「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「奥州藤原氏の群像」グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-29 20:01:15 | 温故知新

「奥州藤原氏の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

奥州藤原氏。平安後期から鎌倉初頭まで、陸奥国平泉(現岩手県平泉町)を拠点に北日本地域に支配した豪族。藤原北家の秀郷流と言われている。藤原経清の子藤原清衡を初代とする・後三年役の後。清衡は継父清原氏の遺領を継ぎ、白河院や摂関家と結んで本姓藤原に改姓し、12世紀初めの平泉に本拠を移し、陸奥国国司との協力の下、日本国に服属したエゾの統括者を意味する「俘囚之上頭」陸奥出羽押領使として奥羽・北海道方面を振るった。清衡の子2代藤原基衡、藤原氏2代父は藤原清衡、母は安部氏女と考えられ、宗任の女とも言われる説もある。陸奥出羽押領使大治3年(1128)父清衡の死後起こった異母兄弟の惟経都の内訌に勝利し、中央政府にも介入も阻止して父の遺領を継ぐ。鳥羽院や摂関家と結んで奥羽両国における勢力を拡大。本州北部・陸奥南部。出羽に対する支配を隔離した。奥州藤原氏の全盛期を3代に渡って藤原秀衡と共に築いた。秀衡との鎮守府将軍・陸奥守に任命され、名実ともに奥羽全域の支配者となった。4代藤原泰衡の文治5年(1189)奥州合戦で源頼朝に攻め落とされた。


歴史の回想「厳島の戦いの変遷」グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。楽天。グーグル。角川・BOOK★WALKER

2020-02-29 19:25:47 | 温故知新


「厳島の戦いの変遷」楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛利氏に挑発、大内氏の旧臣を引き継ぎ拡大路線で戦線をを広げる安芸の厳島に進駐した陶晴賢軍を急襲して全滅させた戦い。
天文20年(1551)大内義隆を倒した陶晴賢は、内海交通の要所の厳島を支配下に収めた。元就は当初晴賢に協力したが、1554年陶氏と絶ち、安芸西南部の諸城から陶軍を追い占領した。晴賢は1555年9月厳島に上陸、塔岡に本陣を置き、毛利軍が拠守する同島北部の宮尾城を攻撃した。毛利氏は同月晦日夜、暴風雨に乗じて反撃を決行、元就の本隊が島の北部包浦に上陸、山越えして背後から晴賢の本陣を急襲し、小早川隆景の水軍が鳥居沖で晴賢の水軍を破り、退路を断ったので、晴賢は敗走して山中で自刃し、陶軍は完敗した。







「戦国九州覇権の興亡」グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-29 15:40:02 | 温故知新

「戦国九州覇権の興亡」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
戦国の世に有って、九州には島津氏と大友氏の両者九州の盟主として対峙し続ける中、「九州に両雄並び立たず」の諺の通り、豊薩合戦が天正15年に勃発、これを「天正の役」と言う。
 父宗麟から引き継いだ義統は戸次川の戦で味方の離反、重臣の寝返りで大敗を期した。信長を絡んで事態が動いたが、信長の横死で秀吉が九州勢伐に乗り出し複雑化していった。
島津軍が大友失墜に総力戦で大友最後の砦、岩屋城に猛攻を懸けたが、予想以上の抵抗に遭い多大な損害を受けて島津軍は終結させたが、その後の九州制覇に後れを取ってしまった。島津軍は筑前・肥前に軍を進め九州制覇かかに見えた時に、秀吉は島津氏に向かって軍を差し向けることにんった。
大友宗麟に毛利元輝に国分令の執行を命令し、検視として黒田孝高・宮城堅甫・安国寺恵瓊に任じた。その他、吉川晴元・小早川隆景・仙石秀久・長曾我部元親らに渡海を命じ、毛利軍に先導役を命じ、十河・長曾我部・豊後に向かって大友軍と合流し進軍した。九州に乗り込んだ黒田孝高は島津方面の武将に調略を行った。
一方島津軍も豊後に兵を進めた。吉川元春は島津方の宮山城を攻略、次々と島津軍拠点に攻撃をかけ、一方秀吉は諸国より20万の兵と30万人の一年分の兵糧米を集めるように命じた。各戦場で激戦が繰り広げられ、島津軍も反撃をかけて秀吉軍の予想以上の損害を見て、宗麟は秀吉直々の出馬を促した。
3月1日、秀吉自身も出陣し、秀吉軍の総力戦となった。秀吉は悠然と山陽道を下り、事の推移を見守った。島津軍は徐々に後退、秀吉は築後に到着、秀吉の大軍の到着に、島津義久は豊臣秀長に和睦を申し込んだ。鹿児島に戻った義久は出家して秀吉に降伏し、一命は赦免された。島津には侵略した領地は没収され、義久に薩摩一国と義弘に大隅と日向の一部を安堵された。
他の侵略地は秀吉に従軍した大名に戦果功労を鑑み国分の褒賞分置を不満の出ないように安堵させて九州征伐と統一をさせた。



「明王・諸天の功徳」グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-29 14:08:10 | 温故知新


「明王・諸天の功徳」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
仏教界では諸仏を四部に分けられる。釈迦如来や阿弥陀如来は悟りを開いた仏様として最高位にある。 次に菩薩尊は如来物に成るために修行中にある仏さんである。一番馴染み深い観音菩薩さんや地蔵菩薩など人間に近く親しみやすい仏さんである。 次に、明王さんと諸天善神である。不動明王(ふどうみょうおう)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で、庶民の願いの願掛けに、信仰されている。五大明王の一員である、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王らと共に祀られる。
明王は密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もある。縁日は毎月28日である。明王(みょうおう、)は、密教における尊格及び称号で、如来の変化身ともされる。呪文の王者)を意味する。 次に「諸天善神」は如来や菩薩を守護するインドのヒンドウー教やバラモン教に影響受けた神々が、仏教に組み込まれて天部の人間に近い立場で救済する。「諸天善神」を「諸法善神」(しょほうぜんしん)などともいう。梵天や帝釈天、また須弥山の四方を護る四天王や金剛力士、八部衆、十二神将、二十八部衆、八大竜王、さらに鬼神ともいわれる阿修羅や鬼子母神、十羅刹女、八大夜叉大将、堅牢地神、風神雷神など、さらには本地垂迹の神や権現、雨宝童子など、すべての神々は仏法を守護する神として護法善神に含まれると考えられる。
これらは一般的に守護神と呼ばれるが、特に仏法および仏教徒を守護する神を護法善神、護法神などと呼ぶ。これらは、バラモン教およびヒンドゥー教の神々では人々に危害を加え、悪行を重ねた諸天は如来に諭されて改心し、仏教に組み込まれて、仏法を守護すると考えられるようになったものである。
当初、インドでは梵天と帝釈天の二神が仏法を守護すると考えられていたが、バラモン教(のちのヒンドゥー教)の最高神である梵天が含まれたことで、梵天以下のさまざまな神々も包摂され仏法を守護すると考えられるようになった。仏教では、六道の最高を天上道(あるいは天上界、天界、天部とも)とするが、これは簡単にいえば神の世界にあたる。しかし仏教では天上道といえども、まだ悟りを得ない世界であり、六道として輪廻する世界の一つにすぎないとされる。


「ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛」グーグル。アマゾン・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-29 10:57:46 | 温故知新

「ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

「ゴロウニン日本幽囚記」で江戸末期の日本とロシアの領土問題と開港交渉と事件が詳しく記されたものである。約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルド(ロシア語版)と、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。1811年(文化8)~1813年箱館、松前でで幽囚生活を送ったロシアのデイアナ郷館長ゴロウニン海軍少佐の著。帰国後の1816年に刊行。蘭学者の馬場佐十郎(1787~1822)足立左内(信顕1769~1822)らにロシア語、数学を伝授したことや日本の諸事情及び日本人論も含む名著。最初の翻訳は、1821年(文政4)幕名により馬場佐十郎訳、高橋景保校、翌年馬場死後は杉田玄白、青地林宗が翻訳に加わった「遭厄日本紀事」に描かれている。




歴史の回想「前田氏一族の群像」グーグル・電子書籍紹介。楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-02-29 10:49:53 | 温故知新


「前田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
①江戸時代の外様大名家。祖先は尾張国愛知郡荒子城主。前田利家が織田信長に取りたてられ、豊臣秀吉の五大老となり徳川家康と並び立ったが、その後徳川幕府の下で加賀・能登・越中3国100万石余の外様大名として廃藩置県まで14代続いた。居城は加賀国金沢。利家の時から菅原姓を称したが定姓は未詳。秀吉から羽柴姓・豊臣姓を、徳川氏から松平姓が許され、利家は極官、官位は正三位、前田利長従三位、斉泰正三位で他は正四位下であった。元和2年(1616)加賀藩初代の五男利孝が上野国甘楽軍に入府、三代利常の隠居時に次男の利次に越中国一〇万石、三男利治に加賀国江沼郡に分知、江戸城詰め間は大広間、元禄二年(1689)から御三家並みの白書院。家紋は剣梅鉢。②加賀藩三代利常の次男前田利次寛永一六年(1639)越中国に10万石を分知されて富山城主となり、富山藩成立、廃藩置県まで13代続いた。官位は極官は代々十四位下、江戸城詰間は柳の間、従四位下に進めば大広間であった。③加賀藩3代利常の3男前田利治(1618~1660)寛永16年(1639)可が酷江沼郡に、7万石分知され、同郡大聖寺町に館を持ち大聖寺藩が成立。廃藩置県まで14代続いた。④加賀藩初代利家の5男前田利孝(1594~1637)は徳川氏に仕え、元和2年(1616)上野国甘楽郡に1万石余を領知として七日市に陣屋を構え、廃藩置県まで12代続いた。官位は十五位下であった。


歴史の回想「日本人の釈迦仏と阿弥陀仏」グーグル・楽天・アマゾン・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-29 10:37:15 | 温故知新

「日本人の釈迦仏と阿弥陀仏」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

日本歴史の三大要因の一つに仏教伝来がある。6世紀半ば欽明天皇の時代に百済から仏教が伝わったと言うのが一般的である。仏教は紀元前5世紀頃インドの仏陀に端を発し、中国、朝鮮半島などを経て伝わった。インド中国と経て来る内にバラモン教に影響を受けた諸仏なども加わって、多種多様の諸仏が形成されて伝わった。中でも、実在したと言われる釈尊(仏陀)と大乗仏教で重要な尊像の一つの阿弥陀如来の無量寿如来・無量光如来という、西方極楽浄土に有って衆生を救済するという阿弥陀如来は釈迦如来に次いで古く形成され、中国に伝わり、やがて日本に伝わって我が国の仏教に大きな影響を与えた。釈迦如来の法華経を元に影影響を受けた日蓮宗や法華宗に、釈尊から何代も伝承された達磨によって禅宗が形成確立された。釈迦仏と阿弥陀仏がインドでどう形成され、小乗仏教として、又大乗仏教として、中国で熟成され、仏教解釈にその歴史を見ることが出来る。やがて日本にアジア全域に伝播され、日本では官寺から一般民衆の信仰として、宗派として大きな二つの流れを作った。釈迦仏からは、日蓮宗、法華宗系、禅宗系から臨済宗・曹洞宗などが形成されていった。また阿弥陀仏系の宗派からは浄土宗。真宗、時宗、融通念仏宗が立宗開化させた。釈迦仏と阿弥陀仏のインド誕生から、中国で熟成された経歴を考察しつつ、日本人に支持され精神的支柱としてあり続けた意義と歴史に及ぼした影響を考えてみた。


歴史の回想「結城氏一族の群像」アマゾン・グーグル・楽天・角川・子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-02-29 08:50:24 | 温故知新

「結城氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

「中世下総国の武家。下野国の在庁官人小山政光の三男結城朝光が寿永2年(1183)源義広の乱で戦功をあげて下総国結城郡地頭職を獲得、郡北部に入部し結城氏を名乗った。結城朝広・結城広綱の代まで平方氏、寒河氏、山河氏、網戸氏、白河氏、大内氏らの各氏を分出、一族ともに発展してきた。鎌倉後期の結城時広、結城貞広、結城朝祐は御家人身分を維持したまま北条得宗家の被官となり、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に従って14世紀後半に結城直光(1329~1395)が安房守護に就任。その子結城基光(1349~1430)は40数年間下野守護として君臨、鎌倉府の一方の中心となった。永享12年(1440)結城氏朝は基光の路線を継承して持氏の遺児足利安王丸らを擁立、1年余に及ぶ籠城戦のすえ、室町幕府軍・上杉軍に敗れ戦死したが、(結城合戦)末子結城成朝(1439~1463)が持氏の遺児足利成氏の復帰と共に結城氏を再興。結城政朝(1479~1545)の時に家中統制に成功し宇都宮氏を破って勢力を伸ばし、結城政勝(1504~1559)は小田氏に勝利したほか、城下町の整備や結城家法度制定などに尽力。結城晴朝は上信氏、小田原北条氏の狭間で家名を保って豊臣秀吉から領地安堵を受けた。慶長6年」(1601)結城秀康(徳川家康の次男)は関ヶ原の戦功で越前に転封、その5男結城直基が晴朝の養子となって結城氏を継いだ。


歴史の回想「北条得宗家の変遷」グーグル・楽天・アマゾン・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-29 08:44:34 | 温故知新


「北条得宗家の変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「北条執権政治」鎌倉時代,源氏滅後130年間執権北条氏が幕府の実権を握り幕政を左右した体制。源頼朝の死後,北条時政は娘の政子とともに実権の掌握を意図し,将軍頼家の外祖父比企能員を建仁3(1203)に滅亡させ,実朝を将軍として,政所別当となったが,嫡子義時と対立して元久2年(1205)失脚した。これに代って義時が政所別当となり,建保1年 (1213)には和田義盛を滅ぼして侍所別当をも兼任し幕府の実権を握った。同7年,実朝が暗殺されて源氏の正統が絶え,承久の乱 (1221) にも圧倒的勝利で三上皇を隠岐、佐渡、土佐に流して逆賊となって権力をほしいままにした。義時の死後,執権職は嫡子の泰時が継ぎ,以後執権職は北条氏によって世襲されるようになった。泰時は,執権の補佐役として連署の制を始め,嘉禄1年 (1225) 年には評定衆を新設して,重要政務を評議させ,貞永1年 (1232)『御成敗式目』を制定し,執権政治の基礎を固めた。泰時の死後,執権職は経時が引継ぎ,経時がわずか4年で病死したのち,時頼が跡を継いだが,時頼は,幕府中枢機関を北条氏の嫡統の当主である得宗 (とくそう) を中心とする北条氏一門で独占することを意図した。寛元4年(1246)北条時頼が執権となったころから執権政治は変質し始める。時頼は、北条一門の不満分子である名越氏、有力御家人三浦氏、摂家将軍頼経・頼嗣ら反対勢力を次々に排除した。さらに院政を行う上皇(治天(ちてん)の君(きみ))や天皇の決定、摂関の人選をはじめ、朝廷の政治にも干渉した。時頼は執権を退いてのちも得宗として実権を握り、幕府権力の根源は執権よりも得宗に置かれるようになった。元弘3年・正慶2年(1333)後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。4月に高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って、5月7日に六波羅探題を攻略。同月8日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。18日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると、22日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年30(満29歳)。



歴史の回想「本多氏一族の群像」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-02-29 07:12:01 | 温故知新


「本多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
本多氏の出自は、三河国の国人、江戸時代譜代大名・旗本家。左大臣藤原顕光11代目の助秀が豊後国本多に住してより本多を称し、12代助定の時足利尊氏に仕えたという。13代助政のあと定通家と定正家に分かれ、それぞれ三河で松平宗家に仕えた。歴史上著名な人物としては、定通家からは本多正信・本多忠勝が、定正家からは「徳川四天王」の一人とされた父子が出ている。
正信の家は、元和8年(1622)正純の改易で絶えたが、本多氏全体としては、江戸時代には多くの大名・旗本の家に分かれた。大名として明治に至ったのは、定通家からは、三河国岡崎藩本多氏、正信を祖とする播磨国山崎藩本多氏、忠以を祖とする陸奥国泉藩本多氏、正時を祖とする近江国膳所藩本多氏、忠恒を祖とする伊勢国神戸藩本多氏、忠相を祖とする三河国西端藩本多氏の大名家6家が、定正家からは、正重を祖とする信濃国飯山藩本多氏の大名家二家が成立した。また、定正家には加賀藩家老本多氏、福井藩家老の本多氏がいる。




歴史の回想「幕藩大名家の存亡」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-29 06:48:59 | 温故知新


「幕藩大名家の存亡」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
大名の国替えや失脚で消滅は珍しくなく、入封・転封・改易(消滅)・蟄居・大名お預けと幕閣からの取り潰しの陰謀、藩政の失態、一揆勃発、内紛、お家騒動などで毒殺されたり、監禁されたり決して安堵、安泰ではなかった。
 大名の転封ならまだ良い方、減封と言って領地を減らされたり、改易と言って「お取り潰し」で蟄居・大名預かり、流刑で終えた大名などや、生涯預けらえた大名の部屋住まいで終える例は少なくない。 幕閣はちょっとした失政で斬首された大名も少なくい、藩政の不始末や財政難で沙汰が下る。藩政の失態乗じて外様大名は取り潰しの憂き目に遭った旧豊臣家臣は八十八大名を数え、江戸時代に改易された大名は百七十五大名余りを数える。
悪意なく城の改築や幕府に届けることを怠って後継者を定めた場合、跡目争いで藩主を座敷牢に押込み、後継騒動起こしたお家騒動も法度で取り潰しになる。
 藩政の失敗で財政難で農民に年貢微増で一揆となって藩が乱れたら大名も切腹や改易は免れない。 家臣の対立は幕府の巡検視によって発見され制裁を受ける、藩主の乱行・体たらくには幕府の目が注がれている。 意図的に幕閣は無理難題の普請を申し付け、莫大な借金を負わせて破たんさせ改易・転封をさせる。 幕府に隙を見せれば付け込まれ僻地に転封・減封を命じられる。江戸幕府約二百六十年の内、大政奉還の明治まで存続した大名はごくまれである。


歴史の回想「後白河院政の攻防」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALKER

2020-02-28 19:26:32 | 温故知新


「後白河院政の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
平安時代の保元の乱から平治の乱の院政の攻防を描いております。
長き白河院の院政に孫の鳥羽天皇は抵抗、白河院の死去後、待賢門院と取り巻きを排除し、美福門院派を起用し、長子の崇徳天皇を強引に近衛天皇に譲位させた。
病弱な近衛天皇は早世し、次の天皇候補に二条天皇が定めらえていたが、幼少の為に、中継ぎで後白河天皇が即位した。譲位した崇徳院派がクーデターを起こし失敗し、後白河天皇は幼少の頃からの近臣者の信西が政務を執るが、強硬な政策に公家・公卿らの反発と不満が続出し、後白河法皇が起用し、代わって頭角を現した、信頼が信西反対派の不満を吸収し信頼派が、信西総師を転覆させるクーデターを決行し、信西は逃亡を図るが、失敗、首を撥ねられて晒し首になった。
信頼は、成功したかに見えたが、公家・貴族は信西の失脚で信頼の政権を望まず、白浜に赴いていた清盛が帰京して、形勢は一変し、信頼は六波羅で戦って敗北し処刑された。
しかし、そこには暗主 後白河法王の院政の策略があった。次に台頭する平氏の清盛と協調体制から対立関係に、院政停止、再開と繰り返し、驕る平氏の清盛の横暴と強権に後白河院は南都・北嶺の僧兵に悩まされながら、源氏の蜂起によって福原に遷都の途中に清盛包囲網に連続しての戦いの最中清盛は死去し、幼い安徳天皇を保護しながら頼朝との交渉中半の六十六歳で六条殿崩御した。


「歴史の回想・土岐氏一族の群像」グーグル・アマゾン・楽天・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-02-28 15:54:05 | 温故知新

「土岐氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
美濃国の武家。清和源氏。平安後期、源国房、光国の頃に美濃に拠点を築き、光信、光衡の頃に土岐郡に土着し、土岐氏を名乗った。承久の乱で幕府方についたことで美濃国内で勢力を伸ばし、執権北条氏とも婚姻関係を持った。正中の変で一族が関係したが、南北朝の内乱に於いて土岐頼貞(?~1339)は足利尊氏に従い、その軍功により美濃守護になった。
土岐頼康の代には美濃・尾張・伊勢の三国を守護として勢力を拡大したが、その子土岐廉行の時、一族の内紛によって明徳元年(1390)幕府軍の追討を受けた。その後、美濃一国の守護として存続したが、応仁・文明の乱のころからは守護代斎藤氏によって実権は奪われ、天文21年(1552)土岐頼芸の時に斉藤道三によって追放され、守護土岐氏は滅亡した。庶流は土岐世保家・常陸土岐氏・明智土岐氏と江戸時代になっても旗本として土岐氏の血筋を伝えている。


歴史の回想・「小田原征伐の攻防」グーグル・電子書籍紹介。アマゾン・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-02-28 14:49:21 | 温故知新


「小田原征伐の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「小田原征伐」(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。
 後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。
「小田原征伐」は、天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原(神奈川県小田原市)を本城とする北条氏政・氏直(うじなお)父子を攻撃し滅亡させた戦い。後北条(ごほうじょう)氏は戦国時代の風雲に乗じた伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)(北条早雲(そううん))を祖とし、5代にわたって関東と伊豆一帯を制覇した戦国大名であったが、中央の政治情勢の推移から独立し東国を抑えていた。
しかも、250万石の石高を有する大大名であった。秀吉の上洛を応じず関八州の支配を主張した。
 すでに九州を平定して全国統一に乗り出した秀吉はしばしばその上洛(じょうらく)を促したが、氏政らは肯(がえん)じなかった。
 上州(群馬県)の名胡桃城(なぐるみじょう)の帰属をめぐって真田(さなだ)氏と対立した氏直が出兵したことを機として、秀吉は前年1589年末に天下に北条討伐を命じ、西国の大名や水軍をも動員し、先鋒(せんぽう)には徳川家康をあてて東海道、東山道から進攻させ、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻(いわつき)、鉢形(はちがた)、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)などの支城を包囲、攻撃させた。
 秀吉は、1590年3月、自ら小田原城を望む早川対岸の石垣山に本営を構え、籠城(ろうじょう)策をとる北条方を陸海から包囲して武威を示した。
 3月末から約100日に及ぶ攻撃のため、北条軍の士気は阻喪し、とくに重臣松田憲秀(まつだのりひで)らの内応もあったため、6月末についに北条氏政以下が降伏した。
 秀吉は、氏政と弟氏照(うじてる)を自決させ、当主氏直を許して高野山(こうやさん)に追放、松田憲秀、大道寺政繁(だいどうじまさしげ)の重臣を斬(き)った。
 また戦後、北条氏の旧領をすべて家康に与え、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河の旧領から絶縁させて江戸に移らせた。この戦陣中、伊達政宗(だてまさむね)も秀吉に来応して屈服、この戦(いくさ)によって天下統一が完成した


歴史の回想・「山名氏一族の群像」グーグル・楽天・アマゾン・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-02-28 12:02:15 | 温故知新


「山名氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。