「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「野田城・福島城の戦い」アマゾン電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-31 11:47:17 | 投稿済C

三好三人衆との戦闘中に本願寺も加担。石山合戦はじまる
三好長慶の時代、三好政権を支えてきた三好三人衆。彼らは長慶の死後も政権の中枢を担いますが、信長が上洛してきた時に反発して幾内から追い出されてしまった。本記事で扱う「野田城・福島城の戦い」は三好三人衆による幾内奪回戦の一つです。合戦の途中で本願寺勢力も三好方に加担したことから「第一次石山合戦」とも言われ、以後10年にもわたる石山合戦の端緒となりました。さて、戦の展開はどのようなものだったのでしょうか。
背景は信長の上洛にあり
織田信長が上洛して将軍足利義昭を誕生させたのは永禄11年(1568) このときに信長上洛を阻止しようとした三好三人衆(三好政康、三好長逸、岩成友通)は、戦いに敗れて京都を追い出されます。これがきっかけで「織田 vs 三好」という敵対関係ができあがることになった。再び京の奪還を狙っていた三人衆は、翌年に入ってすぐに将軍義昭の仮御所・六条本圀寺を攻撃。しかし、このときも明智光秀らに阻まれて京都奪還は叶わなかった。(本圀寺の変)それでも三人衆は反織田を貫き、元亀元年(1570)6月、信長が姉川の戦いで近江に出陣していた頃、同 19日にこれを機とみた三好三人衆の1人・三好長逸が摂津の荒木村重を調略。村重は池田城から主君・池田勝正を追放して三好方に与する。7月21日に三人衆は摂津国中嶋に進出して野田城・福島城を築城。ここを拠点として反織田の兵を挙げるためにのもである。この三人衆の動きに呼応し、細川昭元軍や紀伊国の鈴木孫一等が率いる雑賀衆の援軍も続々と到着。『松井家譜』によれば、この時の総数は1万3千兵までに膨れ上がったと言われている。この雑賀衆は水兵・鉄砲兵からなる傭兵部隊で三人衆に属していた安宅信康に雇われた私兵ではなかったかといわれている。こうした動きに対し、織田方の松永久秀・久通父子がいち早く対応した。彼らは大和の信貴山城で戦闘準備を整えると、27日には信貴山城を出発して河内に入国し、三人衆軍の河内侵攻に備えた。こうした流れを経て、摂津で織田・足利義昭連合と三好三人衆ら反織田勢力との戦いがはじまった。合戦地は摂津国・野田城、および福島城一帯(現在の大阪府大阪市福島区)。色濃い部分は摂津の範囲は野田城・福島城の戦い、始まる。反織田勢力の総数は8千程とされている。顔ぶれに含まれている本願寺顕如は、はじめは中立を保っていたものの、途中で反織田の兵をあげることになっていく。なお、三人衆は浅井長政・朝倉義景・顕如らと開戦前から通じていたという説も。


歴史の回想「徳川四天王・榊原康政」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・角川・楽天ブックス。

2021-01-31 09:16:52 | 投稿済C

「榊原康政」が生まれた榊原家は、陪臣という家柄である。分かりやすく言うと、松平氏(のちの徳川家)に仕えていた譜代大名の「酒井忠尚」に仕えていた家柄。1548年(天文17年)、「榊原長政」の次男として、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)に誕生しました。幼名は「於亀」「亀丸」いつから使われたかははっきりしませんが、「小平太」という別名も持っている。徳川家康に見出され、小姓からの立身出世。徳川家康は主家である松平家はまだまだ小さな御家でしかなかった。その頃三河の地を巡って、尾張国の織田信秀と、駿河国の「今川義元」、そして「松平広忠」(徳川家康の父)が争っていた。榊原康政が生まれた頃、「松平竹千代」徳川家康は、わずか7歳で今川家の人質になるはずであるが、ところが、駿府へ送られる道中、何と織田家の家臣により略奪され、織田家の人質となってしまい、その後、織田家と今川家が和睦し、改めて今川家の人質にされたのである。このときは、「松平竹千代」(徳川家康)が天下人になるなど、まだ誰も想像できなかったに違いがなかった。松平竹千代(徳川家康)は、人質のまま1555年(天文24年/弘治元年)に元服して、今川氏一族の関口刑部小輔の娘「築山殿」と結婚し、「松平元信」と改名。さらに1558年(弘治4年/永禄元年)に「松平元康」と改名します。そんな中、1560年(永禄3年)、榊原康政にチャンスがやってくるのです。この時期、家臣達の中から年の近い者達が、松平元康(徳川家康)の人質生活にお供をしていました。経緯は不明ですが、榊原康政は13歳のときに、松平元康(徳川家康)と出会い、小姓に見出されたのである。その日から、榊原康政は松平元康(徳川家康)の家臣になりました。なお、榊原康政と同じ、「徳川四天王」と呼ばれる「本多忠勝」、「井伊直政」も松平元康(徳川家康)の小姓であり、榊原康政は、頭脳も武功にも優れていたと伝えられている。譜代大名の家柄でもなく、次男という状況下で生まれた榊原康政は、いくら下剋上の時代とは言っても、相当な能力がなければ出世のチャンスはなかったと考えられている。初陣は三河一向一揆、松平家を大いに悩ませたのが、1563年(永禄6年)~1564年(永禄7年)に起きた一向宗による蜂起であった。戦国時代であるので、当然武将達も必死で権力や領土を奪い合いをしたが、鎌倉・室町時代は寺の坊主達も権力や武力を持っており、僧兵と呼ばれる武闘集団も戦に参戦をした。なかでも貧しい農民や領民が入りやすかった浄土真宗本願寺の一向宗は、門徒も命懸けで抵抗したのである。


歴史の回想「徳川四天王・本多忠勝」電子書籍紹介」・アマゾン・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-31 07:29:15 | 投稿済C

本多忠勝は天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前に本多忠高の長子として生まれた。幼名を鍋之助、通称は平八郎である。本多氏は古くから「松平(後の徳川)氏」に仕えた譜代家臣の家柄である。忠勝は自分の代になって岡崎城東の洞(ほら)へ移住した。なお、本多家には5つの系譜、洞、伊那、大平、土井、小川があり「本多正信」は小川本多家である。忠勝の初陣は永禄3年(1560年)13歳のことで、家康が駿河遠江の大守「今川義元」の先鋒となって行った「尾張大高城の兵糧入れ」に加わった。15歳の時の戦では叔父の忠眞が、自分が倒した相手の首をとるよう命じたものの忠勝は「人の力を借りた功などいらぬ」と断った逸話が残っている。勇猛な忠勝らしい少年時代であったと言える。三河の国は「一向一揆」が多く発生し、家康は大変苦労したが、忠勝は常にこれに従い活躍した。その結果18歳にして与力50余人が与えられたという。そうした中、徳川家康は、元亀3年(1572年)武田信玄と遠江、三河で衝突した(一言坂の戦い)。この時に黒糸威の鎧と鹿角兜を身につけ大奮闘したのが本多忠勝である。後に「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」と武田の武将に言わせしめたほどの戦いぶりであった。ちなみに「唐の頭」とは「ヤク」(チベット地方にいるウシ科の動物)の毛を兜に束ねたもので、輸入品ゆえ滅多に入手できなかった貴重品で、それと並び称されたのである。天正3年(1575年)の「長篠の戦い」後、武田氏が滅ぶと、家康はこの間の忠勝の戦功を賞し「花実兼備の勇士」と褒めたたえた。時に忠勝35歳、花も備えた風格を帯びていたようである。ただ、武将の花とは、相手を威圧する優美さでもある。この当時、馬上の武将が競って鎧・兜・指物等武装に気を使ったのは、視覚的・心理的に相手を威圧する「花」なのである。豊臣秀吉が天下人となり、家康が大阪城にて秀吉の前に屈服する姿は、テレビドラマ等でよく知られている。その後、両者の同盟の証として秀吉の妹「朝日姫」と家康の婚儀が整ったが、家康側からの結納の使者について秀吉は「その格にあらず」として気に入らず、結果的に「本多忠勝」が望まれて大阪城に派遣されたとい。天正18年(1590年)小田原城は開城し、秀吉から家康に北条旧領が宛がわれた。この処置により忠勝に大多喜城10万石への途が開けていくことになった。大多喜に入城してからの忠勝は、南の里見氏への防御を念頭に、城下を強固に整備し、現在の大多喜町の原形を作り上げていくのである。慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦後処理に伴う知行割で、忠勝は桑名10万石の城主となり、大多喜城は次男の忠朝に与えられた。同9年、忠勝は病により隠居を願い出たが許されなかったという。このころ、忠勝は「戦友」に宛てた書状の中で「去年より眼病気に候て・・・・」とあり、眼の病を患っていたことがわかる。その後も病身を押して公務に励み続けたため、将軍秀忠は労いの言葉を送っている。慶長10年(1610年)10月18日、戦国の世を駆け抜けたさしもの勇将もこの世を去った。墓は桑名の浄土寺にあり、大多喜には良玄寺に供養塔がある。





歴史の回想「高屋城の戦い」電子書籍紹介・アマゾン・角川・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-31 06:00:30 | 投稿済C

「高屋城の戦いの概略」
高屋城は元々河内畠山氏の城だったが、畠山氏が内紛により弱体化すると、細川氏や三好氏の介入を受けるようになった。当主畠山高政はこれに抵抗したが、永禄3年(1560年)に三好長慶に河内を乗っ取られ高屋城から追放された。永禄11年(1568年)、同じく河内を追われていた高政の家臣安見宗房は、15代将軍足利義昭と義昭を擁立する織田信長の上洛に畠山高政共々協力し、高屋城への復帰を果たした。ただし河内は三好義継(長慶の甥)と南北で折半だった。やがて義昭と信長が対立し、義昭は各勢力に信長討伐を呼びかけた(信長包囲網)。三好義継は三好三人衆や大和の松永久秀と再度結んで信長から離反して義昭側に味方し、畠山家中は信長派と義昭派とに分裂した。当主・畠山秋高は信長派だったが、元亀4年(1573年)6月、秋高は義昭派の守護代・遊佐信教に自害させられてしまった。安見宗房もこの頃には死去し、秋高の弔い合戦を行った兄の高政も信教に敗れて追われ、畠山家中の主導権は信教が握った。しかし包囲網側は劣勢に立たされた。7月に槇島城の戦いで足利義昭が京都から追放され、8月には一乗谷城の戦いで朝倉義景が自害、9月には小谷城の戦いで浅井長政が敗死。11月には三好義継も信長の攻勢を受け味方の裏切りにあって自害し(若江城の戦い)、11月には石山本願寺が信長に名物の「白天目」(はくてんもく)茶碗を進呈して講和。12月には堺に逃亡していた義昭がさらに紀伊の興国寺へ逃げ、12月26日には松永久秀も降伏して多聞山城や堀城を明け渡した。こうして信長包囲網はほぼ崩壊した。天正2年(1574年)2月20日、義昭は興国寺から武田勝頼・上杉謙信・北条氏政らに対し、徳川家康・顕如と共に帰京を図るように御内書を送付した。また側近の一色藤長が石山本願寺や高屋城へ出向き頻繁に連絡をしている。この足利義昭御内書は御内書で、義昭の直書形式と考えられている。内容は毛利輝元が浦上宗景、宇喜多直家と和睦したことを喜び、今こそ天下のために励むべき時であると述べ、輝元が備中へ差し向ける軍勢を讃岐に向かわせることに対して賛意を表している。こうした動きから、4月に摂津国の池田勝正、讃岐国の十河一行、雑賀衆の鈴木孫一ら雑賀衆や、三好義継に従っていた若江城の残兵や、池田勝正に従っていた池田城の城兵が加わり、信長方であった堀城の城主・細川昭元や堀城周辺の城を攻め落とした。この動きに高屋城の遊佐信教も呼応し、阿波国の三好康長を呼び寄せ、大和国衆の一部とともにも高屋城に立て篭もった。この際、石山本願寺も挙兵している。信長はこの報を京都でうけ討伐軍を編成。武将は柴田勝家・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・荒木村重といった面々である。第2次・一旦兵を引いた織田軍だったが、天正3年(1575年)3月22日に信長は細川藤孝に対して、「来たる秋、大坂合戦を申し付け候。然らば、丹州の舟井・桑名郡の諸侍、その方へ相付くる上は、人数など別して相催し、粉骨を抜きんぜられべく候。この旨を申し触れ、おのおのその意をなすべきこと肝要の状、件の如し」という朱印状を与えた。秋には石山本願寺を攻撃するので、丹波の国人衆を与力として兵力を増強し、準備を進めるよう命じたものである。また摂津住吉郡に、


「家康と一向一揆」電子書籍紹介・アマゾン・角川・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-31 05:42:50 | 投稿済C

「家康と一向宗の概略」
一揆の勃発は諸説あるが、永禄六年(1563)とされる。 三河の領国化を進める徳川家康の収奪に反抗した門徒農民が、反徳川の在地領主と組んで引き起こした。徳川家臣からも多くが一揆側に加わり、家康は苦戦し 平定するのに半年を要した。定説では、永禄六年(1563)九月 家康の命を受け菅沼定顕が佐々木(岡崎市佐々木町)に砦を築き、同地区にあった浄土真宗本願寺系列寺院 上宮寺から、兵糧とする穀物を奪ったことに抗して一向宗徒が蜂起したという。著名な大久保彦左衛門の著書『三河物語』では、野寺(安城市野寺町)の本証寺に侵入した無法者を西尾城主酒井正親が捕縛したため、不入の特権を侵害されたとして一揆が起こったという。どちらにしても家康が、不入の特権を持つ 本願寺系寺院に介入したため勃発したと思われる。不入の特権は、家康の父広忠が上宮寺・本証寺・勝鬘寺の三河三ヶ寺に認めた検断権(逮捕)の拒否、年貢・諸役の免税であった。三河の本願寺教団は、この特権をもとに寺内町を形成し、寺内から取り立てた諸税を本願寺に上納したり、家康家臣に貸し付けたりして裕福な宗教ブッロクを形成していた。三河統一を目指す家康としては、必然的に解体を計らねばならぬ存在であった。一揆は三ヶ寺に集結した門徒衆と これに呼応した吉良氏・荒川氏、松平一族の桜井・大草、重臣の酒井忠尚らが家康に対戦の構えをとった。石川氏・本多氏・内藤氏・鳥居氏の一族からも一揆に呼応するものが多くで家康は苦戦するが上宮寺には渡村の鳥居氏を、勝鬘寺には和田村の大久保党を、本証寺には藤井松平氏と西尾城の酒井正親を配し対抗した。永禄七年(1564)一月に一揆連合軍が岡崎城を攻めるため、大久保党の和田砦を攻撃、家康も出陣しなんとか撃退している。この合戦を境にして一揆の大将格の討ち死・降伏も多く、吉良氏・荒川氏といった反対在地勢力も家康方に攻められ、三河から退去した。家康は一揆に加担した多くの家臣を許したが、一向宗は禁止し教団の解体を行っている。三河一向一揆は初期徳川氏の領国経営の前に立ちふさがった大難関であった。天正十一年(1583)、叔母石川妙春尼の嘆願によって家康は本願寺派寺院の再興を許した。







歴史の回想「稲葉山城の戦い」電子書籍紹介・アマゾン・角川・グーグル・楽天ブックス。

2021-01-30 15:35:35 | 投稿済C

岐阜城は、岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)にある山城で、標高は336m、比高は実に308mもある難攻不落な城で、国の史跡、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれている。美濃と尾張の境目は、基本的に木曽川となる。その木曽川を越えて、長良川のほとりにあるのが標高329mの金華山となり、旧名は稲葉山と言う。そのため、1547年9月には、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めをしたが、この時、斎藤道三は籠城し、その後、加納口の戦いにて織田勢を壊滅寸前にまで迎撃している。その後、織田信秀と和睦すると、1548年に帰蝶(濃姫)を織田信長に嫁がせた。そして、斎藤道三は下剋上を進め、1552年に美濃の守護・土岐頼芸を追放し、美濃の実権を握った、1554年、家督を子の斎藤義龍に譲ると、斎藤道三は鷺山城に隠居した。その後、斎藤道三と斎藤義龍は次第に不仲となり、1556年、長良川の戦いで斎藤道三は敗死してしまった。長良川の川むこうが、長良川の戦いがあったと推定される場所である。斎藤義龍が1561年に急死したあとは、子の斎藤龍興が13歳で跡を継ぎ、1561年6月には、十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退している。1564年、竹中半兵衛・安藤守就らに、僅かな手勢にて稲葉山城を6カ月間占拠されると言う事件も起こっている。西美濃三人衆である稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の内応を取り付けた織田信長は、1567年に稲葉山城の戦いで、城下の井口まで攻め入ると、斎藤家の家臣らは降伏し、戦えなくなった斎藤龍興は舟で長良川を下り、伊勢の長島へ逃亡した。以後、織田信長は本拠地を小牧山城から、稲葉山城に移し「井口」の地名を「岐阜」と改めて、岐阜城と改名し、天下統一に向かって城下に家臣らを住まわせ、楽市楽座を行った。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも、岐阜城を訪問している。1575年、織田信長は嫡子・織田信忠に家督を譲り、安土城に入ると、織田信忠が岐阜城主となった。1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長・織田信忠が倒れると、留守居・斎藤利堯が岐阜城を掌握するも、織田信孝らに服従した。1582年6月27日、清須会議(清洲会議)のあと、織田信孝が岐阜城に入り、柴田勝家と組んで、次第に豊臣秀吉と対立。1583年、柴田勝家が敗れて、織田信雄が岐阜城を包囲すると、塀の逃亡が相次ぎ、僅か27名となった織田信孝は降伏。その後、切腹させられた。


歴史の回想「徳川四天王井伊直政」電子書籍・グーグルプレイ・アマゾン・楽天ブックス。角川。

2021-01-30 12:50:25 | 投稿済C

井伊直政は1561年(永禄4年)遠江国祝田に生まれで今川氏の家臣「井伊直親」の嫡男「虎松」として誕生。しかしその翌年、井伊直政の父・井伊直親が今川氏12代当主「今川氏真」により謀殺されてしまった。井伊直政は当時2歳であったため、当主は井伊直親の養父「井伊直盛」の娘「井伊直虎」が引き継いだが、今川氏は井伊直政を葬ることを諦めていなかった。そのため、幼い頃の井伊直政は今川氏に怯えながら各地の寺院や親戚の家を転々としながら過ごしたようである。1572年(元亀3年)、井伊直政の母「おひよ」は「徳川家康」の臣下「松下清景」と再婚。井伊直政は「松下虎松」として松下家の養子となり、浜松へと移住した。1575年(天正3年)、井伊直政にとって大きな転機が訪れる。徳川家康が「初鷹野」(年が明けてから最初の鷹狩り)を行なったときのことである。井伊直政は、「四神旗」を持ち、直虎と母・おひよがあつらえた着物を着て徳川家康の前へと現れた。徳川家康の家臣となるには、まずその目に留まるようにしなければならなかったのが、そして井伊直政の狙い通り、徳川家康は井伊直政に興味を持たれたようだった。井伊直政は徳川家康に「自分は井伊家の人間であるため徳川家に仕えたい」と伝えた。徳川家康は、かつて「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛の親類である井伊直政に対して「召し抱える以外にない」と言い、井伊直政を小姓として迎え入れた。さらに300石と16人の同心衆を与えられ、この時に名を「松下虎松」から「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を果たした。徳川家康に召し抱えられた翌年の1576年(天正4年)、井伊直政は遠江芝原で「武田勝頼」軍を相手に初陣を飾り、この時井伊直政は、徳川家康暗殺に仕向けられた刺客1名、本陣に潜入した忍1名を討ち取る武功を立てて3,000石の知行を拝領した。1579年(天正7年)には、武田勝頼から高天神城を奪還するための「高天神城の戦い」で「徳川四天王」である「本多忠勝」や「榊原康政」らと共に先鋒を務め、兵糧攻めの際には忍者を遣わせて城に供給される水源を断つことに成功。井伊直政の活躍により徳川家康は、7年越しに高天神城を奪還したのである。1582年(天正10年)6月、「本能寺の変」により「織田信長」が「明智光秀」に討たれた時、徳川家康は摂津国堺で茶会を開いていた。この時、徳川家康が供廻りとして連れていた家臣は僅か34名。徳川家康は織田信長の死に対してはじめ、自分も自害すると言っていましたが、本多忠勝らの説得により三河国へ帰国することを決意。「神君伊賀越え」として有名な出来事であるが、この時井伊直政も随行しており、江戸時代に作られた「名将言行録」には以下のような逸話が書かれている。伊賀越え危機を家康らと家臣らで帰還できた。家康に随行する井伊直政の心意気に居合わせた者は感心し、その後無事に三河へと帰国した折には、徳川家康から孔雀の羽で折られた陣羽織「孔雀尾具足陣羽織」を贈られたと言います。無事に伊賀越えを成して三河国に戻った徳川家康は、織田信長の弔い合戦のために挙兵しますが、尾張に来たところで明智光秀が討たれたことを知ると、踵を返して甲斐・信濃の平定に取り掛かかった。この頃三河の地は混乱し「天正壬午の乱」と呼ばれるこの戦いは、相模国の北条氏と、越後国の上杉氏が相手となる三つ巴の戦いである。