『伊予・伊達騒動」アマゾン電子書籍紹介。
「伊予伊達騒動」は一般的に「和霊騒動」と呼ばれている。
元和六年六月二十九日(1620)に発生した宇和島藩のお家騒動のことである。山家清兵衛事件ともいう。
宇和島藩は、慶長十九年(1614)に伊達政宗の庶長子伊達秀宗が伊予に十万石を与えられて成立した藩である。政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、重臣として藩を運営させた。その中で山家清兵衛公頼が筆頭家老として実質的に藩政を執った。元和五年(1619)には大坂城の石垣修復普請を請け負ったことから藩の運営を巡り、山家清兵衛と桜田玄蕃元親が対立を起こす。しかし、山家清兵衛が政宗から信任が厚かったことから秀宗は清兵衛を疎んじ、桜田玄蕃を重用し、清兵衛は謹慎する。実はその前にも、反清兵衛派は清兵衛暗殺を企てて、秀宗生母・龍泉院の七回忌の法要にて、当時法要の責任者だった清兵衛を茶坊主を使って毒殺しようとしたが、これは未遂に終わっている。 翌元和六年六月二十九日、雨天の深夜、山家邸が襲撃され、清兵衛と清兵衛の次男と三男、そして隣家の清兵衛の娘婿、塩谷内匠とその子二人が斬殺、当時九歳だった清兵衛の四男は、現・丸之内和霊神社社殿裏の井戸に投げ込まれて殺害されたが、清兵衛の母親と妻は無事だった。秀宗の命による「御成敗」により、桜田玄蕃一派が襲撃したと言われるが、玄蕃本人は襲撃当日は大阪城の石垣修復に従事していた。秀宗はこの事件を江戸幕府は疎か、政宗にも報告しなかった。慌てた秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家である彦根藩の井伊直孝に仲介を依頼した。彦根藩や仙台藩の仲介工作の結果、当時老中だった土井利勝は政宗の嘆願を上奏せず、宇和島藩は改易を免れたが、これにより宇和島伊達家は本家と気まずい仲になる。 事件後、寛永九年(1932)、秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死。その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し、その後宇和島藩では不吉なことが連続して起き、山家斬殺の祟り呪いと恐れられた。
「池田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
近世の大名家。出自に諸説があるが近世の家譜では、清和源氏頼光流、楠胤説、摂津国を本貫地とする。始祖の池田恒利の妻養徳院派織田信長の乳母、恒利の子池田恒興(信輝)は織田信秀・信長、更に豊臣秀吉に仕え、美濃国大垣城主となったが、天正12年(1584)長久手の戦で嫡子之助とともに討死。信輝の次男池田輝政は岐阜城主三河国吉田城主、ついに関ヶ原の功で播磨国一国を領し、姫路城守。輝政の次男忠継は備前国、三男忠雄は淡路国を領し、輝政は西国の重鎮になった。慶長18年(1613)の輝政の死後、遺領は、長男利隆に西3郡を除く播磨国が、忠継に備前に加えて播磨西3郡が伝えらえた。しかし、元和元年(1615)に忠継が、その翌年に利隆が相次いで死亡し、忠継の遺領は4人の弟、忠雄、(備前国・備中国の一部)輝澄(播磨国宍粟郡)、政綱に(同赤穂郡)輝興に(佐用郡)が継ぎ,利隆の遺領は嫡子光政が継いだ。1617年光政は因幡・伯耆に国替えとなって、さらに1632年に池田光仲が継ぐと、同族同士で国替えとなり、光政を藩祖する岡山藩31万石余、光仲が藩祖とする鳥取藩32万石が確定した。岡山藩支藩では、光政の次男政言・三男光録を藩祖し、備中国鴨方藩・生坂藩、鳥取藩支藩では、光仲の次男仲澄・四男清定を藩祖とする因幡国鹿野藩・若桜藩が置かれ、また輝澄の子孫から維新時に福本藩が創設された。本・支藩とも廃藩置県まで存続した。
近世の大名家。出自に諸説があるが近世の家譜では、清和源氏頼光流、楠胤説、摂津国を本貫地とする。始祖の池田恒利の妻養徳院派織田信長の乳母、恒利の子池田恒興(信輝)は織田信秀・信長、更に豊臣秀吉に仕え、美濃国大垣城主となったが、天正12年(1584)長久手の戦で嫡子之助とともに討死。信輝の次男池田輝政は岐阜城主三河国吉田城主、ついに関ヶ原の功で播磨国一国を領し、姫路城守。輝政の次男忠継は備前国、三男忠雄は淡路国を領し、輝政は西国の重鎮になった。慶長18年(1613)の輝政の死後、遺領は、長男利隆に西3郡を除く播磨国が、忠継に備前に加えて播磨西3郡が伝えらえた。しかし、元和元年(1615)に忠継が、その翌年に利隆が相次いで死亡し、忠継の遺領は4人の弟、忠雄、(備前国・備中国の一部)輝澄(播磨国宍粟郡)、政綱に(同赤穂郡)輝興に(佐用郡)が継ぎ,利隆の遺領は嫡子光政が継いだ。1617年光政は因幡・伯耆に国替えとなって、さらに1632年に池田光仲が継ぐと、同族同士で国替えとなり、光政を藩祖する岡山藩31万石余、光仲が藩祖とする鳥取藩32万石が確定した。岡山藩支藩では、光政の次男政言・三男光録を藩祖し、備中国鴨方藩・生坂藩、鳥取藩支藩では、光仲の次男仲澄・四男清定を藩祖とする因幡国鹿野藩・若桜藩が置かれ、また輝澄の子孫から維新時に福本藩が創設された。本・支藩とも廃藩置県まで存続した。