「猿楽の謎」アマゾン電子書籍紹介」。
猿楽は奈良時代には中国より伝来した散楽から発展した芸能。曲芸や奇術を主体とする散楽は、平安時代になると「猿楽」と表記され「さるがく」「さるごう」と呼ばれるようになった。これは芸能が滑稽階位なものへと変化したことと関係していると考えられる。藤原明衡著「新猿楽記」は当時の猿で楽の様子を詳しく伝えており、それによると猿楽は秀句、物真似、寸劇などの要素を持っていた。鎌倉時代になると、猿楽は翁猿楽を中心芸とするようになる。これは翁、三番叟、千載、延命冠者、父尉が登場して舞う祝祷性の強い芸で、寺院芸能の呪師を継承は・発展させたと考えられていると、思われる。呪師は修二会で法呪師と呼ばれる僧が行った鎮魔・徐魔的所作が芸能化したものである。翁猿楽は寺社と結びつきを強め、翁猿楽を演じるための座が各地に誕生した。これらの座は本拠地によって、大和猿楽、近江猿楽、伊勢猿楽、宇治猿楽、越前猿楽、丹波猿楽などと呼ばれた。平安時代以来の娯楽芸としての猿楽も翁猿楽に従属する形で演じられていたが、鎌倉後期に劇形態の芸である翁猿楽が生み出され、その成長とともに翁猿楽の立場が逆転し、座に置いても猿楽を演じる役者の地位が向上した。田楽も鎌倉後期から田楽能を演じており、南北朝時代には京都ではしばしば勧進田楽が催されて将軍足利尊氏も見物するなど猿楽より優位にあった。田楽と肩を並べるまでに猿楽の地位を高めたのが大和猿楽結崎座の観阿弥である。彼は優れた演技力と音楽面の改革などで名声を上げ、将軍足利義満の公演を受けるようになった。その子世阿弥も物真似主体から歌舞伎主体へと能を転換を図って優れた作品を生み出したので、猿楽という語は江戸末期まで能・狂言やその役者、催しを表す語として用いられたが、明治初期からは能楽と呼ぶのが一般的になった。
「陰陽道の謎」アマゾン電子書籍
「陰陽道」は広義には中国伝来の陰陽五行思想の日本における展開形態の総体。狭義には伝来の陰陽書を重視し。それを典拠に方術中心に習得実践を挙げた特定の人々を核として形成された文俗宗教という。【陰陽五行思想の伝来】陰陽道の成立について、中国民間成立説と日本成立説とが長い併行してきたが、近時では日本成立説が無理が少ないことから受け入れらえている。中国古来の陰陽思想五行思想という別々の思想が、前三世紀前半に騶衍によって陰陽五行説にまとめらえ¥れ、さらに前漢の薫仲舒が陰陽五行思想は、気の消長と環境を基礎理論とする哲学である。それが人事に拡張適用されて王朝交替の正統性を説明し、さらに十干十二支をも理論を苦こんだ自然、人間、社会の諸現象を幅広く説明するようになり、八卦も加えて未来予知まで含む複雑な陰陽五行思想に発展した。中国ではこうした思想を説く人を陰陽家と言い、この思想に基づいて神仙術、医術などの実践を行う人を方土と称しした。大陸の儒教、道教、そうした展開が日本に及んだものと考えられる。日本の陰陽五行思想の伝来は、中国および朝鮮における陰陽五行の伝来は中国および朝鮮における陰陽五行の天界の波状的伝番であり、最初は朝鮮半島経由が中心であった。
「高僧名僧伝・円空」アマゾン電子書籍紹介。
円空(1632~1695)江戸時代初期の彫刻僧。修験者。北海道、東北、中部、近畿地方他、各地を遊行。鉈彫りと称する木彫仏(円空仏)を残した。出生地については諸説があり、美濃国中島郡中島(現岐阜県羽島市)が有力。初期作品(現岐阜県郡上)地区にある天照大神像ほか3体には寛文3年(1663)銘があり、ついで青森、北海道を巡って洞爺湖観音堂には観音像を安置した。三重県志摩市三蔵寺では大般若経扇絵を書き、奈良県大峰山では役行者像を刻み、群馬県富岡市貫前神社の大般若経(1681)には「壬申生美濃国圓空」と墨書した。滋賀県伊吹山でも修業し「江州伊吹山平等岩僧内」銘の作品がある。岐阜県関市弥勒寺で没した。円空仏は5000体近く数え、他に類をいない独創性に支えられた作品として「円空歌集」があり、「近世騎人伝」には大木に彫刻する円空の姿が描かれている。
「東勝寺合戦」アマゾン電子書籍紹介。
東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。(元弘元年、元徳3年)8月、後醍醐天皇が笠置山で挙兵、これに応じて楠木正成も河内で挙兵して、元弘の乱が始まる。幕府は鎮圧の兵を上らせ、上野国の御家人新田義貞も加わった。9月には笠置山が陥落し、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ配流とされた。
1333年(元弘3年、正慶2年)、楠木勢は千早城で再挙し、幕府の大軍を相手に奮戦する。これに触発されて播磨では赤松則村(円心)が蜂起し、伊予でも反乱が起こる。幕府はさらに北条一族名越高家と下野国の有力御家人、足利高氏に大軍を率いさせて西国に派遣する。閏2月には後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山に拠り、4月には高氏が篠村八幡において幕府に反旗。足利勢らは京都の六波羅探題を滅ぼし、都を制圧する。
「信康自刃事件の謎」アマゾン電子書籍紹介。
信康自刃事件とは徳川家康の嫡男でありながら家康の嫡男で勇猛果敢に戦果を挙げながら、突如自刃に追い込まれた謎に包まれた事件である。
一説に武田氏など敵に内通で味方の情報を漏らした疑いを信長に咎められ、自刃に追い込まれたとも言われているが、詳細な証拠や確証がない。
また父親家康との不仲説もささやかれるが、嫡男を自刃に追い込むほどの理由は見つからない。また家臣や一族の身の回りへの不行状、素行の悪評によるもささやかれたが、自刃するほどの事案が見つからない。また嫡男であるが上に、徳川家の家督相続による策略に嵌められた事など推測の域を出ていない。
信長から強かで武将としての才覚を認められ、今後の戦国時代に徳川家に対立し邪魔な存在を小さなうちに芽を摘む、徳川方への布石だとも思われている。何しろ岡崎城の城主とし間もない信康は突如岡崎城を出ることを促され、大浜城・二俣城と移され切腹を申し渡されている。
「江戸の絵師・歌川国芳」アマゾン電子書籍紹介。
歌川国芳(1797年~1861年)江戸後期の浮世絵師、初世歌川豊国の門人で、幕末の浮世絵界に幅広い作区域で活躍した。江戸・神田の染め物業柳谷吉右衛門の子として生まれ、俗称を井草孫三郎という、1811年(文化8)15歳で豊国門下になり、14年頃画壇にデビューした。しかし幾年かは振るわず、27年(文正10)ごろから版行され始めた「通称水滸伝豪傑一百八人之一個」のシリーズにより一躍人気を博して、武者絵の国芳と呼ばれ、この分野に地歩を固めた。別号には一勇斎、朝桜楼ほかがあり、風景画、美人画、役者絵、花鳥画、武者絵、風刺画、戯画、版本の挿絵、肉筆画などの作区域は広範であった。その性格も豪放淡泊であり、逸話が多く残されているが、天保年間(1830=44)ごろより多くの風刺画を描き、この方面における第一人者としても活躍した。また風景画にも「東都名所」ほかのシリーズが知られており、洋風表現を駆使したその画風にはみるべきものがある。文久元年3月5日に没。
「高僧名僧伝・親鸞」アマゾン電子書籍紹介。
親鸞(1173~1262)鎌倉時代の僧。浄土真宗の開祖。はじめは綽空と名乗る。房号は善信。1876年(明治9)見真の大師諡号を与えらえれた。日野氏に生まれ。9歳の春、慈円の坊舎で得度し、範宴少納言と称したという。比叡山では常行三昧堂の堂僧を務めていたが、29歳の時自ら進路を見失い、「後世を祈る」ため、山を下り京都六角堂にて百日の参籠を試み、聖徳太子の夢告を得て、法然の門下に入り、専修念仏の道を歩むことになる。33歳には法然より『選択本願念仏集』の書写と肖像画の制作は許されるが、35歳の1207年(建永2)法然門下の密通事件に端を発する念仏弾圧(建永の法難)によって越後国に流された。この時愚禿を姓として、非僧非俗を自ら信条とする。5年後赦免されるが、京都には帰らず、1214年(建保2)頃から関東に移る。法然が死去したことと、門弟たちの群会を禁じたその遺徳守るためであった。ただ関東が選ばれた理由については諸説があって定説を見ない者の、近年は科の善光寺の勧進念仏聖一行に加わって行動する見解が有力となりつつある。関東では主として常陸国稲田を拠点都市、約20年間に渡って各地を遍歴し、念仏聖として教化伝道を行った。その結果多くの門弟が生まれた。南北朝期の史料「親鸞聖人門侶交名牒」によると、指導者格の直弟は下野、常陸、下野、武蔵などに49名を数え、それに帰依した民衆は数万賭される。彼らは地域ごとに集団を形成したので、その地名を冠して間に「教行信証」著し、思想体系の樹立に努めている。単なる勧進目がるといえよう。1234年(文暦元)~1235年(嘉禎元)頃関東を離れ京都に帰っているが、その理由については詳らかでない。京都では五条西洞院に住み、「教行信証」の推敲改定や和讃の制作など著作活動が中心だったと考えらえる。関東の門弟たちに対して書写聖教や書状を送って教化の継続を図っている。所が80歳に入ったころ自分の名代として関東に派遣した滋信房善鸞が異議を言いふらし、古い門弟らが鎌倉幕府に提訴するという事件が持ち上がり、関東教団は大きく動揺した。これを知った親鸞は、1256年(建長8)5月29日付け善鸞に縁を切る旨の書状を送り、これを門弟らにも周知させ動揺を鎮静化させた。その前後から住居を実弟に尋有僧都の三条富小路の坊舎に移し、1262年(弘長2)11月28日死去した。年齢90歳。奇瑞も何もない平静な最期だったという。
「高僧名僧伝・夢窓疎石」アマゾン電子書籍紹介。
夢窓疎石(1275年~1351年)鎌倉時代から南北朝時代の臨済宗仏光派の禅僧。夢窓とは道号、疎石は諱。朴訥叟とも称した。伊勢の人。宇多天皇の9世の孫で、母は平氏。甲斐平塩寺で出家し、1292年(正応5)叔父明真を頼って奈良に赴き、慈観について受戒。やがて禅を学ぶために、建仁寺の無隠円範に参じ、1295年(永仁3)鎌倉に赴いて、無及徳前全、桃渓徳悟、痴鈍空性らに参じたのち、いったん建仁寺の無穏のもとに戻ったが、再び鎌倉に赴いて来日僧一山一寧に参じた。さらに奥羽に赴いて苦行を積んだのち、鎌倉の高峰顕日に参じて、ついにその法を継いだ。そののち甲斐国龍山菴、土佐国吸江庵、相模国三浦泊船庵、上総国退耕庵などに穏棲したが、1325年(正中2)春、後醍醐天皇の勅を受けて南禅寺に住した翌年。鎌倉の南芳庵を開き、浄智寺、瑞泉寺、円覚寺に住し、さらに甲斐の恵林寺を開いたが、1331年(元徳3・元弘元)北条高時に招かれて建長寺住した。翌翌年6月、鎌倉幕府の滅亡により後醍醐天皇に招かれて上京、臨川寺開山塔の三会院を始め、門派の本拠とした。ついで翌年10月、天皇に召されて南禅寺に再住したが、1339年(暦応2)西方寺を西芳寺に改めて、ここに隠棲した。後醍醐天皇の没後足利尊氏は天竜寺を建て、夢窓開山とした。さらに1351年(観応2)天竜寺僧堂の完成により同寺を再住、後醍醐天皇の十三回忌を修し、同年9月30日没。後醍醐天皇など7代の天皇から国師号を受けた。
「高僧名僧伝・重源」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
重源(1121年~1206年)平安末期から鎌倉初期に活躍した僧。勧進上人。房号は俊乗房、または南無阿弥陀仏と自称した。1181年(養和元)61歳で初代東大寺勧進職となってから没するまで、広範囲な勧進活動による資金調達や渡来人技術者の編成によって、治承・寿永の内乱後の社会復興に努めた。平氏が焼き払った東大寺の再建を始め、浄土寺など各地に寺院を創建・営繕し、所領経営、交通路・港湾・池溝整備など多くの成果をあげた。前半生は不明な点も多く、紀氏の出身、左馬允季重の子で俗名重定といったらしい。13歳で醍醐寺で出家、のち四国や大峰山・熊野・御嶽・葛城など聖地・霊山を回って修行を積み、勧進活動を行った。学僧というより、衆生救済のために宗教的実践を行う聖であった。1176年(安元2)の高野山延寿院の鐘に「勧進入唐三度上人重源とあるが、入宋回数についての確証はない。陳和卿らの宋人技術者や石工の伊氏らを率いて大仏様と言われる新たな建築様式を導入したのは入宋経験からであろう。「支度第一の俊乗房」と評された。生涯の事績については、晩年に著された。「南無阿弥仏作善集」に詳しい。建永元年6月5日に東大寺で没する。重源の墓と言われる三角五輪塔が残されている。
「江戸の絵師・歌川広重」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電
「歌川広重」(1797年~1858年)江戸の後期の浮世絵師。歌川派のみならず浮世絵師を代表する風景画家(名所絵師)。安藤氏。俗称徳兵衛。定火消同心の子として八代洲河岸に生まれる。歌川豊広門人。一遊斎、一幽斎、一立斎、立斎、歌重の号を用いる。1820年代は、役者絵、武者絵、美人風俗画など種々の分野に手に染めるが大成せず1820年代末から名所絵のシリーズを発表し始める。葛飾北斎の「富嶽三十六景」とほぼ同じ頃1831年(天保2)頃に発表した「東都名所」は、俯瞰的構図にときおり極端に拡大した近景物を配し、鮮やかな色のコントラストで斬新な情趣をねらって成功した。1832年、幕府の八朔御馬進献に随行して上京。その折のスケッチを基に制作した「東海道五十三次」55枚の叙情的風景画が爆発的な売れ行きを示し、自己の洋式を確立するとともに、名所絵師の名を不動のものにした。その後は没年まで名所絵の第一人者として活躍し、日本の季節風土とそこに住む人々の織り成す詩情を細やかに表現した。とくに、雨、風、雪、月の景に優れ、「旅の絵師」の呼称も与えらえている。代表作はほかに、「近江八景」「京都名所」「江戸近郊八景」「木曾街道六十九次」などがある。晩年の1850年代には「名所江戸百景」「六十余州名所図会」など縦大判の風景画にも意欲を見せた。肉筆画も晩年に多い。広重は名所絵のほか、四条派風の花鳥魚貝版画も多数制作、詩画一体の世界を作り出し、この方面の独自の境地を開いた。名所絵と同種の趣をもつ物語絵や、清澄感のある美人画も見るべきものがある。
「江戸の絵師・写楽」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
東洲斎写楽(生没不詳)江戸後期の浮世絵師。寛政6年(1794年)5月から翌年正月まで、当時上演された歌舞伎狂言に取材して多くの役者絵版画(一部相撲絵)を集中的に制作、その後は浮世絵界との関係を絶って、消息をほとんど伝わっていない。「謎の浮世絵師」として関心をひかれ、同世代の有名・無名の人物に仮託する想像説が多く提出されてきたが、いずれにせよ根拠が乏しく仮設の域を出ていない。在世期に近い信ずべき文献資料としては、大田南畝原撰の「浮世絵類考」にみえる「写楽これまた歌舞伎役者の似顔絵をうつぶせが、あまりにも真を画館としてあらぬ様にかきしかば、長く世に行われず、一両年にして止む」の記事や八丁掘地蔵橋居城と文政元年(1818)以前に死没の事実を伝える「江戸方角分」報告例などが、わずかに上げらえるに過ぎない。幕末の斎藤月岑は「俗称斉藤十郎兵衛居江戸八丁堀に住す、阿波候の能役者也と考察(増補浮世絵類考)しており、注目されるが、未だ確認されていない。版画作品総計142枚(143~145枚と学者により数が異なる)が現存しており、いずれも蔦屋重三郎を版元としている。それらの作画期は取材狂言の上演時期に応じて、次のような4期に区分される。「第一期」寛政6年(1794)5月計28枚、すべて大判の黒雲母摺による役者大首(半身像)28枚落款は東洲斎写楽」「第二期」寛政6年7月~8月、景8枚、
8枚の大判雲母摺と30枚の細判はすべて全身像の役者絵。落款は「東洲斎写楽」「第三期」寛政6年11月~閏11月、計64枚、細伴全身像役者絵47枚、間伴役細伴役者追善絵2枚、間伴相撲絵1枚、大判相撲絵3枚(三枚続)落款は原則として「写楽画となる。「第四期」寛政7年(1795)計12枚細伴全身役者絵10枚、間判相撲絵2枚、落款は「写楽画」これらのうち、もっとも優れたもの内容もつは第一期の大首絵連作であり、妥協のない似顔表現と大胆なデフォルメ、戯画的な誇張の奥の深刻な心理描写など、前例のない個性的な役者絵となっている。以後世の不評判に逆らって出版点数を増大させるが、作品は質急速に衰えていった。写楽の役者顔絵の形式的な模倣は歌舞伎狂言作者2代目中村重助の画名によってなされているが、むしろ本質的な理解は先輩格の勝川春英や歌川豊国、さらに美人画家北川歌麿などによって深められた。
「江戸の群像・柳生宗矩」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
柳生宗矩(1571年~1646年)江戸初期の幕臣、剣術者。初代柳生藩主。柳生宗厳の五男。通称又右衛門。従5位下但馬の守、1594年(文禄3)徳川家康に拝謁。関ヶ原の戦に際し、大和地方の豪族を東軍に引き入れる工作に成功し、旧領2000石を安堵された。大坂夏の陣にも参戦し、夏の陣後坂崎直盛説得し手を自刃させたのは有名な話である。1632年(寛永9)には大目付に昇進し、石高もしだいに加増されて1636年には大名に列せられ、最終的には宗矩は、秀忠・家光の師範として信任厚く、また有力大名にも多く交わり剣技を教授した。以降、将軍師範地位は江戸柳生が世襲することになる。純粋に武術家というより政治家の側面が強いこともあって、当時からとやかく風評があったようで、父の後を受けて柳生流の地位を高めたことは確かである。技術ばかりでなく理論上の研鑽に努め「兵法家伝書」などの著書がる。理論上の深化には沢庵宗彭との交流があずかって大きい。「不動智神妙録」は沢庵が宗矩に与えたとされる。
「江戸の群像・伊藤若冲」「高僧名僧伝・天海」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
伊藤若冲(1716年~1800年)江戸中期の画家。当期の文化を代表する一人。名は汝鈞、字は景和。米斗庵、米斗翁とも号す。京都錦小路の青物問屋の長男に生まれたあg、絵画と禅に傾倒し、「若冲」の居士号を得たのち、40歳で家業を弟に譲り画業に専念した。最初に学んだ狩野派の画法を不足とし、京都の寺に伝わる宋元・明の中国画を模写した果てに実物写生を絶対視するに至り、自宅の庭に飼っていた鶏から始めて多数の動物・植物を写生したと伝わる。その背景には時代の実証主義的精神の高まりがあるが、実際の作品には当時長崎経由で流行した沈南蘋の花鳥画や、黄檗宗関係の水墨画などの影響も大きく、むしろ細密描写とデフォルメとの共存による幻想的・表現的な作風が高く評価される。40代の約10年間を費やして完成し、「釈迦三尊像」3幅とともに相国寺に寄進した「動植物彩絵」30幅が、その特色をよく示す濃彩花鳥画の代表作であり、天明の大火後に避難した大坂で制作した。仙人掌郡鶏図襖、西福寺蔵重文も金箔で覆いつくした画面に形態を誇張した濃彩の鶏とサボテンを構成する傑作である。相国寺に寿像、石峰寺に墓がある。
「高僧名僧伝・天海」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
天海(?~1643年)江戸初期の天台僧。慈眼大師。東叡山寛永寺の開山。3代将軍徳川家光の熱狂的帰依を受けて、家康の神格化に大きな役割を果たした。陸奥国高田出身で、比叡山天台を学んだ後、園城寺や奈良で経論を学んだといわれる。さらに足利学校で儒学を学んだといわれる。1591年(天正19)び江戸崎不動院の住持となり、1599年(慶長4)武蔵国川越の仙波喜多院にうつる。この頃から家康の知遇を受けて、1607年、山門執行探題にとなり比叡山を掌握。1616年(元和2)家康の死に際しその遺言を受けたとして、家康を東照権現とし山王一実神道によりまつるべくことを主張し、大明神として吉田神道で祀るべきとする以心崇伝や梵俊と対立。家康の日光改装以降は輪王寺を建てて日光を管轄し、家康の祭祀を主宰する位置についた。さらに1625年(寛永2)には寛永寺を建てた。その後、寛永寺は1647年(正保4)寛永寺を親王門跡寺とし、天台宗を管轄するに至る。1637年(寛永14)木活字版の天界版大蔵経を刊行。1639年、家光の命令で「東照宮縁起」を起草(上皇・天皇・諸公家が執筆)1643年、寛永寺で没、108歳と言われているが信頼性は少ない。
「歴史の回想・滝沢馬琴」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
曲亭馬琴(滝沢馬琴)(きょくていばきん)(1767年~1848年)江戸時代の読本・合巻作者。本姓滝沢氏。名は興邦。俗称は左七郎、左吉、清右衛門。号は著作堂主人、蓑笠魚隠、飯台陳人、玄同など。父滝沢興義は松平鍋五郎源信成の用人、その五男として生まれ江戸深川の松平邸内で生まれる。9歳の時父が死に、長兄が他家に仕え、次兄も他家に仕え去り、場君が滝沢家を継いで主君の孫八十五郎に仕えた。14歳の時主家を出走し、儒学・医学に身が入らぬまま俳諧、戯策ににふける。1791年(寛政3)京伝門人大栄山人の名で処女作の黄表紙「尽用而二分狂言」を刊行。翌年地本問屋蔦屋重三郎に認められ幾つかの黄表紙出版。この年会田氏海老屋市郎兵衛の娘百を娶り清右衛門を名乗るが、やがて商売をやめ、滝沢姓に戻る。1804年(文化元)に本格的読本の初作「月氷奇縁」出版1807年、「南総里見八犬伝」の刊行が始まり、競合関係にあったかつての師山東京伝を凌駕して読本の第一人者の地位を不動のものにした。寛政の改革によって次々と戯作を断念していった同時代の作者に対して、馬琴は勧善微悪と理想主義を貫くことによって身をかわして読本分野を大成した。子息鎮五郎興継は医術を修めて宗伯と名乗り妻路との間に一男二女を設けた。滝沢家復興の期待を一身に負った宗伯は1835年(天保6)38歳で死去。1841年には妻百没。以降寡婦路は盲目となった馬琴を助けて「八犬伝」を代筆して完成へ導いた。滝沢家の記録は1822年(文政5)~1842年(天保6)の「吾賀仏之記」1835年(天保13)の「後の為の記」など多数の戯作を残した。