で『日本書紀』では四将軍の一人で北陸を平定後この地に移り、伊賀国の開拓を行なったと言う。大彦命(『古事記』では大毘古命)の御陵とされる御墓山古墳が有って、その子孫は伊賀中に広がったと言う。阿拝群(あへのこおり)を本拠にしたために「阿拝氏」を称した。後に阿閉・阿倍・安倍なども表した。敢国神社の祭神は中世まで少彦名命・金山比咩命とされたが、明治七年(1874)、江戸時代の渡会延経の説により大彦命に変更された。
創建について敢国神社の略紀に依れば斉明四年(658)で、この地の居住者の秦氏が少彦名命を祀り、一方大彦命の子孫の阿拝氏が祖神として大彦命を祀った。また当初神社を南方の山に祀ったが、後に現在の地に移された。その後前社殿の跡地に美濃国の一ノ宮の祭神南宮大社より勧請された金山比咩(かなやまひめ)命(みこと)が祀られたために「南宮山」と呼ばれた。その後、言い伝えによれば金山比咩命の社殿の神木の虫食い後の文字が「敢国神社に一緒に祀れ」の文字が現れたので神意に従って合祀された。この敢国神社も時代の趨勢に翻弄され、伊賀天正の乱では森田浄雲の立て籠もる一ノ宮城と共に織田軍に攻められて炎上・崩壊した。信長がその戦場跡を視察の折には、伊賀忍者に襲撃されあわや落命を免れた説話がある。
その後、伊賀国一ノ宮として崇敬され、江戸時代には上野城鬼門の鎮護として、藤堂氏らの歴代藩主によって加護された。明治になって旧国弊中社に列せられた。★『古事記』では大彦命については、孝元天皇の第一皇子に大毗(おおび)古(こ)命(みこと)が生まれ、次に少名(しょうな)日子(ひこ)建(け)猪(い)心命(こころみこと)。次に若(わか)倭(やまと)根子(ねこ)日子大毘々(ひこおおほびび)命(みこと)(開化天皇)。次に他の妃から比古布都押之信命。次に建波邇夜須毘古命。五人の御子が生まれた。大毘古命の子、建(たけ)沼(ぬ)河(かわ)別命(わけみこと)は阿倍の臣等の祖である。また金山毗古・比咩命は鉱山を司り、神生みの際、嘔吐物から産まれた。鍛冶・鉱業の守護する神として岐阜の南山大社、島根の金屋子神社で祀られている。

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