「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

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6月10日(金)のつぶやき

2016-06-11 01:16:07 | 芭蕉紀行世情今昔

「古社寺探訪」紀伊国一ノ宮・丹生都比売 goo.gl/nQuYtl


『芭蕉紀行世情今昔』 最終回(全63回) 第七章“出自・経歴と時代背景” goo.gl/NRYy0i


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『芭蕉紀行世情今昔』 最終回(全63回) 第七章“出自・経歴と時代背景”

2016-06-10 04:21:52 | 芭蕉紀行世情今昔
『芭蕉紀行世情今昔』 最終回(全63回)

第七章“出自・経歴と時代背景”
 
◇一歳・寛永二十一年・正保元年(1644年)伊賀上野生まれ、松尾家に二男として生まれ、金作と名付けられた。
 金作は山国の小さな城下町で育ち、伊賀と伊勢の一部が津藩の支配下にあって石高は三十二万石、藩主は代々藤堂藩が明治の廃藩(はいはん)置県(ちけん)まで続き、伊賀上野には支城白鳳城が置かれた。
松尾家は苗字を許された無足人と呼ばれる準武士に相当する身分であった。土地柄農民が大部分占め松尾家は名家で通っていた。
父の松尾与左衛門は中世来の土豪、拓植七党の戦流れを汲む旧家の出身で、金作自身は父与左衛門から聞かされた地域の歴史は、戦国時代には織田信長に蹂躙された苦い影があることを教えられ戦乱の悲劇に生きた祖先は、武士への憧れより文芸に身を投じる要因にもなったかもしれない。
母は伊予宇和島の産で、桃地氏の女と伝えられ、家族は兄半左エ門命清、または『蕉翁略伝』には義左衛門の嫡子半左衛門の代に千五百石藤堂藩修理長基に出仕した。
*永二十一年、幕府・国絵図・郷村高帳の作成を命じる。林羅山「本朝編年録」編算・俳諧の世界では、貞門派は興隆し、前年には松永貞徳の「油糟」「淀河」が刊行される。
◇二歳・正保二年(1645)、*幕府、大番頭・書院番頭・などの江戸市中のかぶき者の追捕を命じる。東照社を東照宮に官号を授与。渡辺了慶(狩野派画家)没・宮本武蔵没・沢庵宗彭(臨済宗僧)没・細川忠興没・
◇三歳・正保三年(1646)、*徳川義直『神祇宝典』『東照宮年譜』将軍に呈上・柳生宗矩没・
◇四歳・*正保四年(1647)、*幕府、猿楽の役者に対して条規を定める。「江戸犬追う物を催」これについて紀行文に芭蕉が犬追物物催しを見学に行った記述がある・
斎藤徳元(俳人)没・
◇五歳・慶安元年(1648)、*幕府、江戸市中の法度を定める。橋上での商売、乞食、無札の札を禁止・幕府、大番士に武蔵・上総・両国の国絵図の作成命じる。細川ガラシャ侍女『「霜女覚書」を著す。天海幕府で頭角、慈眼大師の号を授与・この年蝦夷地東部メナシのアイヌシコツと闘争・清水道閑(茶人)没・中江藤樹(儒学者)没・
◇六歳・慶安二年(1649)、*唐船、風説書を提出・六月二十日、江戸大地震・幕府、旗本に倹約を命ずる。
◇七歳・慶安三年(1650)、*林羅山『本朝痛鑑』管制・この年に御蔭参り流行・狩野尚信(画家)没・鷺仁右衛門(狂言師)没・鴻池新右衛門(初代)没・
◇八歳・慶安四年(1651)、*徳川家光没・由比小雪らの陰謀露見、幕府、丸橋中弥らを補足。由比小雪、駿府で自殺・中村勘三郎座の役者、徳川家光に謁見・松永貞徳「俳諧御傘」刊・
◇九歳・承応元年(1652)、*江戸幕府、江戸市中のかぶき者を追補・幕府、若衆歌舞伎を禁じる。幕府、江戸歌舞伎狂言四座などに興行を停止する。市村宇左衛門、村山座の興行権を得て市村座と改称・市村宇左衛門(初代)没・
◇十歳・承応二年(1653)、*観世勝右衛門元信編『四座役者目録』刊。幕府、条件付きで歌舞伎興行再開を許可。松永貞徳没。
◇十一歳・承応三年(1654)、*幕府諸関所定めを再布令。幕府、キリシタン禁制の札立てる。明僧隠元没。
◇十二歳・明暦元年(1655)、*幕府、宿駅人馬・新銭販売禁止につき条規を定める。幕府、かぶき者を取り締まる。中沼左京(茶人)没。
◇十三歳・明暦二年(1656)父与左衛門は没し、兄の半左衛門が家督を継いだ。母子家庭でも姉が一人、妹が三人いる。早く父が没したが兄のしっかり者のお蔭で中流の土地の家柄を保持することができたようだ。
次男と言う身の軽さからと、田舎に士官の道は閉ざされ、文芸の道に勤しんだ。山間の地にも京文化の息吹が到来し、俳諧が広まっていった。
芭蕉少年もそう言った資質があったのか引き寄せられるようになり、俳諧の道に没頭していった。貞徳没後三年。北村季吟、宗匠として独立。
*明暦二年、幕府、町人の出願により浅草に鋳銭座を設置。幕府、町名主制を強化。この頃湯女風呂流行。
◇十四歳・明暦三年(1657)、*幕府、江戸本所に万人塚を築く(後の回向院)。幕府、吉原遊郭の浅草寺付近に移転させる。江戸大火(振り袖火事・明暦大火)。江戸城本丸、二の丸焼失。旗本水野成之、播髄院長兵衛を殺害。
◇十五歳万治元年(1658)、*江戸幕府、諸国耕作不毛に付き、酒造を制限し、諸大名・代官に不作の農村の撫恤を命じる。江戸大火(実記)。伊勢神宮内宮炎上。千宗旦(茶人)没。
◇十六歳万治二年(1659)、*幕府隠元に宇治の寺地を与える。(黄檗宗開山)。幕府、道中奉行を設置。中川喜雲『私可多咄』刊。江戸両国橋完成。長谷川勘兵衛(初代)歌舞伎大道具方没。雲居希膺(臨済宗僧)没。
◇十七歳万治三年(1660)、*幕府、伊達綱宗に逼塞を命じ、ついで隠居させ、幼少の亀千代に家督を継がせる。(伊達騒動)。幕府、大坂市中に米売買の仕法を定める。江戸大火。森田勘彌・江戸木挽町で森田座を創める・[歌舞伎]。大坂城内火薬庫に落雷被害甚大。『狂言記』発刊。林鵞峯『本朝一人一首』成る。
◇寛文元年、幕府、関所通行女手形の制を始める。福井藩、銀札を発行。京都大火禁裏炎上。江戸、上方に金平浄瑠璃流行。富春堂(出版者五十川了庵)没。
◇十八歳・寛文元年(1661)*江戸大火。大目付江戸図改製。江戸・上方で金平浄瑠璃流行。
◇十九歳・寛文二年(1662))の時に、芭蕉は宗房(むねふさ)と言う俳号を名乗り、上野では城代家老に次ぐ藤堂新七朗家の嫡男、良忠に仕えることになった。
二人を結びつけるものは俳諧であった。良忠は宗房より二歳上で、俳諧に熱心であった。宗房の才能は発揮され、その資質を見込んで良忠は俳諧の世界に紹介、推薦をしていった。
もし上司の良忠の取り成し、引上げの好意がなければ宗房の俳諧の道は開けなかっただろう。二、三年前から泉、河内、大和に俳諧の前句付が起こった。
◇二十歳寛文二年(1662)*陸奥国会津郡の村の百姓、年貢重課など訴える。幕府、碁、将棋師を寺社奉行の管轄下に置く。大坂に金銭売買の立会所を設ける。幕府、かぶき者を取り締まる。京畿大地震。酒井忠勝没。
◇二十一歳寛文三年(1663)、*幕府武士諸法度改訂。殉死禁止。江戸市中花火製造禁止。長崎大火。
◇二十二歳・寛文四年(1644)、*重頼撰『佐夜中山集』に蟬吟とも松尾宗房の名で二人句入集。
◇寛文四年、幕府、評定所における訴訟審理の規則を定める。幕府、永井尚庸に「本朝編年録」の続集を命じる。安井九兵衛没(大坂町人)。
◇二十二歳・寛文五年(1645)、*蟬吟主催貞徳十三回忌追善五吟俳諧百韻に一座、宗房十八句、季吟、脇句を贈る。大坂天満宮連歌所宗因、点者として俳壇に進出。
寛文五年、幕府、江戸に日用座を設置。幕府、不受不施派の僧を処罰。大坂城天守閣落雷で焼失。
◇二十三歳・寛文六年(1666)*上野で貞徳翁十三回忌追善俳諧が催されたときに、宗房も参加し、連句を作っている。
その時に季吟が詠んでおり、この時点で季吟が上野連句の指導を受けていたと考えられていた傍証と考えられる。二十三歳の時に若き主君良忠が病に没し、宗房は後ろ盾を失ってしまった。宗房は良忠の遺髪を高野山は報恩院に納める一団に加わった。それを期に士官を退いた。
その後度々、京都などに上がり他の俳諧仲間の句集に応募し、地域の俳諧に活動していたようである。風虎『夜の錦』発句四入集。
◇二十四歳・寛文七年(1668)、*幕府、酒井忠清に大老に任ず。陸奥国信夫郡の惣百姓、米沢藩n苛政を幕府信夫郡代官所に訴える。幕府、酒造半減を命じ、新規の酒造業を禁ず。この年諸国風水害多発。千姫(川秀忠長女)没。藤堂蟬吟(俳人)没。
◇二十四歳、寛文七年(1667)、*湖春撰『続山井』に伊賀上野宗房として発句二十八・付け句三、『耳無草』に発句一入集。
◇寛文七年、能都郡鹿島郡の十村肝煎、検地に反対し越訴。幕府、諸国に巡見使。幕府、本田畑に煙草栽培禁止。甲斐の国都留郡の百姓、重税に反対江戸藩邸に出訴。江戸幕府、江戸市中の門松を禁止。幕府、堕胎業を禁じる。
◇二十五歳・寛文八年(1668)、*幕府、巡見使の報告に基づき、島原藩藩主高力隆長の苛政に罰し、改易。幕府、京都松奉行設置。幕府、足利学校を再建。岡山藩郡に手習い所を設置。この頃備前国磐梨郡の百姓、日蓮宗不受不施派の寺、取り締まりに宗徒と問題化に反対する。
◇二十六歳、寛文九年(1669)*安静撰『如意宝珠』発句六入集、句引伊賀の部に松尾宗房と見える。
◇寛文九年、蝦夷地でシャクシャイン蜂起。福井大火、福井城焼失。この年、「江戸往来」初刊。『和論語』刊。石田未得(俳人)没。
◇二十七歳・寛文十年(1670)、*幕府、農村の酒造を禁止。幕府、藤井善右衛門、江守伝左衛門、玉川上水拡張工事、植樹工事奉行に任ず。『続本朝通』を家綱に親覧。池田光政、閑谷学校を創設。幕府、寛永新銭への古銭の混用を禁じる。
◇二十八歳、寛文十一年(1671)*友次撰『藪香物』伊賀上野宗房とし発句一入る。
◇寛文十一年、河村瑞賢、陸奥国の幕僚米を東廻船で江戸に回漕。宗門人別改帳の作成を命じる。京都大火。玉川千之丞(歌舞伎俳優)没。
◇二十九歳・寛文十二年(1672年)になった宗房は句集を発表「貝おほひ」を上野天満宮に奉納をした。二十三歳の春、俳壇では若き顔になっていた宗房(芭蕉)は、俳諧師として身を立てるために江戸に向かった。 江戸に下った桃青には俳諧で暮らすわけにはゆかず、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった。多分、家主の小沢卜尺の世話によるものと考えられている。
 工事の現場の人足の帳面付けや物書きに長けていた宗房ならではの仕事だったと思われる。
そんな工事の仕事に精を出しながら、桃青は役人からあらぬ疑いを受けぬように定職について生計を立て俳諧に勤しんだ。
 やがて関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整えられていった。江戸に下って三年後には桃青は宗匠となって文机を持ち、職業としての俳諧に地位を固めた。
*寛文十二年、奥平源八、江戸浄瑠璃坂で仇討。有栖川宮家を創設。河村瑞賢、出羽国の幕僚米を西廻船で江戸へ回漕。松尾芭蕉編著、『貝おほい』なる。徳川光圀「大日本史」編纂局を江戸小石川に移す。薩摩浄雲(古浄瑠璃太夫)没。山岡元隣(俳人)没。
◇三十歳、延宝元年(1672)*素閑撰『音頭集』宗房一句入る。西鶴『生玉万句』に談林新風の第一声を上げる。
*延宝元年、幕府、城米廻船条例を定める。イギリス船リターン号、長崎に来航、通商復活を要求。幕府、イギリス船の要求を拒否し帰帆させる。幕府、江戸市中の出版取締令を出す。京都大火禁裏など炎上。三井高利、越後屋呉服屋を開業。隠元隆(黄檗宗宗祖)没。
◇三十一歳・延宝二年(1674) 師の季吟から免許が伝授される。官仕を辞したのはこの頃か。宗因の『蚊柱百句』を廻り。貞門と談林新風との抗争が表面化した。
◇延宝二年、幕府、人馬賃銭を改定。幕府、伝馬町の・五街道などの宿駅に寺拝借銭を貸与。京都大雨風。北村季吟「枕草子春曙抄」成る。狩野探幽(画家)没。
◇三十二歳・延宝三年(1675) 二月には江戸に下った宗房は諸説はあるが、日本橋の貸家に落ち着いた。久居藩士の日向八太夫が下向に同行したと伝えられ、後に終生の援助者魚問屋の主、杉山杉風の日本橋の屋敷に入ったともいう。
五月には江戸に下った、西山宗因を迎えて開催され『九吟百韻』に加わり、この時に初めて俳号「桃青」を使用、宗因の談林派の俳諧に大きな影響を受けた。
*延宝三年、諸国飢饉の為に長年季・譜代奉公を許可。幕府、大和国飢饉により代官に施米を命じる。幕府、摂津・河内国飢饉を賑恤。保科正経、父正之の「会津風土記」などを献上。西川甚五郎(近江商人)没。
◇三十三歳・延宝四年(1676年)帰郷し、甥の桃印(一六歳)を江戸に連れ帰る。
 桃青が俳諧の宗匠としての披露目の記述、痕跡は残されていないが、何らかの形で俳諧の認知される万句俳諧が催しがあったのだろう。
 宗匠となった桃青は江戸や京都に俳檀との交流を持ちながら、多くの作品を残していった。京都から来た信徳に山口素堂と会し「桃青三百韻」が刊行された。
 この頃談林派の影響が強く表わされている。また作品の論評や批評を依頼されることもあって『俳諧関相撲』の格付けの評価の依頼された十八人の傑出の俳人の一人に選ばれた。
 芭蕉庵についても、当初は居を深川に移したが、その草庵の名を李白に並ぶ杜甫の詩にちなん『舶船堂』と名付けたが、翌年に弟子の李下が芭蕉の株を寄付をした。それを植えたために「芭蕉庵」と呼ばれるようになった。
◇三十四歳・延宝五年(1677)小田原町に一戸を構え、生活の為に以後三年ほど神田上水の水役に任じた。その冬、信章・信徳と三吟百韻一巻を巻く。
◇延宝五年、美濃国郡上藩百姓、年貢増徴策に反対し越訴。上総、陸奥国に地震、津波。菱川師宣『江戸雀』刊」幕府、江戸街道に集団踊り禁止。諸国に風水害続出。京極高広没。
◇三十五歳・延宝六年(1678)桃青『三百韻』と題して刊行。春澄撰『江戸十歌仙』歌仙三入集。二葉子撰『江戸通り町』に歌仙一・発句五・付け句五。
◇延宝六年、幕府、出火者は断罪、名主・五人組は入牢と定める。幕府、茶店の給仕女は人数を二名、衣服を布木綿に制限。初代坂田藤十郎、大坂で「夕霧名残正月」に歌舞伎に出演。半井ト養(狂歌師)没。西鶴、独吟千六百句興行。
◇三十六歳・延宝七年(1679)千春撰『かり舞台』に松尾宗房入道、始伊賀住と見える。すでに剃髪をしていた。『俳諧関相撲』三年以前に三都の宗匠十八人の批点を得たという中に桃租青の批点も納められていた。『江戸蛇之鮓』『玉手箱』『二葉集』『坂東太郎』に発句を寄せている。
◇延宝七年、出羽国矢島藩領の百姓、領主生駒氏の年貢増徴政策に反対し江戸屋敷の越訴。一条兼輝、『兼輝公記』記す。水雲子編『難波雀』刊。江戸大火。飛鳥井雅章(歌人)没。
◇三十七歳・延宝八年(1680)桃青(芭蕉)俳諧の稼業を捨てて、隠者の道を選択、桃青は突然に深川に引っ越した。この理由は諸説あって俳諧を愛するよりも、弟子の数を競う、俗悪な世俗の垢にまみれることに嫌気がさしたのか、文学と俳諧道に目指したのではないかという説。
新進気鋭の宗匠が愛好家らの面談や点者生活(連歌、俳諧、川柳の評価、評点、優劣を判定する人、判者)嫌気をさした説に、日本橋の家が火事で焼け出されたという説がある。俳諧では深川を退くことは、俗人の師匠から見れば、敗北者であり、落伍者と見なされた。俳壇に漢詩調流行の気運が高まる。
後の芭蕉の『おくのほそ道』紀行から見れば、俳諧の理想を求め、「座敷乞食」になるよりも「乞食の翁」の無収入の師の道を選んだのではないか、弟子たちの囲まれて心から喜び、生活の支援を惜しまなかった。師弟一体となって、独自の俳諧道を築き、所謂「蕉風」が開花させた。
◇延宝八年、幕府、代官に民政の心得を教諭。幕府、酒造半減のレ令を出す。鹿児島大火。江戸暴風、地震、高潮。諸国飢饉。貝原益軒『本草綱目和目録』作成。徳力善雪(画家)没。
◇三十八歳・天和元年(1681年)門下の李下の寄贈の芭蕉を庵に植え、芭蕉庵と号す。「芭蕉」名については、もともと庵号「芭蕉庵」であって俳号ではなかった。正式な俳人としての名は「桃青」といった。
その由来については、芭蕉の好きな中国の詩人李白にちなみ、李(すもも)にたいして桃、白に対して青と言った風に、対抗意識か憧れからか、弟子にも「桃夭」甥には「桃印」と名付けている。
「乞食の翁」の句文を草子「泊船堂主華桃青」と署名。『東日記』『おくれ双六』『ほのぼの立』に発句を寄せる。
◇天和元年、幕府、江戸市中米・麦・大豆の在庫量調査し,買い溜め、占め売りを禁止。出羽国鶴岡藩の百姓、郡代の苛政を巡見使に訴える。幕府、上野国沼田藩主真田信利の苛政を咎め改易。この年、井原西鶴『西鶴大矢数』刊。こ
の頃半井ト養『ト養狂歌集』刊。望月長孝(歌人)没。
◇三十九歳・天和二年(1682)十二月江戸の大火で芭蕉庵焼失、甲斐に移る。本因あてに書いた書簡に芭蕉と署名。『武蔵曲』に芭蕉庵桃青の号で入集する。『歳旦発句牒』『高名集』『俳諧三箇津』『松島眺望集』に発句を寄せる。十二月二十八日、駒込の大円寺の発した大火に見舞われ類焼した。
◇天和二年、徳川綱吉・読書はじめ式を設ける。幕府、不正代官を処罰。幕府、駿河国今泉村の五郎右衛門の孝行を表彰し、伝記に書かせる。幕府、諸国に忠孝を奨励。井原西鶴『好色一代男』刊。
江戸大火、「八百屋お七の火事」。松永貞徳『載恩記』刊。北村季吟『八代集抄』刊。西山宗因(俳人)没。
◇四十歳・天和三年(1683)甲斐谷村から江戸に帰る。九月芭蕉庵再建。芭蕉洞桃青と署名。
◇天和三年、幕府、火事にときに車長持ち、地車等の使用を禁止する。幕府、山城・河内国の水路巡視巡察を命じる。三井高利、江戸に両替商を開く。幕府、女性の金紗・惣鹿の子などの優美な衣装を禁ず。
◇四十一歳・貞享元年(1684年)四十一歳になった芭蕉は、初めて真の俳諧道を実践するために旅に出ることになった。以後通算七年三か月に及んだ。『野ざらし紀行』千里を同行。九月八日、大和、山城を経て、九月に美濃、大垣に本因を訪ねる。その冬には本因の東海道で桑名・熱田に至る。名古屋に行き野水・荷兮らと『冬の日』五歌仙を巻く、熱田で唱和後に十二月二十五日に伊賀上野に帰り越年。
◇貞享元年、幕府、河村瑞賢、淀川河口の九条島に着手。幕府、『三河記』校訂のため諸国より書き上げを提出させる。井原西鶴、一夜一日に独吟二万三千五百句を達成。幕府、出版取締令を下す。衣笠一閑宗葛『堺鑑』板行。
◇四十二歳・貞享三年(1685)なら水取の行事を拝して、京、湖南に滞在、
入門の人と会い熱田で歌仙二を巻く、前年の巻と合わせ『熱田三歌仙』という。木曽・甲斐を経て四月末江戸に帰る。
尾花沢の清風を迎え古式百韻興行。
*貞享二年、幕府、大奥女房山崎を追放。井原西鶴『西鶴諸国は無し』刊。向西湛澄、『女人往生伝』を著す。狩野安信(画家)没。
◇四十三歳・貞享三年(1686)『発懐紙』百韻を巻く、春『古池や蛙飛びこむ水の音』を巻頭に衆議刊『蛙合』を催す。去来の『伊勢紀行』に跋を寄せる。『庵桜』『丙寅紀行』『春の日』に発句を寄せる。
◇貞享三年、幕府、寺社に朱印状を下賜。
松本藩の百姓が年貢などの負担軽減を要求。近松門左衛門『出世情景』大坂武本座で初演。井原西鶴『好色一代女』佐々宗淳・丸山可澄辺『西行雑録』成る。下河辺長流(歌学者)没。
◇四十四歳・貞享四年(1687)春、去来の東下を迎えて四歌仙を巻く、八月曾良と宗波と共に『鹿島詣』の旅に赴く。仏頂和尚・本間自準を訪ねる。九月、露怗邸で芭蕉の西上を送る。
鳴海・熱田・保美・名古屋などで吟席を重ね、十二月下旬伊賀上野に越年する。
◇貞享四年、幕府、生類憐みの令を発。幕府、日蓮宗不受不施派の信者を、派祖僧侶を配流。芭蕉『鹿島紀行』なる。井原西鶴『武道伝来』刊。松尾芭蕉『野ざらし紀行』成るか。
◇四十五歳・元禄元年(1688)二月初め、新大仏(大仏再建)二月四日に伊勢神宮参拝。尾張の杜国と落合い、二十八日に郷里の亡父三十三回忌に列席、後の藤堂探下屋敷に招かれる。
杜国と吉野に出立、高野山・和歌の浦・奈良・大坂・須磨・明石を巡って京都に入る。その後岐阜から、大津に至り、鳴海・熱田と唱和を重ね八月、越人と『更科紀行』の旅におもむく、下旬の江戸に帰り、露通と曾良と深川で八貧の句文があった。
*元禄元年、幕府、長崎の唐人屋敷の設営を命じる。幕府、江戸市中衣服制限令を再令を出す。
幕府、不正秤の使用を禁止する。井原西鶴『日本永代蔵』刊。井原西鶴『武家義理物語』刊。この年富春軒仙渓『立花時勢粧』刊。契䖝『万葉代匠記』なる。
◇四十六歳・元禄二年(1689)書簡で鰺七、宗無に陸奥、北國に紀行の意図を伝える。芭蕉庵を平右衛門なる人物に譲る。
曾良同行の『おくのほそ道』の旅に発足。九月に大垣を立ち、伊勢に下る。内宮に参拝、下旬伊勢より伊賀に至り、十一月まで滞在、吟席を重ねる。露通を伴い奈良、京都、湖南おもむき膳所で越年。『前後園』『四季千句』『信夫摺』に発句を寄せる。
*元禄二年、幕府、江戸及び関東筋の川船の極印打ち返しを命ずる。松尾芭蕉『おくのほ道』成る。北村季吟・湖春父子を歌学方とする。井原西鶴『本朝桜陰比事』刊。伊藤小太夫(歌舞伎俳優)没。
◇四十七歳・元禄三年(1690)膳所を出立、伊賀に帰る。諸門人たちと唱和、
*元禄三年、幕府、宿駅困窮者に駄賃の値上げ。幕府、捨子禁止令下す。松尾芭蕉『幻住庵記』成る。山田宗徧『茶道便蒙抄』刊。近道印作・菱川師宣『東海道分間絵図』刊、この頃浮世絵草子流行。
◇四十八歳・元禄四年(1691)正月三日、伊賀に帰る。二月中旬奈良におもむく、再び伊賀に帰る。三月大津に出る。四月中頃から五月五日まで、京都嵯峨落(きょうとさがらく)柿舎(ししゃ)に滞在、この間の日記を『嵯峨日記』という。
その後去来本宅に移る。以後九月まで京、大津、膳所の間の往来をする。九月二十八日義仲寺無名庵を立って桃隣を伴い帰東に着く、十月十九日江戸着、橘町彦右衛門方仮萬に越年。熊沢蕃山没。
*元禄四年、幕府、江戸=大阪間の公金為替実施、御為替組を設定。幕府、日蓮宗悲田院派の派祖を八丈島に配流。幕府、儒学者に蓄髪を命ず。松尾芭蕉『嵯峨日記』を記す。浅井了意(仮名手本草子作家)没。市村宇左衛門(歌舞伎俳優)没。
◇四十九歳・元禄五年(1692)『栖居之弁』を草する。杉風、枳風らの厚意で新築の芭蕉庵に移る。彦根の許六入門、『深川集』歌仙その他が成る。
芭蕉庵には入門の往来激しく、身辺多忙を極める。雑俳集『咲やこの花』刊。
*元禄五年、幕府、江戸市中富突講、百人講を禁じる。幕府、高野山行人方千人余り、山内より追放。井原西鶴『世間胸算用』刊。東大寺再興なる。京都大火。
◇五十歳・元禄六年(1693)酒堂、芭蕉庵を辞去する。猶予桃印、芭蕉庵で病死、許六の帰国のはなむけに、『紫門の辞』を草する。七月中旬過ぎ『閉閑の説』を草し、門戸を閉ざして客を謝する。
十月二十日野坂、深川に会し『炭俵』歌仙一を巻く。八月十日西鶴没。
*元禄六年、幕府、江戸市中の流言者取締の為に、町毎に人別帳を書き上げる。新井白石『新井白石日記』を記す。井原西鶴『西鶴置土産』刊。この頃松尾芭蕉『おくのほそ道』成るか。井原西鶴(俳諧師・浮世絵創作者)没。
◇五十一歳・元禄七年(1694)この頃しきりに軽みを唱和する。次郎兵衛を伴って江戸を出立、西上の途に就く、曾良、箱根まで隋行。島田如亭、鳴海亭、名古屋亭を経て、伊賀上野に着く、五月十六日、上野を立ち、大津乙州亭、膳所所曲翆亭に遊ぶ。
五月二十二日上洛、落柿舎に入り、六月まで滞在、この間越中の浪化が入門。江戸で寿貞没。膳所、大津・義仲寺を遊吟、京去来亭におもむく、盆会の為に伊賀に帰る。
九月五日に支考、惟然、次郎平衛らを伴い出郷、奈良に一泊、九月初旬大坂酒堂亭に至る十日暁より悪寒頭痛に悩む、二十八日大坂諸門人会に出座。二十九日夜、病床に伏す十月五日病床を御堂前花屋仁右衛門方に移す。八日深夜病中吟を示す。十日遺書をしたためる。十二日申の刻に没。
*元禄七年、幕府、「馬のもの言い」流言者として牢人筑紫門右衛門処刑。幕府、柳沢保明を老中格とする。井原西鶴『西鶴織留』刊。榎本其角編『枯尾華』刊。松尾芭蕉(俳諧師)没。

 『芭蕉紀行世情今昔』 63(全63回)

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6月9日(木)のつぶやき

2016-06-10 01:16:57 | 芭蕉紀行世情今昔

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『芭蕉紀行世情今昔』 60(全63回)②  芭蕉の文脈

2016-06-09 04:32:21 | 芭蕉紀行世情今昔
『芭蕉紀行世情今昔』 60(全63回)②  芭蕉の文脈

●西行(さいぎょう)(1118~1190)平安後期、鎌倉初期の歌人。俗名佐藤義清。「則清、憲清とも書く。父は左衛門尉康清。母は監物(けんもつ)、源清(きよ)経(つね)。俵藤太の称で有名な藤原秀郷(ひでさと)の八世の孫にあたる。義清の曽祖父は公清以来、代々左衛門尉に任じ、佐藤を名乗っていた。
都の近くに所領があって、紀伊国田仲庄などを開発,伝領し富を蓄えてきた。十八歳で兵衛尉に任ぜられ、若くして成功したと伝えられている。
鳥羽院の下北面武士として、一方上皇の皇后待(じ)賢院(けんいん)の兄徳大寺実能の家人となり、院その所生で歌才に恵まれて環境で崇徳上皇のもとにも出入りをした。そのような未来を期待にされた義清の歌道に対する才能は、保延六年(1140年),二十三歳の若さで、にわかに出家をした。法名円位。出家後しばらくは東山や嵯峨辺り留まっていた。
初度の陸奥への旅を終えた後に高野山に修行時代には、中国、四国地方へも赴いている。治承四年(1180)高野山から伊勢に移住。その後文治二年(1186)東大寺再興の旅をした。伊勢神宮に奉納するために『御裳灌河歌合』『宮河歌合』自歌合を編み、藤原俊成り・定家の加判を依頼。
建久元年(1190)二月十六日「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と言う生前の願いどおりに河内国弘川寺で没した。西行の生涯とその詠歌は当時の人々に感動と感銘を与えた。
その後成立した『古今和歌集』には最大の九十四首が選ばれた。芭蕉のみちのく旅、『おくのほそ道』の随所に西行の歌枕が出てくるもので、基本的に芭蕉のみちのく旅紀行の行程は、歌枕、古歌を辿るような道筋が描かれている。
特に芭蕉の西行への漂泊の憧憬は、この度の旅への要因ではないだろうかと思える。西行への造形への深さ、崇拝と畏敬は並外れた思い入れを感じないわけにはゆかない。芭蕉は象潟では西行の歌枕にも訪れている。*『おくのほそ道』の中の蘆野柳の編は、”田一枚植ゑて立ち去る柳かな“は特に芭蕉紀行に中に重き場面を成している。

●能因(のういん)(988~1051)平安中期の歌人。俗名橘永(たちばなながやす)。文章生(もんじょせい)となり、肥後進士と呼ばれた。
二十八歳の頃に出家、はじめ融因(ゆういん)、のちに能因と称した。摂津の古曾部などに住み、古曾部入道と呼ばれた。出家後は陸奥・甲斐などに旅し、公(きんとう)任、道済、相模、和歌六人党の人たちと交流を持ち、関白藤原頼通(よりみち)に認められて、「高陽院(こうやのいん)水歌合(うたあわせ)」に出詠するなど自由な立場で活躍をした。藤原長能(よがよし)を師とし、これが和歌の師承の最初とされている。
自選の歌集『能因法師』、歌学書『能因歌枕』秀歌撰『玄々集』を残すほか、散佚した『八十島記』『題抄』の著した。奇矯な振る舞いに及ぶほどに和歌に執心した数奇な人として知られ、後々まで大きな影響を与えた
。芭蕉「おくのほそ道」白河の関に古歌に登場する。武隈(たけくま)の松でもの能因の歌枕に思い出し感慨無量の感があるようだ。象潟(きさがた)に訪れた芭蕉は歌枕に訪れている。

●行基(ぎょうき)(668~749)奈良時代の僧、河内国の大鳥(おおとり)郡(ぐん)蜂(はち)田(た)里生まれ。父古志史智、母は蜂田首(おびと)虎(とら)見(けん)の女、十五歳で出家し、高宮寺徳光に師事し受戒をした。高宮寺は大和は葛城上郡にあって、金剛山中腹にあって、修行の根拠地になる山寺である。師の徳光は山林修行者で、行基にとって戒律行儀の指南役として山林修行を習得したとみられる。
教学は法興寺、薬師寺、煮も学び、生家を家原寺とした。長年山林暮らしから、民衆活動に転じ、社会福祉事業など、橋、堤、川、池、治水、寺の再興など社会(しゃかい)慈善(じぜん)事業(じぎょう)を施した。恭仁京造営に協力し頭角を現し、朝廷に認められる。
病人や乞食の姿で民衆の前に現れて、聖徳太子と並び日本仏教の祖師として仰がれ、寺の創建、仏像など行基の制作のもと言われるものは、七百七十余を数える。

●慈(じ)覚(かく)大師(だいし)(794~864)円仁・天台僧、下野国都賀郡(つがぐん)の人。俗名壬生氏、父は三(み)鴨(かも)駅(えき)首長(おびとおさ)麻呂(まろ)。幼児、栃木県の現存する大慈寺に師事した。808年に広智に伴われて比叡山に登り、以後最澄に師事し、修行、(814年)弘仁五年分得度者(僧侶の身分)になって「摩訶止(まかし)観(かん)」を学ぶ、814年に最澄と共に東国巡錫に随行し、上野国の緑野寺で最澄から伝法灌頂を受けた。その後修行と遊学を終えて入唐求法として遣唐使(けんとうし)に随行、出航に二度失敗したが三度目に成功し渡海に成功した。
入唐すること十年苦難の求法に明け暮れた。帰国後天台宗の布教につくした。貞観六年(864年)に没した。*芭蕉は山形は山寺、立石寺に訪れ、開基慈覚大師の功績を称えた。あの有名な句“閑かさや岩にしみ入る蟬の声”を詠んだ。

●源(みなもとの)融(とおる)(822~895)嵯峨天皇の八子。母は大原全子、源姓を賜って臣籍に下る。異母兄に仁明天皇の猷子になる。応天門事件で嫌疑がかけられたが、無実となり、従一位左大臣に至った。元憲四年には太政大臣になった。藤原(ふじわら)基経(もとつね)に超越されてからは、宇治の別業や嵯峨の棲(せいす)霞(か)観(かん)で優雅な生活を送った。『古今和歌集』歌集にも『後撰和歌集』にも入集されている。
*芭蕉の「おくのほそ道」の信夫の里の編で石摺りで虎女伝説が残されている。

●貞徳(1571^1653)江戸初期の文学者。京都人。松永氏。名は勝(しょう)熊(ゆう)、別号逍遊軒、長頭丸などを。父連歌師永種の影響を受けた。幼少期から九条稙通、紹巴、細川幽齊、木村由己など豊臣秀吉の取り巻く文化圏の人々の歌学、和歌など諸学を学び、私塾を設け、林羅山ら学者らと交流、地下文化の大御所的存在になった。文学史上、貞門俳諧の指導者として名高く紹巴、幽斎らが余興として言い捨てにしていた俳諧を新時代の庶民の文芸に確立をした。

●宗祇(そうぎ)(1421~1502)室町時代後期の連歌師、号は自然齊、見外齊、種玉庵、紀州出身説。飯尾姓説などあるが、近江守護代伊庭(いば)氏出身で母方が飯尾姓あったか。若年相国寺に学び、三十歳余で連歌の身に入った。宗砌(そうせい)専順、心順,心敬に師事、古典学一条兼(かね)良(よし)に、和歌を飛鳥井雅親と東常(とうのつね)縁(より)からは古今伝授を受けた。
応仁の乱、文明の乱では関東に逃れ、その後また京に拠点にした。北陸、中国、四国にも頻繁に旅行し調教二年(1488)北野連歌所奉行した。
宗匠となり、三条西実(さね)隆(たか)らと共に明応四年(1495)『新選菟玖波(つくば)集』文亀二年(1495)箱根湯本で客死した。
*芭蕉は敦賀に訪れた時に、宗祇の鶯の関の古歌の場所に訪ねている。

●杜(と)甫(ほ)(712~770)中国は盛唐の詩人、祖父は初唐の詩人河南省の人、字子美、号、少陵、先祖に普の学者、杜審言、初め料挙に失敗し、江南を遍歴して、李白、高適と交わった。やがて長安に出て士官を望んだが極低い身分にとどまり、安録山の乱に際しての忠誠を賞せられて左捨遺を受けられた。
しかし翌年、華州に左遷させられ、そこで飢餓にあって官を捨てて蜀の成都に落ちた。成都では節度使厳式から検校工部員外郎の官を与えられ、浣花渓のほとりに草庵を構え、やや落ち着いた生活を送ったが、帰郷を志して成都を離れた、揚子江を下って船旅を続けるうちに、長沙付近で船中に没した。唐代のみならず、中国最大の詩人として李白の並んで「李杜」と称されて、詩聖と呼ばれた。またその詩はそのまま優れた歴史であると『詩史』と言われた。代表に『北征』『三吏三別』『兵車行』など。芭蕉は杜甫に深く影響される。
*芭蕉の陸奥の旅には松島、平泉、象潟の三大美景の探究があった。中でも太平洋側の壮大な造形美の松島では、杜甫の洞庭湖の詩を引き合いに出して賞賛をしている。ここにも深い杜甫への畏敬の念を表している。

●観世(かんぜ)信光(のぶみつ)(1435~1516)室町後期の観世座の能役者、能作者、通称小次郎、興福寺衆徒より称号を授与されて次郎(じろう)権守(ごんのかみ)とす。音阿(おんあ)弥(み)の七子、太鼓の名手である。世阿弥(ぜあみ)・金春・禅竹以後の最大の能作者。『遊行柳』『紅葉狩』『船弁慶』が有名である。
*この『遊行柳』が西行、芭蕉に引用されて行くのである。

●平兼(たいらのかね)盛(もり)(?~990)平安中期三十六歌仙の一人、篤行の子、従五位上駿河守、『大和物語』にも登場する当時の有力歌人。『おくのほそ道』に白河の関に登場する。

●源頼政(みなもとのよりまさ)(1104~1180)平安末期の武将、父仲政の長男、母藤原友美、摂津源氏の流れを汲み、摂津渡辺を本強にした、白河院半官代になり、蔵人、兵庫頭、保元の乱には源義朝についたが、平清盛に離反し、清盛に熱い信任を受けた。80年に以仁王に奉じて反平氏を挙げたが失敗、宇治で敗死。
*芭蕉「おくのほす道」の白河の関に登場する。都から遠く離れ、季節の樹木を見ても郷愁を覚える歌を詠んでいる。

●藤原(ふじわら)清(きよ)輔(すけ)(1104~1177)平安時代後期の歌人。顕(あき)輔(すけ)、母高階の女、父に疎外され官位には恵まれなかった。和歌『久安百首』に詠進。『奥義抄(おうぎしょう)』『和歌一字抄(いちじしょう)』などの歌学書を著す。六条家を継いで学風を広めた。平安歌学の大成者とされている。
*白河の関が詠まれている。芭蕉はそのことを引用している。

●佐藤元(さとうもと)治(はる)・生年: 生没年不詳 鎌倉時代初期の陸奥の豪族。佐藤継信,忠信兄弟の父。信夫庄(福島市)庄司あるいは湯庄司と号す。妻は藤原秀衡の娘であったともされている。文治5(1189)年における奥州合戦の際,信夫庄において鎌倉軍に抵抗して,捕らわれた。のちに赦免されて,本領を安堵されたとも伝えられている。(朝日歴史辞典引用)
*芭蕉は佐藤元治の忠義に感動を覚え、当地で遺品を見学した。
●泉(いずみ)三郎(ざぶろう)・藤原忠衡(ふじわらただひら)(1169~1189)鎌倉初期の武将、奥州藤原秀衡の三男、秀衡館の東に館を構えたことから、和泉三郎、泉冠者ともいう。『吾妻(あづま)鏡(かがみ)』には義経追討の官旨に背き、義経に味方し、兄の泰衡に討たれた。芭蕉「おくのほそ道」には塩竈(しおがま)神社(じんじゃ)編で和泉三郎の奉納、義理人情に厚い芭蕉は、和泉三郎の灯篭に感涙の涙を流すのである。
 

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6月8日(水)のつぶやき

2016-06-09 01:15:50 | 芭蕉紀行世情今昔

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『芭蕉紀行世情今昔』 59(全63回) 第七章 芭蕉の人脈と文脈” goo.gl/ymFjZW


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『芭蕉紀行世情今昔』 59(全63回) 第七章 芭蕉の人脈と文脈”

2016-06-08 04:06:41 | 芭蕉紀行世情今昔
『芭蕉紀行世情今昔』 59(全63回)
第七章 芭蕉の人脈と文脈”

① 芭蕉の人脈
◆河合曾(かわいそ)良(ら)(1649~1710)芭蕉の弟子曾良は最も身近な弟子の一人である。芭蕉の旅には常に同行者がいた。温厚篤実な曾良は優れた秘書だった。
信州上諏訪の出身で、本名岩波庄右衛門、通称河合惣五郎(かわいそうごろう)。三十歳半ばまで伊勢長島藩に仕えた。江戸に出て芭蕉に学んだ。芭蕉庵の近くに住んで、師の日常の生活の世話をした。「おくのほそ道」の旅では行程の下調べや資料収取、旅費の会計や、丹念な記録「随行日記」を書き残した。
この日記によって、事実の記録と思われていた「おくのほそ道」が少なからず創作が含まれていることが判明をした。
「おくのほそ道」には欠かせない第一級の資料である。曾良は芭蕉一筋の門弟と思われがちだが、俳人以外の別の顔を持っていた。曾良は神官に講義するほどの神道学に通じていたし、地理学にも詳しかった。公用かと思われる単独の旅が多かった。
その旅の理由も不明な点が多い。曾良は、芭蕉の没後、宝永七年(一七一〇)幕府派遣の巡見使(じゅんけんし)(地方視察官)として九州に赴き、壱岐の島で客死した「この頃幕府は諸国に巡見使を派遣し、寛文八年には幕府、巡見使の報告に、島原藩主高力高長の苛政を罰し改易にされたと記録がある]。享年六十二歳。芭蕉と同じく、旅に生涯を終えたが、その生涯は謎に包まれている。

◆北村季吟(きたむらきぎん)(1624~1705)江戸時代の古典学者・俳人。通称久助。松永貞徳に俳諧を学び、飛鳥井雅章らに歌学を学んだ、その門弟から芭蕉を生みだす。幕府歌学方。和漢の学、仏学に精通、著書「徒然草文段抄」などがある。 

◆松永(まつなが)貞(さだ)徳(のり)(1571~1653)俳人。名は勝能、号は長頭丸・逍遊軒・京都の人。細川幽齊に和歌を、里村紹巴に連歌を学んだ。和歌や歌学を地下の人々に教え、狂歌も近世初期第一の作者なる。「俳階御傘」を著し俳諧の式目を定め、貞門(ていもん)俳諧(はいかい)の祖となる。花の下宗匠。門人に北村季吟ら七哲がある

◆杉山(すぎやま)杉風(すぎふう)(1647~1732)江戸中期の俳人。芭蕉十哲の一人・通称、鯉屋市兵衛、号、深茶庵・五雲亭・蓑翁。江戸の人。初めは談林調。芭蕉の後継者として新風開発の土台を築いた。著『常盤屋之句集』など。

◆他阿(たあ)(1237~1319)鎌倉時代の僧念仏(ねんぶつ)聖(ひじり)、時宗第二租で教団の確立者。真教、四十一歳の時に豊後で一遍の弟子となった。その後遊行(ゆうぎょう)(一遍)に随行し諸国を廻り、一遍が没すると、後継者となって北陸、関東を布教に遊行し、崩壊の危機の時宗を再建をした。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

◆立花(たちばな)北枝(ほくし)(~1718)金沢に弟子「立花北枝」江戸時代の俳人、蕉人十
の一人、通称谷源四郎(とぎやげんしろう)。加賀国に住み刀研ぎを業とした。1689年(元禄二年)に芭蕉に入門、北越の蕉風を広めた。編著『山中問答』『卯辰集』を残している。

◆浄法寺(じょうほうじ)図書(としょ)高勝(たかかつ)・「おくのほそ道」の羽黒に訪れた時に浄法寺図書高勝の屋敷で二週間ほど滞在、高勝は俳諧をたしなみ、桃雪と号した。弟も俳人翆桃と言い芭蕉一行は大歓迎をされた。

◆雲居(うんこ)禅師(ぜんじ)(1582~1659)・雄島では雲居禅師の遺跡を訪れている。瑞巌寺の中興の祖と言われ、芭蕉の師の、仏頂和尚の師である。芭蕉が心動かされたのは、松の木の下で庵を結ぶ世捨て人であった。

◆仏(ふつ)頂(ちょう)和尚(おしょう)・芭蕉が仏頂和尚の山居の後を訪ねたのは、黒羽滞在中のことである。しかし、禅の師、仏頂和尚に敬意を払うため。仏頂和尚は茨城県鹿島い生まれ、芭蕉より四歳上である。江戸深川に住んだおり、芭蕉に懇意になった、以後芭蕉は仏頂和尚を参禅の師と仰ぎ、今回奥州の旅に出る二年前には、鹿島に和尚を訪ねて,俳文『鹿島紀行』を編んでいる。いかに俳諧の精神に練磨が必要か芭蕉は十分に知っていた。

◆等(など)窮(きゅう)・芭蕉より六歳年上の先輩である。その勢か、芭蕉と会うといなや句会を開いて、芭蕉に句を切望してきた。予想はしていただろうが、この先輩に芭蕉も一目置いていたようだ。随分遠慮していたようだが察しが付く。いったん句会を開いたとたんに、いずれ取らぬ錬士であるから、たちまち連句三巻を完成した。

◆栗齊(とうさい)・栗齊に心より共感の芭蕉、『遁世の人』決して深山ではない。むしろ人の賑わいの在る隠棲する小屋の主は、栗蔡は宿場近くで、栗の木陰で静寂の空間を占めて、遊自適の生活を営んでいる。そんな清貧を芭蕉はひかれた。

◆加右(かう)衛門(えもん)・芭蕉は仙台に入って、この土地に画工加右衛門なる者がいる。多少風量を会する者が居て知り合いになった。この男「年来、名のみ知られて所在がはっきりしない歌枕を調べておきました」といって、ある日に案内をしてくれた。宮城野の萩、玉田・つつじが岡は、古歌に詠まれた馬酔木の咲く所であった。
その後名所を案内しくれた。加右衛門は出立に、松島・塩竈などの所々の絵を書き送ってくれた。その上に、紺の染緒をつけた草鞋を二足、餞別をしてくれた、聞き及んだ風流の道の痴れ者は心憎い贈り物をしてくれ、正に本領を発揮をしてくれた。

◆山口素堂(やまぐちすどう)・安原適・杉風・濁子は江戸を立つときに芭蕉らに餞別をしてくれた門弟である。松島の宿で眠られず思わず頭陀袋から餞別の品を見て心静める曾良の様子が垣間見える。

◆清風(せいふう)・みちのくの旅路の途中に尾花沢に、親しい俳人で豪商の清風なる者が居て、芭蕉一行は清風の所に訪れた。一行を温かくもてなし、居心地が良く、清風邸で十日ほど世話になった。豊かな地方色を味わい芭蕉らはすっかり疲れがとれた。清風の主催する句会が催された。

◆図司(ずし)左(さ)吉(きち)・芭蕉の門人で、俳号は呂丸(露丸)と言い、染め物師だった。芭蕉一行は羽黒山を目指した。図司左吉と言うものが訪ねてきた。その案内で羽黒山の別当代会覚阿闍梨に会うことができた。その阿闍梨のお蔭で南谷の別院に宿泊することができた。俗界とは別離にして、静寂の中で、修験道の聖地、出羽三山を巡拝することができた。

◆長山(ながやま)重行(しげゆき)・出羽三山を終えて芭蕉一行は鶴が岡に出た。酒井氏十四万石の城下町、庄内藩士長山重行と言う武士の家に向かいいれられた。屋敷では歌仙三十六句を巻きた後に、酒井候のお抱え医師、淵庵不玉(伊東玄順)の家に泊まった。

◆小杉(こすぎ)一笑(いっしょう)・金沢の門人で師の芭蕉の来遊を待たず三十六歳で早世して無くなった。その兄が追善句会を催した。

◆統栽(とうさい)・福井の俳人、芭蕉の先輩格の世捨て人、奇人変人と言える隠士は、江戸で芭蕉の所に、十年以上前にやってきたことのある者、今ではどんな風になっているかと、福井に着た芭蕉は訪ねてみた。人に聞き教えられ、繁華街の外れた閑静な場所で妻と暮らしていた。芭蕉は彼の家で二晩世話になった。

◆天屋五郎(てんやごろう)右(う)衛門(えもん)・敦賀に着いた芭蕉一行は雨過天晴の秋日和、敦賀の廻船問屋の天屋五郎右衛門の接待を受けて、色の浜で遊んだ。天屋は玄流子と号した俳人、たいそう立派な酒食の宴を開いてくれて、芭蕉は二句詠んで感謝の意を込めた。

◆露通(ろつう)・八十村の露通、(路通とも)乞食僧として流浪中、芭蕉に出合った。門人となった。才能は乏しく、芭蕉の怒りを買うこともあった。当時四十一歳。

◆越人(えつじん)・越智越人、蕉門十哲の一人。名古屋で染め物商を営む、当時三十四歳、「うらやましく思ひ切るとき猫の恋」が良く知られている。

◆如行・近藤如行。元大垣藩士。芭蕉が泊まった如行亭は三年後火災に遭うが、それにもめげず俳諧修行に勤しむ如行を芭蕉はほめている。

◆前川子・津田前川。子は敬称、大垣藩士の要職にあったので付けられた。

◆荊口父子・宮崎荊口と三人の息子たちをさす。大垣(おおがき)藩士(はんし)。



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6月7日(火)のつぶやき

2016-06-08 01:16:17 | 芭蕉紀行世情今昔

『戦後日本の あの日あの時』79「昭和26年世情娯楽」 goo.gl/xGllYR


『芭蕉紀行世情今昔』 58(全63回) 第六章、芭蕉と西鶴(さいかく) goo.gl/uw2Sf4


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『芭蕉紀行世情今昔』 58(全63回) 第六章、芭蕉と西鶴(さいかく)

2016-06-07 04:53:52 | 芭蕉紀行世情今昔

 『芭蕉紀行世情今昔』 58(全63回)
第六章、芭蕉と西鶴(さいかく)

芭蕉と西鶴は同時代に活躍した対照的な文人であった。
どちらも俳諧師、年代も西鶴の方が二歳上、一年早く早世した。性格も境遇に人物像も異なった、異彩を放った天才であった。
 西鶴は寛永十九年(1642)大坂の商人の子として生まれ、芭蕉の下級武士と生まれたのとは境遇が違う。厳格な伊賀上野の家で育って広く歴史、和歌、漢詩など国文を習得する環境と、町屋の中で育まれた大店衆、旦那衆の高尚な教養の一環と趣味の範疇(はんちゅう)に生業を求める西鶴とは自ずと同じ俳諧でもその歩みは違っていた。
 芭蕉、西鶴共に俳諧師をめざし芭蕉は十九歳にして宗房(しゅうほう)と名乗り俳句を音読し俳号を用いていた。
 西鶴は十五歳にして俳諧を志し、談林派を担う俳諧師になりつつあった。派手に一昼夜に発句を連続して数を競う「矢数(やかず)俳諧(はいかい)」を創設し世間を驚かせ奇才を放った。
 西鶴の二十一歳の頃には俳諧の点者として立ち、初見は貞門派の『遠近集』寛文六年(1666)に三句入撰されている。
 その時の俳号は鶴永。延宝元年(1673)三十二歳に、大坂は生國魂神社の南坊で万句俳階の興行が行われ後日『生玉万句』として刊行。それは西山宗因の『蚊柱百句』に先立つ一年前となり、時代の先取、談林俳諧の記念碑作品になっている。その時には西鶴は宗因に影響を受け会っていたように思われている。
 西鶴の俳号は西山宗因の一字をもらい、西鶴と名乗ったと思われる。延宝三年(1675)三十四歳で妻を亡くし、千句の追善興業を行っている。
 その頃芭蕉は伊賀上野の俳諧に見切りをつけて三十二歳の時に江戸に下って、度々伊賀に帰郷しては江戸の戻り、生活の糧に三年間ほど神田土木の水役に就いている。
だが芭蕉は着実に俳下記の世界に基盤を築き『江戸十歌仙』『桃青三百韻』などを刊行。また檀那衆や門下生の拡充には人脈の構築に余念はなかったろうと思われる。
延宝五年(1677)西鶴は大坂生國(いく)魂(だま)神社(じんじゃ)で一昼夜、千六百句の独吟の興行し、それを『俳諧大句数』として刊行。すると他の俳諧師が千八百句数の独吟が行われ、大淀三千風が三千句を達成、句数合戦となった。
西鶴は三十九歳で四千句を、それから四年後、ついに貞享元年(1684)には摂津、住吉神社社殿前で二万三千五百句の独吟を達成、浪速っ子の度肝を抜いた。以後西鶴は「二万翁」と自称した。
その頃には芭蕉は俳諧の旦那衆や座敷点者、添削者(てんさくしゃ)に嫌気がさしたか、紀行に思いをかけた。
四十一歳に弟子の千里を同行『野ざらし紀行』の旅に出た。伊賀上野・山城・大垣から桑名・名古屋・熱田から伊賀上野に帰った。翌年には奈良・木曽・甲斐を経て江戸に帰着した。
一方西鶴は大きな起点に立たされていた。天和二年(1682)西鶴四十歳、浮世草子に着手、第一作葉『好色一代男』を出版。好評で再販を重ねた。好色物が大当たりに気を良くした西鶴は貞享三年(1686)に『好色一代女』を発表。浄瑠璃を意識してか、雑話物、武家物まで手を染めていった。
その後『好色(こうしょく)五人女(ごにんおんな)』『日本永代蔵』『世間(せけん)胸算用(むなざんよう)』など次々発表、世間の人気を集め時の人となったが、やがて歌舞伎が流行、近松門左衛門が竹本座の座付きになり流行作家になり台頭してきて、今や追う者から追われるものになった。その後の西鶴詳細は分からないが、元禄五年(1692)再婚した妻がなくしたのを機に隠居をしたと言う説もある。
元禄六年(1693)九月九日西鶴は没し、誓願寺(せいがんじ)に葬られた。
“一方芭蕉の晩年は“
四十四歳の時には、曾良、宗派を伴って『鹿島詣』の旅におもむいた。その年の暮れには帰郷し伊賀上野で越年した。
四十五歳の時には、新大仏(大仏修理)を訪ね、伊勢神宮参拝、尾張の杜国に会って、郷里の伊賀上野に法要に列席した。
その後杜国と吉野・高野山・和歌の浦・奈良・大坂・須磨・明石を巡り、京都に入った。さらに岐阜・大津に戻りまた岐阜を経て鳴海・熱田から江戸に戻っている。
それらは自然や名所に古歌を訪れ、歌人の足跡を辿る事であった。
四十六歳『おくのほ道』決意を周辺に伝える。三月二十七日曾良を伴って旅に出立、「おくのほそ道」に六〇〇里(2400キロ)日光・白河・二本松・伊達・宮城野・仙台・多賀城・塩竈・松島・石巻・平泉・尾花沢・立石寺・羽黒山・酒田・象潟・鶴が岡・新潟・市振り・金沢・大聖寺・福井・気比神社・敦賀・大垣に九月五日着。
この長旅を終えて、不朽の名作『おくのほそ道』の編算、修正し世に残した。
芭蕉は西鶴とは違った観点から俳諧を、また俳人としての生きることに選択をした。
 高潔の世俗をから隔絶し、古歌や遺跡、名所を辿ることによって、和歌から格下に見られた俳諧を格式ある、俳句を通じて深遠な森羅万象を、義理人情の成り合いを表現したかった。
その環境こそ漂泊の旅路だった。美景に憧れ古き先人の歴史に触れることによって、冒頭に出てくる「月日は百代に過客にして」が人々の心に甦るのである。
 元禄七年(1694)芭蕉は旅の途中の大坂で望んだように旅路半ばで客死をした。

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6月6日(月)のつぶやき

2016-06-07 01:16:19 | 芭蕉紀行世情今昔

『芭蕉紀行世情今昔』 57(全63回) 第五章、芭蕉の流浪(るろう)と漂泊(ひょうはく)の憧憬(どうけい) goo.gl/V4iCqQ


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 『芭蕉紀行世情今昔』 57(全63回) 第五章、芭蕉の流浪(るろう)と漂泊(ひょうはく)の憧憬(どうけい)

2016-06-06 04:28:05 | 芭蕉紀行世情今昔

 『芭蕉紀行世情今昔』 57(全63回)
第五章、芭蕉の流浪(るろう)と漂泊(ひょうはく)の憧憬(どうけい)

「おくのほそ道」の冒頭に『日々旅にして、旅を栖とす、古人も多く旅に死せるにあるあり。いづれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊を思ひやまず。』
俳聖・歌聖・念仏聖の流浪・漂泊の巡行の足跡が、芭蕉の漂泊と流浪の思いに大きな影響を与えた。
芭蕉の旅路の行程には、古歌、歌枕と美景の追い求め、流浪と漂泊の思いが重なり合って、旅の紀行は書き綴られている。
芭蕉はみちのくを旅するにあたっての予備知識として流浪の歌人の、西行の影響は見逃せない。
また芭蕉の歴史の知識と見識は、俳諧の旅にいかんなく発揮されている。
芭蕉のように諸国に行脚、流浪するが如く彷徨する歌人西行や一遍のように遊行する阿弥陀聖が、芭蕉が歩んだ「おくのほそ道」紀行の先駆者であった。
そう言った東北、北陸、信越を回る紀行歴が当時の遠方の地の人々の日々の生業を伝え、知ることに寄与している。
芭蕉の場合「おくのほそ道」は東北、北陸への旅路は半年足らずの期間に六百里、2400キロにも及ぶ工程を四十六歳の芭蕉は駆け抜けたが、時として日に十数里を徒歩することもあり、伊賀忍者の里ならではの健脚は忍者ではなかったかの憶測を呼んだ。
しかし紀行の中の出来事はみちのくの物見(ものみ)遊山(ゆさん)の趣もないわけでないような、興味深々で度々の感動の景色に、観光と俳諧の見聞録を兼ねてのみちのく旅でなかっただろうかに思える、それを如実に俳諧を通じて書き綴ったのではないだろうか。
俳諧を通じて、一遍のように賦算(ふさん)と言う布教に諸国を廻り、地域の人々と暮らし、また西行のように歌人として紀行し孤独に一期一会の日々の暮らしを住処とし、高野山の麓に庵を結び、隠遁(いんとん)の暮らしを求めた。
そんな俗世と隔絶した境地に一定の理解し「おくのほそ道」陸奥への紀行に踏み出す要因に一遍の影響は少なからずあった。何より遊行二世の事が記されている。
三人の共通はそれぞれ陸奥平泉を廻り、旅路の半ば客死をしていることである。
芭蕉は長い俳諧の世界の下地に生き、その間に「おくのほそ道」に観られる稀にみる傑作を半年ばかりの期間に発揮できたが、生み出す才覚は陸奥紀行の以前の経験、畿内の往来と江戸往復があってが「おくのほ道」完成後も主に畿内の往来に寄るものと思われる。

①“芭蕉・漂泊の俳人“
それでは芭蕉と流浪行脚、漂泊の先人の足取りを辿ってみることにする。
芭蕉の場合、三十二歳に江戸に下って以来、度々伊賀上野に帰省をしている。
その後、生活の糧に三年ほど神田土木の水役に就く、芭蕉は江戸に安住していたが、居を深川に移った。
四十一歳の時に。千里同行の『野ざらし紀行』の旅に出た。伊賀上野・大和・山城を経て美濃大垣から東海道で桑名・熱田に至り、名古屋から熱田、伊賀上野で越年した。
翌年二月奈良のお水取を見学、京都から湖南に滞在し、木曽・甲斐を経て江戸に戻っている。
四十四歳の時には、曾良、宗派を伴って『鹿島詣(かしまもうで)』の旅におもむいた。その年の暮れには帰郷し伊賀上野で越年した。
四十五歳の時には、新大仏(大仏修理)を訪ね、伊勢神宮参拝、尾張の杜国に会って、郷里の伊賀上野に法要に列席した。
その後杜国と吉野・高野山・和歌の浦・奈良・大坂・須磨・明石を巡り、京都に入った。さらに岐阜・大津に戻りまた岐阜を経て鳴海・熱田から江戸に戻っている。
四十六歳「おくのほ道』決意を周辺に伝える。三月二十七日曾良を伴って旅に出立、「おくのほそ道」に六百里(2400キロ)日光・白河・二本松・伊達・宮城野・仙台・多賀城・塩竈・松島・石巻・平泉・尾花沢(おばなざわ)・立石寺・羽黒山・酒田・象潟・鶴が岡・新潟・市振り・金沢・大聖寺・福井・気比神社・敦賀・大垣に九月五日着。
九月六日から、大垣を発ち、伊勢に下り、伊勢より伊賀に、二カ月滞在後、奈良・京都・湖南・膳所で越年し、翌年膳所から伊賀に帰る。
義仲寺の庵に入り、大津に遊ぶ。六月初め上洛、幻住庵に帰る。その後六月には膳所の酒堂方の逗留。
翌月大津・膳所・堅田・京の間を転々とする。移動の間も草稿の構想を練っているようだ。九月に伊賀に帰る。年末京より大津に移り、新年は伊賀に帰る。
二月は奈良、伊賀に往復、再び大津に出て、京都嵯峨の落柿舎に滞在、以後九月まで京都・大津・膳所の往来し、義仲寺を立って帰東に途につく。十月十九日江戸着。五月新築の芭蕉庵に移る。
五十歳一月下旬、芭蕉庵を辞去する。五月次郎兵衛を伴い江戸を出立。曾良、箱根まで隋行、名古屋から伊賀上野着、直ぐに大津に膳所に休息、上洛落柿舎に入り、六月まで滞在、六月中、京を立ち、膳所・大津に八月盆の為に伊賀上野に帰る。
九月八日伊賀出発、奈良に一泊、九日大坂酒堂亭に至る。
十日の暁より頭痛悪寒に悩むが、二十八日の大阪諸門の会に出席、二十九日病気に臥す。
十月五日御堂前花屋仁右衛門方に移す。七,八日弟子たちが集まる。十日遺書をしたためる。十二日申に刻没。

②“西行・行脚の歌聖”
西行・元永元年生まれ。(1118~1190)俗名佐藤義清。藤原秀衡の八世の孫 家柄もよく、仕官し順調な出世と、約束された未来の期待を受け、北面武士として、歩んでいた西行は二十三歳の若さで突如出家をした。出家して西行と名乗り、流浪行脚・漂泊旅が始まった。
理由は厭世無常か、はたまた失恋か憶測を呼ぶが、むしろ和歌の世界に没頭したい、それが要因かもしれない。出家後、洛外東山に草庵を結んだ。
二十六歳の時に歌枕を求め、陸奥に旅し祖先の平泉を訪ね、更に出羽に行脚の後に都に帰る。
次に佐藤氏の領地の高野山に草庵を結び、ここに三十年余り草庵を結んだ。ここの地を拠点に吉野・大峰修行に業を求め、五十歳の時に四国に渡り、讃岐は白峰の崇(す)徳(とく)上皇(じょうこう)の墓に参り、弘法大師の出生の地、善通寺を訪れた。
六十二歳の頃、伊勢におもむき内宮の神主荒木田氏に歓迎されて二見浦に庵を結んだ。
翌年伊勢に参宮の途次に寄った重源に東大寺大仏造立の金箔の砂金を勧進を懇願され、六十九歳の老体に鞭打ち平泉に旅立った。
その途中源頼朝に会った話は有名である。砂金の目的を達成し、京都は嵯峨野に草庵を結び、その後河内は弘川寺に庵を結び、望み通り、桜の好きだった弘川寺で客死した。
高野に伊勢に陸奥に漂泊し、庵を結んだ西行は人里離れた独り暮らし、春夏秋冬の季節感をいっぱい受けたが、厳しさも耐えなければならないかった。それ以上の孤独に耐えて、歌の世界に没頭する精神力は超人的な忍耐力を必要とする。鹿の泣き声を聴き怯える孤独感は例えようがないものがる。人と接しない高潔な精神は何によって支えられているのか、一つ一つの歌に込められていると言う。
『新古今和歌集』では最多の九十六首が撰入されている。『山家集』での辞世の和歌は
「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」
建久元年(1190)七十三歳で没した。


③“能因の放浪の歌人“
 能医(988~1050)平安中期の歌人。本名橘永。文章生となって肥後進士とよばれたが、二十六歳の折に、突如出家した。融因、後の能因称した。摂津は古曾部に住み、古曾部入道と言われた。
出家後は陸奥行脚を試みた、甲斐などに旅し、歌道師承の先駆者。和歌六人党と交流を持った。関白頼通に認められながら高陽院水閣歌合に出詠うなど自由な立場で活躍した。
歌学には『能因(のういん)法師集(ほうししゅう)』や『八十島』『題抄』などの作品を残した。寄稿な振る舞いに、異常なほどほどの和歌に執心した数奇な歌人であった。
六十六歳で没した。

④“一遍の流浪の聖(ひじり)”
鎌倉中期の僧、時宗の開祖。延応元年(1226)に伊予は風早群河野郷別府の河野通広の子に生まれた。幼くして伊予の天台宗継教寺の縁教に入った。母の死に無常を感じ、父の命もあって出家し、法号を隋縁と称した。
 建長二年(1250)浄土宗西山義の僧で河野氏とも俗縁があり、大宰府に近い筑前の御笠群原山にいた聖達(浄土宗西山派の僧の元で十二年間学ぶ)のもとに行き、その勧めで肥前の同義の僧華台(清水上人)の弟子となって、智真と改める。
 同年聖達のもとに帰ったが、弘長三年(1263)父の死に帰国して還俗し、別府七郎左衛門通尚と称した。
 しかし文永四年(1267)輪鼓の廻りが止まったのに生死の理(ことわり)に思い至る。再び出家、弟の聖戒(俗名は八郎通定)ともに、再び聖達のもとへ行った。
 同年に信濃の善光寺に参篭し、二河白道(西方の極楽浄土に往生する信仰心を、北を貪欲する水の川、南を怒りの火の川はさまれた細い清らかな道に例えた語。善導の「観経疏」散善義に出てくる。)の図を写し、同年伊予に帰り浮穴群の窪寺に庵を結び、その図を本尊としt、一人念仏三昧をした。
 この山林の修行の間に、信じなくても信じても、南無阿弥陀仏の名号を唱えれば、出家と在家、有智と無智、貴賤男女の別なく、また一年十年の数のかかわりなく、往生できるというものを十一不二の法門を領解し、その趣を作った。
ついで文永十一年聖戒一人に随時されて同郡の岩屋寺に参篭した。そこで始めて聖戒に法門を授けた。翌年には俗縁の°同行超一・超二・念仏房三人と山を下り、念仏を唱えながら四天王寺や高野山を経て、夏熊野に向かった。
証誠殿に百日参篭し。その時に熊野権現の夢想の中、衆生の往生はは名号によって定まったことであるから、信不信や浄不浄の別なく、人々に「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」(一国一万人として六十国に配布)と記した算を配る(賦算)時宗独自の教化法で、「南無阿弥陀仏・決定往生六十万人」と書いた、ごく薄い板を配布すること。御化益、おふだくばり)口伝・お告げ(熊野権現の神勅)感得を受け、その趣を印しを作り(六十万人頌)智真を一遍と改めたるとともに、下根の身はすべてのものを捨て離ししてこそ往生できるという領解から、同行から別れて、一人遊行に出かけた。
まず京都から西海道を経て,建治元年[1275]伊予に帰り、翌年聖達を訪ねた後に、大隅から豊後を廻り、そこで時衆(仏事・説経などその場にいる信者全体「道俗一供に同心・正信偈」)のほか阿弥陀仏(二代遊行上人、真教ら弟子八人を連れて伊予から備後、備前に来た)と、はじめて同行と約を結んだ。
弘安元年(1278)には安芸へ行き厳島神社に詣で、備前に行き、西大寺藤井の吉備津宮で念仏を奨め、神官の妻が出家のきっかけで二八〇人余りが帰依をした。
時宗は聖に従って遊行する道時衆と在俗の生活を続けながら俗時衆に分けられる。
翌年京都から信濃の善光寺に向かう途中、同国佐久郡小田切の武士の館で踊念仏(一期の行儀)を始めた。
弘安三年白河の関を越えて奥州江差郡にある祖父河野通信の墓に供養し、平泉・松島を巡り、同年鎌倉に入ろうとしたが、この時道時衆の一行は二十三名になっていた。鎌倉入りを武家に阻まれた。
一行の一遍の遊行に加わる信者は後を絶たず、いつも一遍の周りには人が集まり、政治規制のない市場,宿、駅や村落草堂で教化していった。
農民や庶民は、 念仏札を受けようと結縁者は増えていった。 そののちに尾張・美濃を巡り、伊勢神宮に詣で、同七年には京都の因幡堂・雲居寺・六波羅蜜寺(ろくはらみつてら)や市屋道場(七条道場・金光寺)など四十八日間過ごし、秋には北国に向かった。
同九年には四天王寺や住吉大社に詣で、和泉、河内を巡って聖徳太子の磯長陵に参篭し、大和の当麻寺や石清水八幡宮に詣でた。
翌年には播磨の教信寺や円教寺に行き、松原の八幡宮で別離和讃を作り、十二の道具の持文を書いて時衆に示した。
随行する僧尼のほか、名を番帳に記した時衆が多く、教団としての組織維持管理が複雑になってきたので規則が必要になってきたのだろう。
弘安十年備中で病にかかり、翌正応元年(1288)に伊予での修行の後を訪ね、大三島神社に詣でた。
翌同二年の讃岐から善通寺から淡路に行った所から病が重くなり、兵庫の和田崎の観音堂に移った。一カ月後秘蔵の経典や、請願偈文を書いて、五十一歳入寂した。
一遍の行脚の行程・伊予で出生~大宰府(聖達)~善光寺参篭~伊予に帰国~四天王寺~高野山~熊野~京都遊行~伊予二~大隅~豊後~安芸厳島神社(あきいつくしまじんじゃ)~京都~信濃善光寺~白河~江差~平泉~松島~鎌倉~尾張~美濃~伊勢神宮~京都~丹後~但馬(たじま)~因幡(いなば)~美作~天王寺住吉~大和当麻~京都~播磨~備中~伊予~讃岐~阿波~兵庫和田崎で入寂五十一歳。

“芭蕉の旅には門人が随行”
この旅には欠かせない、付き人曾良がいた。江戸の俳人で芭蕉の弟子、主人との芭蕉に師事し、かいがいしく身の回りの世話をする随伴の曾良は芭蕉に寵愛を受け、壱岐勝本には客死と記され、著「奥の細道随行日記」を書き残している。
 芭蕉は中国の杜甫や西行、能因など孤独に耐えて、身を苦境において修行する隠棲の流浪と漂泊の旅を目し、憧れ、足跡を辿り、その境地を体験することを欲した。旅路の果てで朽ち果て死んでいくことを、むしろ自ら望んだが、芭蕉の長い生涯の旅路には、何時も曾良や弟子たちが取り巻き、弟子や門弟の付き添いの存在があった。
芭蕉は孤独で高潔な本当の意味の隠棲の庵に暮らすことはできなかった。西行に憧れたが、ただ一人の旅路はできなかった。
みちのくの旅路も行く先々には弟子や俳諧を通じての仲間や俳人が居住していた。その人脈を辿るが如く「おくんほそ道」は綴られていった。
芭蕉は「おくのほそ道」旅を終え、また新たな旅、西国の旅に向う途中に訪れた大坂で病に倒れ門弟に看取られ、五十一歳でその人生を閉じた。
その辞世の句が「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」であった。
芭蕉は冒頭の名文の「百代の過客・・行きかふ人も旅人なり」のように旅人として、旅の半ばで客死したのである。
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6月5日(日)のつぶやき

2016-06-06 01:15:59 | 芭蕉紀行世情今昔

「古社寺探訪」備後国一ノ宮・吉備津神社・祭神吉備津彦命 goo.gl/S6M2SR


『戦後日本の あの日あの時』77「昭和26年政治経済」 goo.gl/hAhfBk


『芭蕉紀行世情今昔』 56(全63回) 第四章 俳諧(はいかい)の世界 goo.gl/Ul6WQB


「韓国紙 日本の豪潜水艦受注敗退や東京五輪を腐しまくる」韓国の報道も政府も日本の失敗や不遇を内心、快感を感じ、心待ちしている。安倍政権の失敗や失言を待ち受ける日本の野党と似ている。沖縄の新聞社も同じ、安倍政権の失敗で喜びを感じている。反感、反発は憎悪に転化されている。


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『芭蕉紀行世情今昔』 56(全63回) 第四章 俳諧(はいかい)の世界

2016-06-05 04:18:31 | 芭蕉紀行世情今昔
『芭蕉紀行世情今昔』 56(全63回)

第四章 俳諧(はいかい)の世界

①俳諧流派
●談(だん)林(ばやし)俳(はい)諧・俳諧の流派、談林派(江戸談林)の呼称であった。彼らの刊行した『談(だん)林(りん)十百(とっぴゃく)韻(いん)』が一世を風靡をしたことから、宗因(そういん)が指導する新風が汎称となった。貞門派(ていもんは)俳諧の微温的な作風に対抗して大胆・奇抜な発想・表現を追求、従来の本歌取りに加えて謡曲の詞章を謡曲取りを多用、雅信の落差から生まれる笑、パロデイもっぱらとした。「寓言(ぐげん)」の名の下に伝統や権威を否定し、風体のうえで、荒木田守武流の無心所着を標榜(ひょうぼう)・復活させた。一六七三年(延宝元年)から7,8年間が最盛期で、大阪では井原西鶴、維中(いちゅう)、京都では菅野(すがの)谷(や)高政(たかまさ)、江戸では松尾芭蕉が活躍をした。

●江戸談林・俳諧流派1673年(延宝元年)春頃に結成、活動し始めた江戸の新進、雪(せ)柴(っさい)、卜(ぼく)尺(せき)、松(しょう)意(い)らの俳諧グループ、仏教の学問所「談林」を模して命名。1675年江戸に下った宗因から発句を請い、刊行した彼らの『談林十百韻』が俳壇に大きな評判を巻き起こし、以後江戸の新風側の一勢力として重きを成し、作風を「飛体(ひてい)」
として古流派から誹謗をしされた。

●西山(にしやま)宗因(そういん)(1605~1682)江戸前期の連歌師・俳人。談林派の祖。肥後八代城主加藤正方の侍臣西山次郎左衛門の子。15歳から八代城主加藤正方の側近として仕え、正方から蓮歌の手解きを受ける。17歳から10年間京都は伏見邸詰めとなって、連歌を里村昌琢に学び、28歳の時に主家を離れ修練を積み、43歳の時に大坂(おおさか)天満宮(てんまんぐう)連歌所(れんかしょ)宗匠(そうしょう)となる。50歳を過ぎて旧識重頼と頻繁に交流、軽妙で洒脱な作風で人気を博し大阪俳壇の中心的存在になった。後俳諧に転じ別風を起こし、門下生に井原西鶴をはじめ多くの俳人を輩出した。

●貞門(ていもん)俳諧(はいかい)・貞門派(ていもんは)・貞門俳諧は貞(てい)徳(とく)が指導とする一派、および当時の時代の俳諧の総称。俳諧(連句)の様式と共に作法書、季寄せ、用語集を整備をし、新興文芸としての地位を確立っをした。上品で微温的な言語(ごんご)遊戯(ゆうぎ)に終始ししたため、類型化(るいけいか)に陥った。17世紀前半から17世紀後半まで半世紀が最盛期で、談林俳諧と論争を繰り返し衰微をしていった。重頼(しげより)、親(ちか)重(しげ)、の二人は別派を作り活躍した。その他貞門の良(りょう)徳(とく)、西武(さいむ)、貞室(ていしつ)、季吟(きぎん)、梅盛を含めて貞門七俳仙と称された。

●松永貞徳(1571~1653)江戸初期の文学者、京都人、松永氏、名は勝(しょう)能(ゆう)。別名、逍遊(しょうゆう)軒、長頭丸、明心、延陀(えんだ)丸(まる)など、父永種は連歌師、その影響で、幼少期から九条稙通、紹(しょう)巴(は)、細川幽齊(ほそかわゆうさい)、大村由己など豊臣秀吉を取り巻く文化圏の人たちに歌学、和歌、連歌、有職故実などの諸学を学ぶ。長じて私塾を経営、林羅山、木下長嘯子(ちょうしょう)ら一流の文化人と交流し、地下文化の大御所的存在になった。
文学史上、貞門派俳諧の指導者として名高く、紹巴、幽齊らが余興として言い捨てにしていた俳諧を新時代の庶民文化として確立した。作法書(式目書)俳諧(はいかい)御傘(ござん)、選集『崑山集』などを続刊。西武、貞室、季吟ら貞門七俳仙を輩出した。その俳諧観は、俳諧は俳言で詠む連歌であるという。俳言説に凝縮され、主知的作風から古典研究を奨励した。


②俳諧の定義
●発句(ほっく)・連歌・俳諧用語。連歌、俳諧の最初の句を言う。五・七・五の長句の形をとる。最初の句なので、その時季語、その場の即興的に、切字を入れずに余韻深く、格調高く読むことが肝要とされる。連歌、俳諧は複数の作者による座なので、その座の正客が発句、亭主が脇を知れぞれ挨拶をするように読む。

●連句(れんく)・俳諧用語。和歌の上の句、五・七・五を独立させ上だけの句を独立させ、発句が、明治以降俳句として単独に展開したのに対して用いられるなった呼称。元来は連歌としてそのパロデイとしての俳諧の連がである。
基本的には百句を連ねる百韻を基本とし、略式として五十韻、四十四句、三十六句などと時代によって短くなる。複数の人々が座して順番に上下を歌って行くのものである。
連句の第一を発句、第二句脇、第三句挙句と言う。

●連歌(れんが)・俳諧用語。和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を一句として交互に連ねて行くものである。
平安時代には二句のみは短連歌、三句連ねるのが鎖(くさり)連歌(れんが)、五十句、百句の長連歌が形成された。鎌倉時代には長句と短句を交互に百句連ねる百句(ひゃくく)韻(いん)が定着した。連歌の座は指導者が宗匠(そうしょう)、進行を受け持つ者が執事と言う。

●雑排・文芸様式。近世に於、俳諧の発句・連句以外に派出した種々のの雑体の文芸の総称。前句付が代表であったから前句と呼ばれていた。宝暦期(1751~1764)大坂で雑句、雑俳と呼ばれるようになり、前句付は連歌において既に行われているが、様々な種類が試みれていて、七、七の前句に五、七、五が付けることが一般的になった。やがて新しい文芸として川柳が成立した。

●川柳・江戸中期に始まり現代まで、定型の短詩。雑排様式の一つである前句付から前句の七、七が無くなり、五,七,五の付句だけで単独に読まれるようになり、俳諧から発句が独立して生まれた俳句とは性格が異なり、季語や切字を必要としない。身近な生活の諸事すべてが題材に句材にされ、皮肉や風刺が生まれ哀愁の漂いもする。川柳の名称は柄井川柳の名に由来する。また明治時代までは狂句と呼ばれ軽くみられていた。

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6月4日(土)のつぶやき

2016-06-05 01:17:14 | 芭蕉紀行世情今昔

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『戦後日本の あの日あの時』76「ルース台風」 goo.gl/ln7Hhr


『芭蕉紀行世情今昔』55 (全63回) 53、大垣 終着、そして新たなる旅路へ goo.gl/Sg2hM3


舛添知事公私混同疑惑 6月7日までに調査結果公表「膨大な量なので、明日の記者会見には間に合わない」日々のらりくらりと、まともに答えない舛添知事、きっちり・しっかり・精査・第三者と記者の問答は 国民を舐めきっている。法の裏を掻い潜る答弁は、不謹慎で人間失格である。


「比例は社民に!」 吉田党首の訴えに聴衆たったの10人 水戸・
戦後、自民党と対峙し、現民進党以上の勢力を誇った社民党の凋落は当時の面影もない。過激に反動的に反対しただけ、時代に適応できなかった。党の方針を柔軟に国民の民意に応えることが出来なかった。国民に見放された社民に後はない


米国防長官が「中国は孤立の長城築いている」と名指しで批判、仲裁裁判所判断の尊重迫る・
◎もう中国を制止させるものは居ない。中華思想の頂点に立ったつもり、南沙諸島に人工島、軍事拡張と世界に挑発的、原因は欧州もアジアも国連の経済の恩恵を受けるために、迎合したから。


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『芭蕉紀行世情今昔』55 (全63回) 53、大垣 終着、そして新たなる旅路へ

2016-06-04 05:20:09 | 芭蕉紀行世情今昔
『芭蕉紀行世情今昔』55 (全63回)
53、大垣 終着、そして新たなる旅路へ
露通(ろつう)もこの港まで出で通ひて、美濃の国へと伴ふ。
駒に助けられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来たり合ひ、越人も馬を飛ばせて、蘇生の者に会ふがごとく、かつ喜びかついたはる。
旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと、また舟に乗りて、
“蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ”
★大垣 終着、そして新たなる旅路へ
“蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ”
◎露通も敦賀の港まで出迎えに来ていてくれた。美濃の国へと同行をした。馬に乗り大垣の町に入ると、曾良も静養先の伊勢から戻ってきた。越人も馬を飛ばして駆けつけてきた。みんなは如行の家に合流した。
前川子や荊口父子、その他の親しい人々が、昼も夜も訪ねて来て、生き返った死人に会うようによろこび、労ってくれた。
けれど長旅の疲れは取れなかったが、はや九月六日(陽暦十月十八日)になったので、伊勢神宮の遷宮を拝観しょうと、再び舟に乗って、
“蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ”
◆露通もこの敦賀の港まで出迎え、美濃の国へと同行する。長旅に疲れた芭蕉は馬の背に乗って、大垣の庄に入る。曾良の伊勢から駆け付け、越人も馬を飛ばせてやってきた。
一同が如行の家に入り集まった。前川子・荊口父子をはじめ、その他親しい友人・知人が昼夜を問わずに訪ねてきた。
まるであの世から生き返った者に会うかのように、無事を喜んだり、疲れをいたわったりして、そうしているうちに九月六日になって伊勢の遷宮を拝もうと、旅の終わりの一句を
 “蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ”と詠んだ。
 陸奥の旅「おくのほそ道」もいよいよ終わりに近づき
芭蕉はふたたび舟に乗り込む、旅の終わりは、また新たな旅の始まりでもあった。
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6月3日(金)のつぶやき

2016-06-04 01:18:10 | 芭蕉紀行世情今昔

『戦後日本のあの日あの時」75回「紅白歌合戦」 goo.gl/rus9gH


『芭蕉紀行世情今昔』 54(全63回) 52、種の浜 ますほの子貝 goo.gl/a5sdma


今回の舛添知事の公費の私用や贅沢な海外視察を見ても、公務員の無駄使いの一端を知ることが出来る。大阪府の松井知事の「消費税2パーセント分の財源なんて簡単に出ます。一年間、国会議員地方議員国家公務員地方公務員の人件費を含めた総経費は二十七兆円、15パーセントカットでほぼ消費税。納得。


民主党政権実現に自公の予算財政の無駄使いだけで、財政の不足分を賄えると言って政権取がれたが、真っ赤なウソ。消費税の不足分は公務員改革で改善できる。舛添知事の公費を見ても、都議会議員の給料や官僚の高給取りや国会議員の高給取りの削減で、消費税不足分に回せる。大阪府政を見習って欲しい。


今、野党共闘で「統一名簿方式」が小野党に連合が推奨、ところが、野党の比例統一名簿へ動く連合などの動きに 民進・岡田代表は難色。理由は党名に民進党が入らず、野党連合の色彩の強いためらしい。


「広島に思いはせて推敲…オバマ氏の手書き原稿」オバマ大統領は単なるパフォーマンスでなく真剣に広島訪問を考えていたことが、当初のスピーチの時間がより長くなっていることや、現行内容にも吟味をしていたことで、うかがい知れる。米国国内を考えて精一杯の広島訪問であった。


「9条を素直に読めば自衛隊も違憲になる。書き換えればいい」民進党の岡田代表よ、こう言ったのはあなたではなかったか?」産経に掲載。岡田代表はでたらめ、民主党時代の実力検証済み。ヒットラー、独裁と日々豹変する発言、代表の軽い発言に国民が信頼するわけがない。


自民参院選公約決定、消費増税先送りで「赤字国債に頼らない」と明記.
緊縮予算で東京都の知事のような無駄使いを止め、国会議員や官僚をの高給取りをやめて、均衡予算を組んで、委縮は景気が悪くなるので、ほどほどに明るい雰囲気。景気は「気」で効率を考えた予算を組んでほしい。
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「ヒラリー氏、日本と同盟重視…トランプ氏を批判」破天荒なトランプは危険、フィリッピンの大統領もよく似たタイプ。人気取りも一過性、長期的に見れば国益を損なう。選択する国民の心情は、うっぷん晴らし、ガラガラポンで自分たちにもチャンスを目論んで支持した軽い気持ちが、トランプ出現か?


リオ五輪に意欲満々「五輪旗受け取ることはきちんとやる」と舛添知事は続けるつもり、都議会も怒号ばかりで行動に移さない。一極集中で経済的に潤っている、都議会から役人から寄生する業者まで、都税を食い物にする「一蓮托生」の狢(むじな)

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疑惑満載の舛添東京知事の記者会見問答「精査・第三者・きっちり・しっかり・ご報告・国民の為に・結果・などの逃げ口上」意味不明の弁、連続・


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