「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

本多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。 本多氏の出自は、三河国の国人、江戸時代譜代大名・旗本家。左大臣藤原顕光11代目の助秀が豊後国本多に住し

2019-11-04 05:11:10 | 温故知新

本多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
本多氏の出自は、三河国の国人、江戸時代譜代大名・旗本家。左大臣藤原顕光11代目の助秀が豊後国本多に住してより本多を称し、12代助定の時足利尊氏に仕えたという。13代助政のあと定通家と定正家に分かれ、それぞれ三河で松平宗家に仕えた。歴史上著名な人物としては、定通家からは本多正信・本多忠勝が、定正家からは「徳川四天王」の一人とされた父子が出ている。
正信の家は、元和8年(1622)正純の改易で絶えたが、本多氏全体としては、江戸時代には多くの大名・旗本の家に分かれた。大名として明治に至ったのは、定通家からは、三河国岡崎藩本多氏、正信を祖とする播磨国山崎藩本多氏、忠以を祖とする陸奥国泉藩本多氏、正時を祖とする近江国膳所藩本多氏、忠恒を祖とする伊勢国神戸藩本多氏、忠相を祖とする三河国西端藩本多氏の大名家6家が、定正家からは、正重を祖とする信濃国飯山藩本多氏の大名家二家が成立した。また、定正家には加賀藩家老本多氏、福井藩家老の本多氏がいる。

「結城氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。 「中世下総国の武家。下野国の在庁官人小山政光の三男結城朝光が寿永2年(1183)源義広の乱で戦功をあげ

2019-11-04 05:08:40 | 温故知新
「結城氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
「中世下総国の武家。下野国の在庁官人小山政光の三男結城朝光が寿永2年(1183)源義広の乱で戦功をあげて下総国結城郡地頭職を獲得、郡北部に入部し結城氏を名乗った。結城朝広・結城広綱の代まで平方氏、寒河氏、山河氏、網戸氏、白河氏、大内氏らの各氏を分出、一族ともに発展してきた。鎌倉後期の結城時広、結城貞広、結城朝祐は御家人身分を維持したまま北条得宗家の被官となり、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に従って14世紀後半に結城直光(1329~1395)が安房守護に就任。その子結城基光(1349~1430)は40数年間下野守護として君臨、鎌倉府の一方の中心となった。永享12年(1440)結城氏朝は基光の路線を継承して持氏の遺児足利安王丸らを擁立、1年余に及ぶ籠城戦のすえ、室町幕府軍・上杉軍に敗れ戦死したが、(結城合戦)末子結城成朝(1439~1463)が持氏の遺児足利成氏の復帰と共に結城氏を再興。結城政朝(1479~1545)の時に家中統制に成功し宇都宮氏を破って勢力を伸ばし、結城政勝(1504~1559)は小田氏に勝利したほか、城下町の整備や結城家法度制定などに尽力。結城晴朝は上信氏、小田原北条氏の狭間で家名を保って豊臣秀吉から領地安堵を受けた。慶長6年」(1601)結城秀康(徳川家康の次男)は関ヶ原の戦功で越前に転封、その5男結城直基が晴朝の養子となって結城氏を継いだ。


「六角氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。 近江国の守護、戦国大名。宇多源氏佐々木氏。鎌倉中期、泰綱の代に京都の六角堂に居を構えたことから六角氏を

2019-11-04 05:06:28 | 温故知新
「六角氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
近江国の守護、戦国大名。宇多源氏佐々木氏。鎌倉中期、泰綱の代に京都の六角堂に居を構えたことから六角氏を名乗る。南北朝時代から室町時代に、同族の京極氏と近江を二分して南6郡(滋賀、栗太、野洲、蒲生、神崎の守護職を得る。京極氏と佐々木氏惣領を争うなど、一族の内紛が続き、さらに朽木氏などの自立性の強い同族・奉公衆や馬淵氏ら有力国人層と対立するなど、領国支配は困難を極めた。文安年間(1444~1449)には満綱・持綱父子が家臣の反乱により自刃している。その後、六角高瀬は隣接する京都の室町幕府と対立、長享・延徳年間(1487~1492)に2度にわたる将軍親征をしのぎ、守護代伊庭氏の反乱を抑えて戦国大名の基礎を作った。その子、六角定頼が全盛期を作り、幕府政治にも積極的に関与したが、永禄6年(1563)重臣後藤父子の殺害を契機に家臣が離反し(観音寺騒動)衰退。1567年には六角氏式目を制定したが、翌年織田信長に敗れ没落した。